音声中心主義と日本語

 

吉森佳奈子「「日本紀」による注――『河海抄』と契沖・真淵」も注意を促すところだが、本居宣長源氏物語玉の小櫛』五の巻に次の記載がある。

花やかなる

河海に、声花(ハナヤカ)[白氏文集]とあり、すべて此物語のうち、詞の注に、かやうにからぶみ又は日本紀などの文字を引れたることおほし、それが中に、まれにはあたれるも有て、一ツの心得にはなるべきもあれども、おほくはあたりがたくして、みだりなることもおほし、さればひたぶるに注のもじにすがる時は、詞の意を誤ること也、大かたいづれいづれも、注の文字にはよるべからず、こゝの声花も、白氏文集にては、はなやかとよみて、かなふべけれども、然りとて、はなやかを、声花の意とのみ心得ては、いたく違ふべし、されば声花をはなやかとは訓(ヨム)べけれども、はなやかを、声花とは心得べきにあらず、おほかたいづれの調の注も、此わきまへ有べきなり、

『河海抄』は白氏文集から「声花(ハナヤカ)」を取り出し注釈に代えているけれど、「はなやか」を「声花」の意味で理解しようとすることはできないだろうというのが宣長の考えだ。「ひたぶるに注のもじにすがる時は、詞の意を誤ること也」というのである。『河海抄』についてはすでに一の巻の「注釈」のところに「語の注などには、殊にひがごとのみおほくして、用ひがたし」とある。源氏の和語を和語として読まず、その背後に漢字を透かし見るなど「国学者宣長にとっては倒錯の極みといえるものであったろう。しかし倒錯ならば宣長にもあったというべきだ。またその倒錯のかたちは講書博士らの意識のありようと同型であったともいわなければならない。「かならずしも字のとおりにはよまないとして『倭語』をもとめる」(神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』)ということである。近世国学と、私記の学風との類似性については、訓詁学的という観点から太田晶二郎が指摘している。その指摘は中国儒学と日本の学問とのあいだに並行関係を見いだすものである。大意を取れば、講書の博士・尚復らが漢唐訓詁学の影響下にあったのと同様、国学者もまた、宋学への反動として訓詁への復帰を説いた考証学の影響下にあるはずであり、ゆえに両者は似ているのだというのである。関晃が批判的に取り上げているところだ*1国学考証学に通じる実証主義的な側面があったことは無論否定しがたいにせよ、とりわけ宣長についていえば、それはあくまで取るに足らない一側面にすぎず、むしろ実証の正道を踏み外していく動きにおいてこそ、その本質が強く深く宿っているのであり、そうした逸脱の運動においてこそ、講書の姿勢との共通性を見ておくほうがいいと思える。

宣長がこうした倒錯に打って出たのは、いわずとしれた古事記の漢字に対してである。古事記伝一之巻「訓法の事」で「殊に字には拘(カカ)はるまじく」と書いている。「本居宣長にとって、『古事記』をよむのは、漢字の覆いを取り去って元来の『古語』『古伝』をあらわしだすことをめざすものでした」(神野志前掲)。「文字を文字どおりに受け取らない」という講書の姿勢は和語を求めることであり、和語は文字以前のものであって音声であるしかないから、この志向を「音声中心主義」と呼べるとすれば、村井紀(『文字の抑圧――国学イデオロギーの成立』)などがそう呼んでいるように、たしかに宣長について、ひいては国学全般について、ある面において「音声中心主義」があったといって、ぜんぜん構わないのではないかと思える。これはありふれた見方だ。

西欧の音声中心主義の背景であり前提であるところの音声と文字との対立の土台となる平面が日本語の圏域には欠片も見うけられないという事実については、「文字中心主義」について検討する段で触れることになるはずだが、国学の「音声中心主義」という場合にも、同じことが当てはまるとして、さして不都合はないようである。しかし少し詳しく見ていくと、西欧型音声中心主義との要素面の違いが、また別な形で二三はっきりと浮かび上がってくるようでもある。小林秀雄は、『古事記伝』においては「訓法の一番難しい、微妙な個所となると、いつも断案が下されている」といっている。

宣長が「古言のふり」とか「古言の調(シラベ)」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法(ヨミザマ)の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証が終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろ発明されたと言った方がよい。

小林秀雄本居宣長』)

この「断案」、「発明」の実際がどういう具合であったかを見るのに、小林は、笹月清美本居宣長の研究』を参照しつつ、景行天皇の巻、倭建命の挿話に対する宣長の注解をやや長めに引いている。宣長が「いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける」としている箇所である。天皇に命じられた西征を終えて帰京するや、今度は東征を命じられた倭建命が、叔母の倭比売命に心情を打ち明ける。宣長は、その嘆きの言葉に含まれる文字列「天皇既所以思吾死乎」を「天皇早く吾れを死ねとや思ほすらむ」(天皇は私なんかさっさと死んでしまえとお思いなのか)と訓むべきだとし、また、その少し先「猶所思看吾既死焉」とあるところ、これを「猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけり」(やはり私なんかさっさと死んでしまえとお思いであったのだ)と訓むべきだとする。前者の訓みで問題とされているのは、「以」の位置に誤りがあるのではないかということである。「天皇所以思吾死乎」ではなく「天皇所思以吾死乎」が正しい。つまり宣長は「所以」を取り出さない。このあたり解釈が割れているところで、宣長の訓みは西郷信綱古事記注釈』において疑問視されており、また、その西郷らの「通説的な読み方」を構文解釈上「不適切」とする山口佳紀・神野志隆光(新編日本古典文学全集)の訓みとも違っている。「通説」ならびに山口・神野志の考えでは「所以」が維持されている。対して宣長の考え方ではこれが解体される。「所以」を「ユヱ」と訓めば「穏(オダヤカ)」ではないし、またすぐ下に「所思」とあるのだから、それに照らしてここも「所思」であるべきだというのである。「ユヱ」が穏当ではないというのについては、その神野志隆光の『本居宣長古事記伝」を読む』にわかりやすい解説がある。「所以」は、あることの原因・理由をその下に導く構文を作るものだから、その上に来るものを事実として認定することになる。つまり「所以」を「ユエ」と訓む場合、「天皇が私なんかさっさと死ねと思っているその理由は」云々、といっていることになり、これは天皇がそのような考えを抱いているということを既定の事実と見ていることになるわけで、たしかに「穏(オダヤカ)」ではない。

他方「猶所思看吾既死焉」の訓みに関する指摘は、単に「思ほし看す」ではなく、下に「なりけり」と付け加える必要があるということである。これは前の箇所の解釈の延長線上にあるもので、「早く吾れを死ねとや思ほすらむ」という疑念がここに至り確信に変わったという表現なのであり、そうであるならば、「なりけり」という言葉がおのずから現れ出てくるというものである。

ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まってくる。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と読み添えねばならぬという内心の声が、聞こえて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。

(小林同前)

笹月は、この「内心の声」について、こう考えている。宣長は「古事記の内的生命、文字の底に流動している生命そのもの」に先導されていた。こうした「生命の把握は詳細な実証的研究と漢籍訓、後世訓及び先哲の説に対する批判とによってなされるのであるが、究極的には直接の感得によるの外はない」。「実証」から「内証」、「内証」から「断案」へと至るその道筋は、『本居宣長古事記伝』を読む』の中でも幾度となく辿られている。ここではひとつだけ例を借りる。伊邪那岐命伊邪那美命が交わるところで三度出てくる「不良」の訓みとして、宣長は、「ヨカラズ」「サガナシ」「フサハズ」の三つのそれぞれについて、宣命や私記等いくつもの古文献にあたり、いずれの訓みにも可能性のあることを認めながらも、結局最後には「なほ布佐波受(フサハズ)と訓むぞまさりて聞ゆる」。「直接の感得」で決めているのだ。

先ず、文の「調」とか「勢」とか「さま」とか呼ばれる全体的なものの直知があり、そこから部分的なものへの働きが現れる。「調」は完全な形で感じられているのだから、「云々とのみ訓みては、何とかやことたらはぬこゝちすれば」という事になる。理由ははっきり説明出来ぬし、説明する必要もない、「何とかやことたらはぬこゝち」がすれば充分なので、訓の断定は、遅疑なく行われる。

(小林同前)

こんなふうに、文字にこだわらず直観によって訓みを確定し、さらには「新(アラタ)たに訓ミを造(ツク)りしも有ルべし」(『古事記伝』)とさえいってのける宣長の姿勢を「音声中心主義」と呼ぶとすれば、ただちに、この「音声中心主義」には、西欧のそれには見られない、ある固有の特質が刻印されている、と付言しなければならなくなる。ある固有の特質とは何か。音声の不在である。稗田阿礼の声は、宣長の耳には聞こえていないのだ。「中心」に置かれているはずの「音声」、重視すべき対象としての声が、その場に現前していない。これが国学の「音声中心主義」の本質を規定する根本的な条件を形づくっていることは論を俟たないと思うが、たとえば明治の言文一致論の基盤となった西欧近代言語学由来の「音声中心主義」と、近世国学にあるとされる「音声中心主義」とを重ね合わせる思考に強い抵抗感が湧き出すのは、この地点においてだ。音声の不在という事実の本質的な重さへの感受性が、少し足りないような気がするのである。音声の不在、逆にいえば文字の現前である。音声中心主義というからには二次的な存在者にすぎないはずの文字が、一次的な存在者として、音声の前に立ちはだかり、音声の基体をなしているのだ。文字が音声を生み出し、音声中心主義を生み出しているといえよう。なぜなら、文字を文字どおりに受け取らないという態度に出るためには、まずいったん文字を受け取らなければならない。内奥にある音声は、そのうえでこれを否定することにより、ようやく立ち現れてくる。音声中心主義の条件としての音声の不在といってもいいし、音声中心主義の起源としての文字の現前といってもいいだろう。音声中心主義と文字中心主義は、ここでも絡み合っている。ある何かが、ある局面において音声中心主義のような相貌を帯び、別の局面において文字中心主義のような相貌を帯びる。そのような「ある何か」の所在や存在態様を見定め、えぐりだすことが日本の言語の起源に迫ることだ。

宣長は、古事記本文の冒頭に置かれた「天地初発之時、於高天原成神名……」のくだりについての注釈文を「天地は、阿米都知(アメツチ)の漢字(カラモジ)にして、天は阿米(アメ)なり、かくて阿米(アメ)てふ名義(ナノココロ)は、未ダ思ヒ得ず」(『古事記伝』三の巻)と始めている。「天」は「アメ」に対応する漢字であり、「アメ」と訓むが、しかし「アメ」の意味はわからない。そう述べているわけである。この言い方でまず当然に否定されているものが和語を漢字の意味で理解することであることについて疑いの余地を開くことは難しい。『河海抄』の「注のもじにすがる」ことへの拒絶と同型の身振りがここに潜伏しているといえる。「天」は「アメ」と訓むべきだが「アメ」を「天」が表す意味で受けとってはならない。では、どういう意味で受け取ればいいのか。宣長の答えはこうだ。「阿米(アメ)てふ名義(ナノココロ)は、未ダ思ヒ得ず」。この答えにちょっとすかを食ったような気になるのは、「アメ」を「天」の意味で解することを禁じるには「アメ」の意味がわかっていなければならないと考えられるからだ。宣長が漢字の有する意味を、それが漢字であるというだけで無条件に否定しているという事実がここにあらわになっているといっていいが、しかし、そのことを確認しただけでは、日本の言語の起源に攻め込むには不足である。宣長は「アメ」の意味がわからなくてちっともかまわないと考えている。この考えは、直観により強引に〈訓み〉、すなわち音声を求める姿勢の対極にあるといえる。なぜ意味がわからなくてかまわないのか。宣長はいう。「諸(モロモロ)の言(コト)の、然云(シカイフ)本(モト)の意(ココロ)を釈(トク)は、甚難(イトカタ)きわざなるを、強(シヒ)て解(トカ)むとすれば、必僻(ヒガ)める説(コト)の出来(イデク)るものなり」。「僻める」というのは「理」、すなわち「漢意(カラゴコロ)」による歪曲のことだ。つまり宣長は、「アメ」を「天」の意味で、すなわち「漢籍意(カラブミゴコロ)」で解することの禁止を超えて、語の意味を是が非でも求めねばならぬという志向そのもの、「本の意」を解釈するという姿勢そのものを「漢意」と断じているのである。

ここで「本の意」とはようするに語源のことをいうのだが、そういうことで宣長のいわんとしていることを正しく把握するには、時枝誠記国語学史』の記述に目を通しておくのが遠回りのようで、じつは近道だ。時枝は、近世国語研究における語の意味の探求は、いわゆる「解釈」と「語源研究」の二つに大別できるとしたうえで、次のように語っている。

語源研究ということは、今日においては、語の意味の起源的なものを歴史的に遡ることを意味しているから、語源の研究は、語の解釈とは関係ないわけであるが、元来etyomologyという語それ自身の意味は、語の正義(etumon)を求めることである。国語学史上における語源研究も、多分にその意味で研究せられている。そして一方、解釈ということも、語の根本的な意義を求めてそれによって古典を解釈しよという風に考えられて居ったのであるから、いはゆる語源研究に類するような研究も、実は本義の探求であって、その点解釈と別物ではなかったのである。

ここに本義あるいは正義というのは何を意味するのであるか。一の語に数義が存在する場合に、その一つを本義あるいは正義と考え、他の意味をその転義あるいはその崩壊したもののように考える。今日においては、一般にそれらを時間的に変遷したものとして考えるのが普通であるが、歴史的観念の成立しない以前においては、右のように考えるのも当然であったと言えるであろう。

(『国語学史』)

こうした「本の意」すなわち語のレベルにおける意味の探索は、たとえば契沖や賀茂真淵において顕著である。吉森佳奈子は先に挙げた論文の中で、漢字による和語の解釈を批判する宣長の態度は契沖や真淵の『河海抄』への向き合い方とは「別な地平に出ている」と指摘しているが、無暗矢鱈な語釈に冷淡な宣長は、ここでもやはり、先行する国学者たちの傾向から外れているといえよう。

さて、語の意味の取り扱いをめぐるこの宣長の思想から、大事な意味を二つ取り出すことができる。そのひとつは、宣長の音声中心主義と西欧の音声中心主義との相違点に関わっている。ジャック・デリダは、『グラマトロジーについて』の中で、フォネー、すなわち声というシニフィアンが「シニフィエに限りなく近接している」という印象をもたらすことに注意を払っている。その際デリダは、オグデン=リチャーズ式というか、時枝誠記式というか、とにかく「シニフィエ」という言葉をだいぶ緩やかに用いており、いわゆる「意味(sens)」だけでなく、「事物(chose)」も含めてそう呼んでいる。他方ジュリア・クリステヴァとの対談においては「シニフィエ」を「概念(concept)」と置換可能な言葉として扱っているが、それはそこで問題とされているものがソシュールその人の記号概念であることと深い関係がある。

フォネーは、シニフィエたる概念の思考に緊密に結合したものとして意識に与えられるシニフィアンたる実質である。この見方によれば、声は意識そのものであるとさえ言える。私は自分が話すとき、自分が考えていることの現前にいるという意識を抱く。のみならず、外の世界にこぼれ落ちる前のシニフィアンを自分の思考あるいは「概念」のすぐそばに保持しているという意識を抱く。このシニフィアンは、私がそれを口にするや即座に耳にするものであり、完全に私の意のままであり、ほかに何か道具を用いたり、余計なものを付けくわえたり、外の世界から力を借りたりするようなことはまったく必要ないように思える。単にシニフィアンシニフィエとが結合しているように思えるのみならず、こうした混同においてシニフィアンが消失し、あるいは透明化し、そのため概念が、ありのままの姿でおのずから現前しているように、己の現前以外の何ものにも依拠していないように思える。シニフィアンの外在性が還元されているように思えるのである。もちろんこの経験はまやかしである。しかし、このまやかしがもたらす必然性の上に、ひとつの構造の全体、ひとつの時代の全体が組織されたのである。

ジャック・デリダ『ポジシオン』、拙訳)

西欧において声が重視されるのは、デリダが「現前の形而上学」と呼ぶ制度的まやかしにおいて、シニフィアンたる声が意識=自己のもとに直接的に現前することを通じて、声と結合したシニフィエの〈自己への現前〉が保証されるからである、といえる。声という透明なシニフィアンを蝶番にしたシニフィエと自己との密着の確保。しかしすでに見たように、国学の音声中心主義においては、声の現前が参与していないばかりか、むしろ声の不在がその本質的構成要素となっているのである。加えて、いましがた確かめたように、宣長は語の意味、「本の意」の追求を漢意として痛斥する。シニフィエの現前を問題にしていないということだ。〈概念=声=意識〉の三幅対、音声中心主義と一体化したロゴス中心主義を、宣長は西欧と共有していないのである。

 

(続く)

*1:関は論考「上代に於ける日本書紀講読の研究」で、日本書紀の講書において作業の中心を占める「訓読」の性質について問い直し、「書紀の講義を以て訓詁の学・訳語の業なりとする従来の通説」を「排撃」している。これは第一に、書紀の文章は漢文としてさほど難解なものではなく訓詁の必要性が認められないこと、第二に、私記の訓注において当時の現代語や日常語ではなく古語が当てられていること、そしてまた、「『報命・復命・報聞・有復命・報告・返』等」を「すべて一様に『カヘリゴトマウス』と読」むなど漢語間の微細な意味の違いを問題にしない場面が多いこと等を根拠とするものである。