「彼女は悲しい」は「she makes me sad」か?

これは後追いで知ったのだが、数日前、「Language learning influencer」を名乗るある人物のツイートが日本語学習者界隈をざわつかせた。SNS上では、その人の発言を肴に熱い議論が交わされており、なかにはずいぶん感情的なやりとりも見える。議論は匿名掲示板(4chanReddit)の方にも飛び火していて、とても全部を追うことはできない。英語が苦手なので、発言のニュアンス等、よくわからない部分もあるけれど、なかなか面白かった。

発端となったのは、gambsさんという方の次のツイートだと思われる。

日本語は自己中心的な言語である。たとえば主語を言わなければ、自分自身のことを言っていることになる。また、日本語では他人の心の中のことを言うことができない。たとえば「彼女は悲しい」と言うことはできない。いや、言ってもいいのだけれど、その場合、「she is sad」と言っていることにはならない。「she makes me sad」と言っていることになる。「彼女は悲しい」は基本レベルの言い回しだけど、ちゃんと理解していない学習者、まだ結構いるのではないか。

若干補足したところもあるが、大筋としてはこんな主張である。主に議論になっているのは太字にした部分で、この主張に対し、仕事で日本語に関わっている人たち、「日本語はネイティブ並み」を自称する人たち、英語に堪能な日本語ネイティブなんかが猛然と噛みつく。「私の妻は日本人だが、彼女はそんな事実はないと言っている」、「私は日本生まれの者ですが、『彼女は悲しい』は普通に『she is sad』ですよ。『she makes me sad』ではないです」、「あなたは本当に日本語ができるのですか?」、「頭だいじょうぶですか?」等々。

反論を受けたgambs氏は、自分の主張の裏付けとして学術論文その他いくつかの文章を挙げるが、「いや論文なんて知りませんけど?」という感じで相手にされない。

じつはgambs氏が主張の裏付けとして挙げるものの中に、私の書いたブログ記事へのリンクも含まれている。それもあって、ちょっと書いておこうと思った。

まず、「日本語では他人の心の中のことを言うことができない」という主張について。この主張に対し、言葉尻を捉えて反論することはできる。つまり、日本語では他人の心の中のことを絶対に言うことができないわけではない。一定の条件下では、それができる。たとえば文末にある種の表現(形容詞なら「のだ」、「らしい」、「ちがいない」等、判断や推量のモダリティを表すもの、動詞なら「ている」)を付け加えることによって、他人の心の中について述べることができる。助動詞「た」を添えることによっても、だいぶ自然な感じで言えるようになる(ただし金水敏氏がかつて指摘したとおり、文脈次第では不自然さが残る場合がある)。あるいは三人称小説の地の文でも人の内面のことを断定的な言い方で語ることができる。しかし、こういった点については、gambs氏もきちんと説明している。

(じつは他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもあるのだが、長くなるのでここでは触れない。)

日本語では「she is sad」と同じ意味を持つものとして「彼女は悲しい」という文は使えない、という見解についても、おそらく日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである(と信じたい)。「彼女は悲しい」という文に対して、たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う。何の変哲もない言い方にも聞こえるけれど、どこか不自然な文だなあと。

しかし、不自然というのであれば、「(私は)悲しい」という言い方も相当に不自然である。日常生活において、こんなことを言う人はまずいない。芝居がかっている。だから、単に「不自然」というのとは別種の違和感が「彼女は悲しい」という言い方にはあると考えなければならないだろう。

「彼女は悲しい」という文がもたらすこの違和感は、「私は悲しい」と同じ意味構造、同じ意味合いでこの文を理解しようとしたときに生じるものである。「私は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰だろう? 「私」である。問題ない。では、「彼女は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰か? 「彼女」? でも、もしそう言いたいのなら、普通は「彼女は悲しそうだ」とか、「彼女は悲しいにちがいない」とか、「彼女は悲しいのだ」とか、そういう言い方になる。その方が自然だ。でも、なんで「彼女は悲しい」は不自然に響くのだろう?

この問いを、日本語学者や、日本語に詳しい言語学者や、文法学者にぶつけてみよう。帰ってくる答えはたぶんこうだ。それは「人称制限」というものがあるせいです――

日本語の感情形容詞文の感情主(感情の持ち主)に人称制限があることはよく知られている。すなわち、感情主は述語が断定形を取る平叙文では1人称、疑問文では2人称に限られるのである。

(1) 僕はとても悲しい。

(2) あなたは今悲しいですか。

(3) *花子はとても悲しい。

3人称を感情主とする断定文(3)は不適格な文である。

(益岡隆志『日本語文法の諸相』、2000年)

日本語では、感情や思考のような人の内的状態を表す文において、その主語の人称に制限がある。例えば、以下の(1)(2)は感情形容詞文であるが、三人称主語で言い切りの形を取っているので、不自然な文とされる。

(1) *彼はうれしい

(2) *花子は悲しい

このような現象は、感情形容詞の人称制限と呼ばれ、広く知られている。

(甘露統子「人称制限と視点」、2004年)

つまり、「彼女は悲しい」という文の不自然さは、日本語の感情形容詞文の人称制限というルールに違反していることに起因する不自然さであると、ひとまずは考えてよいと思われる。

しかし!

注意すべきことがある。上で「日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである」、「たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う」と書いたが、これはつまり、感情形容詞文に人称制限のあることを意識しない日本人もどうやら存在するらしいからである。

a. 私ハ犬ガコワイ

b. ?アノ子ハ犬ガコワイ

寺村秀夫氏は、『日本語のシンタクスと意味II』(1984年)の中で、「人称制限」の例として上の文などを挙げた後、こう述べている。「a.は当たり前の文だが、b.は(中略)おかしいと感じられる。(中略)もっとも最近では、b.に類する表現をおかしいと感じないという若い学生がいる。ここでは、ふつうの日本人はb.をおかしいと判定する、という前提で話を進める」(太字引用者)

じつを言えば私も、「彼女は悲しい」という文には違和感を感じるが、「アノ子ハ犬ガコワイ」という文には、あまり違和感を感じない……。それはそれとして、日本語では「彼女は悲しい」と言えないというgambs氏の主張は、「言えない」という言葉を必要以上に強くとらない限り、「ふつうの日本人」が同意するはずの、まったくもって正しい見解であると言えるだろう。日本語では、「彼女は悲しい」という文を自然な表現として使うことはできない。

さて、ここまではいい。つまり、ここからが問題。

「she is sad」と同じ意味あいで使われた場合に不適格な文になる「彼女は悲しい」は、「she makes me sad」という意味あいで使われれば適格になるのか? 端的に言えば、「彼女は悲しい」は「she makes me sad」という意味になるのか?

SNS上では、「彼女は悲しい」はたしかに日本語として不自然な表現であるが、だからといって「she makes me sad」という意味にはならないだろう、という意見が日本語ネイティブの間に散見される。正直、私もそう思った。「彼女は悲しい」を「she makes me sad」と解釈するのは無理なのではないか?

これは、gambs氏が参照しているブログ記事に書いたことの繰り返しになるけれど、「悲しい」、「嬉しい」、「楽しい」、「怖い」といった感情を表す日本語の形容詞には二つの用法がある。その記事では次のように説明した。

(この種の形容詞には)情意を主観の内側から表す場合と、対象の外面的な状態ないし属性として表す場合を区別できる。例を挙げた方がわかりやすい。たとえば「さびしい」という形容詞ではこうなる。

 

私はさびしい

この町はさびしい。

 

上の二つの文は意味構造が異なる。「私はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは発話者の「私」だが、「この町はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは「この町」ではない。発話者である。発話者が「この町」の状況(ひとけがない、さびれている等)を観察して、そう表現しているのだ。

ここでひとまず、前者の使い方を「主観用法」、後者の使い方を「客観用法」と呼び分けるとすれば、日本語の場合、情意形容詞の「主観用法」は、一人称の場合にしか成立しない。たとえば、「あの人はさびしい」という場合、発話者が「あの人」の内面に入り込んで「あの人」の感じている「さびしさ」を取り出して表現していること(主観用法)にはならず、普通あくまで外側から「あの人」の状況を見て、発話者自身が「さびしさ」を催している(客観用法)ものと理解される。つまり、「あの人はさびしい人だ」という意味になる。

「He is sad」と言えても「彼は悲しい」と言えないことをめぐって - 翻訳論その他

「主観用法/客観用法」というのは私の造語であり、一般的に使われている言葉ではないけれども、情意形容詞の働きに両面性があることそれ自体については、時枝誠記はじめ多くの人がすでに指摘していることであって、とくに珍しい話ではない。

これに関連して、「この町はさびしい」が「this town makes me feel lonely」みたいな意味になるといったことは無生物主語の場合に限られるという趣旨の発言も目にしたが、そんなことはない。たしかに、「は」の前に来る要素が人(someone)なのか物(something)なのかという区別は大事だと思う。けれど、この位置に人が来ても客観用法が成り立つケースはいくらでもある。ひとつだけ例を挙げる。

私は楽しい。I am happy. / I have fun, etc.

彼は楽しい。He makes me happy. / He makes me laugh. / He entertains me...

gambs氏も、うまい例を挙げている。

私は怖い。I am scared.

彼は怖い。He scares me.

「私は楽しい」が「I am happy」という意味であり、「彼は楽しい」が「he makes me happy」の意味であるのなら、その類推で、「私は悲しい」=「I am sad」、「彼女は悲しい」=「she makes me sad」と考えるのは理にかなっている。

しかし!

注意すべきことがある。それは、情意形容詞の用法には「主観用法」と「客観用法」の二つがあるといっても、すべての情意形容詞について、この二つの用法がうまく成り立つわけではない、ということである。

たとえば、上で「楽しい」という形容詞について二つの用法を見たが、似たような意味を持つ「嬉しい」では客観用法による解釈がうまくいかない。「彼は嬉しい」は「he makes me happy」という意味にはならないのだ。

「彼は嬉しい」という文は、「he is happy」という意味で理解しようとすると違和感がある。しかし、だからといって「he makes me happy」という意味になるわけではない。この文の場合、客観用法の解釈(「he makes me happy」)が起動せず、ただの不自然な文、違和感のある文、あるいは「*彼は嬉しい」で終わってしまうのである(ただし、「は」の前に来る要素が物であれば、客観用法による解釈の容認可能性が高くなる。例:「このプレゼントは嬉しい」=「this present makes me happy」)。

そして「悲しい」という形容詞もまた、この「嬉しい」と同様、「は」の前に人が来る場合において客観用法が成立しにくい形容詞なのである!

しかし!

gambs氏がその主張の支えとして掲げる画像のひとつに、次の一節が見える。

a.  私は寒い。

b.  #母は寒い。

c.  母は[寒がっている/寒そうだ]。

This restriction on psych predicates and their potential subjects is so inflexible that when the predicate is polysemous, the function of the subject necessarily shifts to conform to this restriction. In (d), kanashii indicates that the subject is sad (subject = experiencer). In (e), by contrast, the mother is the stimulus/source that causes the speaker’s sad feeling, ‘Mother makes me sad’, not ‘Mother feels sad’, which violates the constraint.

d.  私は悲しい。 I feel sad.

e.  母は悲しい。 Mother makes me sad.

「e. 母は悲しい。 Mother makes me sad.」とある。この画像の元になった文書は、言語学者Yoko Hasegawa(長谷川葉子)氏の著作『The Routledge Course in Japanese Translation』(2012年)である。

引用部でHasegawa氏の述べていることは、次のようなことだ。

心理述語と、その取り得る主語に関する日本語の制約(つまり「人称制限」)は非常に厳しく、簡単に曲げることができない。だから、述語が多義性を有する場合には、主語の役割について解釈がなされる際、必ずこの制約を満たす解釈が選ばれる。たとえばd.の場合、主語の「私」は悲しみを抱いている主体と解釈される。対してe.のケースでは、主語の「母」は発話者「私」の抱く悲しみを引き起こす原因と解釈される。つまりe.の文は、「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味になるのであって、「母は悲しみを抱いている(Mother feels sad)」という意味にはならない。なぜなら後者の解釈では前記の制約に違反してしまうからである。

「母は悲しい」という文は必ず「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味に解釈されるとHasegawa氏は言っているわけだから、「彼女は悲しい」という日本語文は「she makes me sad」という意味で理解すべしというgambs氏と同じ見解であると言っていいだろう。

Hasegawa氏の理屈はよくわかるのだ。でも問題は、「悲しい」が「polysemous(多義性を有する)」述語に当たるかどうか、ということである。というのも私には、「母は悲しい」という言葉が「母は私を悲しませる」という意味で使われる場面、状況、文脈をうまく思い浮かべることができない。やはり「母は悲しい」は「Mother makes me sad」という意味にはならないのではないか?

と、書こうとした矢先(いや、書いたのだが)、なぜか隣の部屋からSuchmosの「STAY TUNE」が聞こえて来て、私の拙い考えは一瞬にして覆ってしまったのであった。回心した、とさえ言えるかもしれない。アウグスティヌスの「取りて読め」じゃないけれど。

「ブランド着てるやつ」は悲しい。

「Mで待ってるやつ」は悲しい。

「頭だけいいやつ」は悲しい。

「広くて浅いやつ」は悲しい。

なるほど。コツ(?)がわかった。こういうのはどうだろう。

母はグッチとかシャネルとかブランドものの服ばかり着ている。私の好きなGUの服になんて見向きもしない。格好いい服もたくさんあるのに……。母は悲しい。悲しすぎる。

こういうのも思いついた。

SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい。

このへんで切り上げることにする。ちなみに私の妻もたまたま日本人だが、彼女に「『彼女は悲しい』って言い方、不自然だよね?」と聞いてみたところ、「どこが?」と言われた。「日本人の妻」に聞くってのが、そもそも間違いなのかもしれない。