「棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい」――小説の地の文にたびたび現れる、人称制限を意に介さない文について

そういえば、「私は怖い」は「I am scared」で、「彼は怖い」は「he scares me」だというG氏のツイートへのリプライのひとつに、「『彼は怖い』を英語に翻訳するのなら『he scares me』よりむしろ『he is scary』なのでは?」というのがあって、これに対してG氏が「自分は日本語の話をしているだけだ」と答える場面があった。つまり「翻訳の話はしていない」ということなのだが、相手の人は納得していないようで、「いいえ、どうやって英語に翻訳すればいいかって話もしてました」と言い返していた。ふと思ったけれど、このあいだ自分が投稿した記事も翻訳の話だと勘違いされたりしてるんだろうか?

日本語の感情形容詞文の意味構造の話である。「私は怖い」と「彼は怖い」は外見上同じ構造をとっているが、感情形容詞の主客両面の表現性と、感情形容詞文の人称制限という二つの要因により、前者と後者の文で意味構造に違いが生じている。「私は怖い」で「は」の前に来ている要素は感情主だが、「彼は怖い」で「は」の前に来ているのは感情主ではない。感情の誘因(ないし対象)である。例文では「は」によって主題化されているが、無題化しても変わらない。感情形容詞文では多くの場合、感情の主体と誘因がどちらも「が」格で表示される。表面上、違いが出ない。でも意味構造は異なっている。G氏の示した二つの英文は、こうした日本語の感情形容詞文の意味構造の違いを明示化したものである。それだけではない。「彼は怖い」の説明にあたる「he scares me」という英文は、日本語の感情表現における人称制限(そしてその根底にあると考えられる、日本語の視点の《私》性)のため「彼は怖い」において表面上現れていない感情主「私」の存在を「me」によって際立たせるものでもある。「he is scary」という英文では、日本語文「彼は怖い」において感情主の「私」が暗黙化されているという事実が説明されない(これはもちろん、「彼は怖い」を「he is scary」と翻訳するのが間違いだという意味ではない。「彼」が「怖い」ことをその「彼」の客観的属性として述べる場合も想定できるからだ。「虎は怖い」(the tiger is scary)と同じように)。

ようするにGさんの話は「彼は怖い」という日本語文をどう英訳すべきかという話ではない。私の前回の記事も同じである。表題として掲げた「『彼女は悲しい』は『she makes me sad』か?」という問いは、「悲しい」という感情形容詞に客観用法が成り立つか?という問いであって、「彼女は悲しい」の翻訳として「she makes me sad」が適当か?という問いではない。そこは問題にしていない。どう翻訳すればいいのかというのは、その先の話だ。

いやもちろん、「she makes me sad」という英文と、客観用法による場合の「彼女は悲しい」の構文論的・意味論的・語用論的な違いについて考える、あるいは「悲しい」と「sad」の語彙レベルの違いについて考えるというのは、それはそれで面白いことだとは思う。

たとえば、「彼女は悲しい」の「悲しい」は字義どおりの「悲しい」ではなく、「考えが甘い」というときの「甘い」と同じく比喩的に拡張された「悲しい」なのではないか、したがって実質的に属性形容詞と変わらないのではないか、とか、「悲しい」の客観用法による解釈は寺村秀夫のいう「一般的な品定め」の場合にしかうまくいかない、つまり「SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい」はいいとしても「彼女は悲しい」や「(自分の)母は悲しい」といった個別的な状況にはマッチしない(だからもともと違和感を感じない人は当然に主観用法として解釈するし、違和感を感じる人も好意に基づき主観用法として解釈する)(だからGさんやH氏は出す例が悪かった)のではないか、とか。

――前回の続きを書くつもりはなかったのだが、トイレットペーパーと交換する古新聞を紐でくくっていたら、広告欄に「女はいつも、どっかが痛い」という文字列(書名)があるのが目に入り、また考え始めてしまった――

というわけで続きである。前回、三人称小説の地の文では人の内面について言い切りの形で表現できると書いた。この一般論に対し、甘露統子「人称制限と視点」では、「『太郎はうれしい』という文は、『語り』だとしても、やはり不適格な表現」であり、「許容されない」と述べられている。しかし、この手の人称制限に抵触する文が、とりわけ小説の語りの中にしばしば現れるというのは疑いようもない事実であり、「許容されない」はずの文が許容されているように見える。このあたり一体どうなっているのか、というのが今回のテーマである。

まずは実例から。町屋良平の三人称小説「しずけさ」に次のような文がある。

棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい。

これは「棟方くん」と呼ばれる人物が「夕方のひかりを浴びて」いつもより全体的な輝きを増し、第三者から見て「こわい」風貌になっているという客観描写ではない。ふだんは「夜のあいだ起きていて、朝と昼と夕はずうっとねむっている」「棟方くん」が、心療内科に行く日、「夕方のひかりを浴びて」不安に陥っているその内面を言い切りの形で表出した文である。この作品には、小説の地の文以外では「人称制限に抵触している」と判定されそうな、こうした文がよく出てくる。「いつきくんはひとこいしい」だとか、「司ちゃんもいつきくんといっしょにいるとちょっとうれしい」だとか。こういった文をどう考えればいいかということなのだが、板坂元『日本人の論理構造』(1971年)に、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」に言及した次のような一節があるということを、まずいっておきたい。太字にしたところが大事なところである。

日常使われているHe is sad.という英語は、日常言語学派の哲学者をしばしば悩ませているが、これをそのまま日本語に直して「彼は悲しい」という文を麗々しく掲げた日本語教科書がある。「彼は悲しい」という日本語がまったく存在しないわけではない。たとえば、小説などで、「彼は悲しかった」という表現が出て来る。けれども、この場合は「彼は悲しいのだ」の省略であろうし、作者と小説中の「彼」が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない。「あの映画は悲しい」の場合は、「私が悲しい」のである。要するに悲しい、ひもじい等の情意性は一人称にしか用いることができない。一人称以外には、「悲しそうだ」「悲しがっている」という風に、かならず見えとして表現されるのが普通であろう。

(板坂元『日本人の論理構造』、太字引用者)

それゆえ「『彼は悲しい』という日本語教科書の文は完全な誤りである」と板坂はいうのだが、この言い方には少し引っかかりを感じる。ここで「誤り」というのはたぶん文法的に間違っているということを意味していると思われる。でも、「普通」ではないからといって、その表現を一足飛びに間違いとみなすのはどうなのか。私は以前の記事に記したように、人称制限については文法の問題ではないと考えている。

「私は悲しい」と同じ意味合いで「彼は悲しい」というと不自然な感じがする。心理状態の表現に関し、日本語には人称制約がある。けれど、人称制約に抵触することが、そのまま文法違反(意味論的な違反、統語論的な違反)になるかといえば、それには留保がいると思うのだ。もし、この制約が「語り」において解除されるのだとすれば、なおさらそうだ。文法違反と見えても、それは単に、その言葉を然るべく機能させる文脈が、まだ見つかっていないだけかもしれないからだ。

二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』(追記あり) - 翻訳論その他

引用元の記事では藤野可織芥川賞受賞作「爪と目」を取り上げている。この作品には大層奇妙なところがあって、出版社のサイトで「純文学的ホラー」という惹句が付けられているけれど、読み通してみればわかるが、実際のところ、さほど怖いことが書かれているわけではない。それなのになぜかこの作品は「怖い」(属性形容詞寄りの客観用法)。鍵は言葉の使い方にあると思われた。「あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった」というような文が出てくる。文末の「やった」はふつうなら「くれた」だろう。この作品、こうした不自然な文がてんこ盛りなのである。

上に引用したくだりで指摘したように、不自然な文の中には、「然るべく機能させる文脈」のもとで自然な言い方に転じるものがある。たとえば「お前から始めろ!」という言い方は自然だが、「私から始めろ!」は不自然に響く。でも、「今から一人ずつ君らの首を絞めて殺してやろう。だれから始めようかなあ」と悪い人がいうのに対して、自分の体に触れた相手の脳を念力で爆破できる人が「私から始めろ!」というのは自然だろう。つまり、あるひとつの文が自然である、不自然であるというのは、文脈に左右されるところが少なくないということである。

「爪と目」の怖さについて考えるうち閃いたのは、不自然な文を読む読者は、そうした不自然さを解消することができる文脈を知らず識らずのうちに探索しているのではないか、ということである。だからこそ、「爪と目」は怖いのではないか。つまり、この作品の怖さは、不自然な文の使用を正当化する、作中には記されていない場面や状況のうちにあるのではないか。おそらくこの作品が「怖い」(主観用法寄りの客観用法)読者は、顕在的な文のつらなりが喚起する、そうした潜在的な文脈を読んでいるのである(どのような文脈が潜んでいるかについては当該記事に書いた)。

人は個別の文を文脈の中で読む。それとともに人は、欠如した文脈を自ら補うため言外の領域を探索することがある。これを別の角度から見れば、個別の文には、こうした言外の文脈の探索を促す力、あるいは、こうした言外の文脈を招き寄せる、引っ張ってくる力が備わっている、ともいえるのではないか。「爪と目」が「ホラー」足り得るのは、個別の不自然な文の有する、こうした文脈牽引力のためであると。

少し話が逸れてしまったかもしれない。とにかく文脈が肝要である。人称制限にかかる文がそのままの形で、つまり不自然さを保ったまま三人称小説の地の文で許容されるのであれば、そこには必ずや文脈――個別の文を然るべく機能させる枠組み――の働きがあるに違いない。そう思われる。

さて、日本語における人称制限は、感情形容詞(や感覚形容詞)だけの問題ではなく、主観表現一般に関わる問題であり、したがって感情動詞はもとより、知覚動詞(「見える」等)、思考動詞(「思う」等)、認知動詞(「分かる」等)、さらには願望・欲求を表す「たい」や「ほしい」を用いた表現でも同じように問題となる。たとえば「宇崎ちゃんは遊びたい!」という言葉が妙に耳に残るのは、人称制限に抵触するこのタイトルがもたらす不安定な響きにその大きな一因があるのではないかと思われる。

しかし、「宇崎ちゃんは遊びたい!」に次のような文脈を付けるとどうだろう。不安定感がいくらか軽減するのではないか?

(1)宇崎ちゃんは遊びたい。けど先輩は遊びたくないんだ。

これは次のように言い換えても、その内容に大きな変化はないと思われる。

(2)宇崎ちゃんは遊びたいけど、先輩は遊びたくないんだ。

(1)の最初の文「宇崎ちゃんは遊びたい。」は文末に句点が打たれており、外見上立派な文であるような恰好だが、実際には、末尾に「のだ」を置く後続の文に支えられることによって、ようやく文としての安定感と体裁を保っている。つまり後続の文に従属している。だから文というより従属節に近いといえるだろう。

この種の従属節っぽい文については、「ふつうの文がもつような完全なモダリティを備えておらず、文らしさの点でも典型的な文より劣る文」として、野田尚史「真性モダリティをもたない文」(1989年)で詳しく論じられているが、いま注目したいのは、「真性モダリティをもたない文」では「『~たい』『ほしい』などの人称制限」が働かないという重要な指摘である。一般的に従属節(や引用節)では人称制限が解除されるが、それと似たような効果がこの種の従属節的な文にも備わっていると野田氏はいい、次のような例文を掲げている。

何としてでも夢をつなげたい。中日と4・5ゲーム差がついた今、首位を争う“切符”を得るのはこの広島戦2連勝以外はない。巨人の気迫が広島にプレッシャーをかけた。(スポーツニッポン1988.8.17p.1)

(下線は原文では波線、太字は二重下線)

最初の文「何としてでも夢をつなげたい。」は「たい」で終わっているが、そのような願望・欲求を抱いているのは記事執筆者ではなく、「巨人」である。つまりこの文では、「たい」で終わる文に通常かかるはずの人称制限が働いていない(前回「他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもある」と書いたのは、このケースを指している)。

(1)における「宇崎ちゃんは遊びたい。」の場合も、文としての独立性の低下、文らしさの低下と呼応するかのように、通常「たい」に備わる感情表出のモダリティが弱まっているように感じられる。三人称と「たい」が共起しているのに違和感が薄くなるのは、おそらくそのためであろうかと思われる。ただ、「宇崎ちゃん」の文は、たとえ従属節っぽくあるとしても、南不二男氏の分類でC類にあたる相対的に独立性の高い従属節に相当する文である。よってモダリティも相対的に弱まっているにすぎず、典型的な「真性モダリティをもたない文」からは外れるともいえそうだ。だから(1)でもまだ違和感が残るという人も少なからずいるはずである。

ところで野田論文では、こうした「他の文に従属している」というパターンとは別に、もうひとつ「真性モダリティをもたない文」が「存在できる」条件が挙げられている。その条件とは、「文章・談話の枠に依存している」というものである。野田氏は、「文章・談話には、対話、講演、物語、随筆、日記、使用説明書などいろいろあるが、それぞれについて、その中に現れるモダリティに制約がある」と述べている。たとえば「作者が過去の事態を事実として描くだけの」、そういうタイプの「小説では、モダリティに関しても、命令・依頼や質問はもちろん、推量も現れない」。もし「推量の形式が現れる」とすれば、それは「作者の推量ではないと考えられるので、真性モダリティではない」。実例として示されているのは、連城三紀彦『暗色コメディ』から引かれた次の一節である。

バスが白い蒸気を吐いて走り去ると、白い破片が散乱する夜に彼ひとりが残された。碧川(あおかわ)宏は背宏の襟をたてると、停留所に備えつけられた待合用のボックスに入った。待合用といっても廂(ひさし)に守られただけの狭い場所である。それでも何とか雪を避けることはできた。粗末なベンチが街燈の薄い燈に赤錆(あかさび)と傷と落書を曝けている。ベンチの脇に花模様の女物の傘がたてかけられていた。まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう

(下線は原文では波線)

野田氏は、このような「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプの作品において「推量などのムードの形式が現れたときには、それは作中人物の推量というふうに解釈される」といい、これを「特殊な文学的な技法のひとつ」とみなしている。ここでひとつ疑問に思うのは、この下線部の言葉は、野田氏の主張に反し、「作者の推量」と考えることもできるのではないか、ということである。つまり、実際のところ、この作品は、「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプではなかったと考えることもできるのではないか。作者(というより「語り手」というべきだろう)が推量を行う小説は珍しくない。例を挙げるまでもないかもしれないが――

島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう

だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立ったのかもしれない

川端康成『雪国』、太字引用者)

『暗色コメディ』を「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプと前提するから、推量の形式が現れないはずだという判断が生まれ、また、仮にそれが現れた場合には「作者の推量ではない」という判断が生まれる、ということではないだろうか。そのような論点先取めいた前提を取り払えば、このような判断は生じないのではないかと思われる。

では「まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう」という推量は実際のところ、だれが行っているのか。これはだれの視点から発せられた言葉なのか。この点については、砂川有里子「話法における主観表現」(2003年)の指摘にあるように、語り手と作中人物の「どちらの視点から語られているのかはっきりしない」と見るのが妥当であるように思う。砂川氏は高樹のぶ子『霧の子午線』から次の一節を引いている。

日曜日。沢田八重は狭いベランダを掃いていた。昨日希代子から電話があり、二晩の外泊で光夫が帰ってきたと連絡があった。

体がだるいのは朝薬をのみ忘れていたせいだろう。台所で立ったまま、サラビゾリンをのみこむ。

(下線引用者)

下線部について、砂川氏はいう。「この部分は、八重の体調について語り手が解説を付しているように読むことができる。しかしその一方で、八重の心内語が彼女のことばとして直接再現されているようにも読み取れる」。というのも「そのどちらかを決める語彙的・形態的指標を見いだすことはできない」。砂川氏は、このような文の使い方を「自由間接話法」と呼んでいる。もちろん、日本語には英語みたいな直接話法も間接話法もないのだから自由間接話法もへったくれもない、ということもできなくはないので、この場合、《日本語における「自由間接話法」》ということになる。

つまり『暗色コメディ』や『霧の子午線』の文は、真性モダリティをもたない、のではなく、真性モダリティをもつのか、もたないのか、はっきりしない、のである。こういった主客の明滅状態を指して、語り手と作中人物が一体化している、二重化しているといわれることがあるが、これを野田氏のように「特殊な文学的な技法」というのであれば、この「技法」は板坂元が前掲書でいうとおり「源氏物語の頃に完成して、今日まで踏襲されている」「千年前からの手法」である。しかし、砂川氏も「日本語の物語文体では、語り手のことばなのか登場人物のことばなのかがあいまいになり、どちらとも読みとれる以上のような表現が頻繁に観察される」というように、ことさら「技法」というほどのものではなく、日本語で書かれた物語の、いわば常態であり基調であるといったほうが実情にかなっているのではないか。日本の物語は、基本的にこの意味での「自由間接話法」によって書かれているとさえいっていいくらいだ(そのため、情景描写でなくとも、小説の冒頭部を読んだだけでは一人称小説なのか三人称小説なのかわからないことがよくある)。

こうした一体化・二重化は、言葉の帰属先を語り手と作中人物のいずれかに確定することができないという、いわば消極的な形において実現されているものである。しかし、砂川氏が「自由間接話法」と呼ぶ表現は、こうした消極的な形のものに限られない。積極的なタイプ、すなわち「なんらかの語彙や形態が指標になって」言葉の帰属先が明らかにされる場合がある。

この四月から、就学困難な児童のための(教科用図書の給与に対する国の補助に関する法律)が施行された。志野田先生はその補助を、クラスの三人の子供たちのために申請してやりたい。しかし新しい規定であるだけにその手続きが解らない。教育委員会へ出すのか民政委員に出すのか市役所に出すのか、まだだれも知らないらしい。

石川達三『人間の壁』から引かれた一節であるが、下線の文について砂川氏は、「感情・感覚・希求など、それを感じる主体にしか感じられない主観が現在形で表されていること、およびそれが三人称主語をもつ文であること、これらが指標となって(中略)自由間接話法と判定される」と述べている。ここまで来れば、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」について「作者と小説中の『彼』が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない」と板坂元がいっていることの意味が分かるはずである。板坂氏は、三人称小説の地の文において人称制限に抵触する文は、日本語におけるこのタイプの「自由間接話法」の文にあたるといっているのである。

先に見た主客の決定不能性に基づく「自由間接話法」に対し、こちらの「自由間接話法」は、文のレベルにおける主客の露骨な、あからさまな接合、融合の上に成立している。主観の直接的表出性が強く、一人称にしか用いられないはずの表現を、こうして無理やり三人称に当てはめることが醸し出す、主客のねじれのような違和感は、甘露統子氏のいうとおり、「語り」だとしても、やはり簡単には消えないようである。しかし、ここでひとつ留意しておかなければならないのは、日本の近代小説においては、むしろこの違和感こそが表現上の勘所になっているという事実である。消極的な「自由間接話法」が日本の物語の長い伝統を受け継ぐものであったのと違い、「彼は悲しい」型の積極的な「自由間接話法」は、中山眞彦『物語構造論』で示唆されているように、「日本語の物語文体が、西欧近代小説と接触した際に生じた波紋の中に」、その淵源を探り当てることができると思われる。いわゆる「言文一致」以降の日本の文学が、外国文学の生硬な翻訳に文体的・感性的な基盤を置いてきたことについては以前触れたことがある(二葉亭の「逐語訳」の「影響力」をめぐって - 翻訳論その他)。つまり文章のぎこちないことは、文学作品においては、マイナスの要素とならない。というか、大きなチャームのひとつだ。「信一は、笹島さんを彼女を恋して居る、この心持は段々にそれと自分に分ったが、信一は彼女をはっきりと思う工合になっても、この一ツの心持は誰れにも秘めてジッと堪えて居た」(瀧井孝作「結婚まで」)みたいな節くれだった文章が平気で受容される文学環境においては、「小説の神様」の文体の流れを引く平明な文章は、「凡庸なシンタックス」(大江健三郎私小説について」)などといわれてしまうことさえある。

そろそろ締めくくりたい。「『感情の直接的表出』というムード」(寺村秀夫)の強い表現を伴う文は、三人称の感情主が「は」等によって文中明示された場合、たとえ小説の地の文であっても、一定の違和感を喚起する。つまり小説の地の文だからといって人称制限が解除されるわけではない。ただ、小説においては、人称制限に抵触する文の喚起する違和感が、ある種の《良さ》として認知され、そのため許容されるということである。