天皇制と日本語

 

生来の日本語話者の一群が一群のレベルで折に触れて表出する日本語への異和感は、「いいたいことがうまくいえない」といった言語表現をめぐる普遍的な問題とはおよそ異質なものである。言語が言語であることに由来する、この手のありふれた不満は、その突き詰められた先で、もっぱら例のあの「語りえぬもの」に関係している。しかし、山城むつみは「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」(「文学のプログラム」)というのだ。「毒」(中上健次)は、どうやら日本語での読み書きの全体に回っている。「ドップリ漬かってる」とはそういうことだ。

たとえば丸谷才一鈴木孝夫をはじめとする多くの人たちが、志賀直哉の「国語問題」の文章における明晰さの欠如を指摘する。「こんな調子で書けば(中略)フランス語で書いたつて、ろくな文章はできるはずがない」(丸谷)。「もし同じ議論を英語なりあるいはフランス語で書いたとしても、あいまいで支離滅裂な主張になることを私は疑わない」(鈴木)。しかし、では、明晰に書けば「国語問題」は解決するのだろうか。「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」と山城のいう、こうした虚しさは、それによって解消するのだろうか。むしろ日本語を使う日本人は、明晰に書かれたものをそのまま明晰に書かれたものとして受け取ることができない、そのような条件のもとに置かれているのではないか。

漢文訓読という営為の奇妙さは、だれでも感じているはずのものである。ところが、この奇妙さを言い当てようとすると、どうしたわけか、うまくいかないのだ。そのせいか、「訓読は翻訳の一種である」と、さらりと定義して済ます者たちが少なくない。けれど、漢字をところどころひっくり返して読むという単純な操作だけで、なぜそれが和文として理解できるようになるのか。なぜこんな奇妙な読み方が成り立つのか。なぜ訓読において外国語を読んでいるとも自国語を読んでいるとも容易にいえないような気色の悪い絡み合いが生じるのか。「訓読は翻訳の一種である」だとか「訓読は一種の訳読である」だとかいう場合の、この「一種」という留保に映り込んだあいまいさの影に真正面から向き合おうとする試みに出会うことは意外なほど少ない。「なぜ、何のためにこのような奇怪な読み方をする必要があったのか」という、山城むつみの問いは、こうした翻訳であるとも翻訳でないとも断定しがたい漢文訓読の二本の蔦のように絡み合った性格を前にすれば、ほんとうは誰でも抱くはずのものである。それなのに訓読の謎についてきちんと考えようとすれば、いまなおこの山城が九十年代に書き記した数編の論考にあたるしかないといっていいのだ。

小林秀雄津田左右吉という、やはり例外的存在といえる二人の文人が訓読に向ける視線を自己の目に奪い取った山城の、「訓読は読むための考案ではなく、書くための考案だった」(「文学のプログラム」)という目的論的な見解は穿ち過ぎており、端的に間違っていると思われるが、その周辺に散見される諸々の指摘には、些細な瑕疵を補って余りある貴重な洞察が含まれている。

古代、書くとはすなわち漢文を書くことであったような頃、やまとことばで語っていた日本人も、だから書記行為に及ぼうとすれば、外来のこの文字とこの構文にできる範囲で書くしかなかった。「ここにはチグハグな奇体さがある」と山城はいう。「不自然な異和」ともいっている。こうした書くことに伴う「異和」は、「訓読について」で山城自身がいうように、日本語に限らず「世界の何語に属していようと、書くことが本来的にもたされている質」であるはずだ。しかし山城の考えでは、日本語においては、こうした書くことにまといつく本質的な「異和」を解消するための仕組みが設けられているのである。その仕組みこそが訓読である。山城はそういう。

出発点は、一定の漢文から一定の訓みを機械的に引き出すための体系的な規約を編み出すことであった。このような規約は、それがあれば、それを反転させることにより、一定の和文を一定の漢字の連なりで表記することができるようになる。このようにして表記された文は、「形の上では漢文を保存しながら実質的には和文と化している」。つまり、「漢文=和文」という、密着的な言語の形が、やまとことば話者に獲得される。これにより漢字漢文に由来する「異和」が解消するというのは、漢字漢文で書くことが、この仕組みを通じて、そのまま和語和文で書くことのほうへと、オセロの駒のようにパタパタと裏返されていくからである。訓読に対する山城の基本的姿勢は、この反転のプロセスを、最初から日本文の生成を狙って仕組んだものと考えることにある。これに対する反論は、やまとことば話者(原住民)にとって書くことの原初が漢文で書くことであれば最初から和文を書こうなどという考えが生まれたとは考えられないこと、また、日本列島内での文字表記着手のイニシアティブを握っていたのが原住民ではなく大陸・半島からの渡来人であったと考えられること、また、漢文と和文とを一義的に連結する体系的な規約は訓読のはじまりには存在していなかったこと等々を考えあわせると、比較的容易な作業のように思える。ここでは「日本における散文の成立は(中略)漢文訓読の余得とみるべき」(亀井孝大藤時彦山田俊雄編『日本語の歴史2』)という考え方をとっておきたい。

さて、この二重の所属において、新たな緊張の種子が宿ることは不可避であるだろう。つまり、それが和文としか書かれたものであるのか、漢文として書かれたものであるのか、形の上からは区別ができなくなる。山城によれば「この緊張が訓読というプログラムの初動となった」。具体的には、漢文のシンタクスからの離脱と、てにをは構造の明示化に向かう、和文性の開示に向けた運動がここから発動する。山城は、変体漢文から始めて、史部流、宣命書き、古事記、和漢混淆文、そして近代日本文に至るまでの書記形態の、その方向での変遷を、おおよそ歴史的な時間軸に沿って追うようなそぶりで示しているが、これらの形態はあくまで理念型として取り出されている。これについては山城が付言しているとおりだ。その主眼は、「訓読のプログラム」が現代の日本文においても作動しているという点に置かれている。この主眼を踏まえると、日本語の書記形態が、その中和的効能を維持するため形成途上で招き寄せてきたさまざまな水準の交雑も、現在の日本語文にそのまま尾を引いているという考えが自然に導出される。

交雑の第一は、文字の水準における漢であることと和であることの癒着である。「漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである」(『本居宣長』)と小林秀雄のいうように、和訓は和漢の文字形態上の同化を実現した。この同化はしかしあくまで形態上のものであって、同じ個所で小林のいうような、漢字に「同じ意味合を表す日本語を連結する」というような単純なものではない。もっとも小林はすぐあとで「形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう」と正当な考えを述べている。これは重要な指摘であるといえ、後の機会に詳しく見たいと思うが、いまはまだそのときではないので、第二の交雑に移ろう。これは読むことと書くことの混淆である。和文の成立に先立って訓読の成立があった。これを小林秀雄山城むつみのように「和訓の発明という、一種の放れ技」と見るべきか「余得」と見るべきかはひとまずわきによけて、ここから引き出せることを引き出しておくと、山城のこういうとおりになる。すなわち、「日本語においては『書く』という行為がそれ自体では成立しえず途中で消失しており、『よむ』という行為によって引き受けられることによってしか成立しなかった」のであるから、「現に書かれ読まれているにもかかわらず、厳密には『書か』れてもいなければ『読ま』れてもいないという可能性が日本語には大いにある」。具体的な例は、石川九揚『二重言語国家・日本』の中から拾い上げることができる。石川の挙げる例は、少し単純すぎると思われるかもしれないが、そのぶんわかりやすいというメリットがある。

たとえば「春雨来る」と書かれているときに、「はるさめくる」と「シュンウキタル」との間では意味が異なるにもかかわらず、その違いを無視して読まざるをえないというあいまいさが日本語には避けられず、その幅の容認を強いられ、その部分を空白=〇(ゼロ)記号のままに放置しなければならない。それを克服する道はルビによって読みを与えることであろうが、印刷文がルビを失った、おそらくは戦後から、その曖昧度は進行した。否、それ以上に、ルビなどなくてよいとするあいまいさがあいまいさを加速したとも言えよう。微妙・繊細な性質をもちながら、かつその微妙・微細に名をつむり空白にすることを強いられるという、怪しげな二重性を日本語は強いてもいるのである。

書くことと読むことが相対する構え、書かれたものが読まれるという単線的な図式、これが日本語の場合、成り立っていない。換言すれば、書くことの主導性が読むことに半ば奪われているということだ。

山城の文章から取り出せる三つ目の交雑は、〈書く〉と〈語る〉のあいまいな連合、あるいは言と文との表見的絡み合いである。これは物語と制度の、中上健次のいう「癒着」の局面で発火する。たとえば古事記の文体(かきざま)について、山城は、これが「一種の言文一致の試み」にあたると述べている。

たとえば『古事記』が表記において凝らした実験は言文一致の試みに似ている。中国語に影響される以前の固有の日本語(古言=古事)、それも歌や祝詞のような特殊なことばではなく、ごくふつうに話された平明な日常語の「ふり」や「姿」をうつそうとしたという意味において、『古事記』は一種の言文一致の試みである。むしろ、それは、散乱する文字の諸価値を標準化し、文固有のマテリアルを創出することである。眼目は音の再現(再生)ではなく、文のレベルの生成なのである。

(「文学のプログラム」)

勘どころは、このようにして創出された「文固有のマテリアル」が、次のとおり、言文一致の効果としてある〈言〉の質にべっとり覆い尽くされることを通じて、書かれた端から「中性化」され、その実質を次々きれいに抜き取られ、あるいは打ち消されていくということである。

和「文」は、たしかに外形においては書かれるが、にもかかわらず、書かれたもの(エクリ)であるという質を自ら抹消し、実質的には、語られたもの(パロール)という質を暗示する。それは現象的には書かれても、本質的には書かれていない。書かれていながら、書かれていないというこの奇妙な属性こそ和「文」の特徴である。「文」とは、いわば文(ブン)を中性化して文(アヤ)となしたものである。ここで文(アヤ)とは、詞が派生する詞ならざるもの、すなわち言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味のことである。

(同前)

このような文の実質の自発的、自動的なマスキングによって「文(ブン)」から「文 (アヤ)」に変貌した書記形態において、「文字通りの意味」とは別様の「非言語的な意味」が「生成」する。つまり、「文(アヤ)」のレベルにおいて生じるこの「非言語的な意味」が「文(ブン)」のレベルにおける字義性に覆いかぶさり、それを窒息に追いやっているということである。

この山城の議論は、言文一致の効果を制度の身元保証に見た中上健次の見方を裏面から更新するものであるといえる。中上と同様、山城の念頭にあるのも、日本の書き言葉と天皇制の結託である。古事記に代表される「和『文』の地平の開設は上代天皇制のイデオロギーと不可分の関係にある」と山城はいい、「『古事記』が上代天皇制のイデオロギーとして機能したとすれば、それは皇統を神話化するその内容のためではない。それが和『文』として書かれたその形式のためである」と断定している。こうした形式主義的な転回が山城の議論の山場を形作っていることは否定しがたい。しかし、以下の論述を読む者はだれでも、そこにさしかかるまでの論述にはたしかに見られなかった停滞が、そこからにわかに広がりだしていることに気づかざるを得ない。

外国の文字を受容することは、とりわけ文字の体系を持たない共同体にとっては、強烈な異和を伴う出来事となる。その異和(外傷)は精神障害(たとえば神経衰弱)を引き起こす。だが、日本においては、文字あるいは文がもつこの種の危険性は中和される。訓読というプログラムに即して文(アヤ)のシステムが構築されているからである。漢字や漢文を、その形は保存したまま、実質的に日本文字、日本文と化すことによって、それらが外国の文字や文であることから来る強烈な異和感は巧みに中和されてしまうのである。このことは、結果的には「やまと心」や「やまと魂」が一般的に流通する領域が、外来の文字により拭い去れない危機的なダメージ(外傷)を被ってしまわないよう、これを保護するかたちになっている。

(同前)

ようするに、「訓読のプログラム」の発揮する中和力のおかげで、「やまと魂」や「やまと心」といった言葉を拠り所とした天皇イデオロギー言説が、受け手の「日本精神」に障害を与えることなく普及するという、ちょっと拍子抜けするような話である。そして同時にこれは、ちょっとへんな話でもある。というのも、言説の流布に際しての心理的ストレスを限りなく減らすというようなことが「訓読のプログラム」の効果なのであれば、たとえば天皇制に反対する言説も、天皇イデオロギーと同じように円滑に流通することになるのではないかと考えられるからである。もうひとつ、山城はこうも書いている。「訓読のプログラムは『古事記』を始めとする上代の文献においてのみ作動しているのではない。それは、いわば遺伝子として今日の日本「文」の装置のうちにも伝達されている。その機能は依然として健在であり、上代と同様、現代の天皇イデオロギーのジェネレータとなっている」。書き言葉を支配していたのが制度側の人間に限られていた古代であれば、書かれた言葉を制度的言説で埋め尽くすこともできるだろう。しかし、現代では書きたい人はだれでも書くことができる。この山城の分析では、「訓読のプログラム」は現代の日本文にも受け継がれているのであるからこの形式を撃たなければ天皇制は克服されないという肝心の指摘が宙に浮いてしまうのではないか。

天皇制と訓読の関係をめぐる、こうした拍子抜けの感覚は、「文学のプログラム」の数か月後に著された論考「訓読について」を読むとさらに強まる。山城は、柄谷行人が引用するソシュールジュネーヴ大学就任講演」の一節を参照している。言語の死は常に「外的な原因」によると語るソシュールは、その原因として二つのケースを挙げている。ひとつは「それを話す民衆」が「根絶やしに」されるケース、そしてもうひとつは「強力な民族が自分の特有語を新たに押し付けてくる」ケースである。ただし後者の場合、「政治的支配ではだめであって、まず文明の優位ということが必要です。しかも文字言語の存在はしばしば不可欠で、それが学校、教会、役所、要するに公私にわたる生活路の全体をとおして押しつけられるわけです。こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。山城は後者のケースを日本の古代にそのまま投影して、いっている。「政治的、経済的、軍事的な力」を備えた特定の氏族が、「みずからの俗語を全国に普遍的に流通させ」、それによって他民族を「内面からイデオロギー的に支配する」には、「政治的、軍事的な力に加えて文字言語の力が不可欠なのである」。そして、

じっさい、のちに「天皇家」となる有力氏族が、その武力と政治力を背景に、みずからの俗語を「日本語」として押しつけ、他の諸俗語を圧死させ、その担い手であった諸氏族を内面からイデオロギー的に支配できたとすれば、それは、みずからの俗語を漢文という文字言語と密接に関係させることに成功していたからである。外圧的な力のほかに文字言語の力を背景としていたからにほかならないのである。

私の考えでは、それを可能にしたのは訓読という工夫である。訓読は、その有力氏族が、古代中国帝国から輸入された文字言語を、自らの俗語に関係させ、いわば後光としてその力を取り込んでいくための装置なのである。

(「訓読について」)

ここらへんに見えるのは、思考の停滞というよりむしろ後退というべきものである。言語の強制によって「内面からイデオロギー的に支配」することが可能という安直に思える発想が暗黙の前提になっているが、それよりも問題は、ここにいわれるような支配力は、「書かれた文から文としての物質的価値を消去してしまう」だとか、「『書く』ことの質を無化してしまう」だとかの訓読の働きとはすでに無関係な、「後光」という単純きわまりないところにまで沈み込んでいるということである。文字言語の「後光」というのなら「異和」は解消されていないということになるのではないか。また、「後光」程度のことであれば「訓読のプログラム」といった手の込んだ概念装置を用意する必要はなかったのではないか。「こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。和文に特徴的な複合的性格やそのシステムの生成過程、訓読の中和力等々に鋭く迫っていく考察からの、これは明白な後退であるといえる。漢文訓読という奇妙な仕組みの奇妙さへのすばらしい粘着を起点に開始された論述が、こんなふうに尻すぼみに終わるのは、訓読の成立に対する目的論的な見方に内在する、ある弱さのあらわれなのではないか。これに似た弱さは、天皇の書き言葉と、賤民の話し言葉、語り言葉との自動的な対立に依拠した中上健次の発想にもあった。七十年代の半ば頃、篠田浩一郎「天皇制と日本語」あたりに端を発すると思われる、日本語を天皇制の問題と絡めて問うやり方には、俗流に解釈されたサピア=ウォーフ仮説にも似て、どこかひきつけられるものがある。でももしかすると天皇制と日本語の結び付けそれ自体、中上健次の言葉を借りれば、「根源的な暴力みたいなものによって仕組まれてるんじゃないかって、気がする」。

さて、山城の議論に見える後退は、後退の始まった地点にまで面倒がらずに遡行し、そのとき選ばれなかったほうに細く伸びていく道を選ぶという単純な、あるいは機械的なやり方で意外にも簡単に回避することができそうだ。やりなおしの問いは、こんなふうに立てられるだろう。訓読は、書くことにつきまとう異和を中和することによって「日本精神」を保護する、そういう装置なのではなくて、むしろ書くことの異和を読み書きの全体に波及させることを通じて「日本精神」を絶えず新たに生み出し続ける発生の装置なのではないか。この装置は、異和においてしか存在しえない――漢心の否定によってしか、漢心の影としてしか存在しえない――「やまと心」のため、常に新たに異和をこしらえあげる装置でもあるはずである。さらにここからたぶん、もうひとつ、やりなおしの問いを立ち上げることができる。訓読の問題の核心は、山城むつみの考えるような形式の次元にではなく、天皇制の擁護だとかいった伝達内容の次元にでもとうぜんなく、厳に意味作用(シニフィカシオン)の次元に存するのではないかという問いである。たとえば山城は、すでに見た三つの意味論的交雑の三つ目について述べる箇所で、「言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味」に言及しているが、このような意味ならぬ意味が発生するメカニズムのことを、形式の面に重点を打つ山城の、「音声的な価値である」が同時に「音声的な価値のことであるとは言えない」という矛盾めいた文(アヤ)をめぐる記述は、じゅうぶんに解き明かしていないように思える。

〈言〉を僭称し〈和〉を搾取する言文一致の〈文〉は、「文字通りの意味」の上に「非言語的な意味」の覆いを被せ、それを次々と無害化していく。中上健次のいう「衰弱した、飾りばかり多なってしもうた書き言葉みたいなもの」が、山城むつみのいう「書かれた文(ブン)のおもてに派生する、もはや文(ブン)ならざる彩り」(「文学のプログラム」)が、「本当の言葉の重み」を巧みに打ち消し、「つらい」という言葉、「寒い」という言葉から「つらい」の実質、「寒い」の実質を抜去する。明晰さをひたすら虚しさに追いやるこの条件、字義を「アヤ」に組織的・機械的に転換していく歪曲の力、隠蔽の力、諸力。しかし、これらの力は、いったいどこからくるのか。その源泉は何であり、また、どこにあるのか。訓読とはつまるところいったい何なのか。