翻訳の絶滅/二つの翻訳

自分で作った集客用のサイト(2005年開設、HTML手打ち)を閉じることにしたので、いくつかのテキストを何度かに分けてこちらのブログに移植します。今回は「二つの翻訳」という表題の、2006年10月28日付けの文章です。翻訳不可能論をめぐって錯綜する様々な論点を整理するという意図をもって書かれたもので、当時はこれで翻訳論の基本的なトピックは総ざらいできたのではないかと不遜にも思っていました。

というのも、翻訳について書かれた本って意外とたくさんあるわけですが、「即効3か月!なんで、私が翻訳家に!」の類から理論書の体裁をとった硬い感じの本に至るまで、どれを読んでも金太郎飴の如し、斬新なアイディアに出くわすことなんてまずなかったからです。アントワーヌ・ベルマンの邦訳はまだ出ていなかったし、翻訳論版「紋切型辞典」が作れたら面白いんじゃないかと考えていたのだ。

それはそれとして、いまやニューラル機械翻訳の時代ですよね! Deepl翻訳もついに日本語に対応しました! こうした人工知能っぽい、新しい翻訳技術が登場したことに伴って、翻訳論の領域にもフレッシュな、これまでとは次元の違う論点を開くことができるのではないかと日々実感しています!

誤解があるといけないので急いで付け加えますが、これはもちろん、「人間にしかできないこと」を探るだの「翻訳の創造性」を顕彰するだのといった、「俗情との結託」以外の何ものでもない、いじましい考えとは縁もゆかりもない話です。あと、「コンピューターには言葉の意味が分かっていない」なんていうカビ臭いステレオタイプも関係ない。

いや実際、ニューラル機械翻訳にすごいところがあるとすれば、むしろこの「言葉の意味が分かっていない」という点にこそあるのではないですか? 意味論や統辞構造には一切かかわることなしに、ここまで(は)できるということを実証した。そのことがすごいのだ。そう思っています。

Word2vec等、自然言語処理で用いられる単語ベクトルの考え方は、岡崎直観「単語の意味をコンピュータに教える」(『岩波データサイエンスVol.2』)などを読むと、「似た文脈で出現する単語同士は意味も似ている」というゼリグ・ハリスの分布仮説を発想源のひとつとしているようです。そのせいか、NLPの世界では、単語の実数ベクトルの取得とは単語の意味の取得であるという了解ができあがっているみたい。でも、以前の記事(***の下)に書いたように、単語ベクトルというのは、言葉の意味(のようなもの)ではなく、ソシュールのいう「記号の価値」(のようなもの)なのではないでしょうか。つまり機械翻訳システムは、単語ベクトルを通じて、いわゆる「言語の物質性」(実質substance性ではなく、反表象性としてのmatérialité)に触れているのではないか。いや、事実そうであるように思えます。なぜならニューラルネットに入力される数値列の計算は、記号そのものを数値化しているのであって、記号から「意味」を取り出して、あるいはシニフィアンからシニフィエを剥ぎ取って、それを数値化しているわけではないからです。それなのに単語ベクトルが、単語それ自体の数値表現ではなく、単語の「意味」の数値表現と考えられているのが不思議でなりません。《意味の形而上学》による思考の汚染がここまで及んでいるということでいいでしょうか? 自然言語処理が言語をめぐる思考に寄与をなすことがあるとしたら、その寄与は、数値列を意味とみなすのではなく、意味を数値列とみなすことによって初めて引き出すことができるように思われます。

ちなみに先に名前を出した言語学者ハリスは新ブルームフィールド学派の中心人物でしたが、この学派は「分布主義」を標榜し、ぎりぎりまで「意味」に触れないようにして言語研究を進めていました。けれど行き詰まってしまった。それで結局は意味の側面に目を向けざるを得なくなったわけですが、ニューラル機械翻訳は、その研究者たちの主観的評価とは別に、こうした「分布主義」――意味の排除――をどこまで貫くことができるか。そのような観点を保持したい。「意味」を錦の御旗に機械翻訳の不完全さをあげつらうのではなく、ソシュール的な「差異」の工学に向けた実験が鋭意進行していると見ておきたいのです。そのほうが何倍も面白い。

さて、新しい論点はもうひとつ挙げられます。ニューラル機械翻訳の概念図などを眺めていると、統計的機械翻訳のシステムにあった言語モデル、翻訳モデルの役割分担がなくなったというにとどまらず、「翻訳」と呼べるようなプロセスがシステム内に一切組み込まれていないという事実に気づきます。翻訳固有の内的過程が存在しない。翻訳固有の内的過程が存在しないとはどういうことか。うまく説明できないのですが、入力Aに対して出力Bを返すにあたり、このBがAの翻訳になっていなければ成功したといえない、そのような機構がシステムの内部に設けられていない。それにもかかわらず、多くの場合「翻訳」と呼んで差し支えない文字列が産出される。ここからどんなことがいえるでしょうか?

「翻訳」は消えるかもしれない、ということがいえるんじゃないか。これは翻訳の仕事が消える消えないなんていうことではなく、存在論的な次元の話です。つまり「翻訳」の存在が無に帰する可能性があるということ。ニューラル機械翻訳は、「意味」の実在性を疑問に付すだけでなく、「翻訳」の実在性をも疑問に付すのだ。そして人類は「翻訳」が大嫌いです。できればなくなって欲しい、もっと強い言葉でいえば、絶滅して欲しいと願っている。じつは「翻訳の創造性」なんていうのも、翻訳の不可避的な不完全さを糊塗するための後付けの正当化にすぎないという以上に、人類が翻訳に対して差し向ける、こうした巨大な嫌悪の一形態であるといえるのです(これについては次回エントリする「消える翻訳」で言及しています)。

とにかく、人類の集合的無意識に潜む翻訳嫌悪(traductophobie)は、ここにきてニューラル機械翻訳と呼ばれる強力な援軍を得たことになります。翻訳の絶滅も、さほど遠い未来のことではないかもしれません。気をつけたいですね!

アステリスクに続いて「二つの翻訳」になります。

 

 

二つの翻訳

 

翻訳について思弁すればそれは不可能だという結論しか得られない。にもかかわらず現実には数え切れないほど多くの翻訳が存在する。この逆説は、人に選択を迫る。翻訳など現実にはなされていないと考えるか、理論が翻訳の実像を捕えそこねていると考えるか。だが、こうした素朴な二者択一を拒絶し、理論と実践の間で調停を試みた論考として、G.ムーナン『翻訳の理論』というものがある。この著作でムーナンは、翻訳の可能性を「相対的な」ものとして捉えることで、現在と過去における翻訳という行為の正当性を、また、「言語接触弁証法」という概念を導入しつつ、「絶対的な」翻訳の実現を未来に先送りすることで、言語学の帰結の正当性を救出しようとしている。細部の瑕疵を措くとすれば、その試みは半ば成功しているといってよい。様々な言語学の理論や学派に油断なく目配りし、それらの翻訳論における得失を見極め、周到な議論を展開しているように見えるこの『翻訳の理論』には、しかし、ある特徴的な欠落がある。「詩の翻訳可能性」がそれである。数多の翻訳不可能論において特権的な地位を占めるこの問題について割かれた頁が、ムーナンの『翻訳の理論』には、あまりにも少ないのではないか。無論、ゼロではない。例えば、共示の翻訳のむずかしさについて触れた部分に「詩的共示」という言葉が見られるし、また、結論の章では、数人の詩人の名前に加え、「漢詩」の翻訳不可能性についてエピソード的な紹介がなされていたりもする。しかし、邦訳にして300頁ほどのこの論文において、詩の問題への言及は、この二箇所がすべてである。ありていにいえば、詩の翻訳可能性というテーマは、ムーナンの問題意識の外にある。しかし、そのことの当否は別として、この排除と欠落が論述に首尾一貫性を与えているということもまた事実なのである。

例えば、「翻訳は不可能ではない」と説く者が「しかし詩の翻訳は不可能だ」と前言を翻すとき、その撤回の理由の如何を問わず、読む者をとらえる重苦しい違和感がある。失望や諦念を成分とするこの重苦しい違和感は、冒頭に掲げた逆説が真正のそれとしてはびこる様を見たときに感じる、あるいは、「翻訳は不可能ではない。現に多くの翻訳が存在する」という屈託のない言葉を耳にしたときに感じる、もどかしさや歯がゆさによく似ている。しかし、この違和感は、「不実な美女云々」の類いがいまだ便利な紋切型として、あたかも挨拶のように跳梁しているのを見たときの嫌な感じにも似てはいないだろうか。この逆説がいまだに逆説であるのなら、翻訳論は、この数百年あまりのあいだ、まったく前進しなかったのだ。

「詩の翻訳は、定義上、不可能である」という一文を持つR.ヤコブソンの著名な論文「翻訳の言語学的側面について」(『一般言語学』所収)もまた、この種の違和感を読む者に与える典型的な文章の一つである。翻訳=解釈=意味という認識を起点に、「すべての認知的経験とその分類は、どの現存する言語によっても伝達可能である」「翻訳に用いられる言語における文法的機構の欠如も、原文に含まれている概念的情報のすべての逐語訳を不可能にはしない」「或る特定の文法範疇が或る言語にない場合、その文法範疇の意味は語彙的手段によってその言語へ翻訳され得る」、そして「諸言語が本質的に相違するのは、それらが送達しなければならないことにあるのであって、それらが伝達し得ることにあるのではない」といった言明を散りばめながら翻訳可能領域を拡大する方向で進む論述が、後段、「詩において、文法範疇は高度な意味論的重要性を帯びる」という確認を梃子に、一転、詩の翻訳可能性を否定する上の一文を引き出してくる。これに続けて、「可能なのは、ただ創造的な転移だけである」という結論を読む者は、ある種の驚きとともに、翻訳対象の性質の交替に伴って、翻訳の持つ意味合いもまた交替していることに気付かされる。

「音素的相似が意味上の関係として感じとられる」ともヤコブソンは書くが、こうした「音素的相似」や「文法範疇」を「形式」という言葉で一括すれば、彼の主張において、詩における形式の重要性は、形式それ自体の重要性(そのようなものが成立するとして)ではなく、あくまで「意味論的重要性」なのである。この意味で、詩的機能の翻訳は、通常の翻訳と質的に異なるものとはならないはずだ。つまり、詩において文法範疇や類音性が重要であるとしても、それは「意味」に寄与する限りにおいてなのであり、そのことは、意味解釈、すなわち論文冒頭部でヤコブソンが定義した翻訳をいささかも妨げるものではない。にもかかわらず、詩の翻訳が不可能だという場合、「詩の翻訳」の「翻訳」が、拡張以前の「翻訳」概念に引き戻されているか、あるいはそれらとは異なる新たな「翻訳」概念に変質しているのでなければならない。実際、「詩の翻訳は、定義上、不可能である」の直後に記される3種類の翻訳様態に見られる言葉は、もはや「解釈」ではなく、「転移」*1なのである。

ヤコブソンは、「詩」を特権化しているのだろうか。しかしそうであるとすれば、「詩の世界だけに局限」できない「メッセージそのものへの志向」(「言語学詩学」『一般言語学』p.192)と後に説明されるものを「詩的機能」と呼んだときからすでにそれは始まっていたのであり、それは「最も新しいロシアの詩」(『ロシア・フォルマリズム文学論集1』所収)に遡る彼の関心のありようからいって当然のことでもある。ここで注目したいのは、そのような詩の特権化それ自体ではなく、詩と翻訳不可能性の共犯関係、敷衍すれば、テキストの性質、翻訳の定義、翻訳の可能性といった諸要素の、翻訳論における連動ぶりである。

今、ヤコブソンの例において、「詩」という言葉が「翻訳不可能」という言明を導くスイッチとして機能し、同時に「翻訳」の概念それ自体が暗黙裡の変容を被るという興味深い現象を見た。このことは、当然、逆の事態を想定させる。つまり、再度何らかのスイッチが入ることによって、翻訳の概念と翻訳の可能性が別様のあり方をとるのではないか、ということである。恐らく、翻訳が可能だ、不可能だという主張は、それだけを取り上げて論じても意味がないのだ。なぜなら、そうした主張における「翻訳」という言葉の内容が、二つの主張で異なっている可能性があるからである。のみならず、「翻訳」の定義は、同一の論者、同一の論文においても、ときに、何かのきっかけで、大きく転換するようなのである。

この「きっかけ」が、常に特権的かつ単一の原因として、翻訳論を支える土台を隈なく支配しているのかどうかはわからない。しかし、それはどうやら、翻訳論における一連のテーマを磁石のように引き寄せ、同じ磁場の下に集めている。こうした相互に親和的な思考の諸要素からなるシステム、各要素のいずれもが原因とも結果ともつかない、緩やかでいて、しかし堅牢な結び付きを見せるこのシステムを、仮に「問題系」と呼んでみる。その上で、見渡せる限りの翻訳論を見渡せば、翻訳可能論、翻訳不可能論において機能している問題系として、二つのそれが浮上する。以下、この二つの問題系について粗描したい。違和感は、この二つの問題系の錯綜によって生じたものだと考えられる*2

観念をさす「間」「粋」というような言葉は、(中略)いざ翻訳しようとすると困ってしまう。しかし、これらの観念は古義にさかのぼり解釈学的な分析をほどこし、たくさんの言葉を尽くして説明すれば、微妙なニュアンスも含めていつかは必ずどんな外国語にも翻訳されるはずである。

 (持田季未子「未知なるものの豊穣化」『翻訳(現代哲学の冒険5)』p.5)

上の引用において、翻訳には「たくさんの言葉を尽くして説明」することが許されている。無論、このような寛容は無償ではない。「ひとつの文化を特殊性の神話のうちに閉じ込めずに普遍的視野に引きだして正確に測定するためには、それ[=翻訳(引用者註)]はなされなければならない作業であろう」(同p.6)という言葉からも明らかである通り、この寛容は、異文化理解の正当性と引き換えに与えられている。ここで翻訳は、異文化理解という目的に資する特権的な手段と見なされており、それゆえ翻訳が不可能であるとは、異文化理解が不可能であるということに等しい。逆にいえば、異文化理解が可能であるためには、翻訳というものが可能でなければ「ならない」。ここで当然想定されるのは、前者の可能性の承認が、翻訳の概念それ自体にある種の柔軟性、いわば「翻訳(論)における自由」を与えることになったのではないかということである。翻訳における量的不均衡の許容は、異文化理解の正当性や可能性を救出するために不可欠な所作であったのではないか。

しかし、異文化理解の正当性を翻訳の問題系の基底に置き、すべてを因果関係や目的論に回収するこうした説明は、禁欲しなければならない。なぜなら、異文化理解の正当性が、逆に、「たくさんの言葉を尽くして説明」することを可とする翻訳観から導き出された可能性を捨て去る理由がないからである。ただいえることは、「異文化理解の正当性」と「翻訳における量的不均衡の許容」の親和性、つまり、語りの方向性としての問題系が、ここにもまた確認できるということに過ぎない。「文化論的」と形容できるであろうこの問題系は、次のように整理できるだろう。

翻訳の動機 異文化理解
翻訳の困難 文化的相違(ラングの相違)
翻訳の定義 緩やかな規定(量的不均衡の承認、相対性)
翻訳の可能性 可能である(留保あり)

文化論的問題系において翻訳の障害とされるものは、その名の通り「文化的相違」である。固有と見なされる概念(「幽玄」「間」「甘え」「もののあわれ」の類)や事物(砂漠のない国における「砂漠」、チーズのない国における「チーズ」)を表す言葉をどのように翻訳するかといった問題から、色の分類等の意味場の相違、より広くは世界観や世界分節、概念枠の相違にどう対応するかといった問題まで、広義のラングの問題として一括できるであろうこうした困難は、異文化理解の困難といい換えることができる。つまり、ここで焦点化されているものは、異なる文化間の交通であり、そうである限り、翻訳の問題は、容易に伝達一般の問題に接続される。これをラディカルな態度と見るにせよ、逸脱と見るにせよ、コミュニケーション論を取り込んだ文化論的問題系が、ある種の「広がり」を手に入れることは間違いない。そして、翻訳論には、拡張された領土と同じだけの自由が与えられる。翻訳の規定が緩やかなのも、翻訳可能性の可能性が広がっているのも、こうした翻訳論の領土拡張に見合った事態であるといえる。

原文・訳文間の量的不均衡*3が許されているのは、問題とされているものが、伝達の成功であるからである。また、相対性は、伝達一般に認められる事態である。伝達(翻訳)は部分的に失敗しているとしても、そのことは、伝達(翻訳)の可能性を否定するものではない。むしろ、伝達(翻訳)は部分的には成功しているのだ*4。そして、翻訳という言葉のこうした緩やかな規定が、翻訳可能性の主張に養分を与えていることも否定しがたい事実である。翻訳の可能性(と限界)には、伝達一般の可能性(と限界)と等量の権利が与えられる。

無論、この可能性という言葉には、留保が付けられている。つまり、「微妙なニュアンスも含めていつかは必ずどんな外国語にも翻訳されるはずである」というように、翻訳が妥当になされた、なされているということの事実、すなわち翻訳の正当性は、現在と過去において必ずしも保証されているものではない。これに関して、例えばムーナンは、すでに見たように、相対的な翻訳を、不完全な翻訳ではなく、そのまま形容詞抜きの翻訳と認めることでその正当性を救っている。だが、これ以外にも方法はある。

鍵は「たくさんの言葉を尽くして説明」することが許されていることにある。このように訳文が原文よりも、いわば「大きくなる」ことを許容する態度は、翻訳の可能性を押し広げるにとどまらず、別の形での成長、すなわち、翻訳における「創造性」の積極的な評価にも道を開くはずである。そして、この種の評価が、伝達における解釈という行為の創造的な側面を強調するにとどまらず、「新しい意味の創出」の承認へと進むこともまた自然な流れ行きであるといえるだろう。つまり、量的不均衡の承認は、「新しい意味の創出」という質的不均衡の承認へと順行する。ここに至り、翻訳という行為は、きわめて強力な正当性を手に入れることになるはずだ。解釈上の瑕疵、誤解や曲解さえも、「創造性」の名の下に肯定される権利を有するのだから。

翻訳において結局は解釈あるいは曲解が不可避である事実こそ、その翻訳を受容する言語と文化にかえって創造性をもたらすはずである。

 (持田前掲書p.35)

翻訳者つまりもとのテクストの受容者は、既製の意味の理解とその伝達を事とするのではなく、新しい意味の発見、創出に取り組むことになる。

 (同p.8)

しかし、翻訳の原初の場面に立ち戻ってみれば、こうした「創造性」の重視が、初発の動機を裏切っていることがわかる。「正確な測定」と「新しい意味の発見、創出」は相容れないはずだ。このような質的・量的な非対称性を持つ翻訳、「大きくなる」翻訳を認めない立場が、一方に根強くある所以である。

たとえばブッシュマン語で理論物理学を言うことももちろん可能だし、逆にブッシュマン語でいわれていることを日本語で表現することも原理的には可能だといったことを話しましたが、多くの人がまたそのことと間違えやすいことがあって、それは「翻訳」の問題なんですね。言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。

 翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。(中略)

たとえば俳句。「閑けさや岩にしみいる蝉の声」というのを、日本には夏は蝉がいて、それはどんな種類の虫で、ある時期が来ると樹の幹にとまって鳴きはじめて……と、そんなことを正確にやっていったら、その俳句一つに対して五ページも六ページも使わなければならなくなってしまう。これはもう翻訳でなくて解説書になってしまうんですよ(笑)。

 (西江雅之『ことばの課外授業』pp.106-107)

興味深いのは、文化論的問題系において「翻訳可能性」と表裏一体であった「伝達可能性」が、ここでは翻訳とは「大いに違う」ものと認識されていることである。つまり、説明や解説、パラフレーズといった、伝達を主眼としてはいるが、原文との間に量的不均衡を生ずるすべての形式が翻訳の範疇から除外されることになる。それは無論、翻訳に対して「意味の上でも形の上でも原文に近い形」という厳格な規定が与えられているからである。突き詰めれば、こちらの問題系では、一方では原文と訳文の等価性、他方では「解説」とは異なるものとしての「翻訳」の純粋性(「翻訳」の存在論的規定)が志向されているといえるだろう*5。また、具体例として挙げられているのは俳句だが、このような厳格な翻訳観において論拠として引き合いに出されるものが、常に(広義の)「詩」であるという点にも注目しなければならない。こうした詩的なものへの参照は、往々にして「しなければならない」「できない」「許されない」という強い言葉を伴って、翻訳不可能論(ないし翻訳可能性の留保)を呼び込む契機となる。ここにあるのは、明らかに、前述のそれとは質を異にする問題系である。翻訳における成長の拒絶、厳格な翻訳規定、詩への参照、翻訳不可能論といった諸要素から構成されるこのシステムを、以下「詩学的問題系」と呼ぶことにしたい。

詩学的問題系において、「詩」は、翻訳不可能性が導出される特権的な根拠となる*6。「詩」は翻訳できない。では、「詩」の一体何が翻訳を拒むというのだろうか。詩の翻訳の困難として一般的に主張される諸要素は、以下の通り、大きく3つに分けることができる。

まず第一に「特異な形式」である。例えば、押韻(類音性)や反復、地口、リズム、調子、音の面白さ、音の量といったものであるが、これらを原文の意味とともに移転することは、きわめて困難とされる。しかし、すでに触れた通り、これらの形式は、それが形式であると認知される限りにおいて、内容を喚起せずにはいない。そうした内容には、「韻を踏んでいる」という自存的な意味(メタレベルの意味)と、「韻を踏んでいる」ことが押韻の外部にもたらす効果(詩的効果)とを区別できるだろうが、いずれにせよ、これらの形式は意味論的に機能しているのであり、いわゆる「形式の翻訳」は「意味の翻訳」と何ら変わるものではない。こうした詩特有といわれる困難は、けっして特殊な性質の困難ではないのである。

詩の翻訳不可能性の根拠の二つ目は「共示(コノテーション)」である。ここでは、言葉それ自体が喚起する印象や連想、語感、雰囲気といった不安定な情意的要素、暈のごときものをいかに翻訳するのか、という反語的な問いが立てられる(例:「古池という言葉の持つニュアンスをどのように外国語に移転するのか」)。共示には、個人的・主観的なものと共同的・客観的なもの、言語外現実に由来するものと言語内構造に由来するものをそれぞれ両極に置いた漸進的な区別を想定することができる。前者から後者に向うに連れてその意味的安定性が増大し、言語内構造に由来する共同的な内示は、実質的に外示と区別しがたい。ムーナンの言葉を借りれば、「『父』pèreと『パパ』papa(中略)の用法を区別することを学ぶ方法は、(中略)『むくどり』étourneauと『むく』sansonent(中略)の用法を区別することを学ぶ方法とかわらない」(『翻訳の理論』p.172)。したがって、このような安定性の高い共示は、翻訳過程において、外示と異なる特別な操作を要求しないはずである。問題は、反対の極、すなわち個人の経験に密接に関わる主観的な共示だが、これによって生じる困難が詩の翻訳の問題の枠を越えていることは明らかだ。

特異な形式や共示は、いうまでもなく、詩以外の言語活動にも見られる現象である。これらがとりわけ詩の翻訳の問題として強調されるのはなぜだろうか。それは、端的にいって、詩が「短い」ためであるに過ぎないのではないか。

繰り返すが、共示にせよ、特殊な形式にせよ、それらはいずれも意味論的な機能であり、その限りにおいて、両者の翻訳は、通常の翻訳と異なるものではない。したがって、むずかしさがあるとすれば、それは個々の共示や形式それ自体によるのではなく、これらの要素が重層的に出現し、絡み合っていることにある。しかし、これでもまだ理由としては十分ではない。重層性は、詩のみに見られる現象ではないからである。だとすれば、こうなる。詩の翻訳が困難なのは、同時に複数レベルにわたる意味を、その「短さ」において再提示しなければならないからである。換言すれば、原文における意味論的濃度の高さが、訳文における量的制約の強さと相俟って、翻訳者に難題を課す。では、こうした制約がなければ、詩の翻訳は可能だといえるだろうか。三好達治とともにボードレール悪の華』の散文訳を試みたときのことを振り返った小林秀雄が、これに関して、「詩の翻訳というものの裡にある、極く当り前なパラドックスに衝き当たっ」たといっている。

僕等の注意力は、いよいよ原文の独特さ掛け替えのなさというものに、どう仕様もなく、僕等を引摺って行くものだ。僕等の注意力が増せば増すほど、原文の根を枯らさずに移し植えるという仕事の不可能を痛感する様になる。原文の掛け替えのない鮮やかさは、読む人の注意力に比例する。原形に囚われずに自由に訳そうとするその同じ苦心が、原詩の拘束というものを明らかにするのである。

 (「アラン『大戦の思い出』」『小林秀雄全作品』13 p.14)

詩の散文訳の試みとは、いわば詩を意味論的に汲み尽そうという態度である。しかし小林のいう「パラドックス」とは、たんに、こうした意味論的な汲み尽くしが困難であるということではない。意味論的困難は、「途上に現れる困難に過ぎない」のである。

併し考えてみれば、原詩が非常に特殊なものだから、僕等には理解し難いとか、味わいが難いとかいう事も、かなり不用意に言われ、不用意に考えられているので、原詩の特殊な性質というものについて、僕等が理解の上で、いろいろな困難を覚える、そういう困難は、原詩の特殊な性格を徹底して合点して了えば消失して了うものだ。言葉を代えれば、そういう困難は、僕等が原詩の姿と信ずるものに衝き当たるまでの途上に現れる困難に過ぎない。*7

(同上p.15)

小林が衝き当たっている「原詩の姿」とは何か。これを詩の「形式」だと早合点してはならない。「シニフィエなきシニフィアン」というものでさえないだろう。では何か。それは、「掛け替えのない木や草が在る様に」(同上p.16)あるもの、すなわち、そうした記号作用を欠いた「言葉」そのもの、記号ではないむきだしの言葉、換言すれば、「ものとしての言葉」なのである。詩の翻訳に関する第三の困難は、いわゆる「オブジェとしての詩」に関わっている。

「オブジェとしての詩」という見方は、裏を返せば、詩の非伝達性の認識である。ここで翻訳の困難は、質的な変容を蒙る。伝達の否認によって制御を失い多方向に拡散した意味の充満は、むしろ意味の不在として機能する。もはや意味の濃度や多層性が問題なのではなく、こうした「意味の不在」が問題となるのだ。そして、意味の充満としての意味の不在によって、言葉は言葉たる資格を奪われ、一個の物と化す。言葉は、伝達に寄与せず、意味の無償の発光によって、それ自身を輝かせるばかりだ。発光する物質のパッチワークとしての詩は、その言葉がその言葉としてその場所に置かれていることによって、限りなくローカルなものとして成立している。つまり、かけがえがない。かけがえのないものは、文字通り、他のものに置き換えることなどできない。この意味ではまさに「詩の翻訳は、定義上、不可能である」ということになるだろう。

翻って、小林の「パラドックス」とは、意味の注視による意味の消失のことであり、これは、詩人による「選ばれた失敗」(J.-P.サルトル)の裏面たる、読者の側の「失敗」であるといえる。その射程は長い。詩のかけがえのなさは、「注意力」によって増す。そして、この注意力の増進は、例えば「アランとかヴァレリイとかジイドとかいう様な人々の論文」の中に「彼等の言葉とともに生き死にすると推察される部分」(同上)を多く発見させるに至る。これを突き詰めれば、「散文などというものはない。まずアルファベットの文字があり、ついで詩句がある」(マラルメ「文学の進展について」『マラルメ全集』第3巻p.490)という認識に行き着くはずであり、これはすなわち、翻訳不可能性の全面化というに等しい事態の出来である。

また、こうした「注意力」の増進は、原文の主観的もしくは客観的に承認された聖性と関係があるはずだ。たんなる因果関係ではない。聖性が注意力を養い、注意力が聖性を養うという、相互循環的な関係である。詩学的問題系において、聖典の翻訳不可能性は、悪循環のごとく昂進する。

翻訳が不可能であるとすれば、不可避的に問題となるのが、その正当性であることは論をまたない。もはや七十人訳聖書の伝説*8のような奇跡に頼った正当化は許されないだろう。では、詩学的問題系における翻訳の正当性、不可能なものと認識された翻訳の正当性はどのように確保されるのか。近年の翻訳を巡る考察において確認される翻訳者のパトスへの言及、それ自体は古くから見られた「愛」(柴田元幸)、「欲望」(鵜飼哲)、「エロス」(野崎歓*9といったものへの再度の言及は、その理論化への請求と相俟って、ここで新たな相貌を見せる。これらは、詩学的問題系における翻訳の正当性を確保するための有力な方策として前景化してきているとはいえないだろうか。こうしたパトス的な概念が、理論的かつ緻密な検討を経て「翻訳研究」なるものにしっかりと組み込まれたとき、詩学的問題系もまた、ひとつのシステムとして完成を見るに違いない。

 

<2つの問題系の要約表>

  文化論的問題系 詩学的問題系
翻訳の動機 異文化理解 (パトス)
翻訳の対象 文化 詩的なもの(聖典
翻訳の困難 文化的相違(ラングの相違) かけがえのなさ(聖性)
翻訳の定義 緩やかな規定(量的不均衡の承認、相対性) 厳格な規定(等価性、完全性)
翻訳の可能性 可能である(留保あり) 不可能である
翻訳の正当化の手段 創造性 (パトス)
  W.V.O.クワイン J.デリダ

 

(2006/10/28)

*1:ここで重要なことは、「転移transposition」という概念の積極的意味ではなく、「解釈interpretation」という言葉が使用されていない、できないということである。

*2:したがって、翻訳論にしばしば見られる錯綜や混乱を解きほぐす準備として、この二つの翻訳系を峻別する作業が不可欠だと考えられる。

*3:しかし、異なる言語間での量的な比較を可能とする共通の尺度があるだろうか。例えば、俳句は世界一短い詩といわれるが、これはどのような測定方法によるのか。

*4:「たとえば西洋史を見れば、80パーセントなり90パーセントなりのそこそこの翻訳が文化を動かしてきたと言って過言ではありません」(柴田元幸「翻訳――作品の声を聞く」『知の技法』p.64。原文は「そこそこ」に傍点あり)。具体例としては、伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』、辻由美『翻訳史のプロムナード』を参照。

*5:しかし、引用した個所において、「翻訳」と「解説」が、ともに「置き換え」という言葉によって説明されている点に注意したい。すなわち「翻訳」とは制約の強い「解説」である。また、引用部に続く部分に「こういう作業は数十年前まではものすごく厳格でしたから、たとえばピリオドなしに一文で十行二十行続く、というような作家の文も、必死になって同じようにピリオドまで切らずに訳していたんです。今は少しそれが改善されて、日本語の場合は句点をつけて二つに分けてもかまわないという傾向が出てきた」とある。つまり、翻訳に加えられるこうした制約は、歴史的な刻印を押されているということである。歴史的な制約は、翻訳の本質から除外できる。したがって、「翻訳」と「解説」は質的な違いを持たないということになる。

*6:詩学的問題系と文化論的問題系のシステムの態様は、この点で異なっている。

*7:ここで「原詩の姿に衝き当たる」ではなく「原詩の姿と信ずるものに衝き当たる」といわれていることに注意。「原詩の姿」とは現象学的な概念である。

*8:アレキサンドリアで七十二人の長老が、ヘブライ語の『ユダヤ教の聖書』の翻訳を行うことになる。各人は別個の部屋に閉じこもって七十二日間にわたって作業を行い、出来上がった翻訳をもち寄ってみると、どの翻訳も一字一句まで一致していた」(加藤隆『新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたか』p.34)

*9:

「しばしば私にあっては、或るものを愛することの極みは、それに触って見るの念願となって現れる。然るに、美しい詩章は美しい恋人のように、愛すべきものである。私は愛人の新鮮な肌に触る時のような、身も世もあらぬ情念をこめて、愛する詩章に手を触れた」(堀口大学「失われた宝玉の序」『堀口大学全集』第2巻p.538)。また、柴田元幸「愛の翻訳論へ向けて」『創発的言語態』、鵜飼哲ハリネズミの前で」『抵抗への招待』、野崎歓「翻訳理論と翻訳のはざまで――フランス文学の場合」『國文学』平成16年9月号を参照。