2012-01-01から1年間の記事一覧

ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態

ベンヤミンが「言語による伝達」(ブルジョワ的伝達)と区別した「言語における伝達」(魔術的伝達)について考える上では、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』中の「論理形式」をめぐる記述が参考になる。野矢茂樹訳(岩波文庫)で引用したい。 4.12 命…

ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(1)――「常識的な翻訳観を疑う」

湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』に収められた「翻訳についての考察を深めるために」という70ページ余りの論考。ベンヤミン「翻訳者の使命」の読解を梃子に展開されるこの論考から抽出可能な命題に、次の二つがある。 1.文学作品は語り得ぬものを語る。 2…

波動言語論、あるいは煙幕としての言語について

吉本隆明が亡くなってすぐ、新潮と朝日新聞に、中沢新一が追悼文を書いていて、どちらも読んだ。吉本の言語論に触れたくだり、うなずける部分とうなずけない部分がある。 吉本さんは『言語にとって美とはなにか』以来、言語を「指示表出」と「自己表出」とい…

哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える

國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、「退屈の第三形式」をめぐる議論に興味を持った。國分によれば、ハイデッガーは『形而上学の根本諸概念』で「退屈」を次の通り三つの形式に分けている。(※以下、「ハイデッガーは」とあるのは「私の読んだところ…

声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(後編)

(承前)朝吹真理子の小説『流跡』は、一見、次のような構成をとっている。「プロローグ」→「本編」→「エピローグ」つまり、一人の語り手がいて、その語り手が前口上を述べ、物語を語り出し、やがて語り終え、最後再び顔を出す。この場合、作品は2つの層から…

声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編)

幸田文の小説『流れる』は、こう始まっている。「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」。ふつうの日本人であるならば、この文を読んで、格別のひっかかりを覚えることはないはずだ。けれど、このとてもやさしい短文も、これを…

吉本価値論への批判

吉本隆明の「像」概念を批判する文章を書いている最中だった。以前書いた「山崎ナオコーラの論理学(ロジック)」という文章から、「言語にとって美とはなにか」の「価値」論を批判した部分を引用しておきたい。***さて、いまから、この吉本の価値概念を…

複雑系翻訳論

※ 以下の文章には高野和明『ジェノサイド』についてのネタバレが含まれます。 機械翻訳についてきちんと勉強したいなあ、と思いつつ、なかなかまとまった時間が取れないので、文献だけ集めて木村屋アンドーナツ食べながらパラパラ拾い読みしているのだけれど…

震災文学その期待の地平――「時局と文脈」のためのメモ

地震のあと、なんとなく、というのまで含め、それとの繋がりを感じさせる小説が、続々文芸誌に掲載されている。まるで「震災」「原発」というお題が出ているかのような盛況ぶりだ。以下の作品を読んだ。 高橋源一郎「日本文学盛衰史 戦後文学篇(17)」(群…