2010-01-01から1年間の記事一覧

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』は、若い頃なんとなく避けていたけれど、三十半ばを過ぎた頃、読んでみて、こんな面白い本はないというくらい引き込まれた。噛めば噛むほど味が出てくる本という気がする。 吉本隆明の文章は、独得の用語と体系のなか…

ベンヤミンの翻訳論については考えたくない

私は四十二歳。人生の折り返し地点を過ぎている。ここらで、ベンヤミンの翻訳論について、ちゃんと考えなおしておかないとダメなんじゃないか。このまま死んだらやばいんじゃないか。そういう気が、近頃している。もう十二月だ。去年から今年にかけて、ベン…

志賀直哉の日本語廃止論をめぐって

古本屋で雑誌『重力01』を見つけた。600円だった。すぐに買って読みはじめた。大杉重男「森有礼の弔鐘――『小説家の起源』補遣」に瞠目する。志賀直哉の「国語問題」に触れていたからである。「国語問題」は志賀直哉が1946年に雑誌『改造』に発表したエッセイ…

一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての

佐々木敦『絶対安全文芸批評』に宮崎誉子の短編集『三日月』の書評があった。読んですぐ、宮崎作品の核心にとても近い場所に触れていると思った。佐々木は「記号的」という言葉を使っている。『三日月』に収められた「脱ニート」では、「靴下のことが色々書…

翻訳の成立に先立つ決定の過程について――加藤典洋、そしてクワインを手掛かりに

文芸評論家の加藤典洋がいま文芸誌「群像」に連載している「村上春樹の短編を英語で読む」は、そのタイトルから想像される内容に反し、英訳の出来が吟味される機会がじつは少ない。例外は第5回。この回で加藤氏は、村上春樹の最初期作品「ニューヨーク炭鉱の…

村上春樹の翻訳可能性

まえに宇野常寛が書いた前田塁『紙の本が亡びるとき?』の書評(群像2010年5月号)を読み、そこに、「『翻訳され得る文体/され得ない文体』の峻別こそが日本文学の課題であると示唆する」とあるのを見て、へえー、と思った。でも、これまで読まずにいた。た…

自動翻訳機が実現しない理由、エッセンスのナンセンス、物語に拮抗する文体――平野啓一郎×西垣通×前田塁「テクノロジーと文学の結節点」を読む

文學界2010年1月号の鼎談「テクノロジーと文学の結節点」(出席者は、平野啓一郎、西垣通、前田塁)を読んだ。おもしろかった。ここで取り上げたいのは「自動翻訳」をめぐる前田塁の発言。前田は二つの可能性を問う。1.「全自動翻訳機が機能する時代が来る…