村上春樹の翻訳可能性

まえに宇野常寛が書いた前田塁『紙の本が亡びるとき?』の書評(群像2010年5月号)を読み、そこに、「『翻訳され得る文体/され得ない文体』の峻別こそが日本文学の課題であると示唆する」とあるのを見て、へえー、と思った。でも、これまで読まずにいた。ただ気になってはいたのだ。今回たまたま機会に恵まれ、ようやく『紙の本が亡びるとき?』を読むことができた(←近所の図書館に置いてあったということです)。

文体は翻訳できない。文章のうち翻訳できないもののことを文体という。そう考えていた。だから「翻訳され得る文体」という言葉を見た時、頭の中で勝手に「わかりやすい文章」「くせのない文章」(つまり翻訳者が意味を取り損ねることの少ない文章)というふうに読み替えていた。でも問題のエッセー「二〇〇八年のビーン・ボール」を読んだら、そういうことではなかった。「翻訳を越えて伝わる文体」と書いてある。つまりほんとうに、正面から、文体そのものが翻訳される可能性の話だった。これには、正直びっくりした。斬新。たのしい。

「翻訳を越えて伝わる文体」の話に至るまでの大筋は、次の通りだ。

まず前田塁は、水村美苗『日本語は亡びるとき』で、「亡び」の問題の核心が、日本語の「伝達機能」ではなく「詩的機能」にあると指摘する。英語公用語化などによる「国語」の衰微は、これを「伝達機能」の側面に限定すれば、「国家的枠組みを維持/強化する必要」がある限り、完全な「亡び」にはつながらない。あるいは仮に「国語」が消滅してしまったとしても、「たんに指示内容の交換だけであるならば(中略)とりたてての不自由はない」(←志賀直哉的にラディカルですね)。したがって問題は「詩的機能」*1である。なぜならこうした「詩的な」ものこそが言語における最も固有な部分、つまり「普遍語」に交換不可能な部分であるのだから。

逆に言うと、容易に交換可能な「伝達機能に偏って構成されている類の『文学』作品」、すなわち「コミックや映画、ドラマの原作になることができる小説たちは」「早晩〈普遍語〉に置き換えられるだろう」。こういう括弧つきの「文学」作品は、ここでは問題としない。といって、交換不可能な固有性に依拠する魅力的な文体の小説家たち、例えば「大江健三郎古井由吉金井美恵子」について考えるのでもない。村上春樹について考えよう。なぜなら村上春樹は、

日本語で無数に読まれると同時に、翻訳された先でもそれと同じかそれ以上に読まれている(中略)。なおかつその小説は、たんに「物語」として受容されるのではなくて(それならば、『ハリー・ポッター』でよいのだから)、ある種の文体とともに、どうやら受容されている。そのことは、残りの紙幅では例証できないけれど(中略)彼が手がけたカポーティーやサリンジャーフィッツジェラルドの日本語訳を見ることでも、手がかりを摑むことができる。彼が訳したとき、そこには、ある種の「音楽」が流れる。それは、村上春樹という文体の持ち主が、カポーティーたちの文章から取りだすことができた、ある種の詩的構造、とでも呼ぶべきものだ。(『紙の本が亡びるとき?』p.216)

つまり前田塁は、村上春樹の小説が、ほんらい交換不可能なはずの文体、すなわち「詩的機能」の次元での交換に成功していると考えている(と思うのですが……どうでしょう?宇野氏も書評で「韜晦が多い」と呟いていますけど、このエッセー、うまく論旨が追えないです)。村上春樹の文体は、驚くべきことに、「翻訳を越えて伝わる文体」なのだと。

前田塁は、その理由を、村上の文体の持つ「ある種の『音楽』」性に求めている(「音楽は国境を超える」からでしょうか?)。村上が訳したカポーティーその他の小説に「『音楽』が流れる」のは、カポーティーその他の文体の「『音楽』」と村上の「『音楽』」が「構造」的に重なっているからである。引用した上の一節で前田塁が言っているのは、たぶんこういうことだ(違うかなあ)。

でも、村上春樹が「ある種の文体とともに」「受容されている」ことは、日本語原文の文体がそのまま翻訳言語に移転されていることを意味しない。また、村上春樹が翻訳したカポーティその他の小説に「『音楽』」が流れているとして、それがカポーティその他の文章にもともとあったものかどうかはわからない。もちろん、こうした論証のあらについては、前田塁もじゅうぶん意識していると思われる(上に「残りの紙幅では例証できないけれど」とある)。

この「二〇〇八年のビーン・ボール」という文章は、いつか書かれるであろう「村上春樹論のためのノートみたいなもの」だということなので、前田塁村上春樹論」を鶴首して待とう。村上春樹の文体の翻訳可能性は、そこできちんと例証されるはずである。

それにしても、じっさいに『紙の本が亡びるとき?』を読んでから宇野常寛の書評に戻ると、ずいぶん恣意的な読み方をしているなあ、と思う。例えば宇野は、「水村が具体的にグローバリゼーション下における英語の優位(と日本語の『現地語化』)として説く『危機』の実態は同じく文学という制度を支えてきた『文体』の威力低下であると」前田塁が「示唆」していると言うが、前田塁は「『文体』の威力低下」なんて話はしていないのでは?

また、宇野は「翻訳され得る文体」を「文体に拠らず(中略)物語構造をハイブリット化してゆく手法」と捉え直している。ようするに、文体か物語かの二者択一で後者を選択することをそう呼んでいるわけだが、これはちょっと常識的すぎないか? 前田塁の「翻訳され得る文体」の途方もなさがすっかり消えている。

それに前田塁は、鼎談「テクノロジーと文学の結節点」(文學界2010年1月号)で自身語っている通り、村上春樹川上未映子平野啓一郎とは異質の存在と見ている。川上・平野らを「村上春樹の広義の継承者」と位置付け、川上・平野らの作品と村上の作品を「ネットワーク下で『亡びる』とされるものに頼らないことを選択した小説」とひと括りにする宇野の「状況理解」と前田塁のそれは大きく違っていると思う。

「物語」性に頼りきった小説は、たしかに高い翻訳可能性を手に入れるけれど、その代償として、日本語で書かれることの必然性の大半を失ってしまう。映画や漫画に容易に移し替えることのできる小説もそうだ。そうした小説は、小説であることの必然性を半ば捨てている。文体か物語かの選択で単純に後者を選ぶことは、短期的なサバイバルには有効であるかもしれないが、長期的には自らの首を絞めることになるはずだ。

さて。村上春樹の翻訳可能性については、文學界2010年7月号の鼎談「村上春樹の“決断”」でも話題になっている。村上は説明能力が高い、ロジカルに書いている、翻訳されることを前提としている……。たぶん、全部その通り。正解。しかし刺激はない。目を引いたのは都甲幸治の「もしかしたら村上は英語版を原典だと言いたいのではないか」という発言。同様のことを、同じ号に掲載された「約束は果たされた」で加藤典洋も書いている。加藤は『1Q84』の発表の仕方に触れ、翻訳では恐らく「大幅な改編がほどこされることになるだろう。日本語テクストは、過程的な存在となる。でも、そもそも、そのようなものとして原文小説は書かれてよいのか。たとえよいという考えがありうるとしても、本当にそうか」と問う。特に最後の追加的な問いは、本音を言え、と強く迫ってくるようで、迫力がある。

ちょっと考えてみた。「書かれてよい」と思った。でも「本当にそうか」。わからない。ていうか、『1Q84』、残念ながら機会に恵まれず、まだ読んでいないのであった(476人待ち)。

参考:「複合過去から村上春樹へ、あるいは時制のゼロ度」(フランス語や日本語の時制について関心のある方は、是非お読みください)

*1:この「詩的機能」はローマン・ヤコブソンの用語を借りているようだが、ヤコブソンの「詩的機能」は、前田塁が「詩的機能」に負わせる「詩情=私情」とは別個の概念だと思う。「言語学詩学」を参照。