自動翻訳機が実現しない理由、エッセンスのナンセンス、物語に拮抗する文体――平野啓一郎×西垣通×前田塁「テクノロジーと文学の結節点」を読む

文學界2010年1月号の鼎談「テクノロジーと文学の結節点」(出席者は、平野啓一郎西垣通前田塁)を読んだ。おもしろかった。ここで取り上げたいのは「自動翻訳」をめぐる前田塁の発言。前田は二つの可能性を問う。

1.「全自動翻訳機が機能する時代が来る」可能性
2.さもなくば「自動翻訳機で翻訳できる範囲の言葉で書いていくような形が生じ」る可能性

まず後者から検討する。機械が人間に合わせるのではなく、人間が機械に合わせるというこの発想は、それほど奇抜なものではない。

前田の問いかけを受けて、西垣通は、「プレーン・イングリッシュ」の話を持ち出しているが、ほかにも「制限言語(controlled language)」と呼ばれるものがある。

前者「プレーン・イングリッシュ」は、西垣の言葉を借りれば、「わかりやすい日常表現を使用し、文章は短く、専門用語はもちろん、受動態や二重否定も使わない」ようにしようという「ドラスティックな運動」のこと。一方、「制限言語」とは、主に工業領域の文書のリーダビリティ向上を目的として、使用可能な語彙、1文の長さ、語法などに制限を加えた言語体系のことをいう。これだけなら、「プレーン・イングリッシュ」と変わりがないように思えるが、そうではない。というのも、制限言語は、単純に「平易であること」を志向しているわけではなく、それと同時に(それ以上に?)、機械翻訳への適合性を高めることをめざしているからだ。これに関して、西垣とジョナサン・ルイスの共著『インターネットで日本語はどうなるか』で、ルイスが、「制限言語で書かれた原文は、読みやすいとは言えない」と指摘している。逆に言えば、単にプレーンであることは、必ずしも機械翻訳の可能性を高めることにはならないということである。

例えば、日本語から英語への機械翻訳で、その精度を上げるには、どうすればいいか。すぐに思いつくのは、日本語の各文に主語を付加することや、名詞が単数であるのか複数であるのかを明示することだろう。ようするに極端に直訳的な日本語で書く、ということだが、こうした配慮によって書かれた日本語を「プレーン」と呼ぶことはできないだろう。

「制限言語とまではいかなくとも、自動翻訳をしやすい文章を書くことは十分可能である」とルイスは言う。もちろん問題は、こうした機械翻訳適合的な言語使用が、いわゆる文学の領域で広がるかどうか、という点である。

ところで、この鼎談に対するリアクションとして、翻訳家の鴻巣友季子が、英国の小説家カズオ・イシグロの「他言語で理解されにくい書き方は避けるようになった」という発言などを踏まえ、「『小説ってやっぱり機械翻訳できるものが一番だね』という発想」が生じることを危惧している(「カーヴの隅の本棚」第47回 文學界2010年2月号)。こうした価値観の転倒は、やはり文学の外では、とっくにあらわれている。1997年に刊行された岩波新書の一冊に、次のような一節がある。

われわれが書いている仕事文が、機械翻訳システムに入力されるとき、リライトなしですむようにしたいものである。コンピュータが機械翻訳で能力を十分に発揮できるか否かは、あなたが書いた文章の品質次第であることを留意していただきたい。
(高橋昭男『仕事文の書き方』)

ここにある「機械翻訳可能な文章=質の高い文章」という倒錯を批判することは容易であるし、これが文学の領域で一般化するとも考えにくい。けれど、イシグロのような発言が出てくる背景にあるものを、鴻巣のように、「『通じない』ことを不安がるこうした『グローバル過敏症』」といってすますことはできないと思われる。

そもそも、これまで翻訳によって「通じる」と考えられてきたことが不思議なのである。

鴻巣は、「翻訳者からすると、こっちのことなんか心配するな、翻訳したぐらいで文章のエッセンスは失くならないから、と声を大にしたい」と書くが、こうした呑気な形而上学、というか御都合主義は、危機意識をもった作家において、すでに失われていると見た方がいい。新潮2010年1月号の平野との対談(「情報革命期の純文学」)で、批評家の東浩紀が「物語」と「文体」を秤にかけ、「極論を言えば、文体はいまや作家の自己満足」と評しているが、それにならっていえば、「エッセンス」なんてものは、大昔から翻訳家の「自己満足」にすぎないのではないか。この種の「自己満足」を共有しない小説家たちが自己防御(翻訳しにくい言い回しは使わない等)を企てるのは、むしろ自然である。健康的である、とさえいえるだろう。翻訳者は心配されているのではなく、信用されていないのだ。

また、鴻巣は「小説を解りやすくするために言語(表現媒体)に制限が生じるなんてつまらない」とも書いている。

けれど、少し冷静になってみれば、制限と文学の間には、密接な関係があることに気づく。詩や俳句などは、散文と比較して、字数や押韻など、厳しい制約が課せられているが、だからといって「つまらない」とはいえないはずだ。そもそも、自由な言葉と不自由な言葉があるのではなく、言葉そのものが不自由として課せられている、という考え方もできる。プレーンな方向に進むのであれ、制限言語的な不自然さに向かうのであれ、言語の形式的側面に対する制限、コントロールは、文学にとって本質的な制約とはならない。「プレーンな」言葉の拡大に対する危惧や反発は、脊髄反射みたいなもので、真剣に取り合う必要はないのかもしれないが、「つまらない」意見であることはたしかだ。

こうしたノスタルジックな文学擁護に比べると、鼎談の中で、読まれるということを過剰なまでに意識する平野啓一郎の言葉は、むしろ非文学的に見える。しかしこれは、平野が、とりわけ九〇年代以降、なんとなく文学的と考えられてきた文章の姿を再考しようとしていることに起因すると考えられる。平野は言う。

僕は九〇年代の文学の危機は、文体と物語が小説の両輪であったはずなのに、物語の解体を評論家が言いすぎて、それを小説家が真に受けすぎたことだったと思うんですよ。文体も、人間が心地いいと思う文章ではなく、世界の分節化の関節を脱臼させるような文体が、知的な意味でいいと言われたりもしました。

この平野の発言に対して、前田塁は、物語には「複数のレイヤー」があり、「『文脈化を行うもの』としての物語の層」と、蓮實重彦らが批判してきた「紋切り型の層」は、区別する必要があると返す。けれど、「『水戸黄門』の紋切り型を、なぜ多くの人間が気持ちいいと思って一時間も観るのか」と問いかける平野は、たぶん「文脈化」ないし「背景を引っ張ってくる力」と「紋切り型」であることは切り離せないと考えている。これまで、説話論的還元によって析出される紋切り型は、そうであることのみをもって批判されてきた。しかし、それは端的に間違いだったのではないか。この「紋切り型」の威力とその活用の仕方をきちんと考えてみるべきだったのではないか。平野の問いかけから読み取れるのは、そういうことである。

では、文体については、どうか。こういうことが考えられる。これまで、文学の文体としては、ごつごつしたもの、ひっかかりのあるもの、アクの強いもの、ようするに、読みにくいものが称揚されてきた。それも、ただ読みにくいというだけで、不当なまでに高い評価を与えられていたふしがある。一方、読みやすいという方向の模索はおざなりで、結果、エンタメ系(直木賞系)の「読みやすい」文章の多くは、単調かつ無味乾燥なあまり、逆に読み進めるのが辛いほどだ。たんにギクシャクした文章はもうじゅうぶんだし、物語効率の最大化に寄与するだけの、たんに読みやすい文章にも辟易する。でも、旧来の読みやすさとは別の読みやすさ、物語に従属するのではなく、それに拮抗する読みやすさというものには、まだ開拓の余地があると思う(例えば長嶋有山崎ナオコーラ、あるいは青山七恵らの作品には、そうした土地を果敢に切り開いている感触がある)。

「心地いい」文体と「気持ちいい」物語ということを言い出す平野の身体的ないし快楽主義的な発想を後押ししているものが、小説が読まれない、読まれていない、という危機感であることは明らかだ。けれど、このリアル・ポリティクスによって開かれる「リーダビリティの文学的可能性」とでもいうべきものは、状況論は措いても、掘り下げられてしかるべきだろう。同様に、「小説を解りやすくする」ための「制限」は、新たな面白さを生む可能性がある。機械翻訳適合的な書き方のうちに、ある種の美学が宿ることもありえない話ではない。「『小説ってやっぱり機械翻訳できるものが一番だね』という発想」が出てくることに、むしろ期待したい(なお、「機械翻訳可能性」と「翻訳可能性」は別物であると考えた方がいい。機械翻訳への適合化が文体に作用するのに対し、人力?翻訳可能性への考慮は物語性ないしプロットの強化を志向する)。

だいぶん話が逸れたが、次に第一の問題に移る。「自動翻訳機が機能する時代が来る」かどうか。ここで「自動翻訳機」と呼ばれるもので、「ほんやくコンニャク」レベルの装置が考えられているとすれば、そんな時代はまず来ないだろう。自動翻訳機は、なにか新しいシステムが着想されるたび「あと5年で実用可能」といわれてきた。でも、いつまでたっても実用化されない。最近の例では、2006年にIBMが発表した「IBM Next Five in Five」(5年後に実用化が見込まれる5つの技術を掲げたもの)の中に「リアルタイム音声翻訳」がある。2006年の5年後は……来年だ。

自動翻訳機は、なぜ実現しないか。その理由として即答されるもののひとつに、自然言語の曖昧さ(多義性)がある。例えば、よく挙げられるものだが、「Flying planes can be dangerous.」や「Time flies like an arrow.」という英文は、それぞれ2通りに解釈できる。また、こうした統語レベルの曖昧さのほかにも、修辞疑問文(「What’s the difference ?」)や照応等の解釈に関する、語用論レベルの曖昧さもある(制限言語的な考え方によれば、こうした曖昧さをもった表現は、できるだけ避けるべきということになるだろう。一方、西欧的な文学観では、文学の本質、いわゆる文学性が、こうした曖昧さに存するという見方が根強い。したがって、制限言語やプレーン・イングリッシュと文学は相容れない、ということになる)。

つまり、前掲『インターネットで日本語はどうなるか』で西垣通が指摘している通り、「コンピュータには文章の『意味』を掴むことが難しい」。

しかし、西垣のこの考えは、理由としてじゅうぶんではないと思われる。というのも、じつは、「『意味』を掴むことが難しい」のは、人間も同じだからだ。

翻訳という行為は、ある言葉Aに対して、それと同一の意味を持つ言葉Bを返すことだと考えられる。したがって、「翻訳」が実際になされた、成功した、ということを確かめるには、2つの言葉の「意味」を取り出して、それが「同一」になっているかどうかを検証すればいいわけである。けれど、この「取り出し」が、残念ながら、機械のみならず、人間にもできないのだ。

例えば、「意味」を対象とする学問領域として「意味論(セマンティクス)」というものがあるが、この「意味論」においても、「意味」そのものが扱われているわけではない。そのことは、意味論において、意味を記述するための最小単位として考案された「意味素(意義素)」がどういうものであるかをみれば瞭然である。

たとえば色に関する形容詞は色という意味をもっているからその意味「色」を意味素SCで表わそう。(中略)名詞についても同様にする。たとえば父、子、母、社長、会社員といった単語は人を表わしているから人を表わす意味素SHを与える。(中略)このように必要な数だけの意味素を作り、それぞれの単語がどのような意味をもっているかをしらべ、それに対応した意味素を与える。
(長尾真『人工知能と人間』、強調は引用者)

上でSCだとかSHだとかは、たとえそれが「意味」を欠いた記号であらわされているように見えるとしても、実際には「色」という意味を持ち、「人」という意味を持つことは明白だ。そして、「その意味『色』」と呼ばれるこの「意味『色』」が、むきだしの意味それ自体ではなく、「言葉『色』」にすぎないことも同様である。

「意味」は日常語だが、日常語の常として、ちょっと反省したり分析したりしようとすると、たちまちわけがわからなくなる。とても厄介な代物だが、それでも、いくつかのアプローチが考えられる。

例えば、言葉の「意味」が問題になるのは、どういう場合か、考えてみる。すると、「意味」が明らかである場合、これが問題とならないことに気づく。逆に言えば、言葉の「意味」が問題となるのは、「意味」が不明な場合に限られる。当たり前の話をしているようだが、そうではない。通常の意味論では、あらゆる言葉について「意味」が存在すると考えられている。しかし、ここでは、「意味」を、あらゆる言葉について常に存在するものとしてではなく、伝達の特定の場面に限って「出現」するものとして考えようとしている。

「意味」は、「意味」が不明な場面に限り、その存在の輪郭を現す。そして、この意味不明の言葉を前にして欲望されるモヤモヤのことを、「翻訳への意志」と呼ぶことにする。この「翻訳への意志」の実行と実行した結果が、いわゆる「翻訳」である。けれど、この「翻訳」というプロセスを経て人間の眼前に置かれるものは、「意味」そのものではない。意味不明の言葉Aと同じ意味を持つと主張される言葉Bでしかない。

ならば、こう言ってしまってもいいのではないか。「意味」とは、「翻訳」によって与えられる新しい言葉のことであると。

この考え方は、R.ヤコブソンが「翻訳の言語学的側面について」で表明しているものに近い(ウィトゲンシュタイン『哲学的文法』にも似たような考え方が見られる)。ヤコブソンは「すべての言語記号の意味とは、その記号と置き換えられ得るもっと別の、交替的な記号への翻訳」であると言っている。しかし、この考えが正しいとすると、「翻訳」の結果ようやく現れるこの「意味」を基準として「翻訳」が行われていると考えることはできなくなる。では、「意味」が「翻訳」の基準でないとすれば、いったい何を基準に人は「翻訳」を行っているのか?

「翻訳」も「意味」も、謎めいたものには見えない。でも、きちんと考えようとすると、謎だらけだ。翻訳とは何か、意味とは何か、なんとなくわかっているが、正確なところはだれもわからない。自動翻訳機とは自動的に翻訳を行う機械という意味だろうが、この機械の目的である翻訳というものが何であるのか、明確ではないのである。目的のはっきりしない機械を作ることはできない。どうすれば完成といえるのか、わからない。翻訳とは何か。届きそうで届かないこの概念への距離が、「あと5年」という微妙な数字の絶えざる更新に反映している。

しかし、じつは、この問題を一挙に解決する方法がある。しかも簡単な方法である。こうだ。自動翻訳機によるアウトプットのことを「翻訳」と呼ぶことにする。こうした政府の決定なり、国民の合意なりを確保すればいいのだ。ようするに、「意味」の不可知性ないし主観性を逆手にとって、「意味」がわからない文章でも無理やり「意味」がわかることにしてしまうのである。制限言語などと同様、人間が機械に合わせるという発想の転換である。馬鹿げていると思われるかもしれない。でも、これに似たようなことは、すでに現実化しているのではないか?