「音位転換」ではない――「フインキ現象」についての一考察

 

「雰囲気」という言葉を「ふいんき」と発音する人がいる、という話がありますが、幸いにも(?)私は今日に至るまでそのような人にお会いしたことがありません。ただし急いで付け加えますが、私はこの言葉を文字通り「ふんいき」と発音する人にも会ったことがないのです。

実際に聞いて確かめてもらった方が話が早いかもしれません。第31回三島由紀夫賞の発表(2018年5月16日)のライブ映像です。

youtu.be

この動画の中で選考委員の一人、辻原登氏が「雰囲気」に当たる言葉を三度口にします(58:10~58:28)。Youtubeの字幕をオンにすると、いずれも「雰囲気」と表示されます。おそらく辻原氏は標準的な発音でこの言葉を発していると思われます。

私が常日頃耳にする「雰囲気」の発音もこれと同じです。この「雰囲気」の発音の仕方が、私には子供のころから謎でした。「ふんいき」と言っているようには聞こえなかったからです。ところが近親者の一人に聞くとどうでしょう。その人は自分には「ふんいき」と聞こえるというのです。

以下の文章は、この問題――「フインキ現象」と呼んでいます――をめぐって2008年7月28日付で書かれたものです。個人サイトに載せていた記事ですが、近々閉鎖する予定なので、こちらに転載しておくことにしました(たまに参照している方がいらっしゃるので)。

 

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「音位転換」ではない――「フインキ現象」についての一考察

 

「フインキ現象」(あえて定義しない)を考えるのに、まず大事なことは、問題それ自体のありかを正確につかむことだ*1。でも、これがけっこうむずかしい。たとえば、この現象を「音位転換」(metathesis、音位転倒、音転位)や「イイマツガイ」の一種と見たり、「無知」や「漢字が読めないこと」に起因すると考えたりする人は多いみたいだけれど、はっきりいって的外れである。こういう分析でよしとするのは、たぶん問題を正しく捉えていないからだ。

なぜ「フインキ現象」を言挙げ(?)するのか、これを言挙げする人たちが、いったい何にひっかかっているのか、そのことが、どうやら、うまく伝わっていない。ネット上の掲示板なんかを見ると、この問題が何度も蒸し返されているのがわかる。これは、もちろん、腑に落ちる答えを求めてのことだろうけれど、それよりもなによりも、どんな問い方をすれば問題がうまく伝わるか、それを手探りしている印象が強い。だから、ワタシを含めた彼らは、まずは「問題」の不思議さを共有したいのであって、ただちに明快な「答え」を得たいと思っているわけではない。つまり、「フインキ現象」が問題であるとして、その第一の問題は、この、「問題の伝わらなさ」にある、ということだ。

ところで、この「不思議さ」に発する問いには、ネット上で、「雰囲気をフインキという人なんていない」と決め付けたり、「馬鹿だから」と切り捨てたりする、冷え切った反応が少なくない。こういう反応の乱暴さ、かたくなさは、こちらをたじろがせる。けれど、「フインキ現象」を問題にする声に拮抗する、この種の無化的な応答の数々は、問い方について問う上で、ずいぶん有益だともいえる。

けれど、まずは、この無化の、ソフトで、ユーモアあふれる例を見たい。荒川洋治の文章である。

荒川は、1999年5月の文芸時評で「ふんいき・ふいんき」の問題に触れている。当時、雑誌『言語』で「手のひらの言語学」という特集が組まれた。内容は、「言葉の素朴な疑問に専門家が回答」するというものだ。その「素朴な疑問」の中から、荒川は、次のものを拾い上げる。(以下引用は荒川洋治文芸時評という感想』による)

〈「雰囲気」は「ふんいき」と読むはずなのに、発音すると「ふいんき」のようになるのはどうしてですか。〉

これに対する荒川の感想は、こうだ。

変な質問だ。「雰囲気」は誰もが「ふんいき」と読むし、「ふいんき」に聞こえることはないとぼくは思った(自分でも何度か発音してみた)。

さて、専門家(言語学者国語学者?)の回答が、どんなものか、見れば、

〈答えに入る前にまず触れておくべきことは、「ふんいき」が「ふいんき」のようになることは、まったくないというわけではありませんが、この語を普通に発音し、あるいは、気を付けて発音すれば、「ふいんき」にはならないと思います。〉

次は、この回答に対する荒川の反応。ちょっと長いけれど、そのまま引用する。熟読玩味(?)してほしい。

おかしい。笑ってはいけないところだ。ぼくは笑った。ぼくはとても楽しい。

この「ふいんき」になるような言葉の現象を「音転位」というそうだ。「舌鼓」は「したつづみ」が正しいが、実際には「したづつみ」。「山茶花」は「さんざか」だが「さざんか」に。ああ、そうだったのか、と感動する人もいるだろう。

「ふんいき」の例は回答者自身がつくったのだろうが(明記されていないが多分そうだろう)、あまりに突飛、というか意表をつくものだとはいえないか。よくぞこんな例を思いついたものだ、とぼくは感心してしまった。

自問自答をするとき、人は普段ならとても考えつかないようなことまで思いつく。現実には存在しないものや、まったくもっておかしな、あるいはおもしろいものが飛び出す。それが自問自答の世界だ。想像力のみなもとは、結局のところ、自問自答にあるのかもしれない。

ここで話は、やおら「小説の世界」における「自問自答」の話にシフトする。つまりここまで、じつは文芸時評の前フリなのだ。荒川が本気かどうかわからない、白を切っているのかもしれない、そう思う人もいるかもしれない。でも、本気でなければ、「自問自答」が時評の前フリとして機能しない、そういう筋になっている。だから、ここは本気だと考えなければならない。荒川は、どうやら心底から、「『ふんいき』の例は回答者自身がつくった」と思っているのだ。そしてこの事実は、こちらをずいぶん考え込ませる。荒川に問題は伝わっていない。この問題は、彼には存在しないのだ。そして、荒川みたいな人や、荒川からユーモアを抜いて、かわりに攻撃性を充填したような人が、ネット上にたくさんいる。ここにフインキ「問題」の本当の問題があるといっていい。

ワタシがこの「問題」に気づいたのは、小学生の頃だ(1970年代の話である。だからこの「問題」は「最近の若者の言葉使い」の問題ではない)。ワタシの「問題」は次のような形をとっていた。今でも、これが切実な(?)「問題」である人には、同じ形をとっているはずだ。こうである。

「雰囲気」は「ふんいき」であるはずなのに、まわりの誰も、平仮名で躊躇なく「ふんいき」と書けるようには、発音していない。両親、祖父母、親戚、学校の友達、学校の先生、テレビに出ている人、もちろん自分自身も、誰一人として「ふんいき」とは言っていない。

子供のワタシは、近親者のひとりにきいてみた。その人の答え。「そう? ちゃんと言ってるんじゃない? 『ふ・ん・い・き』って」

ワタシは、ちょっとびっくりした。そして、この問題を胸の奥にしまい、封印することにした。

その後、この問題が、いわば「おおやけ」になり、こちらの耳にも届き、「やっぱり!」という感想を抱かせたのは、よく言われるとおり、ワープロの普及、そしてインターネットの拡大以降だ。「雰囲気」を意味する言葉を、手書きで、漢字でそのまま「雰囲気」と書いていたのでは、問題は隠されたままだ(でも、平仮名で書くときはどうだったのだろう?)。この「雰囲気」を意味する言葉を、平仮名あるいはローマ字で一文字一文字入力した後、漢字に変換するという過程で、変換の失敗という形で、問題は、多くの人に意識されるようになった。そして、その一方で、この「問題」を「問題」と見ることを断固として拒否する一派も現れた。ときに彼らは、拒否するだけにとどまらず、「フインキ現象」を問う人や「ふいんき」愛用者(?)に痛罵を浴びせることさえする。いわく、「バカしか言わない」「恥知らずが増えただけ」「親の顔が見たい」、などなど。

この手の、感情的に問題を「無化」しようとする人たちは、けれど、ずいぶん無防備に思える。というのもそれは、避けがたく、こちらの邪推を誘発するからだ。つまり、この手の人たちにとって、「雰囲気」を「ふいんき」と言うことは、「無知から来る誤用」であり、そして、この「誤用」を、やんわりとではなく、痛烈に非難するのは、この「無知から来る誤用」が、なんらかの理由で、指摘した本人に卑近なものとして感じられているからではないか(遠回しな言い方だ)。そんなふうに勘ぐりたくなるのである。

それはさておき、こうした感情的な「無化」と表裏一体の関係にある「無知から来る誤用」説は、けれど、ほんとうに正しいだろうか。

「無知から来る誤用」説によれば、「ふんいき」が「ふいんき」と聞こえるのは、実際に間違って「ふいんき」と発音する人が存在するからである。でも、これは、よく考えると、ちょっとおかしい。

この説にいう「誤用」は、専門用語で「音位転換」と呼ばれるタイプのものだ。「音位転換」とは、語中の二つの音韻(文字)の位置が入れ替わること。参考のため、フランス語のWikipediaの「metathese(音位転換)」の項を見てみると、この入れ替わりが生じる原因として、四つのケースが挙がっている。

1.病気

2.無知

3.まだ子供で呂律が回らない場合

4.外国語を話すとき

「2.無知」の具体例として挙げられているのは、次の二つだ。

例1:「aréopage」を間違えて「aéropage」と言ってしまう。「aréopage」とは、ギリシャ語の「Areopagusアレオパゴス」*2に由来する言葉で、現代フランス語では、有識者や専門家を集めた、改まった「会議」を意味する(らしい)。この単語が「aéroport」(空港)等に引張られて「aéropage」になってしまうのである。

例2:「(心筋)梗塞」を意味する「infarctus」という単語を間違えて「infractus」といってしまう。こちらは、「infraction」(違反)等に引張られていると考えられる。

二つの例の共通点は、どこにあるか。それは、言い間違いを引き起こす元の言葉が、日常生活では、あまり使われない言葉だということにある。「aréo」という音を連ねた単語は、「aéro」を語頭に置く単語に比べると、そもそも数が少ないし、加えてどれも専門用語の類いで、毎日お目にかかるものではない(例:「aréographie」火星地理学、「aréole」小室[解剖学用語]、輪[医学用語]、「aréometre」比重計)。「infar」も同じで、「infra」みたいに、よく耳にする音の連続ではない。

見慣れない、聞き慣れない言葉だから、慣れた音の連鎖に引張られたり、隣接した音素(文字)の順番を、なかば無意識の内に言いやすいように逆転させたり、ようするに「誤用」をおかしてしまうのだ。こうした使用頻度の低さ、使用経験の少なさは、「音位転換」的な「誤用」が生じる条件として、必須のものだと思える。

たとえば、もし日常生活で頻繁に使われる単語を誰かが間違って使ったとしたら、その間違いは、ただちに身近の人から指摘され、直されるはずだ。「音位転換」が放置され、広がっていくのは、かなり難しいと見なければならないだろう。「音位転換」は、wikipediaにもあるとおり、子供の言葉によく見られるけれど(ウチの子供の例:「こっちがわ」→「こっちわが」)、それがいつまでも残ることは、まずない。成長の過程で、親に直されるか、自分で間違いに気づくからだ。

翻って「雰囲気」という言葉は、どうか。この言葉は、日常生活に頻出する。そして、これだけ日常的な言葉の「音位転換」が見過ごされることは、ちょっと考えにくいのだ。

身近に間違いを指摘する人がいない、つまり、誤用者の周辺にいるすべての人がすでに誤用におかされている(つまり地域的に定着している)からだ、と考える人もあるかもしれない。まわりの人間がみんな間違っているから、間違いが指摘されずに生き延びている、ということだ。でも、これもおかしい。だって、まわりの人間には、たとえばラジオのDJやテレビのアナウンサーや映画の出演者も含まれるのだ。もしこうした「公共的な」人々が、自分やその周囲と違う発音で話していれば、自分やその周囲が「誤用」をおかしている(あるいは方言を使っている)可能性に思い至らないわけがない。

そして、もうひとつ、重大な点は、もし、全国メディアで話す人々が、この言葉を誤用しているのだとしたら、荒川をはじめとする、「『ふいんき』なんていう人はだれもいない」という見解と齟齬を来たしてしまう、ということである。

ここに、問題の核心がある。

つまり、ある人(たとえばワタシ)には、「ふんいき」と言っている人なんて一人もいないように思われている、その一方で、別のある人(たとえば荒川)には、「ふんいき」と言っていない人なんて一人もいないように思われている。ここから言えることは、こういうことだ。ワタシには決して「ふんいき」とは聞こえない、あの言葉、「雰囲気」を意味する、あの一連の音が、荒川には「ふんいき」としか聞こえないという、そういう事態が成立している。そう考えざるを得ない。

だから「音位転換」ではない。

「音位転換」の例として、ナントカの一つ覚えみたいによく挙げられるのは、「山茶花」のケースである(荒川の引用した専門家の回答にもあった)。「さざんか」は、もともと「さんざか」だった、という話だ。

さて、この「山茶花」、ある人が、これを「さざんか」と言えば、誰がきいても「さざんか」と聞こえるし、別のある人が、これを「さんざか」と言えば、誰がきいても「さんざか」と聞こえる。なぜかといえば、「音位転換」が起きているからである。「ざ」と「ん」が入れ替わっていることは、誰の耳にも明らかなのだ。

ところが、「雰囲気」の場合、そうではない。荒川が発音した「ふんいき」が、私にはたぶん「ふんいき」と聞こえない、そういう話なのである(実際に聞いたわけではないけれど)。

また、「無知」ということでは、この問題を「雰囲気」という漢字の読みの問題に還元している記述も、たまに見かける。でも、これも問題を捉え損ねていると言わざるをえない。

たとえば『問題な日本語』(大修館書店)に、こういう説明がある。

「雰囲気」という漢字がありながら、それを「ふいんき」と読んでしまうということは、「雰」を「ふ」と誤読し、「囲」を「因」と混同した結果かもしれません。

けれど、なぜ「『雰』を『ふ』と誤読し、『囲』を『因』と混同」するのだろうか。「雰」という漢字が「難しい」というのであれば、けっして少なくはない一定数の若者が、それを「う」でも「ぶ」でもなく、決まって「ふ」と読む理由はなにか。また、いくら「ボキャブラリーの少ない若者」であるとしても、「『囲』を『因』と混同」するなんて、よほど目が悪いのでない限り、ありえないのではないか。

「雰囲気」という漢字に「ふいんき」と読み仮名を振ってしまうのは、漢字を一字一字読んでいるわけではないだろう。そうではなく、「雰囲気」と漢字で表記される意味を持つ言葉の使われる文脈・場面で、この言葉が、「ふいんき」と発音されるのを耳にしてきた、かつ自分でもそう発音してきた、その経験に基づいて、「雰囲気」に「ふいんき」と読み仮名を振るのではないか。だから、この、「ふいんき」と仮名を振った「若者」の中には、「あれっ」と思う者がいたことだって想定できるのである。この場合、彼は、「雰囲気」を「ふいんき」と読むことの不思議さに打たれたのだ。この不思議さは、どうして生じるか。それは彼が、「雰囲気」という文字を冷静に眺め、かりに「雰」を知らないとしても、「囲」「気」が普通には「い」「き」としか読めないことに気づき、したがって、「雰囲気」を「ふいんき」と読むことが、かなりイレギュラーな読み方であることに気づいたからである。ただ、残念なことに(?)、漢字のイレギュラーな読み方は、あまりにも多いのだ。「雰囲気」という漢字を見れば、知っていれば、「ふいんき」ではオカシイことに気づくはずであり、それに気づかないのは、漢字を知らないから、教養が低いからだ、と考える人の教養の低さは、この点に関わる。つまり、「無知だから『雰囲気』に『ふいんき』と読み仮名を振る」と短絡的に考えるのは、こうした漢字と仮名の関係の恣意性について、それこそ「無知」だから、あるいは無頓着だからである。

「フインキ現象」の不思議は、「無知」によるのではなく、逆に、「雰囲気」を「ふんいき」と読むことを知ればこそ、知っていればこその不思議なのである。

ところで誤用説に似たものに、こういうものがある。本人としても「ふいんき」が誤用であるとはウスウス感づいているのに、間違いを認めたくないため、それに固執している、という見方だ。

この見方にも、反論したい。ワタシも含め、「フインキ現象」に固執する人たちは、たぶん、それが「自分の間違い」なのであれば、いさぎよく白旗をあげる準備がある。でも、この問題は、たんに「自分の問題」なのではなく、「他人の問題」でもあるのだ。だから、固執する。自分だけが間違っているのなら、素直にアヤマチを認めよう。それはヤブサカではない。でも、間違っているのは、ワタシだけじゃない。アナタも、貴方も、貴女も、間違っている。というよりも、正しく「ふんいき」と言っている人間なんて、どこにもいないじゃないか! ということなのだ。

さて、ここからが、次の問題である。

もう気づいているかもしれないけれど、ここまで注意深く、自分の話としては、「雰囲気」が「ふんいき」とは聞こえない、とは言っても、「雰囲気」が「ふいんき」に聞こえる、とは言っていない。その理由をここで明かせば、それは、「フインキ現象」とは呼ぶものの、ワタシには、「ふんいき」は問題外であるにせよ、「ふいんき」でも、ちょっと違和感があるからなのだ。

では、どういうふうに聞こえるか。これが、なかなかむずかしい。無理に表記すれば、こうなる。

「ふい~き」

反発されるのは覚悟の上だけれど、ある程度の賛同が得られるであろうことは、ネット検索でわかる。そして、「フインキ現象」を、無知や無教養のせいにするのではなく、メタテシスでもなく、それとは別の側面から検討すべき事象と見ている者がちゃんといることも、同じくネット検索でわかる。こうした人たちは、正当にも、一定の環境(言語学的な意味での)がこの現象に組織的に関わっていることを指摘し、かつ、同じ「ん」と「い」の連続を含む単語を引き合いに出して、「フインキ現象」を相対化しようとする。

おおむね賛成なのだが、しかし、「ふい~き」派のワタシには、これでも、ちょっと物足りない。

この角度から「フインキ現象」に触れる人がしばしば引き合いに出す言葉のひとつに、「原因」がある。例えば、あるサイトに、「雰囲気(ふんいき)」では、

早めに話すと「ん」と「い」が一体となり、「鼻音化した『い』」になります。この音をい°と表わすと、「ふい°ーき」となります。これを耳で聞いても、「ふんいき」か「ふいんき」かが区別できません。。他にも「げんいん」も「げい°ーん」のような発音になってしまいますので、「げいいん」に聞こえる人がいるようです。

とある。こうした「原因」等への参照と、それによる現象の相対化に、にわかには賛成できない理由は、「雰囲気」が、ワタシの耳に「ふい~き」みたいなカンジに現象する一方で、「原因」の場合、どうしても「げい~ん」とはならず、「げ~いん」としか聞こえないからである。これは「ん」と「い」の隣接を持つほかの単語、たとえば「全員(ぜんいん)」や「圏域(けんいき)」でも同じで、「ぜ~いん」「け~いき」とは聞こえても、「ぜい~ん」「けい~き」とは聞こえにくい。つまり同じ「ん」と「い」のつながりでも、「雰囲気」の場合だけ、「~」(長短アクセント?)の位置が特殊なのだ。

ようするに、「フインキ現象」が環境の問題であるにせよ、これが起きるには、たんに「ん」と「い」の隣接による鼻音化だけではなく、なにか他の要素も関係しているのではないか、ということである*3

最後に、もうひとつ「問題」(?)を指摘したい。それは、この「フインキ現象」が「音位転換」ではない、つまり「ふんいき」が正しいところ、言い間違い、読み間違いで「ふいんき」になってしまった、ということではないのに、専門家やマニアや妙なコンプレックスを抱えた連中による「誤用だ」という指摘を鵜呑みにして、へんに「意識して」、あるいは、必要ないのに「注意して」、文字通り「ふ・ん・い・き」と「正しく」発音するオモシロイ人たちが増えてしまうのではないか、ということである。そして同時に、あくまで「ふ・い・ん・き」という文字列に固執する、開き直った人間(ワタシを含む)が、ネット上での表記にとどまらず、不必要な滑舌のよさでもって「ふ・い・ん・き」を日々連発するようになることも懸念される。こうした二極化が進み、発音上の曖昧さが解消され、「ふんいき」と「ふいんき」とが完全に分離し、だれの耳にもはっきりと両者の区別がつくようになったあかつきに、何が起きるか。事後的に「音位転換」説が正しいものとなるのである。服に体が合ってしまうのだ。

あー、つまり、一部の専門家が言うように、「今、私たちは、『ふんいき』から『ふいんき』への音位転換が定着するかもしれない歴史的場面に立ち会っている」のだとしても、なんだかこれ、悪い意味ではなく、結果的に、マッチポンプみたいになってるんじゃないかと。そういうことです。

 

2008/7/28

*1:この問題をめぐっては、「問題が見えている人」、「問題が見えていない人」、「問題が見えているのに見えていないフリをしている人」が、それぞれの立場から、かみ合わない議論を展開している気がする。

*2:「Areopagusアレオパゴス」とは、古代アテナイの、アクロポリス西側にあった小さな丘の名前。ここで、元老院最高裁判所に相当する会議が開かれた。そのため、この会議それ自体も「アレオパゴス」と呼ぶ。(参考:平凡社世界大百科事典)

*3:「フインキ現象」には、特殊なタイプの「異音」が関与していると思われる(←おもいつきデスよ)。通常、音声的差異としての「異音」は意識されにくいが、「ふんいき」の「ん」→「い」の場合、何らかの理由で偶然、音声的(実質的)に「い」→「ん」に極めて近くなり、それゆえ音声的差異であるものが、音韻的差異と取り違えられているのではないか。実際に音韻レベルでの交替が生じているわけではないので、この現象は「音位転換」ではない。また、「い」→「ん」への類似性ゆえ、「異音」としては例外的に多くの人々に感受されているが、事は音声の領域に関わるため、やはりこれを感受しない人もいる。感受しない人にとっては、「ふんいき」は、どうあがいても「ふんいき」でしかありえない。