消える翻訳

 

前回に引き続き、自分のサイトに掲載していたテキストをこちらに移す。タイトルは「消える翻訳」。2009年2月2日付の文章。

この中に、ふつうなら「訳抜け」と呼ばれるであろうものに対して、ややアクロバティックな解釈を適用し、暗に「訳抜け」ではないとしているところがあるが、その狙いは勿論、池内紀カフカ翻訳の擁護にはない。擁護ということで言えば、この解釈の強引な手つきは、むしろ池内訳の評価に不利に働くはずである。こんなこと、本当なら言うまでもないことだと思うけれど、ネット上ではレトリック的なものがうまく機能しないと聞いたので、あらかじめ釈明しておく。「原文に忠実」であるとかないとか「誤訳」があるとかないとかの判断は一筋縄ではいかないよという話をしている。訳文に改行が多いのは分かりやすくしようとしたのだろう、読みやすくしようとしたのだろうというのは脊髄反射の決め付けだ。ある翻訳が誤訳に見えてしまうのは単に自分の読解力が低いだけ、物の見方が狭いだけかもしれないということは肝に銘じておきたい。

ところで文中、「原文の言語と訳文の言語は同じ資格で言語であるといえるのか、といった泥沼みたいな問い」という言葉も見えるが、最近漸くこの泥沼から抜け出せそうな気がしている。

それと『城』は池内訳よりも前田敬作訳のほうがずっと好きだ。

 

 

消える翻訳

 

山城むつみの「改行の可・不可」(新潮2008年1月号)という文章を読んだ。近頃話題の古典新訳についてのエッセイであるが、読んでいて、ところどころひっかかる。そのたび頭にうかんだもろもろを、ここに記しておくことにする。

真のうちの真、美のうちの美は、最悪の条件のもとでの翻訳をとおしてにしろ必ず伝わる。(中野重治

実質のある作品なら、まずい翻訳でも、その実質のかなりの部分は失われずに残ります。(トマス・マン)

山城が冒頭、自身の翻訳観を披瀝するにあたって引用した二人の文人の言葉から、核となる文をそれぞれ抜き出した。中野やマンでなくともいいそうな、たぶんありふれているはずのこうした無根拠な言い草にわざわざ異を唱えようとは思わない。ただ、これに付けて山城が次のようにいうのを読むと、「おや?」と思う。

これは古くからある「貧弱な」翻訳で十分だということにはならない。むしろ、「まずい翻訳でも」「かなりの部分は失われずに」伝わるその「実質」をさらに一厘一毛でも多く伝えようとできるかぎり正確にうまく訳そうとする翻訳者の奮闘を期待することにつながる。

つながるだろうか。つながらないのではないか。

翻訳がまずくても「実質」の多くは伝わると山城はいう。これはつまり、翻訳の巧拙は、それによって伝えられる「実質」の多寡には関係しない、ということだ。では「実質」はどうすれば、さらに多く伝わるか。山城の答えは、こうだ。「できるかぎり正確にうまく」翻訳すること。驚くなかれ、やっぱり、うまい翻訳のほうが、「一厘一毛」かもしれないけれど、「実質」は「多く」伝わるというのだ。だとすれば、巧拙と実質は、無関係ではない。そういうことになる。

本来つながらないはずの二つのことがらを、いいとこどりで無理矢理つなげてしまったのだから、とうぜん矛盾する。この矛盾によって山城は、たしかに、翻訳のうまさ、という概念に、ひとつの行き場を与えている。逆にいえば、中野とマンの翻訳観では、翻訳のうまさ、質的価値というものが、ゼロにまで下落しているわけだ。翻訳であれば、その質は問わない。翻訳されてさえいれば、それでもうじゅうぶんだ。翻訳の質という観点を無効化し、存在の価値のみに留意するこうした翻訳観は、翻訳必要悪論の究極の姿であるといえる。一方、質的価値を救出する山城の考え方は、やさしいけれど、八方美人という気もする。こういう煮え切らない考え方も、多いが、それは書き手の翻訳観について、こちらになにも伝えてよこさない。

その山城が、中野重治の「姿勢を甚だ立派だと考えている」という。でも、引用された中野の文章から読みとれるそれは、山城の姿勢と、見たとおり、ちがっている。中野のいっていることは、無茶苦茶だ。マンみたいに「実質のある作品なら」なんて留保や限定をつけていない。そしてその無茶苦茶なりの鋭角は、山城の折衷的な言葉には見えない陰影を、足下に作り出している。「無限のやさしさと激情と冷徹と」(中野重治全集25巻)にある「新進の人びとの奮闘」は、山城のいうような仕方での「奮闘」、つまり「できる限り正確にうまく」という方向での「奮闘」を意味しているようには読めないということだ。

「真のうちの真、美のうちの美は、最悪の条件のもとでの翻訳をとおしてにしろ必ず伝わる」という主張に、もし「実質」があるとすれば、それは、翻訳者の「奮闘を期待する」という一文結びの言葉の「実質」を空疎化せざるを得ない。そして、この空疎な言葉に添えられた陰影、アイロニーを読まなければ、これほどつまらない言葉もない。中野は翻訳者たちに「まあ、せいぜいがんばってくれたまえ」といっている。そう読むべきだ。そしてこの読み方において、中野の言葉は首尾一貫している。ラディカルだ。けれど、これほど翻訳者の仕事を軽視した言葉はないのだ。

だからそれが「立派」だとはとうてい思えないし、それは、一昨年の秋に出たカフカの新訳『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)の解説で訳者丘沢静也のいう「ピリオド奏法」にしても同じだ。

「ピリオド奏法」とは、なんでも「オリジナルに忠実」ということらしい。それでどういうふうに「忠実」なのかと「訳者あとがき」を読めば、原文に「改行」があれば訳文でも「改行」する、原文で同じ表現が繰り返してあれば訳文でも同じように繰り返す、原文の表現を「カット」するようなことは慎む、なんていう、まあ、常識的なやり方だ。「翻訳」と「演奏」のアナロジーといい、ここで特別なにか珍しいことがいわれているわけではない。むしろ極端に素朴な翻訳観、というか、素朴な信頼感に支えられた翻訳観だといえる。丘沢は、この素朴すぎる観点から、大幅なカットや原文にない改行の見られる白水社版のカフカ翻訳をちくちくと(やんわりと?)皮肉って、あげく、こんなことをいう。

たかが改行。たかがカット。わかりやすく、親しみやすくなれば、いいじゃないか。カフカの親友やカフカのおじさんなら、そう考えるだろう。しかしピリオド奏法なら?

さて山城は、カフカの「犬になりたい」というこの丘沢の姿勢を「得がたい」ものと評価しつつ、次のような疑問を投げかけている。

「改行を翻訳に反映させることは簡単なのに、なぜオリジナルの段落を無視したのか」という問いは今日とても大事なものだと考えている。しかし、だからこそ「たぶん、日本の文芸物の改行の慣習にしたがって、読みやすくしようと思ったのだろう」と即答されると首を傾げる。

だれでも首を傾げる。丘沢は、「どういうことが『忠実に』なのか、というやっかいな問題もある」とはいっているけれど、この問題について、きちんと考えたようには思えない。原文に改行があれば訳文でも改行する。原文に繰り返しがあれば訳文でも繰り返す。こうした機械的な、自動的な、システマティックなやり方が、ほんとうに「忠実」なのかという「やっかいな問題」を、「改行を翻訳に反映させることは簡単」という丘沢は、たぶん一顧だにしていない。だから、オリジナルと異なる改行があれば、忠実さより読みやすさを優先したのだと短絡的に考えてしまうのだ。山城の疑問視は正当である。

では山城自身は、この問題をどう考えているだろう。こういっている。「カフカの手稿に改行が少なくフレーズの繰り返しが多いのは、声の痕跡を多分にとどめているからではないか」。けれど「手稿のレベルと活字印刷物のレベルとは異なる」。「活版印刷には活版印刷の論理があり、視覚的直観を重視するその論理が単語の分かち書きやパラグラフを生み出していったのならば、手稿がどうあれ、それを活字印刷しようとするかぎりその視覚的論理は無視できない」。そして「カフカは自分の本の出版に際して大きな活字にこだわった」。これは「改行のない段落が眼に与える過負荷に対する配慮だろう。出版に際してカフカ自身がこのように何らかの視覚的処置に訴えていたとすると、カフカの生前に出版されなかった遺稿をかりに彼自身が出版まで見届けたとしても、それが手稿どおりのものになったとはかぎらない」。すなわち「手稿どおりそのまま機械的に活字化することがカフカに忠実だということにはならない」。

改行の忠実性の問題を、手稿(声)と活字(文字)のシステムの違いから考えようとしている。あきらかに一定の説得力をもつこの考え方は、ただ、カフカの大半のテクストについては当てはまるとしても、はじめから印刷物を原典とする翻訳においてもまれではない、オリジナルと違った改行の理由を、「読みやすくしようと思ったのだろう」という以上に、うまく説明できない。山城のやり方では、「改行の可・不可」という「今日とても大事な」問題を、カフカの改行という特殊事例、声の痕跡を残す「手稿」の翻訳のあり方という限定された領域を超えて、広く扱うことができないのである。

だから「カフカ手稿の翻訳における改行問題」は、山城のように「手稿にない改行」の問題として、ではなく、「原文にない改行」の問題として、考えるべきなのだ。丘沢が白水社の翻訳を批判しているのも、手稿の翻訳において、ではなく、手稿をできるかぎり忠実に反映した印刷物の翻訳において、原文と訳文の間で改行に違いが生じているから、と見るべきだろう。つまり、手稿(声)対活字(文字)、ではなく、あくまで活字(文字)対活字(文字)の話なのである。そうでなければ、この問題の、素朴な意味での今日性が消えてしまうのではないか*1

とはいうものの、山城が書き付ける次のような言葉は、「大事な」問題を考えるためのじゅうぶんな糸口になっている。

むしろ、カフカの手稿は次のような跳躍を要求していないか。すなわち、ひとつ間違えれば、手稿にある「何か」を殺してしまうかもしれないというリスクを引き受けた上で、何らかの視覚的処置を施すことで活字印刷面にその「何か」をほころばせること。これは、裏切りと区別できないリスキーな賭けになる。

「跳躍」「リスキーな賭け」という言葉の大仰さは別にして、山城がここでいっていることは、ほぼそのまま「いわゆる翻訳」(ヤコブソン)に当てはめることができる。「手稿と印刷物の間にひらいている空隙」が、異なる二つの言語システムの間に開いているそれよりも大きいとは思えないからだ。そしてこの空隙の地点から、たとえば小説家ミラン・クンデラフランツ・カフカ『城』の仏訳者たちの不忠実をなじる言葉を見直すことは、有益な作業だ。

ミラン・クンデラといえば、こんにち翻訳(者)の(不)忠実というテーマで引き合いに出される固有名詞の筆頭であるが、そのクンデラが『城』の三つの仏語訳(ヴィアラット訳、ダヴィド訳、ロルトラリ訳)のある箇所を詳細に検討し、そこに一様なスタイルの不忠実が見られると憤慨しているのは、『裏切られた遺言』第IV部「一つの文章」のなかだ*2

クンデラによれば、仏訳者たちは「もっとも明白、単純、無色の言葉の代わりに別の言葉を使いたいという欲求」をもっている。この欲求は、たとえば「etre(いる)」と訳せばすむところ「s'enfoncer(入り込む)」、「aller(行く)」と訳せばすむところ「marcher(歩く)」、「passer(動かす)」と訳せばすむところ「fouailler(叩きつける)」という訳語を彼らに、ほとんど条件反射的に選択させている。しかし、こういうことは、やめてもらいたい。翻訳することを通じて、自身の創意、自身の「豊富な語彙」、「美しいフランス語」を書く腕前を、読者に誇示することは、やめてもらいたい。それは間違ったことだ。我々はもう高校生ではないのだから、学校で習うような規範的文体に従う必要はない。「翻訳者にとって、最高権威とは作者の個人的な文体」なのだ。さらにいえば、「芸術の独創性」は、いわゆる「美しい文体」への違反に宿る。ということはつまり、訳文における美文化は、二重の意味で原文を裏切っていることになる。翻訳者たちよ、どうか自分の仕事をして欲しい。

けれど、右のような翻訳者の傾向をクンデラが「類義語化反応」と呼んだとき、彼もまた、翻訳の不忠実を言い立てる論者のだれもがおちいる陥穽にそのままおちいったのだ。

カフカが『aller(行く)』と言うと、訳者たちは『marcher(歩く)』と言う」。このクンデラの言い分がほんとうに正しければ、訳者たちの不忠実は、「aller」と「marcher」の違いが明らかなのと同じだけ明らかだ。でも注意したい。『城』の仏訳者たちはけっして「aller」(フランス語だ)を「marcher」(フランス語だ)に言い換えた(これなら「類義語化」でもいい)わけではないのだ。正確には、「gehen」というドイツ語を「marcher」というフランス語に翻訳したのである。この違いはあいまいにしておいてはならない。なぜなら、このように正確に認識することで、「行く」と「歩く」に対するのと同じような、自動的な不忠実の判定ができなくなるからである。

クンデラは、こうもいっている。「いったいどうして、作者が『gehen』と言うときに『aller』と言ってはならないのであろうか?」。この反語からわかることは、クンデラの意識、ないし言語感覚において、ドイツ語の動詞「gehen」と、フランス語の動詞「aller」との間に、単語レベルのベーシックな対応が成立している、ということだ。だからこそ、「カフカが『aller』と言う」という現実に反することを、一種の比喩として、訳文批判の場で使うことができる。でも、はたして、「gehen」と「aller」との間に、このような対応、クンデラが反語的な問いを発する根拠となり得るような、基礎的、基底的な関係が成立しているというようなことがいえるだろうか。

いえないだろう。「gehen」というドイツ語の動詞は、ある種の文脈・環境に置かれると、「歩く」という意味成分を滲出させる。けれど、そういうことが、フランス語の「aller」にはない。だから仏独辞書にも、「gehen」の対応表現として、「aller」のほか、「marcher」、「aller à marcher」(歩いて行く)の記載がある。ようするに、仏訳者たちが「marcher」を選択したのは、「gehen」イコール「aller」であるところ「類義語化反応」によって「marcher」とした、ということではない。訳文における「marcher」の採用は、あくまでひとつの判断の結果である。彼らは条件反射的に「aller」の使用を避けたわけではないのだ。

もちろん、この仏訳者たちの判断が間違っている、逆に、クンデラのいうように、『城』第三章のこの箇所においては、「aller」を訳語として採用したほうがよかった、ということは、おおいにありえる*3。けれどそれは、「いったいどうして、作者が『gehen』と言うときに『aller』と言ってはならないのであろうか?」という反語的な問いを発することを正当化するものではない。

右の反語でクンデラは、「gehen」を素直に「aller」と訳せ、といっているわけだが、仏訳者たち、翻訳者たちが疑っているのは、まさにそのようにいうときの「素直さ」なのである。そして彼らの疑いの先にあるものは、このきわめて疑いやすい「素直さ」だけではない。「sein」を「être」に訳す、あるいは「haben」を「avoir」に訳す、といった場合に生じている素直さもまた疑わしい。クンデラは、「体系的な類義語化」を非難するけれど、翻訳者たちは、「sein」と「être」を、「haben」と「avoir」を、広くいえば、異なる言語に属する二つの単語を常に無反省に機械的に対応させるという、別様の「体系化」に異を唱えているのである。

さて、クンデラが挙げる不忠実は、「類義語化」だけではない。カフカの原文では、同一の語ないし同系統の語の反復が顕著である。ところが、「訳者たちは、一般的に繰り返しを制限する傾向がある」。クンデラは、この「傾向」を批判する。なぜなら、同じ表現の繰り返しには、「意味論的な意味」や「旋律的な重要性」があるからだ。訳者たちは、こうした原文の特性を「理解」しておらず、あるいは「理解」はしているが重視せず、「文体的な流麗さ」、「語彙の豊富さ」の展示に余念がない。だがこれは、カフカの意図や意志を、フランス語な美しさへの忠実によって、ねじまげることではないのか。クンデラはそう考えている。

検討してみよう。まずは「意味論的な意味」の方から。クンデラはいう。『城』原文の当該箇所においては「Fremde(異郷)」がニ回、それと同系統の「Fremdheit(異郷感)」が一回、出現している。この繰り返しは、これらが「鍵となる観念」であることを読み手に植え付ける効果がある。したがって、ヴィアラットみたいに、前ニ回の繰り返しを避け、かつ三回目を同系統ではない語「exil」(流刑)に置き換えたりすることは、テクストの持つ「論理性」を損ねるばかりか、原文になかった余計なニュアンスを付加することにもなる。たとえば、「ハイデガーの翻訳者が繰り返しをさけるために、『das Sein』という言葉に最初は『l'être』、つづいて『l'existence』、つぎに『la vie』、そのつぎに『la vie humaine』、そして最後に『l'être-là』の訳をあてたと想像してみよう」。これがどれだけ馬鹿げた行いであるか、すぐにわかるだろう。小説の翻訳も同じだ。「とりわけ内省的もしくは隠喩的な性格をもつくだりでは」、論理的テクスト並みの「厳密さ」が要求されるのだ。

「この文全体が一つの隠喩である。訳者にとって、隠喩の翻訳ほど正確さが要求されるものはない」ともクンデラは書いている。もっともな話だ。ただクンデラが勘違いをしていると思うのは、この「正確さ」「厳密さ」が、素朴にも、形式的忠実によって担保されると見ている点にある。

右の繰り返しが出てくるのは、Kとフリーダの性交の場面であるが、ここでカフカは、性交を「異郷」に迷い込むことにたとえている。それはたしかだ。けれど、考える必要があるのは、この隠喩のレベル、あるいは成立条件である。はたしてこの隠喩は、直接的に「異郷(感)」を意味する単語、つまり「die Fremde」や「die Fremdheit」が存在しなければ、そしてそれらが反復されなければ成立しないものだろうか。答えはあきらかに否であって、クンデラもいうとおり「この文全体が一つの隠喩」なのである。つまり「異郷(感)」が「鍵となる観念」だとしても、大事なのは「異郷(感)」という意味であって、「異郷(感)」を意味する言葉ではないのだ。仏訳者たちが、「異郷(感)」を意味する単語「étranger」「étrangeté」の繰り返しを制限したのは、隠喩の保存にあたって、その必要がない、それは意味がないと判断したからではないのか。これをクンデラみたいに、「高校の先生たちに従」っているだけだと考えるのは早計ではないか。

でも百歩譲って、原文で「Fremde」がキーワード的な機能ないし術語的取り扱いを必要とする性質を持っていると認めてみよう。クンデラは、この「Fremde」以外の語、たとえば「haben」や「gemeinsam」の繰り返しが訳文に反映されていないことも指摘しているけれど、これらの語の繰り返しの再現を「Fremde」と同じ理由によって要求することはできないはずだ。クンデラみたいに律儀に「avoir」、「commun」の反復で対応させなければ論理的な混乱が生じるとは考えられない。

仏訳者たちは、「étranger」の繰り返しを制限した。逆に「heures(時間)」を原文における「Stunden」の出現回数と同じく三度、「air(空気)」を「Luft / Heimatluft」にならって二度くり返した。「一般的に繰り返しを制限する傾向がある」とクンデラはいうが、これは、おおざっぱすぎる見方だ。彼らは、体系的に繰り返しを避けているわけではない。むしろ体系的なのは、クンデラのほうである。

あらゆる反復に「意味論的な意味」があると考えることはできない。したがって、あらゆる語について、その対応語と考えられる語を原文と同じ回数繰り返すことを正当化するものがあるとすれば、それは、反復の持つ形式的な意味に求めるしかない。

クンデラは、同じ表現の繰り返しは「旋律的な美しさ」を作り出すという*4。問題のカフカの文は、次のように始まる。

Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden ...

これを、クンデラは次のように仏訳する。

Là, s'en allaient des heures, des heures d'haleines communes, de battements de coeur communs, des heures ...

見事な逐語訳だ。ただ、こうした逐語訳が技術的に難しいかと問われれば、否と答えるしかない。基本的な文法を学び、独仏辞書を使えば、だれでも比較的容易にできる*5。仏訳者たちは、いったいどうして、こんなに簡単なことを避けたのか。クンデラの考え方に従えば、こうなるだろう。仏訳者たちが逐語訳を回避したのは、その結果として訳文に残る単語の反復が、原文の言葉を知らない読者によってただちに、翻訳者の「パフォーマンス、腕前、能力」の低さに結び付けられてしまうからだ。

クンデラの言葉から、二つのことが再確認される。ひとつ、カフカ的な繰り返しは、フランス語的な美の基準に抵触するということ。そしてもうひとつ、翻訳された文章が美の基準に抵触している場合、その責任はただちに、原作者にではなく、翻訳者に帰せられるということだ。

もちろん翻訳者は、たとえば「訳者あとがき」や「訳注」その他の手段で、「これは原文どおりなのだ」と釈明することができる。けれど、こうした釈明は、むしろ右のような疑念が生じる条件の存在を証拠立てている。翻訳は、疑わしい。疑わしい存在であることを条件付けられている。ここにある問題は、翻訳の存在論(なぜ翻訳というものがこの世に存在するのか?)にかかわる構造的な問題(情報の非対称性)であって、この問題を解決することなく、ひたすら翻訳者に「違反」を強要するのは、ちょっと酷な話ではないか。翻訳者は、こうした酷薄な批判者に頼ることができない。だから自分で解決するしかない。

クンデラは、カフカの反復が「美しい」と感じた。そこに違反の美を感じた。おそらく仏訳者たちも、たとえば右引用箇所の重層的な繰り返しについては、クンデラが感じた程度の「美しさ」は感じているはずだ(これは「違反が微妙で、ほとんど目立たず、隠され、控え目」なケースではない)。けれどフランスの読者は、たぶん、この反復が「美しい」とは感じないのではないか。なぜならそれは読者の手に、「翻訳」として差し出されるからだ。「翻訳」であることが、オリジナルであれば少なくとも「違反」として承認され、あわよくばそこに「違反の美」さえ認めてもらえる、その機会をあらかじめ奪っているからだ。この構造的な制約に意識的な仏訳者たちは、たぶんこう考えた。「自分がいま読んでいる小説は翻訳である」という読み手の意識のバイアスを貫いて、原文にある「旋律的な美しさ」を保存するには、この「美しさ」に「忠実」であるには、原文の「美しさ」を生み出す言葉の形に逆らう必要があるのではないか。「gemeinsam」という形容詞の反復を一因とするこの美は、フランス語への翻訳においては、「commun」という形容詞の反復を避けることによって、ようやくピントを合わせることができるのではないか。

いや、しかし、まて。クンデラのいうように、「繰り返しの技量というべきものがある」。もし翻訳の違反が、美しい違反ではなく、ただの違反にとどまるならば、それはやはりたんに、翻訳者の技量が足りないせいではないのか。一級の翻訳者は、基本語をくり返してなお美しい、のではないのか。

そうかもしれない。そしてもしそうであるのなら、こういうことも考えられる。カフカの原文で、基本語の繰り返しという美しさへの違反が、むしろある種の美しさを生んでいるとして、それをひとえに反復というレトリックによるものと考えるのもまた、間違いではないのかと。分析は困難だ。ただ、カフカの原文の、「繰り返し」という際立った要素だけを部分的に取り出して、それだけを忠実に再現することによって、はたして原文にあった「美しさ」、クンデラが「繰り返し」に起因すると考えた「美しさ」が忠実に再現されるのか、と疑問視することには正当性がある。少なくとも、ただ繰り返せばいいというわけではない、という考え方に正当性があるのと同じ程度には正当性がある。

もうひとつ、指摘したい。それは、そこに「繰り返し」がある、ない、という読み手の認知の問題である。どういうことか。わかりやすい例をあげる。「Je m'appelle XXX. Je suis étudiante. J'ai 20 ans...」というフランス語の自己紹介の文章が仮に、「私はXXXといいます。私は学生です。私は二〇歳で……」と訳された場合、この日本語表現において、三つの「私は」は、一般的に「うるさい」ものとして感じられる。けれど、フランス語の原文においては、三つの「je」のつらなりが、もちろん洗練されているとはいえないけれど、それほど「うるさい」ものとして感じられない。なぜか。それは、フランス語の「je」の出現が、日本語の「私は」と異なり、義務的であるからだ。義務的な要素の反復は、随意的な要素の反復と同じだけの強度、濃度を、発話において持つことはできない。存在感が薄い、ということだ。

もうひとつ、わかりやすい例をあげる。「銀行員としてあるまじき行為」という日本語を聞いたり、読んだりしたときのことを考えてみよう。この表現では、「銀行員」と「行為」で「行」が重なっている。でも、そのことを感受するには、それなりの意識的な努力が必要だ。この「繰り返し」に、たとえば「旋律美」を感受するのは自由だが、その精神は、あきらかに過剰である。『城』の一節でクンデラが「vergehen」の「gehen」に注目し、その六十語ほど後に「gehen」が出現するからといって、そこに「繰り返し」があると主張するのも、似たようなものだ。この「繰り返し」は、過剰な精神の産物だろう。「繰り返し」がただしく「繰り返し」であるのには、それなりの条件がいるのである。

見てきたように、意味論、修辞論、存在論、いずれの観点からも、言語を超えて「繰り返し」を機械的に再現するということが、二つの言語間での等価を自動的に保証するということが、錯覚であるということが、帰結する。

繰り返しについては、丘沢静也も「訳者あとがき」で触れている。『変身』翻訳の、ある箇所で「もう」をニ回繰り返したところ、初校ゲラにチェックが入った。そう打ち明けてから、こういっている。「しかしカフカのドイツ語は、『もう』をしっかりくり返している」。だから自分は忠実なのだ、といいたいらしい。「しかしカフカのドイツ語は」あくまで「ドイツ語」である。『変身』の原文をいくら仔細に眺めても、そこに「もう」なんていう日本語を見つけることはできない。揚げ足をとっているのではない。ドイツ語の環境で、カフカの文章で反復される「schon」と、日本語の環境で、丘沢静也の文章で反復される「もう」は、果たして同じといえるのか。「くり返しはレトリックの基本でもある」というが、それはそうだとして、その「くり返し」の意味、機能、効果が、ドイツ語と日本語で同じであると、ただちにいえるのか。こうしたことをまったく考えずに、原文で同じ表現が反復されていれば、訳文でも同じ表現を機械的に反復する。簡単なことだ。「簡単なのに」なぜそうしないのか。それは、翻訳者たちが、この簡単さに宿る不忠実の予感に敏感だから、耐え切れないからである。

さて、ようやく、「改行の可・不可」について考える段になった。クンデラは、『城』の「カフカの原稿では、第三章はたった二つの長いパラグラフにしか分けられていない」のに、「ヴィアラット訳には九十ある。ロルトラリ訳には九十五ある」といい立てる。なぜこんなことをするのか、自分にはその理由がわからない、というのだ。けれど、もちろん、クンデラには理由がわかっている。「豊富に分節化された頁はかなり易しく読める」。「逆に、無限のパラグラフのなかを流れるテクストは、きわめて読みにくい」

それなら、改行を控えたカフカは、「易しく読める」ことに抵抗しようとしたのか、自身のテクストを「読みにくい」ものにしようとしたのか。そうではないだろう。なぜなら、「カフカは自分の本がきわめて大きな活字で印刷されることにこだわっていた」。これは、たんなる「気まぐれ」ではないと、クンデラはいう。改行の少ない「テクストが楽しく(つまり眼が疲れずに)読まれるためには、読書を楽にし、どこででも立ち止まって、文章の美しさを味わうことができるような比較的大きな文字を必要とするのだ」。これは、「論理的で、真剣」な願望である。

だとすれば、たんに改行の数をカフカの手稿に合わせただけでは、カフカの意図に忠実ということにならないだろう。それは、改行なしの読みにくさを大きな文字の読みやすさで中和するという、この相補的なシステムの一方への忠実にすぎないからだ。

では、もし何らかの事情によって、活字の大きさをカフカの意図に合わせることができない場合、どうするか。仏訳者たちの行った原文にない改行は、この次元からも考えてみなければならないのではないか。つまり彼らは、たんなる「読みやすさ」を狙ったのではない。カフカの望んだ「読みやすさ」を狙ったのだ。そして、この「読みやすさ」は、たとえばブロートみたいに五つの段落に分けただけで得られるものではない。クンデラはいう。「私は『城』のドイツ語の文庫本を眺めてみる。『無限のパラグラフ』が小さな一頁に三十九行、情けないくらいぎゅうぎゅう詰めにされている。これでは読めない」*6。この「読みやすさ」は、原文をはるかに上回る改行でやっと実現されるのだ。

こんなふうに見てくると、「手稿でたった二段落のところを、ヴィアラット訳が九〇段落に、ロルトラリ訳が九五段落に、そして白水社版が一六二段落に改行したとき、それらの改行が裏切りという賭けによってテクストと切り結んだものであったとは思えない」と山城が簡単にいうことにも、それこそ「首を傾げ」たくなる。この不忠実は、カフカに忠実であるための「裏切り」であると考えることもできるからだ。

けれど、こんなふうに大きな活字と長い段落の相補性について考えることは、手稿から活字への飛躍について考えるのと同様、「改行の可・不可」という「大事な問題」を、「カフカの改行」という特殊性のうちに閉じ込めてしまうことになる。原作者の意図を持ち出して、未完成のテクストの完成形に思いをめぐらせるのではなく、未完成の原文を、あくまでそのまま未完成のものとして訳文の形に定着させる上での「改行」の働き、つまり改行の意味、機能、役割の、言語を超えた保存、これについて検討しなければならない。

白水社版の『城』は、丘沢のいうとおり「原文で引用符つきの会話が登場するたびに改行されている」が、翻訳者である池内紀は、ある場所で、その理由を次のように説明している。

オリジナル・カフカを開くとすぐにわかるが、セリフにあたるものが地の文のなかにまじっていて、改行がきわめて少ない。数頁、ときには十数頁が改行なしにつづいていく。

 (中略)

 日本語にするにあたり、改行なしの十数頁は、読者の忍耐力をこえている。のみならず日本語の生理にも反することではあるまいか。

 (「カフカ以前とカフカ」国文学2008年5月)

二つの理由がいわれている。そのうち「読者の忍耐力」云々は、ようするに、改行しないと物理的に読みにくくなるということだ。視覚的な問題である。山城の言葉を借りれば、「眼に与える過負荷」。これはたぶん、万国共通だろう。つまりドイツ語での「過負荷」は、そのまま日本語での「過負荷」であるはずだ。気になるのは、こちらではなく、もうひとつの理由、「日本語の生理」のほうである。「改行なしの十数頁」が「日本語の生理にも反する」とは、どういうことか。池内は、詳しい説明はしていない。ヒントは、別の場所に求めるしかない。たとえば村上春樹柴田元幸の対談を収めた文春新書『翻訳夜話』(2000年)の中に。

村上 やっぱり一般的に言いまして、外国の小説のほうが本も分厚いし、中の情報量も多いんですよね。改行も日本の一般的な本に比べて、たしかに少ないと思います。だからそれをそのまま日本語に訳すとどうしても字が細かくて、ページ全体が黒々とした感じになっちゃいますね。それはわかります。特にアメリカ人は大きくて分厚くて、みっちりと活字の詰まった本のほうが好きみたいです。(中略)

柴田 一般論として、段落というものの感覚が明らかに違うんですよ。

村上 違いますね。

柴田 これもあまり一般的に言わないほうがいいかもしれないんだけど、日本人があることを論じるときに、小説よりも論説文で感じるんだけど、起承転結があったら四段落使います。それが英語だと、起承転結がワンパラグラフなんですね。だから、日本人だったらここで改行するのになというところで、しないことが多いですね。

「段落というものの感覚が明らかに違う」。そしてこの感覚的相違は、同じことをいうのであっても、日本語のほうが英語よりも段落数が多くなるという形で、文章に反映する。つまり、基本条件として、日本語の文章は段落が多い。もちろん、これは英語と日本語の間の比較の話だ。けれど、ドイツ語と日本語の間にも、こうした感覚の違いがあってもおかしくはない。池内は、この「段落というものの感覚」の違いをとらえて、「日本語の生理」といっているのではないか。

日本語の文章が、そもそもドイツ語の文章よりも段落が多いとすれば、その帰結として、こういうことがいえる。ドイツ語の感覚からいっても過剰なカフカの改行の少なさは、日本語の感覚で、より一層過剰に感じられる。必要以上に過剰になる。つまり、原文の改行に忠実であることは、その効果の点からいえば、原文に忠実であることにはならない。

さらには、こういうこともいえるかもしれない。翻訳を仮に、原文と訳文のあいだに等価性を打ち立てることと見れば、「日本の文芸物の改行の慣習にしたがって」こそ、まさに翻訳なのではないか、ということだ。敷衍すれば、「日本語に翻訳する」ということのうちには、日本語の「改行の慣習」にあわせるということが意味として含まれるのではないか、ということだ。改行の数が違うと非難することは、たとえば映画化された小説に対して、映画には映像があるから小説に忠実ではないと非難するようなものではないか。

ところで丘沢は「訳者あとがき」で、白水社版の翻訳には、原文をカットした箇所があると指摘していた。そこで次に、この「カット」の問題について見ておくことにする。引用するのは、丘沢訳の「判決」で、主人公ゲオルグが父親をベッドに運び、毛布をかけてやるシーンでの、強烈な印象を残すやりとりである。

「ちゃんとくるまれてるか」と父親がもう一度たずねた。返ってくる答えを待ちかまえているようだ。

「大丈夫、ちゃんとくるまれてるよ」

「ちがうだろうが!」と父親が叫んだ。答えが質問に衝突したのだ。父親は毛布をガバッとはねのけた。

(強調引用者)

丘沢は、上で強調した「答えが質問に衝突したのだ。」が、「カフカっぽいフレーズなのに」、白水社版の翻訳でカットされていることが「気になる」という。そして「カフカより高いポジションに立って翻訳したような大胆さ」と、この文章の基調的態度としてアイロニカルに驚いてみせる。では次に、白水社版「判決」を確認してみよう。こうなっている。

「ちゃんとくるまれているのかな」

父がくり返して言った。返答に耳をすましているふうだった。

「心配ご無用、ちゃんとくるまれていますとも」

「そうはさせん!」

父が叫んだ。毛布を力一杯はねのけた。

原文と照合すると、たしかに白水社版の翻訳では、「die Antwort an die Frage stieß」あたりに相当する日本語表現が「ない」ように見える。そして、その点からいえば、丘沢の主張に正当性があるように思える。でも、どうか。「ない」といえば、そもそも、新訳であれ旧訳であれ、どの翻訳の日本語の中にも、原文にあったドイツ語は――再三の指摘になるけれど――「ない」のだ。ひとかけらもない。あらゆる翻訳は、オリジナルには影も形も見えない言葉から構築されているのであって、もし原文に「ある」ものが訳文に「ある」と見えるとしたら、それはたんなる錯覚にすぎない。その錯覚にすぎないことが忘れられるとき、硬直的で教条的な翻訳の仕方、クンデラの言葉を借りれば、「高校の先生たちに従う」翻訳の仕方だけが、ないものをあらしめる唯一の仕方であるとする誤解が生じる。でもそれはほんとうは、ないものをあらしめる仕方ではない。ないものをあらしめたかに見せる錯覚の、それも唯一のものではない仕方にすぎないのだ。白水社版の翻訳をもう一度、前後の部分を含める形で引用してみる。何が見えてくるか。

「どうです、思い出しましたか?」

ゲオルクは励ますようにうなずきかけた。

「ちゃんとくるまれているのかな」

父がたずねた。足の方が自分でもわからないらしかった。

「やはりベッドがいいでしょう」

ゲオルクは毛布をとってくるみ直した。

「ちゃんとくるまれているのかな」

父がくり返して言った。返答に耳をすましているふうだった。

「心配ご無用、ちゃんとくるまれていますとも」

「そうはさせん!」

父が叫んだ。毛布を力一杯はねのけた。その勢いで毛布がパッとひらいて宙に浮いた。父はベッドの上に仁王立ちした。片手をのばして天井に添えている。

台詞、地の文、台詞、地の文、台詞、地の文、台詞、台詞。地の文をはさまないことで、二つの台詞の間の時間的な短さが際立っている。さらには、それに続いて、動作を表象する短文がリズミカルに続くことで、父親の態度の急転が、いっそう鮮明になる。「答えが質問に衝突した」ことの意味合いは、訳文のこのリズムで、じゅうぶんに表現されているとはいえないか。そして、このリズムを作り出す上で、改行がよく機能していることは、明らかではないか。訳文の戦略をトータルに見れば、ここでたとえば「叫んだ」と「毛布をはねのけた」という二つの動作の間に「答えが質問に衝突したのだ。」というような説明的な文句を挿入することは、引用部の全体に薄く、けれど十全に染み渡っているこのフレーズの不可視の存在を、うるさく重ねることにしかならないだろう。

これは丘沢のいうように、「カフカより高いポジションに立って翻訳」することなのだろうか。このいい方の周囲には、二重の錯誤が組織されている、といっておく。池内はカフカの原文を編集しているわけではない、というのがまずひとつ。つぎに「高いポジション」ということについていえばそれは、翻訳という行為がもともと原文に対して避けがたく持つ高次性、メタ性の反映であるだろう。逆にいえば、この意味での高さのない翻訳、ある一定の翻訳の仕方に機械的に忠実であることをもって原文に忠実であると自負する翻訳は、その、それこそ機械にもできるやり方に刻印された不忠実のマークに無自覚だ。「犬のように忠実」な態度は、翻訳者の態度ではない。

こうした機械的忠実性への疑念は、「感覚」的な違和に伴うものであるけれど、推し進めると、原文の章立てを訳文でそのまま採用することはほんとうに忠実なのか、原作が一冊の本であることと訳文が一冊の本であることは言語を超えて同じであるといえるのか、いや、そもそも、原文の言語と訳文の言語は同じ資格で言語であるといえるのか、といった泥沼みたいな問いの前に翻訳者を立たせる。二つの言語が「ある」ということへの疑念に行き着いた翻訳者は、もちろん狼狽し、きびすを返す。「感覚」を遮断する。山城が「改行の可・不可」で引用する柴田元幸の言葉は、この行き着いた地点から眺めなければならないだろう。

僕自身は翻訳者として、段落をいじるということは絶対にやらないんですね。別に原典は神聖だ、とかいうふうに思っているわけではなくて、それをいじりだすとあらゆる自由が可能になってしまって、そしてドストエフスキーじゃないけれど人間は自由が怖いので(笑)、だからその自由は放棄するんですね。それでとにかく原文どおりにする。だからこの亀山訳は妙に読みやすいなと思って、英訳とあわせて見たら、「そうか改行が違うんだ」と思ったんです。

沼野充義との対談「管捲く言葉の渦から」『ユリイカ』2007年11月号)

柴田は、原文にない改行が「不可」だといっているわけではない。逆に、引用元の対談で、改行の忠実・不忠実について「どっちがいいのか、ということになるとちょっと微妙な問題」と前置きしつつも、「新訳のスピード感は結構原作の趣旨に沿っているというような気はしますね」といっている。だから、カラマーゾフ新訳における改行の多用と、そこから来る「読みやすさ」を疑問視する山城の考えとずれている。「段落をいじるということは絶対にやらない」柴田は、「段落をいじる」ことを否定しているのではなく、「段落をいじる」ことの先にあるものへの不安、自由の泥沼をいっているだけだ。

柴田のこの姿勢は、どうやら一貫しているようだ。『翻訳夜話』の、先に引いた箇所のすぐ後で、同じことをいっている。

村上 柴田さんは、長すぎるパラグラフなんかがあると、翻訳するときに適当に改行したりしますか?

柴田 僕は全般には臨機応変にというけれども、小説の中で何は変えないかというと、たとえば段落ですね。段落の改行は一切変えないですね。

 (中略)

柴田 僕の場合はやっぱり、そこをいじりだすともう止めどがなくなって、際限がなくなってくるので、パラグラフはいちおう、神聖なものということにしようということでやっているんですね。(……)

「パラグラフはいちおう、神聖なもの」としておくという柴田は、改行に忠実であることがもたらす不忠実の予感について、十分に意識的である。にもかかわらず、自由を放棄する柴田は、それと一緒にじつは、翻訳者の責任の一端をも放棄していることになる。そしてもちろん柴田は、そのことにも自覚的なのだ。別の箇所で、こういっている。「僕がタイトルをだいたいいつも直訳でやっちゃうのは、ほとんどそこには責任をもたない、というぐらいのスタンスなんですね。たとえば、小説を訳すときパラグラフは絶対に変えないというのと同じように」。ようするに柴田は、賢明である。そして、この賢明さは彼に、山城のいうような「テクストの『実質』との、宿命と言っていい強度での渉り合い」をあらかじめ回避した場所で、翻訳の量産を許すだろう。

カラマーゾフの兄弟』のまえがきを読むと、「何か或るわかりにくいものが心に植えつけられる」と、山城はいう。「この『わかりにくいもの』の肌合いに僕はドストエフスキーという人間を感じる」。ここにドストエフスキー作品の「実質」がある。山城はそう見ているのだ。ところが、光文社版の新訳のまえがきでは、この実質たる「わかりにくいもの」の「手ごたえが妙に弱い」。そこで、「以前に読んだ翻訳やら原文やらを引っ張り出して来て、照らし合わせて気づいた」のが、改行の違いである。新訳における改行の多用と、それがもたらす「読みやすさ」。これが、ドストエフスキーの「わかりにくいもの」を毀損しているのではないか。

この山城の考え方には、いろいろ疑問がわく。たとえば「努めてわかりやすく書こうとした結果として達せられたそのわかりやすさそのものが蔵する『わかりにくいもの』がある」というけれど、ドストエフスキーは、ほんとうに「努めてわかりやすく書こうとした」のか。証拠はどこにも示されていない。ドストエフスキーはむしろ、読み手を煙に巻き、あるいは、その関心を駆り立てるため、あえてこのように「わかりにくい」ものとして、まえがきを書いた、そういうふうにも見える。この中で「著者」は、おそらくは続編を意味する「第二の小説」について触れている。「重要なのは第二の小説」であるというのだ。けれどこの「重要な」「第二の小説」を読むには、読者がいま手にとっているこの「第一の小説」を読み終えなければならない。なぜなら、そうしなければ、「第二の小説の大半がわからなくなってしまうからだ」。勘ぐれば、こういう問いもわく。ドストエフスキーは、「第二の小説」なんて、はじめから書くつもりはなかったのではないか。

いや、ドストエフスキーが、わかりやすく書こうとしたのか、わかりにくく書こうとしたのか、そんなことは、わからない。どちらでもいい。ただ、このまえがきは、読んで、とてもわかりにくい。それだけは、たしかなことなのだ。

だから一番疑問に思うのは、『カラマーゾフの兄弟』の「実質」たる「わかりにくいもの」が、たかが改行の数を増やした程度のことで、山城に、そうまで気になるほど減ってしまったように感じられたということだ。ここで「たかが改行」というのにはわけがある。山城の所論で、この改行の効果がもっぱら「視覚的」なものと見られているから、こういうのである。ようするに、改行は「読みやすさ」に寄与するということだが、この「読みやすさ」というものは、「わかりやすさ」というものと同じではないだろう。

「読みにくさ」は、改行を増やし、活字を大きくし、行間を広げれば技術的に解消できる。けれど、「わかりにくさ」は、それが本質的なものであれば、こうした視覚的な操作、改行や活字や行間の操作では、どうにもならない。だから、「読みやすさ」のために改行することは、「わかりにくいもの」をわかりにくくすることにはならない。なぜなら、「読みやすさ」と「わかりやすさ」は、別個の概念であるからだ。そして事実、亀山新訳の「著者より」は、改行の多用にもかかわらず、すこしもわかりやすくはないのだ。

なぜだろうか。なぜ新訳の「著者より」は、読みやすいのに、わかりやすくないのか。米川正男や原卓也の訳した『カラマーゾフの兄弟』にある「わかりくいもの」が、そのまま保存されているのか。こういうことだろう。新訳で改行が増えている、とはいっても、その増やし方が、じつに真っ当な増やし方であって――ほとんど旧訳の改行を踏襲しているといっていいくらいのものであって――つまり新訳においては、旧訳のひとつの段落をさらに細かく分けるとすればここで分けるしかない、という最も妥当性の高い分け方が、そのまま採用されている。読みやすさ/読みにくさの次元を心理的と形容し、わかりやすさ/わかりにくさの次元を精神的と形容すれば、亀山新訳の改行は、心理的な次元を越えて精神的な次元に達するような深刻な亀裂を旧訳の文面に刻んでいない、ということだ。

この延長線上にむくむくと立ち現れる三つ目の疑問は、こういう形をとる。もし改行の多用とそれによる「読みやすさ」によって、山城にとって「わかりにくいもの」の「手ごたえが妙に弱い」ものに感じられたのだとしたら、山城が「実質」と考えるこの「わかりにくいもの」は、じつはちっとも「わかりにくいもの」ではなくて、たんに「読みにくいもの」にすぎなかったのではないか。

もちろん文芸作品のなにを「実質」と考えようと自由だ。けれど、「たかが改行」が増えたくらいで減ってしまうような「実質」は、「最悪の条件のもとでの翻訳をとおしてにしろ必ず伝わる」、あるいは「まずい翻訳でも」「かなりの部分は失われずに残」る「実質」、中野重治やトマス・マンのいう「実質」にくらべると、やけに果敢ない。こんな果敢ない「実質」は、横のものを縦にしたときに、問答無用で欠けてしまうはずのものではないか。山城はむしろ翻訳不可能論を唱えているように見える。

翻訳を読んで「酩酊」し、それをもって原作の「真のうちの真、美のうちの美」が伝わったと感じるのは別にかまわない。けれど、この伝わったと感じられたものが「実質」であるとして、昨今の翻訳論では、その少なからずの部分が、原文にではなく、訳文それ自体に発していることがいわれるようになった。「翻訳の創造性」。もはや紋切り型に堕した感のあるこの主張は、たぶん間違ってはいない。翻訳においても、創造性の働く余地は、無論あるだろう。逆に創作を無からの純粋な創造と見る見方の偏頗であることも明らかだ。じゃあ、創作と翻訳は、同じか。同じもの、同じことだといえるのか。いえないだろう。創造性という視点は、この差異を、翻訳の経験の特異性を消してしまう。そもそも創造性を持ち出すことは、翻訳を創作に向けて解消するということであって、その発想の根本に、ひとつの偏見が巣食っている。だから「翻訳の創造性」は、「翻訳の一次性」に寄与しない。どうやら翻訳は、理論と実践、双方の場において、姿を消すことが望まれているようだ。

 

付記ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』からの引用は基本的に西永良成訳によるが、語句を一部変えた。

 

(2009/2/2)

 

*1:たとえばスタンダール赤と黒』(野崎歓訳)に対する書評「『赤と黒』新訳について」(スタンダール研究会会報18号)で、書評者下川茂が、新訳における「改行の無視、原文にない改行」を「多種多様な」誤訳の一例として挙げている。また、後述するが、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の新訳(亀井郁夫訳)についても、その「改行の多用」の是非が問われている。

*2:山城と丘沢も、書名こそあげていないものの、クンデラのこの文章を参照している。

*3:クンデラは、「『aller』が『marcher』になれば、喩の表現性が増し、隠喩がいくらかグロテスクになる」という。これは正しい。そして、「疑いもなくグロテスクは、ここでカフカが願っていたことではない」というのもたぶん正しい。けれど、「隠喩」は「いくらか(légèrement)グロテスクになる」のであって、たんに「グロテスク」になるのではない。ヴィアラットとダヴィドは、自分の訳文の環境において「aller」では「いくらか」物足りないと感じたのではないか。ちなみにロルトラリは「aller」も「marcher」も使わない、別の方策をとっている。参考までに日本語訳を見てみると、前田敬作訳(新潮文庫)では「歩く」、池内紀訳(白水社Uブックス)では「行く」が使われている。

*4:クンデラは、カフカに自分を重ね合わせている。『冗談』1985年版仏語訳の「著者による附記」は、この作品の以前の仏語訳のことを「翻訳」ではなく「書き換え」であったと非難するものだが、その中で「正確であろうとする思考が類義語をもてあそぶことはない。そのうえ、くり返しによって、私のテクストにはリズム、メロディーがもたらされているが、翻訳ではそれが完全に消えてしまっている」といっている(赤塚若樹『ミラン・クンデラと小説』p.164より引用)。

*5:工夫があるとすれば、「vergehen」を「s'en aller」にしたところか。普通なら「passer」([時間が]過ぎる)だろう(仏訳者たちもそうしているし、クンデラ自身も「一つの文章」で「vergehen(passer)」と表記している)。クンデラがそれをあえて「s'en aller」で訳したのは、もちろん「vergehen/gehen」の繰り返しを訳文において「s'en aller/aller」の繰り返しによって再現するためだ。けれど、「des heures s'en allaient」という表現には、「Stunden vergingen」には感じられない、ある種の肉感性がないだろうか。クンデラ自身も、この繰り返しを翻訳で「とどめておくのが難しい」と認めているが、やはりここに、微妙にではあるけれど、形式的配慮のしわ寄せがおよんでいる気がする。つまり、クンデラは、「aller」ではなく「marcher」を選んだカフカ仏語訳が「表現主義的」であることを批判しているが、「des heures s'en allaient」は、「des heures passèrent」よりも、「いくらか」「表現主義的」なのである。

*6:山城は、『城』の文庫本が「手稿の長いパラグラフに改行を加えず忠実に活字化」していると書いているが、クンデラの読んだ「文庫本」は、「一つの文章」で言及されている一頁の行数と付録の内容から判断して、批判版ではなく、ブロート版を収録したものだと考えられる。