2019-01-01から1年間の記事一覧

いぬのせなか座の山本浩貴氏の9月3日のツイートを読んで

https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168920007088201728 https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168929362797826050 まず思ったのは、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」というのは産出性/再現論の対立とは独立…

吉本隆明のフォルマリズムと自由

フォルマリズム的な「日常言語」と「詩的言語」の二項対立はきれいな二項対立になっていない。この二元論を通じて定義される「詩的言語」は端的な「詩的言語」ではなく、「詩的な日常言語」であるにすぎないのである。この事実はあまり意識されない。だから…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(7)

月報エッセイの内容は、そのほぼすべてが「こことよそ」に取り込まれている。フロイトの夢の話も別ではない。けれどエッセイを締めくくる、右に引いた段落の要諦と言ってもいいかもしれない、中段のよじれた文による記述は別かもしれない。「私はむしろ今の…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(6)

大晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いてい…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(5)

日の光の届かない、現世から切り離された穴底の、抽象空間のような舞台のような、そこには大晦日、夜、鎌倉のバス通りを駅から実家に向かって歩く六十歳の「私」の孤立した、鮮明な像があらわれている。この「私」は死んだ尾崎のお別れ会に出て以来、谷崎の…

幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて

保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(4)

一九八二年九月十六日、レバノンのパレスチナ難民キャンプにキリスト教系の武装集団が侵入し、無差別の殺戮行為に手を染める。イスラエル軍の後ろ盾があったと言われているが、彼らは三昼夜にわたりキャンプの住民をひたすら残虐なやり方で殺し続けた。この…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(3)

作品はこの段落で閉じられている。ここに出てくる「死んだ尾崎」というのは話者の「私」が「二十代の前半に関わっていた映画の仲間」の一人で、かつて「横須賀の暴走族のアタマだった」と語られる人物だ。映画の撮影があった一九八〇年、何度か「私」と道で…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(2)

この作品は、話者の「私」が年の暮れ、「谷崎潤一郎全集の月報にエッセイを書いてほしいという依頼」を受けたという話で幕をあける。「エッセイの趣旨は作品論的なものでなく個人的な思い出のようなものということだったから『細雪』のことを書こうかと思っ…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論

保坂和志の短編小説「こことよそ」は楕円形だ。独創的におかしな文が出てくる。保坂和志の作品に露骨におかしな文があらわれ始めたのが『未明の闘争』からだということをわたしたちは知っている。しかし、この長編に出てくる文のおかしさは、まだおとなしい…

中動態の新たな神秘化――國分功一郎『中動態の世界:意志と責任の考古学』

かつて印欧語には「中動態」と呼ばれる態が存在した。この態が能動態と対立していた。しかしそれは今はもう失われてしまった。代わりに受動態が能動態に対立している。エミール・バンヴェニストが「動詞の能動態と中動態」で示したこのような見立てを基本的…