折口信夫『死者の書』冒頭部の仏語訳

折口信夫の『死者の書』にフランス語訳はあるのだろうか? 英訳ならもうあるようだ。冒頭部がGRANTAのサイトで公開されていた。ちらっと見たら、「した  した  した」のところ、次のように訳されている。 

した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。

折口信夫死者の書』)

A barely audible sound – shhhh – followed by something that sounded like punctuation – ta. Shhta shhta shhta. What were these quiet sounds that reached his ears? The sound of dripping water?

(Orikuchi Shinobu. The Book of the Dead. Translated by Jeffrey Angles)

苦労がしのばれるけれど、正直ちょっとくどい。ミラン・クンデラフランツ・カフカ『城』の仏語訳を評していった言葉を思い出す。「表現主義的」。これもそんな感じ。

唐突だが、梶井基次郎「のんきな患者」に次のような場面がある。肺を悪くして入院している主人公吉田とその母親とのやりとり。窓の外、クヌギの木に渡り鳥が群がっているのを見つけて母親がつぶやく。あれは一体なんやろ。 

「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」

「そんなら鵯(ひよ)ですやろうかい」

 吉田は母親がそれを鵯に極きめたがってそんな形容詞を使うのだということが大抵わかるような気がするのでそんな返事をしたのだったが、しばらくすると母親はまた吉田がそんなことを思っているとは気がつかずに、

「なんやら毛がムクムクしているわ」

 吉田はもう癇癪を起すよりも母親の思っていることがいかにも滑稽になって来たので、

「そんなら椋鳥(むく)ですやろうかい」

 と云って独りで笑いたくなって来るのだった。 

水のシタタリに「した  した  した」という擬音語を当てる折口信夫のセンスは、ヒヨドリを「ヒヨヒヨ」と形容する吉田の母親のセンスに似ていなくもない。

この「した  した  した」だとか、あの「つた  つた  つた」だとか、ほんと変わったオノマトペを作り出す折口信夫の「天才的な音感」について松浦寿輝がこういっている。

「した」には「滴り」や「下」、「つた」には「伝ふ」といった言葉が断片的に反響しているというのは見易い事実であり、そうした「有意味的」な音の選択が事態の迫真性をいっそう増大させているということはあるだろう。「したに」「したたって」いる「づく」の「した  した  した」が、また、なまなましく「つたわって」くる「つた  つた  つた」が、いわば「シニフィエ」と奇妙に癒着した「シニフィアン」として、われわれを説得してしまうのだ。

松浦寿輝折口信夫論』、強調は原文では傍点)

「した  した  した」は変だが、日本語話者にとっては端から端まで変なわけではない。「した  した  した」に付着してるこうした「有意味」性が英語話者の読み手に届かないというのは自明であるから、翻訳するにあたり説明的な補完がいるという判断は間違いではないと思う。でも、英訳では疑問符で終わる文を二つ重ねて仰天している。そこまでの狼狽ぶりは原文には感じられない。「水の垂れる音か」の「か」は疑問の「か」ではあるけれど、いわゆる納得の「か」――「ああそうか、水の垂れる音か」の「か」――のニュアンスもゼロではない。「われわれ」は「説得」されている。英訳は大仰みたいだ。メリハリは利いているのかもしれないけれど。

右に続けて松浦寿輝は、こんなふうにもいっている。

たぶん折口はこれらの音を、適切な連想を誘う音の組合せを探すという知的な操作によって創造したわけではあるまい。「した  した  した」も「つた  つた  つた」も、彼の文章行為の全体と不可分の或る本能的な直観によって不意に摑み取られてきた音なのであり、もしそうでなければこれほどの力でわれわれの耳をうちはしなかったに違いない。

(同前) 

「した」の成り立ちを「し」と「た」に分けて解説する英訳の語り手は「知的」すぎる。原文のオノマトペに感じられる、吉田のお母さんみたいな単純性、素朴性、何なら「古代性」が、訳文話者の知的な分析によって損なわれてしまっているのだ。

死者の書』が川村二郎のいうとおり「明治以後の日本近代小説の、最高の成果」であるのかどうか、そんなことは知らない。でもとにかくこの作品が一字一句までこだわりぬいて書かれたものであることだけはたしか。その川村二郎が「おそろしく稠密な、どこにも通風孔のないような、ほとんど麻酔的な文章」(「『死者の書』について」)と評した冒頭部は次のような言葉からなっている。

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。

膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。

折口信夫死者の書』、原文は「ひきつれ」に傍点)

句点で終わる言葉の連なりを「文」と見ておくが、最初の文に「行った」とあるのに対し、第二の文、第四の文、第五の文、第六の文と執拗に「来る」が使われている。こうした「行く」と「来る」の対比的な使用には、物語論でいわれるような「視点」の違いが反映している。たとえば最初の文で語り手は「彼の人」の姿を鳥瞰的な視点から眺めている。それが第二の文になると、その視線はものすごい勢いで「彼の人」の皮膚を突き破り、その内面にまで降りている。と同時に語り手は、語り手としての地位をいったん手放して、「彼の人」に譲り渡している。「目のあいて来る」のところだが、この言葉の主は語り手ではない。「彼の人」である。つまり第二の文では、ただひとつの文に語り手と「彼の人」ふたつの主観、ふたつの声が織り合わされているのだ。

第一の文と第二の文、日本語原文の二つの文で動詞は「覚める」、「覚える」と、いずれも「覚」字を含んでおり、一文目を「Quietly, gradually, the man felt sleep depart.」、二文目を「He felt his eyes begin to open (…).」と訳している英訳が両文の動詞を「feel」で揃えているのは、この点において忠実であるようにも見える。けれど視点の運動という点からいえば、どちらの文も「彼の人」の内面を客観的な立場からのっぺり語っているだけの英訳は、外面の客観的な描写から内面への急激な焦点合わせ、そして視点の切り返しという、原文にあったダイナミズムをきれいに――英文としてきれいであることと引き換えに――喪失している。

松浦寿輝は『死者の書』冒頭部に見られるこうした視点の運動についても精密に分析している。

この名高い一節で、われわれがたちまち一種の「呪術的」な空間に誘いこまれるかのごとき印象を受けるのは、語り手の視点の位置が曖昧で、言葉がどこから繰り出されているかが判然としないからである。ことさら謎めかした古語や雅語が用いられているわけでもないのにのっけから何やら「古代」的な印象が醸成されているとすれば、それは、「覚めて行つた」までの最初の一文は「彼の人」の状態をめぐる客観的な叙述なのに、第二の文では語りの視点がいきなり内部に移行し、「彼の人」の主観が語りはじめているというこの不意の飛躍に由来するものにほかなるまい。

松浦寿輝折口信夫論』)

異論があるとすれば、このくだりの直後、「第二の文の主語は、明示されてこそいないが実質的にはほぼ一人称の『私』と言っていいものである」としているところか。正確ではないと思う。この文の「述語」(と松浦寿輝がさしあたり呼ぶ要素)が「覚えたのである」であるとして、それに対応する「主語」(と松浦寿輝がさしあたり呼ぶ要素)を明示するとしたら、一人称の「私」ではなく三人称の「彼の人」になるとするのが読み方としては自然なのではないか。第二の文で「一人称の『私』」が語っているといえるのは、先ほど指摘したとおり、「目のあいて来る」の部分に限定されると思われる。

そのせいもあってか、ここから先に出てくる、「主語の欠如が、登場人物の主観を読者の主観へと溶接」云々というところには、あまり「説得」されない。話が抽象的すぎる、というか出来すぎている。けれど、「長篇小説の最初の文と二番目の文との間に、のっけからこうした断層が生じているというのは、実のところかなり驚くべきことである」というのは、「断層」の位置に関する見解の相違を措けば、うなずけないこともない。「われわれの視線がこの飛躍を飛躍と感じずにするすると読み進めてしまう」というのもたぶん本当だろう。ただ、「外部にあった視点が、次の瞬間無造作に内部に移行している」というのは日本語で書かれた物語、小説ではまれなことではないし、こうした「飛躍」がいつも見逃されてきたわけでもない。たとえば吉本隆明のいう「転換」は、この「飛躍」の別称であるに違いない。言語学者の野田尚史も、「真性モダリティをもたない文」について論じる中でこのテーマに触れている。しかしここでは、『源氏物語』の「視線」について語る三田村雅子の言葉を引いておく。

源氏物語』では(中略)「外からの視点」から、登場人物の「内なる視点」へと、視線が自由に弾力的に切かわることを特徴とする。どこからどこまでが語り手の文章で、どこが脇役の視点人物の文章で、どこが登場人物の目を介したものであるかも曖昧な程、一つの文章中でも目まぐるしく主語が変わり、距離が変わり、語調が変化する。

三田村雅子「物語文学の視線」、三谷栄一編『体系物語文学史』第二巻)

『物語構造論』の中山眞彦は、この三田村雅子の言葉を引きつつ、『源氏物語』の仏訳について次のように述べている。

伝統的フランス語物語文では、この切りかえは無理であり、ゆえに仏訳は一貫して語り手の立場に立ち、作中人物源氏をその視線の中に閉じ込め、内話を発する資格を奪い上げたのである。もっとも西欧近代小説には、「局外の語り手」から「体験話法(自由間接話法)」へ、さらには「内的独白」への変換が、「目立たず、これといった指標もなく」おこなわれることがあるが、その場合でさえも変換の最小単位は文あるいは段落であるのが普通であり、日本語物語文のように同一文中で言表主体が入れ替わるようなことはない。

(中山眞彦『物語構造論』)

たとえばナラトロジーの主要な概念を網羅的に論じているかのように見えるジェラール・ジュネット『物語のディスクール』でも、話法や視点に関する議論はあっても、日本語の小説においてはほぼ常態ともいえるこの融通無碍な視点の切り替わりや重なり(中山眞彦のいう、語り手と作中人物の「二重唱」)については、真正面からの取り扱いがない。

だから、「彼の人」が意識を無から漸進的に回復するプロセスを視点操作を通じて表現するという『死者の書』原文の繊細な工夫が英訳では再現されていない――英訳では「彼の人」の意識は最初からすでに「感じる(to feel)」ことができるほどには覚めている――のも、さほど不思議なことではないのかもしれない。

さて、『死者の書』の冒頭部を構成する言葉の特質に関する松浦寿輝の指摘には、以上見たような「遠近法の崩壊」に加え、もうひとつ重要なものが含まれている。先に川村二郎の言葉とともに引いた『死者の書』の「麻酔的な」一節の後半部、

膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。

のところを引用して松浦寿輝はこう書いている。「この行文はどこかぎくしゃくとした不器用な印象を与えるが、それは、『彼の人の頭に響いて居るもの――』という一句の具体的な意味内容と構文上の位置が、この一句を曖昧に中絶させているダッシュ(――)の機能ともども、あまり明瞭ではないからである」。もっとも所論の重点は、この事実それ自体にではなく、これに伴う三人称と一人称の「奇妙な混淆」、そしてやはり「遠近法の崩壊」ということに置かれているのだが、こうした「統辞法の不整合」そのものからも、素朴な意味での「古代性」なら直截に湧き出している。

「膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。」は、なかほど「らしく」で「連用中止法」(文を連用形でいったん中断し、その完全な終止を先送りするもの)の格好を見せながら、文末をダーシで流している。このダーシの部分、なにか省略されているのは明らかであるが、しかし、なにが省略されているのか分からない。あるいは「彼の人の頭に響いて居るもの」とは一体なにをいっているのか。「『響いてゐ[ママ]る』というのは、このすぐ後に続く『全身にこはゞつた筋』の『僅かな響き』と同じもののことなのだろうか。しかし前節で言及された水の滴りの音もまたここにまで『響いて居る』のではないか」。

このように問う松浦寿輝は、文意の円滑な理解を妨げるこの「統辞法の不整合」が「意図的に」狙われたものであると考えている。そして、こうした意味論的、統辞論的な混濁において折口信夫の文章の本質があらわになっていると見、さらに、「『源氏物語』のような純粋に大和ことばだけのテクストが成立しがたい時代に生を享けたことへの苛立ちが、彼の言語の畸形性の一側面をかたちづくっていることは否定しがたい」 と鋭いようなことをいう。

この松浦寿輝の鋭いような見解と、『仮名文の構文原理』の著者の示す深い見識とを、いま突き合せてみたい。小松英雄は、『源氏物語』に用いられる文章が現代の日本語で支配的な書記様式とずいぶん違っていることをめぐり、同書で文体論的に追求している。『源氏物語』の書かれた当時の日本語文には句読点が用いられていないが、現代の注釈書などにおいては便宜的に句読点が付されることが多い。その際、文がそこで切れている場合は句点、切れず後につながっている場合は読点が選ばれるわけだが、どちらを付すべきか判断しにくいことがしばしばある。「いづれの御時にか」で始まる源氏冒頭部の構文解析についても専門家のあいだで意見が割れている。「いづれの御時にか」の係助詞「か」は連体形で結ばれるはずなのに、後を読んでいってもしかるべき連体形が出てこない。これは「いづれの御時にか」の後に「ありけむ」だとか「あらむ」だとかの語句が省略されているのであり、したがってこの位置に句点を付すべしとする「文法」的な解釈に対し、小松英雄は、「日本語についての素朴な言語感覚から」「抵抗感」を覚えるという。「『いづれの御時にか』とあれば、そのあとに『か』に呼応すべき結びの連体形が出てくることを、いわば、無意識のうちに期待しながら後続する部分を読むのが正常な言語感覚だったはずである」というのである。

いづれの御時にか」の余韻が自然に薄らぎ、係助詞の「か」の力の及びうる限界を超えて、それと呼応すべき連体形がどこかにあるはずだということが忘れ去られたころに(中略)物語の世界が動きはじめる、というのが、この表現によって意図された効果的なしかけである。「か」の結びは、なんとなく流れてしまったのではなく、周到な計算のもとに、こういう形式が選ばれているとみるべきであろう。

小松英雄『仮名文の構文原理』)

「周到な計算」があった。そういっている。加えて、

いづれの御時にか」のあとに句点を付して、ここで〈文〉が完結しているとみなしたのでは、文章の流れが、そこで堰き止められてしまうことになるから、ここに句点を施すのは妥当ではない。しかし、(中略)読点を付すことにもまた、やはり、問題があるので、句点か読点か、という選択の姿勢は基本的に改められなければならない。

(同前)

当時の和文には、文法的にはつながっていると考えられるのに論理的なつながりを考えると「多少とも落ち着かない感じを与える」表現や、形としてはそこで切れているようだが意味からいえば前後の句節の双方に関係しているように見える「撞着」的な表現や、単なる挿入のようでいてその箇所を取り去り前後をつなげて読むと「文脈がよくつづかない」表現など、珍しくない。『源氏物語』に代表される平安時代の仮名文は「各句節間の相互関係」の緊密でない「付かず離れず」の句構造を基本原理として綴られているというのが小松英雄の考えである。「文法」的な整合性や切れる切れないではなく「呼吸」によって文章が織り成されていく。こうした文章体を小松英雄は「連接構文」と名づけた。

「主語や目的語といったインド=ヨーロッパ語族の文法装置を適用したとたんにその非論理性を露呈」してしまう、「奇妙な読みづらさ」を抱えた折口信夫のテクストは、しかし、「可能なかぎり完璧に近いところまで練り上げられた文章」であると松浦寿輝はいう。すなわち、先に引用した『死者の書』の一節は、折口信夫が志向する(と松浦寿輝のいう)『源氏物語』の文章とまさに同じ、「連接構文」の原理によって構築されていた。そう見ていいのではないか。『死者の書』には現代文の習慣に合わせて句読点が入っているが、本当ならそれはなくていいもの、ないほうがいいものであり、また、なまじ句読点が付され文法的・論理的な――小松英雄の言葉でいうなら「拘束構文」的な――装いがなされているがゆえに、「統辞法の不整合」が生じているように見えてしまう。しかし本来、折口信夫のテクストは、句読点やそれによって明示されるはずの、拘束構文的な構造によってではなく、「呼吸」によって読まれるべきものなのである。その言葉は、「どこもかしこも繋がり合っており、切断と分節化の操作を施そうとしてもそれがうまく機能したためしがなく、ただひたすら狎れなれしくまとわりついてくるばかり」だ。ダーシの機能が明らかにならないのも、句読点に対する連接構文の抵抗の表れであると見ていいだろう。

ここで再び『死者の書』英訳のほうへ目をやると、対応する箇所が「Gradually, his knees, his elbows recovered their feeling, returning to his buried sensibilities. Something reverberated in the man’s head . . .」と訳されている。つまり普通に整った文になっている。ねじれた感じ、宙に吊られた感じ、「統辞法の不整合」のようなものは欠片もない。Jeffrey Anglesによる英訳は、冒頭部を読む限り、同化的な翻訳と呼んでよいものだと思う。

それなら仏訳はどうなのか? そう思ってネットで調べてみたけれど、どうやら『死者の書』の仏訳、まだないようなので、自分で訳してみた。

L'homme se réveillait doucement de son sommeil : dans la nuit la plus noire, au milieu de la stagnation de pressions froides, il sentait ses yeux commencer à s'ouvrir.

Shita, shita, shita. Était-ce le bruit de l'eau qui gouttait qui parvenait à ses oreilles ? Dans des ténèbres si glaciales, ses cils supérieurs et inférieurs se séparaient d'eux-mêmes.

Ses genoux, ses coudes semblaient retrouver peu à peu leurs sensations enfouies, alors ce qui résonnait dans sa tête... En effet, avec une légère résonance, les muscles raides de tout son corps étaient sur le point de se contracter même au niveau des paumes des mains et des plantes des pieds.