解釈の独善性について(2)

 

前回の続きなのだが、この問題についてこのようにしつこく書くのには二つの理由がある。ひとつは、小説家の桜庭一樹氏と文芸評論家の鴻巣友季子氏との間にこのほど持ち上がった対立は、たんに両者の対立というにとどまらない、日本近代小説の根幹に触れる大事な論点をはらんでいるのではないかと考えるからである。この論点は作品の読み方にかかわるものであり、桜庭氏の要請を受け入れ鴻巣氏が修正を加えた時評文においても、そのまま引き継がれている。

まずは前回確認した内容に若干の補足を加えつつ、そのポイントをざっと整理しておきたい(①等の番号については前回記事を参照のこと)。

ことの始まりは鴻巣氏が①の文芸時評で桜庭氏の小説「少女を埋める」を取り上げ、これを「実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編」と呼んだうえ、主人公の母親がその夫(肺を患い長期にわたって自宅療養を続けている)、すなわち主人公の父親を「弱弱介護の密室で」「虐待した」と書いたことにある。この記述に対し桜庭氏の側からそのような作中事実はないと物言いがつき、これを受け鴻巣氏が③を公表して自己の解釈につき釈明を行った。

この③の釈明中、鴻巣氏は、主人公の母親が夫の遺骸に向かって「いっぱい虐めた」ことを詫びている場面を引用し、「このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません」と述べている。それとともに、「小説というのは、ある種の選択と要約を含まざるを得ません。『すべてを文字化することができない』以上、その余白の解釈へと読み手をいざなうものではないでしょうか」と語り、また、「小説は多様な『読み』にひらかれている」と語っている。つまりここで鴻巣氏は、小説の読み手には作中に書いてないこと(余白)について自由に解釈する権利があると主張している。もちろん鴻巣氏は、どれほど突拍子もない、どれほど不合理な解釈でも許されるとまでは考えていない。②において「妥当性」という基準を持ち出し、読み手の自由に一定の制限を加えている。

ここから、この小説には「このいじめ」の起きた時期に係る「余白」があり、その「余白」について解釈する権利が自分にはあり、しかもその「余白」について自分のした解釈には「妥当性」があるのだから自分に落ち度はない、そう鴻巣氏が考えていることが見てとれる。

しかし前回見たように、「このいじめ」は「二十年間の看護・介護中に起きた」ものではなく、それに先立つ時期に起きたものであると「妥当性」をもって解釈できるような記述がこの作品にはあった。この点についての「余白」はなかった。つまり鴻巣氏は、書いてないこと(余白)について想像したのではなく、書いてあることに反することを想像したのである。

したがって鴻巣氏は作中にきちんと書いてあること、すなわち作中事実の事実性を否定するに足る合理的な証拠を差し出さなければならないはずだが、そうしていない。③における鴻巣氏の説明は、前回記事で検討したとおり、作中事実に反する自身の解釈を正当化するに足るものではなかった。むしろ鴻巣氏は作品内に記されたいくつかの大切な言葉を、さしたる理由もなく切り捨てて読んでいる。鴻巣氏の解釈のやり方は「妥当性」を欠いていたと言わざるを得ない。私はこのように考え、鴻巣氏の読み方は「根拠薄弱な、不合理な勘ぐり」であるとしたのであった。

以上を踏まえ、今から、この先に横たわる問題について考えていきたい。鴻巣氏は、修正後の文芸時評においても、言い回しはやわらげてあるが、「このいじめ」が介護中にもあったとする自身の解釈は取り下げていない。「わたしはそのように読んだ」。自身の読みを貫いているのである。しかし、なぜ鴻巣氏は、一篇を読み直せばすぐにでもその誤りに気づくはずの「根拠薄弱な、不合理な勘ぐり」を、こうまで頑なに維持しているのか? たんにむきになっているだけ、誤読を認めたくないだけ、と考えることもできるだろう。桜庭氏の要請が、「評者の主観的解釈」(②)であることの明示にとどまり、誤読それ自体の訂正にまで及んでいなかったからということもあるだろう。しかし私はそのようには考えたくないのである。

「弱弱介護のなかで夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか」。鴻巣氏は、自身の心に芽生えたこの信憑の原因を、③の記事を書く際、何らかの理由による思考能力の一時的麻痺のため、作中にうまく探り当てることができなかっただけなのではないか。あるいは、介護中にも「いじめ」があったと読んだその真の理由の在処を、何らかの理由による認識能力の一時的欠缺のため正しく認識できなかっただけなのではないか。あるいは、いろいろ忙しくて十分な検討の時間がとれず、不本意ながら適当な理由をでっちあげただけなのではないか。さらに踏み込めば、鴻巣氏は、たとえ③の説明に不備や誤りがあろうとも、この信憑が自分の心に生じたという事実、その想像の「妥当性」だけは、どうしても譲れないと考えているのではないか。私はこのように考えたいのである。

なぜか? なぜなら私自身もまた、騒ぎを知り、作品を読んで、鴻巣氏とまったく同様、この母親には介護中も「怒りの発作」にかられ夫を虐めることがあったのではないかという印象を、ちらっと抱いたからである。ここに、この問題に拘泥する二つ目の理由がある。主人公のあずかり知らぬところで母親は父親を、もちろん常にというのではないが、虐めていたのではないか、虐待していたのではないか、そう感じてしまったのである。これは鴻巣氏の言葉に影響されたのだろうか。そうかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、この作品には、少なくともそう感じること、そう勘ぐることを無下には否定できなくする、そのような言葉が、きっと仕込まれている。そう思った。「テキストをいい加減に読むこと、あるいは、つじつまの合わないところを勝手に切り捨てて読むことによってしか成立しない」はずの読みが、ちらっとではあれ心に芽生えたのであるからには、この作品には、そのような読みを許す、あるいは促すようなところが――当然ながら鴻巣氏が③で指摘するのとは別の形で――あるに違いない。これは即座に退けていい考え方ではないように思われる。

この作品は、いわゆる一人称小説であり、全編が主人公「冬子」の語りによって統御されている。したがって問いは、この語り手、冬子の語りのどこかに、「いい加減に読むこと」、「ある一定の言葉を考慮せずにいること」を誘発する箇所があるのではないか、ということになる。そして実際、読めばだれでも気づくように、この冬子の語りには、真正面から素直に受け取ることの難しい言葉が散見されるのである。そして、そのような言葉が母親への言及に際して集中的に現れることに気づくのも、さほど難しいことではないと思われる。

母は……。

ひどく偏りがあるだろうわたしの記憶では、だが。家庭という密室で子供に暴力をふるうこともあった。

文學界9月号p.53、強調は引用者)

これもまた主観的記憶なのだが。二十代後半のとき、母がわたしの住む東京に、神社の宮司と名乗る三十代半ばの親しい男性を連れてきたことがあった。

(同p.53、強調は引用者)

これらはわたし個人の視点に過ぎないし、きっとかなり歪んだレンズに映る記憶なのだろうが……。母はいつも父ではない誰かと疑似家族を作りたがっているように見えていた。性別や年齢に関係なく、時々誰かと恋に落ちるように仲良くなり、東京まで連れてきたりし、わたしに会わせた。

(同p.54、強調は引用者)

「母は……。」と言いよどんだ後、堰を切ったようにその母親の振る舞いにまつわる不愉快な思い出を吐露し始める語り手は、その際このようにしきりと自分の記憶が歪んでいる可能性に注意を促している。このくだりの締めくくりに置かれた言葉も引いておこう。

……さて、ここまでのこの話は、果たして本当だろうか? こうして思い返すと、とても事実とは思えないほど変だし、誰かの適当な作り話か、もしくは、このわたしが長い間、狐か狸に化かされていたのが真相なんじゃないかという気もする。

(同p.55、強調は引用者)

だからこの語り手の記憶は曖昧であり、だから疑わしい、だから信用できない、というような、すっとぼけたことが言いたいわけではない。あたりまえである。逆である。むしろ語り手は、ここに述べられたことは紛れもない事実であると確信している。そして読み手もまた、ここに書かれていることは紛れもない事実であると読むだろう。

語り手の言葉に対する、読み手の側からのこの信頼は、どこから来るか。差し当たりそれは、この段に見られる留保の言葉の、機械のように律義な反復から来ると考えることができるだろう。語り手は、母親の所業について新しい事実を語り出すとき常に、まるでとってつけたように、自分の記憶の疑わしさを言っている。この反復強化された「とってつけたよう」な印象が、「とってつけたよう」な部分を、ただのつけたりとして読みから取り除くことを読み手に強く促している。つまり、記憶が不確かであるという言葉を真に受けないこと、その言葉を切り捨てて読むことを強く促しているのである。

もし事実性がそれほどまでに疑わしいのであれば、そのことを語らないという選択もできたはずである。それなのに語り手は、自分の記憶が間違っているかもしれないとその都度断りを入れながらも、母親の過去の所業について語らずにはいられない。語り手は、「この話を信じてもらいたい」と言っている。「信じられないかもしれないが本当の話なのだ」と言っている。読み手はそう読む。つまり、文字どおりには「自分の記憶は不確かである」としか読めない言葉の群に「自分の記憶は確かである」というメタメッセージを読み込むのである。

この作品には、語り手が記憶に関する自身の考えを披歴する箇所がいくつか存在する。しかし、その考察はどれも月並みで、考察の内容それ自体に重点が打たれているようには思えない。先ほど見た、母親の所業について語るくだりの締めくくりの段に現れる「狐か狸に化かされていたのが真相なんじゃないか」という言葉も常套句的であり、他愛ないという以上の感想を抱かせない。むしろ、こうした考察は、②における桜庭氏の言葉を借りて言えば、記憶の不確かさという「一般論」を、何かの「言いわけに使っているように見え」る。

「七年前の春」、冬子が母親に対し、自分が「子供のころ受けた暴力について問う」ところを見よう。問われた母親は「『そんなこと、したことない』ときょとんと」し、そして、「揺るぎない態度で『あたしは楽しいことしか覚えてないのよ』と声を震わせる」。このとき冬子は次のように考える。

人の記憶は、どこを覚えていて、どれとどれをつないで線を作るか、どんな歴史として記憶するかが、みんなバラバラだ。わたしは悲嘆や悔しさが詰まった水袋のような偏った人間に育ち、母が大切な思い出にしてくれている、楽しかった時間のことを忘れてしまったのだろう。

文學界9月号p.56)

冬子の母親はその母親、つまり冬子の祖母にあたる人から一歳の頃、折檻を受けたことがある。しかし冬子の母親は一歳と幼かったため、当然、冬子と違い何も覚えていない。ここで月並みな記憶の一般論を持ち出す冬子は、そうすることによって無理にでも母親を擁護しようとしているように見える。いや違う。擁護しているわけではないだろう。冬子は、本人知ってか知らでか、こうした記憶の一般論を後ろ盾に、暴力を受けた記憶を自己に向けた反省へと置き換え、無理やり飲みこんでいるのではないか。

ここに限らず、冬子は、母親にうんざりしている様子は示すものの、その母親を難詰するような言葉、厳しくなじるような言葉の使用を一貫して避けている。母親との衝突が起きないよう、自分を押し殺し、「目の粗いザル」になっている。先に引用した「母は……」で始まるくだりにおいても、そのまま母親への非難が始まってもおかしくないところ、それは始まらず、すでに見たように記憶の一般論で話を閉じている。冬子の腹の奥底には、無理に飲みこまれたこうした不愉快なあれこれが、正当に言語化されず、ずっしり貯め込まれているのではないか。

前回私は「覚えてない」、「覚えてたのか」の突き合わせに基づき、母親が嘘をついていたと判定した。しかし冬子はと言えば、ここでも、その嘘を嘘といって糾弾するような思考の態勢をとろうとしない。「内心、(覚えてたのか……)と思った。」の直後、次のように語り始める。

自分は知らない、という人たちは、実際はすべてわかってるものなのだろうか。あの人もこの人も、みんな。

異母妹の百夜を虐め殺した赤朽葉毛毬みたいに……。

母はただ涙を流しており、父は、穏やかな顔で、黙っていた。

父は、許しているように、わたしには感じられた。あれだけ優しかった人が、泣いて謝っている人を、しかも愛妻を許さないという姿は想像できなかった。

何もかもが一昨日で終わったのか。すべては恩讐の彼方となるのか。

それにしても、とわたしは思った。

――夫婦って、奴はよ!

深いな。沼だな。で、おっかねぇなぁ、おい。

ぼんやりと鈍そうなポーカーフェイスを保ったまま、内心そんなことを考えていた。

……愛しあっていたのだな。ずっと、わたしは知らなかったのだな。

文學界9月号pp.43-44、強調は引用者)

「愛しあっていたのだな」。急転直下、という印象を受ける。このナイーブさは、どうだろう。何かいろいろすっとばしているのではないか。何かもっとほかに考えることがあるのではないか。「覚えてない」という母親がじつは「覚えてた」こと、母親が嘘をついていたことを確認したばかりの冬子が、母親の流す涙を、そのまま真っすぐ受け入れている。しかしこの、すぐに「きょとん」とする(「キョトン」とする場合もある)母親には、冬子に対してふるった暴力、母方の祖母に目撃されたこともあるそうした暴力を、「七年前の春」、声を震わせて否定することもあったのである。父親について妻を愛していたと想像するのはいい。父親は「優しかった人」と言われ、冬子は「父親っ子」を自認している。しかし母親が夫を心から愛していたとは、この作品に含まれる母親の描写からは、そうやすやすとは想像できない。納骨の際、冬子の従姉妹が発した「子供のころおじちゃんのことが大好きだったの。初恋だったかも」という言葉に母親が顔色を変える場面などもあるが、「子供への愛や執着は強いが、心への興味は薄く感じられた」とも語られる母親のこの反応も、心と心の結び付きによるものではなく、夫への「執着」にすぎないとも読めてしまい、弱い。

冬子は母親をかばおうとしているのだろうか? 擁護しようとしているのだろうか? 違うだろう。冬子は母親を擁護しようとしているわけではないだろう。そうではなく、その母親を伴侶とし、「愛妻」としたその夫、つまり自分の父親の人生を擁護しようとしている。母親を肯定したいから母親を肯定しているのではなく、父親という人間を肯定するには母親という人間を否定するわけにはいかない、そのような曲折した心の動きである。なぜなら冬子は「父が好きだったから」。帰郷にあたり「目の粗いザル」に化けているのも、母親と仲たがいしたくないからというよりは、「七年前の春」のように母親とぶつかることで父親を悲しませたくないからというのが本当だろう。「今は父のために母を支えなくては」。ここでも、これが根本にある。

この一節は、冬子の思考の歪み、あるいは補償的な心の機制が作中一番むき出しになっている箇所であると読める。それゆえ、「愛しあっていたのだな」という冬子の言葉を素直に受け取ることは至難である。この言葉を真に受けるのではなく、いい加減なものとして受け取ること、いい加減に受け取ることが求められている気がするのである。冬子は心の機制のため真実とは逆向きの思考を取っているのであるから、真実を探るには、その思考をさらに反転させて、本来の向きに直さなければならないだろう。母親は父親を愛していなかった、両親は愛しあっていなかった、というように。

納骨を終え、東京に戻ってからの冬子、語り手の様子には、ただならぬ切迫感が漂っている。ここにおいて作用しているのは、すでに見た機械的な律義さと、そして、ようやくあの、「余白」の圧である。

夕方、母から「お元気で!!!」とメールが届く。やっぱり、と思う。これには、返信せず。

文學界9月号p.65)

翌日、(中略)気が重いが、母に(中略)メールを送る。するとすぐ返信がくる。考え、これにも、返信せず。

(同p.65)

数日後。母からメールがくる。考え、これにも、返信せず。

(同p.65)

数日後、また母からメールがくる。

読み、ベランダから飛び降りねばならないと思う。存在していてはいけないと諭す声がする。

(同p.66)

いずれも母親からのメールに記された言葉は記されない。とりわけ四つ目のメールには、おそらく語り手にはとても真正面から向き合うことができないような、自分の記憶を疑う言葉を添える程度では、あるいは思考を逆向きに走らせる程度では、絶対に補償できないような、そうした過酷な言葉が記されていたであろうことが一定の「妥当性」をもって想像できる。

しかし、ここに至ってもなお、語り手は母親を強く否定する言葉を発していない。こうした否定の言葉の徹底した排除ゆえに、逆に、この母親に対する否定的なイメージが、作品を読み進める読み手の腹の奥底に少しずつ、しかし着実に蓄積されていくのである。読み手の腹の奥底に蓄積されたこの負のイメージは、何かの拍子でそれが吐き出された場合、「家庭という密室で怒りの発作を抱えて」いた母親、「家庭という密室で子供に暴力をふるうこともあった」この母親には、自宅介護の閉ざされた空間で、病気で弱った老齢の夫を発作的に虐待することもあったのではないか、いや、あったに違いないという、テキストにまったく書かれていない出来事をめぐる強い疑いとして言語化されるだろう。少なくとも私においては初読時、そのように言語化されたようである。