三木三奈「アキちゃん」感想

 

三木三奈「アキちゃん」(文學界5月号)のことがまだ気になっている。これはある種の人たちの癇に障る作品だと思った。臆面もなく上手い。けれど文学は上手い下手ではない。だからこういうのは、やらない。やろうと思えばできるけれどやりたくない。でも本当にそうか。できるのか。それをたしかめる術はない。だれもやろうとしないから。けれどこの作者はそれをやってしまった。――ぬけぬけとこんなもの書きやがって。

「アキちゃん」は文學界新人賞を受賞し、芥川賞の候補にもなった。それで雑誌に選評が出ている。ひととおり読んだけれど、性同一性の問題にこだわりすぎなのではないか。それは「叙述トリック」にこだわりすぎということでもある。この作品には他にも大小様々な技巧が凝らされている。しかもどれも律儀なくらい機能している(たとえば終盤、「荒城の月」の歌詞が思い出せないという話をする前に、「さくらさくら」の歌詞が思い出せないという話をまず出しておくところとか芸が細かい)。無駄がない。ということは、こうも言えてしまう。技巧が技巧であることに自足している。川上弘美の選評にある「検算ができる」というのはそのことを言わんとしているのだと思う。

テーマと言えば、トランスジェンダーどうたらこうたらではなくて、なにかもっとこう全的なものに触れようとしている気がする。救われないのはアキちゃんだけではなく、語り手のミッカーも同じなのだ。大袈裟かもしれないが、この作品は、この世界の成り立ちにかかわる〈本当のこと〉に掴みかかろうとしている。性同一性の問題に引っかかることは「叙述トリック」に二重に引っかかることなのではないか。そんなふうにも思った。

作品の冒頭部で語り手は「憎しみ」、「憂き世のつらさ」、「とりかえしのつかないほど大切なもの」、「心から誰かを信じることのできない」といった上滑りな言葉を連ねている。ところが最後のくだりを読み終えたとき、そのことの持つ意味あいが白から黒へと反転する。「いま」の時点における語り手には、それが「憎しみ」ではなかったことがよく分かっているはずなのだ。それでもなお「憎しみ」という大づかみな言葉、「憂き世のつらさ」という軽々しい言葉を使い続ける語り手の胸の底には、かえって重いものがわだかまっている。言い訳じみた出だしの饒舌は、そのことの表現になっている。きっとミッカーは世界に幻滅している。苦しいのはアキちゃんだけじゃない。だからこそ「アキちゃん」はアキちゃんその人のことだけを指していない。この作品で「アキちゃん」は「憂き世」の残忍酷薄な真実の突端部、換喩、ないし象徴として差し出されている。

というようなことも思ったわけだが、気になるのは、この小説が、読み終えて、なぜか深いところに突き刺さってこないということである。似たような感触のある作品としては、たとえば山崎ナオコーラの短編「ああ、懐かしの肌色クレヨン」が思い起こされるが、三木氏のこの作品は、山崎氏の短編のようには、せつせつと胸に迫ってこない。要素の組合せがあまりにも合理的で、平仄があっていて、なんだろう、なにもかも全部ネタに見えてしまう。テーマは切実であると言っていいのだが、それさえネタのひとつのように見える。上手ければいいというものではないという、詰まらん最初の紋切り型に戻りそうだ。でもどうしたわけか感想はそこにも着地しない。ジャストな地点を手さぐりしながら、ずるずるとまだ動いている……。

ところで「アキちゃん」にはもうひとつ想起させる先行作品がある。「ああ、懐かしの肌色クレヨン」と同じ、山崎ナオコーラの初期作品である『浮世でランチ』だ。『浮世でランチ』では十四歳のときの「私」の話と二十五歳時の「私」の話が交互に語られる。こうした時間的隔たりの導入以外にも、女言葉で話す男子生徒が登場する点、宗教ゴッコの場面が出てくる点、さらには手先への注意の向け方、伏線を張り巡らせる書き方など、「アキちゃん」と類似点がある。三木三奈氏、ナオコーラ作品の愛読者だったりするのだろうか。そういえば「アキちゃん」、松浦寿輝から言いがかりみたいな評を食らっているけれど、じつは山崎ナオコーラのデビュー作も、当時、松浦氏から随分な言われようだった。似ている。