吉森佳奈子「「日本紀」による注――『河海抄』と契沖・真淵」も注意を促すところだが、本居宣長『源氏物語玉の小櫛』五の巻に次の記載がある。 花やかなる 河海に、声花(ハナヤカ)[白氏文集]とあり、すべて此物語のうち、詞の注に、かやうにからぶみ又は日…
「雰囲気」という言葉を「ふいんき」と発音する人がいる、という話がありますが、幸いにも(?)私は今日に至るまでそのような人にお会いしたことがありません。ただし急いで付け加えますが、私はこの言葉を文字通り「ふんいき」と発音する人にも会ったこと…
そういえば、「私は怖い」は「I am scared」で、「彼は怖い」は「he scares me」だというG氏のツイートへのリプライのひとつに、「『彼は怖い』を英語に翻訳するのなら『he scares me』よりむしろ『he is scary』なのでは?」というのがあって、これに対して…
これは後追いで知ったのだが、数日前、「Language learning influencer」を名乗るある人物のツイートが日本語学習者界隈をざわつかせた。SNS上では、その人の発言を肴に熱い議論が交わされており、なかにはずいぶん感情的なやりとりも見える。議論は匿名掲示…
生来の日本語話者の一群が一群のレベルで折に触れて表出する日本語への異和感は、「いいたいことがうまくいえない」といった言語表現をめぐる普遍的な問題とはおよそ異質なものである。言語が言語であることに由来する、この手のありふれた不満は、その突き…
さて、桜庭一樹氏は②の記事に掲載された見解の冒頭で次のように断言している。 私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています。 ここを読み、大きく分けて二つのことを思…
前回の続きなのだが、この問題についてこのようにしつこく書くのには二つの理由がある。ひとつは、小説家の桜庭一樹氏と文芸評論家の鴻巣友季子氏との間にこのほど持ち上がった対立は、たんに両者の対立というにとどまらない、日本近代小説の根幹に触れる大…
小説家の桜庭一樹氏が8月25日付朝日新聞朝刊に掲載された文芸時評(以下①と呼ぶ)中、自作「少女を埋める」(文學界9月号)への評に異議を唱えている。私は評者である鴻巣友季子氏が提示した作品の読み方、また、9月7日付朝日新聞朝刊文化欄の記事「本紙『文…
前回、フランス語の絶対分詞節の中には「節連鎖」(clause chaining)的に解釈できるものがあると指摘する仏語論文について触れた際、「絶対分詞節をいくつも連ねて文をだらだら続ける」のは「難しそう」と書いたけれど、そういうの、見つけてしまったので、…
折口信夫の小説『死者の書』の出だしの言葉は絶妙に気持ちが悪い。 彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂…
三木三奈「アキちゃん」(文學界5月号)のことがまだ気になっている。これはある種の人たちの癇に障る作品だと思った。臆面もなく上手い。けれど文学は上手い下手ではない。だからこういうのは、やらない。やろうと思えばできるけれどやりたくない。でも本当…
■前回、「た」に関する松下大三郎の説を「最近発見した」と書き、『標準日本口語法』から関係する一節を引用するなどしたが、2011年に書いた「やはり『た』は『過去形』ではない」で言及した藤井貞和『日本語と時間』に、『標準日本口語法』の同じ箇所を取り…
これも自分の営業用ホームページに載せていた文章。2010/7/14という日付が入っている。ずいぶん前のものだけど、英語ネイティブ(たぶん)の日英翻訳者の方が、本ブログの記事「やはり『た』は『過去形』ではない」と併せて、ご自身のツイッターで参照してく…
折口信夫の『死者の書』にフランス語訳はあるのだろうか? 英訳ならもうあるようだ。冒頭部がGRANTAのサイトで公開されていた。ちらっと見たら、「した した した」のところ、次のように訳されている。 した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる…
前回に引き続き、自分のサイトに掲載していたテキストをこちらに移す。タイトルは「消える翻訳」。2009年2月2日付の文章。 この中に、ふつうなら「訳抜け」と呼ばれるであろうものに対して、ややアクロバティックな解釈を適用し、暗に「訳抜け」ではないとし…
自分で作った集客用のサイト(2005年開設、HTML手打ち)を閉じることにしたので、いくつかのテキストを何度かに分けてこちらのブログに移植します。今回は「二つの翻訳」という表題の、2006年10月28日付けの文章です。翻訳不可能論をめぐって錯綜する様々な…
ぼくの希望は、社会に出て、みんなのためにつくすことのできる人になろうと思っています。 この文はおかしい。どこがおかしいのか。「ぼくの希望は」で始まった文が「なろうと思っています」で終わっている。でも、「みんなのためにつくすことのできる人にな…
https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168920007088201728 https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168929362797826050 まず思ったのは、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」というのは産出性/再現論の対立とは独立…
フォルマリズム的な「日常言語」と「詩的言語」の二項対立はきれいな二項対立になっていない。この二元論を通じて定義される「詩的言語」は端的な「詩的言語」ではなく、「詩的な日常言語」であるにすぎないのである。この事実はあまり意識されない。だから…
月報エッセイの内容は、そのほぼすべてが「こことよそ」に取り込まれている。フロイトの夢の話も別ではない。けれどエッセイを締めくくる、右に引いた段落の要諦と言ってもいいかもしれない、中段のよじれた文による記述は別かもしれない。「私はむしろ今の…
大晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いてい…
日の光の届かない、現世から切り離された穴底の、抽象空間のような舞台のような、そこには大晦日、夜、鎌倉のバス通りを駅から実家に向かって歩く六十歳の「私」の孤立した、鮮明な像があらわれている。この「私」は死んだ尾崎のお別れ会に出て以来、谷崎の…
保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で…
一九八二年九月十六日、レバノンのパレスチナ難民キャンプにキリスト教系の武装集団が侵入し、無差別の殺戮行為に手を染める。イスラエル軍の後ろ盾があったと言われているが、彼らは三昼夜にわたりキャンプの住民をひたすら残虐なやり方で殺し続けた。この…
作品はこの段落で閉じられている。ここに出てくる「死んだ尾崎」というのは話者の「私」が「二十代の前半に関わっていた映画の仲間」の一人で、かつて「横須賀の暴走族のアタマだった」と語られる人物だ。映画の撮影があった一九八〇年、何度か「私」と道で…
この作品は、話者の「私」が年の暮れ、「谷崎潤一郎全集の月報にエッセイを書いてほしいという依頼」を受けたという話で幕をあける。「エッセイの趣旨は作品論的なものでなく個人的な思い出のようなものということだったから『細雪』のことを書こうかと思っ…
保坂和志の短編小説「こことよそ」は楕円形だ。独創的におかしな文が出てくる。保坂和志の作品に露骨におかしな文があらわれ始めたのが『未明の闘争』からだということをわたしたちは知っている。しかし、この長編に出てくる文のおかしさは、まだおとなしい…
かつて印欧語には「中動態」と呼ばれる態が存在した。この態が能動態と対立していた。しかしそれは今はもう失われてしまった。代わりに受動態が能動態に対立している。エミール・バンヴェニストが「動詞の能動態と中動態」で示したこのような見立てを基本的…
言語には存在と使用の二つの面があって、その二つの面のそれぞれにさらに二つの面がある。だから言語の存在、言語の使用というだけでは足りず、言語の言語的存在、言語の言語的使用といわなければならない。言語の非言語的存在とは言語を一般的な事物と同等…
「グーグル翻訳より格段にいい」というふれこみのDeepL Translator。ちょっと試してみたけれど、どうも本当っぽい。去年グーグル翻訳が新しくなってすぐに試した英仏翻訳で不出来だった文が、だいぶまともなふうに訳された。 17) 原文:He was laughed at. G…