解釈の独善性について

 

小説家の桜庭一樹氏が8月25日付朝日新聞朝刊に掲載された文芸時評(以下①と呼ぶ)中、自作「少女を埋める」(文學界9月号)への評に異議を唱えている。私は評者である鴻巣友季子氏が提示した作品の読み方、また、9月7日付朝日新聞朝刊文化欄の記事「本紙『文芸時評』の記述めぐり議論」(以下②と呼ぶ)内の見解やEvernoteの記事「8月の朝日新聞文芸時評について。」(以下③と呼ぶ)において表明した考え方には、桜庭氏がTwitterで言うとおり、かなりの「無理」があると思う。以下そのことについて書く。

まず作品の読み方についてだが、①において鴻巣氏は、次のとおり、主人公で語り手の「冬子」の母親が父親を介護中に虐待したと書いている。

家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ。

このように考えたことの根拠として、鴻巣氏は③において作品から2箇所引用している。ひとつは次の箇所である。父親の遺骸に語りかける母親の言葉を語り手の「わたし」が「黙って聞いて」いる場面。

いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。

文學界9月号p.43、強調は引用者、以下「引用箇所A」と呼ぶ)

このくだりについて、鴻巣氏は次のように述べる。

このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。

父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。

(③、強調は原文)

しかし、小説では、引用箇所Aに対応する一節の直後に、語り手の言葉として、

内心、(覚えてたのか……)と思った。

文學界9月号p.43)

という記述が置かれている。この記述を踏まえると、「いじめが二十年間の看護・介護中に起きた」と読むことには相当な「無理」があることがわかる。なぜなら、「覚えてたのか……」という感慨は、語り手がこの「いじめ」の事実について十分な認識を持っていることを示すものであり、かつ、語り手は「二十年間の看護・介護」を母親にほぼ任せきりで、介護の現場にほとんど居合わせていなかったからである。つまり語り手は「二十年間の看護・介護」という「密室」で起きた出来事を知る立場にない。語り手が「いじめ」について知っているからには、この「いじめ」は「二十年間の看護・介護中に起きた」ものではない。まずはこのように読むのが、ふつうの読み方であると思われる。しかし鴻巣氏は、引用箇所Aの直後に記されたこの「内心、(覚えてたのか……)と思った」という文を、③において引用に含めず、無視している。つまり、「(いじめが)看護・介護中にもあったのだろう」という自己の読みを形成するにあたり、テキストに明白に書かれていること――作中事実――をさしたる理由も示さずに無視している。

もちろん、語り手が二十年間の看護・介護という「密室」で起きたことをまったく知る立場にないと即断するのは早計にすぎるという考え方もできる。たとえば看護師等の第三者から「いじめ」の事実を聞いて知っていたという可能性もあったのではないかと。しかし、この場合、語り手は、母親が介護中に父親を「いっぱい虐め」ていることを知りながら、その母親に二十年間、介護を任せていたことになる……。

いや、じつはこんなことは考えなくてもいいのである。なぜなら、「いつ起きたことなのか」の問題は、これもやはりテキスト内に記された言葉をきちんと読めば、比較的容易に解決するからである。語り手の「覚えてたのか……」という言葉は、桜庭氏のツイートにあるとおり、この箇所に先立つ頁(p.28)に記された母親の言葉「覚えてない」を踏まえたものなのである。

 ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。

 父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。驚いて声を飲みこんだ。

 記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。

 不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。

文學界9月号p.28、強調は引用者、以下「引用箇所B」と呼ぶ)

つまり母親は、口では「覚えてない」と言いつつ、本当は「不仲だったころ」父親を「いっぱい虐めた」ことを覚えていた、ということである。しかし、母親がこの事実を覚えていたということは、後段(p.43)まで読み進めなくとも、引用箇所Bのすぐ後のくだりにおいて早々に明らかにされている。冬子が、

「もしかしたら、病気になる前は、お互い向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」

 と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。

文學界9月号pp.28-29、強調は引用者、以下「引用箇所C」と呼ぶ)

しかし、このくだりから読み取れることは、父親と「不仲だったころもあった」という事実を母親が「覚えていない」というのは単にしらばっくれているにすぎない、ということばかりではない。このくだりからは、「不仲だったころ」、つまり「ずいぶんお父さんを虐めた」時期が、「この二十年」でなく、それに先立つ時期、「病気になる前」であったという事実について、語り手とその母親との間に共通認識ができているということも、明白に読み取れるのである。

なお引用箇所Bは、鴻巣氏が③において自己の解釈の根拠として引いている2箇所のうちの一方でもある。鴻巣氏は、このBの引用に続けて、

母本人の意識や記憶と、傍から見た”現実”に齟齬があるのだなと思いました。

じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろうと。

(③)

と述べている。しかし、見たように、母親が「覚えていない」というのは嘘であり、本当は記憶しているのであり、しかもその記憶の内容は語り手の記憶の内容と一致している。「母本人の意識や記憶と、傍から見た”現実”に齟齬がある」、「じつは、父が体調を崩してから(も)『不仲なころ』はあった」とする鴻巣氏の読みは、いじめのあった時期を特定する言葉をも含む引用箇所Cのくだり、すなわち、明白にテキストに書かれていること――作中事実――を無視する限りにおいて、かろうじて形成し得るものでしかない。

ところで鴻巣氏は②において次のような意見を表明している。

小説にはあえて「言わずに言う」ことや、省略、暗示、要約等の空白がある。例えば、女が男に摑みかかろうとする描写の暫し後に、女が「乱暴してごめん」と謝る場面があれば、暴力があったと理解する妥当性がある。

もし鴻巣氏が、「少女を埋める」にいくつも設けられた空白、余白について、作品内にきちんと書いてあることに基づき合理的な解釈を示しているのであれば、こうした「文学の一般論」(②における桜庭一樹氏の言葉)を持ち出すことにも意味があるだろう。しかし、見たように鴻巣氏の解釈はそういうものではない。それはむしろ、テキスト内にきちんと書いてあることを無視することによって、ようやく成り立たせることのできる脆弱な解釈でしかない。このような脆弱な解釈を防御するため、「読解の自由と多様性」(②における鴻巣氏の言葉)を持ち出すのは問題のすりかえであると思う。これはそんな次元の話ではない。

テキストに書いてあることを敢えて無視し、作中事実に反するかに見える要素を含む一見妥当性の低い読みを押し通そうというのであれば、それなりの手続きを踏まなければならないだろう。つまり、作中に記されたある一定の言葉を考慮せずにいることを正当化するための作業が必要になる。しかし、鴻巣氏は、時評の場でも、その他の場でも、こうした手続きを踏んでいない。

念のため言っておけば、鴻巣氏の解釈が問題なのは、作者の意図に忠実ではないから、ではない(桜庭氏もこんなことは問題にしていない)。テキストに忠実ではないから、である。鴻巣氏の読み方、「主人公の母親が主人公の父親を介護中に虐めた」という解釈は、テキストをいい加減に読むこと、あるいは、つじつまの合わないところを勝手に切り捨てて読むことによってしか成立しない。「評者はおそらく、作品を斜め読みし、内容を勘違いし、ケア、介護という評のテーマに当てはめるために間違った紹介をしてしまったのだろう」と桜庭氏が考えるのはもっともである。

鴻巣友季子氏により恣意的に構築された作品解釈、換言すれば作品の誤読は、作者の言い分等を踏まえて修正されたという時評においてもそのまま維持されている。「弱弱介護のなかで夫を「虐(いじ)め」ることもあったのではないか」というのは根拠薄弱な、不合理な勘ぐりである。私はそう思う。