梶井基次郎「路上」に記されたいくつかの言葉を強く引き絞ることによって得られる不死性の推論は、もともと異質な三つの要素の複合として構成されている。第一のそれは述語論理に基づく「他者は我なり」の推論であり、第二のそれは「視点の反転」の常態性についての閃光的な気づきであり、第三のそれは「この自分」の《いまここ性》に由来する不死の自明性である。
三つのうちで一番パワフルな不死性要素が最後に挙げた「この自分」の《いまここ性》に伴う不死の自明性であることはいうを俟たない。なぜならそれは自明――自ずから明らかであるから。
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』から取り出せる二つ目の論点は、この自明な不死性に関係する。換言すれば、自分は不死か可死かという問題である。あらかじめ述べておくと、メイヤスーは「あらゆるものの〈別様である可能性/非存在の可能性〉」を主張しており、したがって自分が不死であることの自明性に異を唱えざるをえない。そういう立場に置かれている。
メイヤスーの主張の核心に触れるこの論点が顔を見せるのは、「私たちの死後の未来はどうなるか」というテーマをめぐって、キリスト者、無神論者、相関主義者、主観的観念論者、思弁的哲学者の五者が、それぞれの立場から意見を戦わせる場面である。
この架空の議論の場において、キリスト者は「私たちの存在は死後も存続する」と主張するであろう。「神の永遠の観想においてそうなのである」と。しかし無神論者は正反対の意見を述べるだろう。すなわち「私たちの存在は死によって完全に破棄される、死が私たちを純然たる無にする」と言明するはずである。
いずれも独断的と呼んでいいであろう両者の実在論に対して、相関主義者が「相関項の第一次性」を持ち出して反論を加えることは必定であろう。「相関項の第一次性」とは、「私たちは、それ自体で存在するものではなくて、思考に対して与えられたもの=所与にしか関わることができない」とする、相関主義の根幹をなすテーゼである。キリスト者においては「私たちの有限な理性にとって理解不可能な存在者」とされる「神」が、そして無神論者においては「純然たる無」が、それぞれ「即自的なもの」とみなされているが、それらはじつのところ「思考に対して与えられたもの」であるにすぎないと、相関主義者はいうであろう。そしてこう付言するに違いない。「即自的なものは〈私にとってのもの〉に変換されなければ知ることはできないが、これと同様に、私は、この世界にもはや私が属していないという条件下で私がどうなりうるのかを知ることはできない、なぜなら、知というものは、この世界に属しての存在を前提にしているからである」
よって相関主義者の主張は、次のようなものとなる。私たちは死後どうにかなるであろう。それはどう考えてもいい。しかし、どう考えてもいいとして、その「どう」の内実、つまり、どうなるかについて確定的なことは私たちには知り得ない。それは私たちの思考の埒外にある。
相関主義者の唱えるこの不可知論に対し、主観的観念論者の突きつける見解が、冒頭に見た不死の第三要素と同じ、「私」の自明な不死性である。観念論者は述べる。即自的な神や無が思考不可能であるのはいうまでもないとして、相関主義者の想定する「この世界にもはや私が属していない」という状態もまた思考不可能ではないか。「私がもはや存在しないということを私が思考するなど不可能であり、私は現に思考しているという事実ゆえに、自己矛盾になるしかない。私は、存在しているものとしてしか、現にそうであるように存在しているものとしてしか、思考できない。ゆえに、私は存在するしかない。いつでも今そうであるように存在するしかないのである。したがって私の精神は、身体はともかく、不死である」
メイヤスーは、主観的観念論を相関主義の「『内的な』敵」と呼んでいる。なぜならそれは、相関性を突き詰め、これを絶対化することで相関主義を内側から食い破ろうとするものだからである。つまり、主観的観念論者は、「相関項の第一次性」の原理を自己の死という観念に適用してみせたのである。そして主観的観念論においては、「まったくの無‐主観的なものは存在しえない」。すでに見たように、思考不可能なものは「除去」されるということである。「こうして観念論者は、根本的な超越性のあらゆる形態を無化するのと同じやり方で、死を無化するのだ」
このような考え方は、「路上」から読み出された「変な気持」の不死論と、発想の中核を共有しているように思える。
この主観主義に対して、相関主義者(強い相関主義者)が再反論を行うとすれば、どのような形が考えられるか。相関主義者は、まずなにより「死において私がまったく別様になりうること(神によって自失させられるとか、無化されるなど)は、私の自己同一性の存続と同じく思考可能である」と断言しなければならないだろう。つまり、自分の可死性を主張しなければならない。そしてその際に相関主義者は、「相関項の事実性」(斜体は原文では傍点)と呼ばれる新たな原理を支えとするであろう。ここで「事実性」とは、世界のあらゆる事実、あらゆる構造、あらゆる法則が現にこうである理由は問うことができず、ただひたすら事実として受け取るほかないという、世界と私たちの根本的な在り様をいうものである。この相関主義第二の原理は、その帰結として、「世界の《全き他者Tout-Autre》」の可能性を「その不可能性を確立できないという私たちの不能性」において消極的に是認せしめる。消極的というのは、相関主義者がここから引き出すのは、「何であれ絶対的に不可能であるとは言えない、思考不可能であるとさえ言えないということ」までだからである。つまり、それが否定できないことは認めるが、それを肯定することはしない。よって相関主義者によれば、「思考不可能なものが不可能であるということは、思考不可能である」(斜体は原文では傍点)ということになるだろう。
この原理を、相関主義者は、可死性の議論に適用する。たしかに主観的観念論者のいうように「私がもはや存在しないということを私が思考するなど不可能」であろう。しかし私は自分が存在する理由を知らない。私の存在は理由なしだ。自分が存在することに理由がないのであれば、自分が理由もなく存在しなくなる可能性も排除できないだろう。つまり――自分の死というものがどういうものであるかは思考できないにしても――自分の死の可能性そのものについては思考可能である。相関主義者はいう。私は「思考不可能なものを思考できないが、思考不可能なものの可能性であれば、実在の非理由において間接的に思考できるのである」。したがってキリスト者、無神論者、そして主観的観念論者が表明する絶対主義的な見解は、いずれも思考可能であり、「合法」である。ただし、それらを肯定するに足る必然的理由は存在しない。よって相関主義者としては、いずれも肯定できない。
こうした相関主義者の考え方――「非理由」を蝶番に私の不死性と私の可死性を対等に結び付け、そこから後者の思考可能性を反射的に引き出すというこの考え方は、しかし正当だろうか?
正当ではないように思える。なぜなら、この考え方は、その基礎部分に看過できない瑕疵が疑われるからである。
しかし説明は後に譲り、先に進むことにする。相関主義者の議論を受けて、最後の発言者である思弁的哲学者(すなわちメイヤスー)が展開する主張、それを見ておきたい。その発想のアウトラインは、主観主義者の流儀に即して相関主義者の発想を逆手にとる、というものである。具体的にいえば、思弁的哲学者は、主観主義者が相関主義の第一原理、すなわち「相関性」を絶対化したのにならい、相関主義の第二原理、すなわち「事実性」を絶対化するという戦略を採用する。
相関主義者にとって「事実性」とは、「思考は〈存在するものがなぜ存在するのか〉を明らかにできないという、思考にとって本質的な不能性」を意味する。しかし思弁的哲学者は、相関主義において私たちの思考の限界と見られていたこの「事実性」の帰属を、「私たち」から「世界」へと移転する。つまり、「事実性」の本質を構成する「非理由」を「存在者の究極の特性」(斜体は原文では傍点)とみなすのである。しかし、それだけではない。思弁的哲学者は、ここからさらに一歩踏み込む。「あらゆる事物そして世界全体が理由なし」であるのなら、それらは「この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうる」(斜体は原文では傍点)という主張の形成にまで思考を突き詰めていく。
いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである。
(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)
思弁的哲学者は、以上のロジックを携え、私たちの死後をめぐる議論に参入してくる。思弁的哲学者は問う。見たような《理由の非知》を《非理由の知》とみなす思考の転換と、それに伴う「別様である可能性」の絶対化は、どのようにして可能になったのか。思弁的哲学者はいう。そのやり方は、ほかならぬ相関主義者が教えてくれたのだと。相関主義者は、自分の不死性を主張する主観的観念論者に対し、自分の可死性をどのように主張したか。「私たちが存在していることの〈理由の不在〉」から、私たちの可死性を含む「別様である可能性」を引き出すことによって、そうしたのである。ところで「この〈別様である可能性〉は私たちの思考に相関的に思考されることはありえない」(斜体は原文では傍点)。なぜか。「なぜならそれは、まさしく私たちの非存在の可能性を含意するからである」。したがって、自分が存在しなくなる可能性を含む「別様である可能性」は、相関的なものではなく、絶対的なものでなければならない。自己の可死を唱える相関主義者は、自己の不死を唱える主観的観念論者に対抗するにあたり、無自覚のうちにそのことを思考しているのである。そうでなければ、主観的観念論者に対抗することはできない。ゆえに相関主義者は単なる不可知論にとどまることはできない。「別様である可能性」を絶対的なものと認めなければならない。
以上が思弁的哲学者の主張である。この主張の妥当性について考えたい。そのロジックは、見たように、相関主義者のロジックを取り入れ、それを徹底化するというものであった。すなわち、思弁的哲学者は、主観主義者の不死論に反駁する際に相関主義者が持ち出した「事実性」の原理を絶対化した。しかし、先に指摘したとおり、そもそもの相関主義者の可死性のロジックに、躊躇なく受け入れることの難しい、不審な点が含まれるのである。
相関主義者は自分の可死性を主張するにあたり、「私の〈非存在の可能性〉は(中略)私が存在することの〈理由の不在〉とペアをなすように思考可能なのである」と述べている。つまり、「私が存在することの〈理由の不在〉」から「私の〈非存在の可能性〉」を引き出している。この手続きは、それだけをとってみれば、正当であるように見える。しかし、この論証には、じつは隠された前提がある。そしてその前提が真であることの証明を、相関主義者はおろそかにしているのである。
相関主義者は、自分が現に存在する理由はわからないという。それはいい。しかし、それはあくまで「わからない」のであって、「存在しない」と言い切ることはできない。たしかに、自分が存在することに理由がないのであれば、自分が理由もなく存在しなくなる可能性も否定できないだろう。しかし、自分が存在する理由がわからないこと、ただそれだけをもって、自分が理由もなく存在しなくなる可能性があると結論することはできない。なぜなら理由は単に知られていないだけで、実際には存在するかもしれないからである*1。
ようするに相関主義者は、《理由の非知》から《理由の不在》へと思考を短絡させている。あるいは《理由の非知》と《理由の不在》を曖昧に混同している。自分の可死性を自分の不死性のカウンターパートと見る相関主義者の見方は、「非理由」に係るこのような短絡または混同の産物でしかない。そういえよう。そしてこうもいえよう。「事実性」の本性に関するこの思考の不備ないし論理の飛躍を、「事実性」、そして「別様である可能性」を絶対化する思弁的哲学者は、相関主義者からそのまま受け継いでいると。
私たちの有限性に起因する《理由の非知》を《非理由の知》に転換する過程、「私たちにとっての非理由」(斜体は原文では傍点)を「即自的な非理由」(斜体は原文では傍点)と捉えなおす過程、「事実性」と「別様である可能性」を絶対化する過程の裏側で、密かに「非理由irraison」という概念の重大かつ本質的な改変が遂行されているのである。
さてメイヤスーは、私たちの死後に係る議論を締めくくるに際して、相関主義が抱え込む自己矛盾を浮き彫りにしてみせる。脱‐絶対化を主張する相関主義は、その根幹をなす二つの原理のいずれかを「暗に絶対化することでしか機能しない」(斜体は原文では傍点)。相関性を絶対化する主観主義的形而上学に対抗するため、第一原理である相関性の脱‐絶対化を試みるとすれば、第二原理である事実性の絶対化が不可欠となる。他方、事実性を絶対化する思弁的哲学に対抗するため、第二原理である事実性を脱‐絶対化しようとすれば、観念論者のごとく相関項の絶対性を主張せざるを得ない。したがって相関主義的な立場は矛盾なく維持することはできない。メイヤスーはいう。
ゆえに、私たちは循環[=相関的循環(引用者)]の支配から逃れる二つの道をもっている――相関項の絶対化か、事実性の絶対化か、である。ところで、私たちはすでに〔神の〕存在論的証明を斥けることで、形而上学的な選択肢は失効させたのだった――つまり私たちは、観念論の道を採ることはもはやできないのである。なぜなら観念論の道は実在的必然性に囚われているからだ。それは、特定の存在者、ないし特定の存在論者のタイプが、絶対的に存在せねばならないと求めるものである(大文字の《精神》や《意志》や《生》など)。
(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)
「変な気持」の不死論は、メイヤスーが拒絶した側の道、すなわち主観主義的形而上学の道を選ぶものである。それは「この自分」の「実在的必然性」の強度ある実感に支えられている。そのことについて考えたい。
(つづく)
*1:じつはこのことは、死後をめぐる架空の対話の中で、相関主義者も明示的に認めている。曰く、自分のいう「可能性」は、思弁的哲学者の主張するような「実在的可能性」ではなく、「無知ゆえの可能性」であるにすぎない。それゆえ死後に係る形而上学的な選択肢――実在論か観念論か――のいずれかに必然性が備わることを否定することは自分にはできない。なぜなら、その「必然性は、調べようがないにしても実在するかもしれない」からである。――メイヤスーによる相関主義者の造形にはブレがあるように思われる。