わたしは自分で夢から覚めることができる

 

ひさしぶりに永井均の『〈子ども〉のための哲学』を読む。「ぼくはよく夢を見ながら 『これは夢だ』 と思うことがあるけど、だからこんな夢からさめよう、とりきむと、それには成功したためしがない。たぶん、夢の中でこれは夢だという内容の夢を見ているからだろう」(186頁)

今から4年くらい前、どこかの温泉の旅館に泊まったときの話。灯りを消したあと、布団の中で、まだ幼い息子が唐突にこういった。「ぼくは怖い夢をみても、XXXをすればこっちの世界に戻ってこれるんだ」

ぎょっとした。息子がとちくるったことをいい出した――からではなくて、その「XXX」のやり方が、わたしのやり方とまったく同じだったからである。遺伝したのだ。びっくりだ。

わたしは自由に夢から覚めることができる。だから「自分は今、夢を見ているかもしれない」というような、よくある懐疑が、ぴんと来ない。もしこれが夢なら、わたしは「これは夢だ」と確信する(懐疑するのではなく)はずだし、この夢から覚めることもできるはずなのだ。

でもできない。

それはたぶん、これが夢ではないからだ。

ただ、この考え方には穴がある。わたしは夢の中で、「これは夢だ」ということを、たえず反芻しているわけではない。何かの拍子でそのことに気づく。だから、もしかしたら、この長い夢みたいな人生みたいな夢みたいな日常において、まだこの「拍子」が聞こえていないだけかもしれないのだ。

もうひとつ。

わたしは自由に夢から覚めることができます、なんていうけれど、ほんとうにわたしは自由意志で目を覚ましているのだろうか。怖い夢を見て目が覚めることは、よくあることだろう。じつはわたしの場合も、これと大差ないのではないか。つまり、わたしの場合、「これは夢だ」と考える局面が、当の怖い夢のうちに含まれているのではないか。わたしが怖い夢を見て、XXXのやり方を使って、自分の意志で目を覚ます。けれど、それはそういうつもりなだけで、そのやり方をとるということが、たんに怖い夢を見た場合の、その怖い夢の中での、自動的な反応にすぎないのではないか。お決まりの内容ということだ。したがって、わたしの体験も、たんに怖い夢を見て、恐怖のあまり目を覚ますという、ごくふつうの体験である。終わり方の似ている怖い夢を繰り返し見ているのである。そういう可能性は捨てきれない。

たしかめるには、こうすればいい。前に見た怖い夢と同じくらい怖い夢を見ているとき、XXXをやらないで、こらえることだ。怖い夢を、がまんして、終わりまで見つづける。ひゃあ。そんなことができるのか? そもそも夢って終わりがあるのか?

ていうか、もしかして、じつは今、すでに、がまんしているのだったりして。そのがまんしているということを忘れているだけだったりして。かちーん。