翻訳の成立に先立つ決定の過程について――加藤典洋、そしてクワインを手掛かりに

文芸評論家の加藤典洋がいま文芸誌「群像」に連載している「村上春樹の短編を英語で読む」は、そのタイトルから想像される内容に反し、英訳の出来が吟味される機会がじつは少ない。例外は第5回。この回で加藤氏は、村上春樹の最初期作品「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の英訳を取り上げ、そこにいくつか「ちょっと困った」問題があると指摘している。評言はそのほか、「致命的な問題」だとか、「とんでもない間違い」だとか、「アメリカ帝国主義」だとか、わりと強めだ。こうした批判のありようは、翻訳論的な観点から見て、たいへん興味深い。こうした加藤氏(以下敬称略)の反応を起点に考えたことがあるので、以下それを書く。

加藤の英訳批判のポイントは三点あって、じつはそれらは密接な関連を持つが、ここで手掛かりとするのは、そのうちひとつだけ。この小説のタイトル「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が英訳で「New York Mining Disaster」となっていること。加藤は、これを批判する。しかし、この英訳には一見どこにも問題がないように見える。でも、そうではない。

村上春樹は、『全作品集第1期』第三巻に付けられた短文で、この「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という題名を「初期ビージーズのヒット曲の題名」から取ったと書いている。「僕はこの曲の歌詞にひかれて、とにかく『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という題の小説を書いてみたかったのである」(村上春樹「『自作を語る』――短編小説への試み」)。この事実を踏まえて、加藤は次のように語る。

初出の『BRUTUS』を見ればわかるように、そこには英語タイトルが一緒に書かれていて、The New York Mining Disaster 1941 by Haruki Murakamiとある。というのもこの歌の原題は「New York Mining Disaster 1941」なのです。そして「ニューヨーク炭鉱の悲劇」はこの曲の日本での訳題なのですから、この短編の英語題名は、そうは書かれていなくとも、New York Mining Disaster 1941とならなくてはいけない。
加藤典洋村上春樹の短編を英語で読む」第5回『群像』2010年1月号、強調引用者)

注目したいのは、上で強調した「そうは書かれていなくとも」という言葉である。これは、具体的には、「『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という日本語には『New York Mining Disaster 1941』という英語中の『1941』に対応する要素が含まれていないが」という意味だと考えられる。逆に言えば加藤は、日本語の文字列「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が、これを普通に英訳すれば「New York Mining Disaster 1941」とならないことを、この「そうは書かれていなくとも」において認めている。にもかかわらず「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は「New York Mining Disaster 1941」と訳さなければならない。なぜなら、村上春樹のこの短編のタイトルは、任意の文字列「ニューヨーク炭鉱の悲劇」ではなく、ビージーズの楽曲「ニューヨーク炭鉱の悲劇」から取られており、かつ、同曲は英語圏で「New York Mining Disaster 1941」と呼ばれているからである。引用した部分で加藤が言っていることはこういうことだ。

この加藤の要求は、けっして不当でも突飛でもない。むしろ逆。翻訳者は、映画や絵画、音楽作品等の題名に関して、定着した訳語があれば、それを採用するというのが常識となっている。例を挙げればきりがないが、映画タイトルとしての『Bonnie and Clyde』は『俺たちに明日はない』と訳されることになっているし、『Some Like It Hot』は『お熱いのがお好き』と訳されることになっている。これが楽曲タイトルであれば、それぞれ、『ボニーとクライド』(セルジュ・ゲンスブール)、『サム・ライク・イット・ホット』(パワーステーション)と訳されるはずである(後者は音訳)。こうした常識の存在が、加藤の口調の強さに、いくらか反映しているのではないか。

この常識は、いわゆる「翻訳」の局面で、翻訳者に対し、性質の異なる二種類の操作を要求する。その二種類を加藤の言葉にならって言い表わせば、以下の通りとなるだろう。

  1. そう書かれている通りの翻訳
  2. そう書かれている通りではない翻訳

当然の疑問は、後者「そう書かれている通りではない翻訳」は、これをはたして「翻訳」と呼べるのか、ということ。これは、「翻訳」と通称される過程において、ある一定の条件のもとで、例外的に、いわゆる「翻訳」とは異質の操作が要求される局面がある、ということにすぎないのではないか。そこで、立論上の安全のため、上の二点を下のように言い換えておく。

  1. そう書かれている通りの置き換え
  2. そう書かれている通りではない置き換え

さて、一般に「翻訳」と呼ばれる過程において、後者「そう書かれている通りではない置き換え」の正当性は、どのように担保されるか。それは、引用した加藤の言葉から明らかであるが、指示対象の同一性によってであると考えられる。英語圏で「New York Mining Disaster 1941」と呼ばれている楽曲と、日本語圏で「ニューヨーク炭鉱の悲劇」と呼ばれている楽曲が、同じなのだ。この事実が、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という日本語と「New York Mining Disaster 1941」という英語の置き換えを正当化している。そう考えて、まず間違いない。

では、この「そう書かれている通りではない置き換え」を正当化する指示対象の同一性は、いったいどのようにして生じているのか。この同一性は、なにによって支えられているのか。

それは、英語で「New York Mining Disaster 1941」と呼ばれる楽曲を日本語では「ニューヨーク炭鉱の悲劇」と呼ぶことにするという決定の存在によって、である。この日本語サイドの一方的な決定があってはじめて、その逆向きの操作、すなわち「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を「New York Mining Disaster 1941」に置き換えることが、「そうは書かれていないが」承認されることになる。この決定の先行性は、疑いようがないと思われる。いわゆる翻訳の態度(「そう書かれている通り」の追求)に反する「そう書かれている通りではない置き換え」は、こうした事前の「決定」によって支えられているのである。

これで「そう書かれている通りではない置き換え」の根拠はわかった。次に考えたいのは、「そう書かれている通り」の問題(?)である。換言すれば、「そう書かれている通りの置き換え」をそのように呼ぶことができる、その根拠はなにか、ということ。

その前に、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の「そう書かれている通りの置き換え」を、やはり加藤の言葉によって確認しておく。上で、加藤の「そうは書かれていなくとも」という言葉を「『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という日本語には『New York Mining Disaster 1941』という英語中の『1941』に対応する要素が含まれていないが」という意味だと読んだが、そう読んだ理由は、引用部の直前で加藤が下のように書いていたことにある。

(英訳者が)この短編の英語タイトルを単に「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(New York Mining Disaster)と訳出していること(中略)を、ちょっと困ったことだと思うのです。

加藤は、この書き方において、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の普通の英訳が「New York Mining Disaster」であることを語っている。ここでも加藤は、特殊な考え方をしていない。常識的だ。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の「そう書かれている通りの置き換え」は「New York Mining Disaster」であると考えていいだろう。

では本題に入る。「そう書かれている通り」の成立根拠について。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の「そう書かれている通りの置き換え」が「New York Mining Disaster」であるのは、なぜか。

まず明らかなことは、その根拠を指示対象の同一性に求めることができない、ということである。つまり、「そう書かれている通り」と言うためには、言語外現実と切り離された言語内在的な根拠がなければならないということである(そもそも「そう書かれている」とはそういうことだが……)。

ところで、加藤は、たぶん日本語を母語としている日本語話者である。そして、加藤は、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を「New York Mining Disaster」に対応させることが「そう書かれている通り」だと判断するための知識を、単独で英語圏に乗り込み一からフィールドワークによって得たのではないはずだ。この二つの想像が正しければ、加藤が「そう書かれている通り」と判断したその根拠は、加藤の使っている「翻訳の手引き」にあると考えなければならないだろう(「翻訳の手引き」は、物理的な英和辞書や文法書だけではなく、学校教育その他により知識として内在化されたものも含むものとする)。

この手引きにしたがって、加藤は、下のような二段階のプロセスを踏んだと想像される。

  1. 「New York Mining Disaster」を「New York」と「Mining」と「Disaster」に分割する。
  2. 分割した各要素「New York」「Mining」「Disaster」のそれぞれに「ニューヨーク」「炭鉱(の)」「悲劇」という日本語を当てる。

日本語のネイティブスピーカー加藤典洋は、このプロセスを反転させて、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の「そう書かれている通りの置き換え」が「New York Mining Disaster」であると考えたと考えられる。

それにしても、この「翻訳の手引き」は、いつどこでだれが作ったものなのか。確かなことは調べなければわからない。というか、調べてもわからない可能性が高い。ただ言えるのは、それがけっして自然に成立したものではない、ということだ。

上の二段階のプロセスを支える「手引き」の成立に大きな役割を果たす仮説を、米国の哲学者クワインは「分析仮説」と呼んでいる。クワインは、このように文を要素に分割し、翻訳対象言語の要素に対応させるための仮説は、ひとつには「確定」しないと考えた。その際にクワインが持ち出すのが、有名な「根底的翻訳(radical translation)」という思考実験である。「根底的翻訳」とは、完全に未知の言語を一からのフィールドワークによって翻訳すること(「翻訳の手引き」を作り上げること)を意味する。フィールドワーカーは、このような状況において、もっぱら自分の観察したデータに基づいて、翻訳のための「仮説」を立てていくことになる。しかし、こうしたやり方では、どうしても「観察」や「経験」だけでは対応できない部分が残ってしまう。これらの部分については、積極的な解釈が必要となるだろう。そして、この積極的な解釈の場面において、解釈者の恣意が入り込むことはどうしても避けられない。つまり「原地人の心にわれわれの言語的アナロジーのセンスを(それが検証不可能であるのに)押しつける」(クワイン『ことばと対象』p.113)ということが起きる。

例えば、「指示の不可測性(inscrutability of reference)」という問題がある。どういう問題か。その説明の際に出てくるのが、これもまた有名な「Gavagai」という言葉である。クワインは言う。「場面文’Gavagai’と場面文’Rabbit’が刺激同義的であるからといって、’gavagai’と’rabbit’が外延を同じくする名辞である(すなわち、同一の事物についていずれも真である)ということには必ずしもならない」(クワイン前掲書p.81)。

言い換えると、英語圏の人間が「rabbit」という名辞で呼ぶ動物が森の中を飛び跳ねているのを現地の人が見て、英語圏の人間に「Gavagai」と聞こえる文を発した場合、この文が「Rabbit」という一語文と「刺激同義的」(乱暴に言えば、文「Gavagai」と文「Rabbit」の使用場面が同じということ)であると考えられるとしても、名辞としての「gavagai」と名辞としての「rabbit」が同じものを「指示」しているとは限らない、もしかすると「gavagai」は「stages of rabbits」や「undetached parts of rabbits」や「rabbithood」等を指しているのかもしれない、ということである。

しかし、このような可能性に対しては、「ありえない!」と考える人がいてもおかしくない。普通の人間であれば、名辞「gavagai」と名辞「rabbit」の指示対象が同一であると考えるのが自然だと。これに関してはクワインが『ことばと対象』の「不確定性への誤解について」の部分で少し触れている(クワイン前掲書p.116)。けれど、哲学者の丹治信春氏の説明がわかりやすいので、それを引用する。

実際にフィールドワークをする言語学者は、もちろん、「ガヴァガイ」を「ウサギ」と訳し、「切り離されていないウサギの部分」とか「ウサギ−性」といった可能性には、一顧だにしないであろう。(中略)言語学者がそのような選択をする際の指針となっているのは、「対照的な背景の上で全体として運動し、持続し、比較的一様である対象は、短い表現の指示対象である可能性が高い」といったものである。そして、様々な言語を翻訳する経験を積んだ言語学者は、このことは、言語についての普遍的な法則なのだ、と言うかもしれない。しかしそれは、「発見」された「法則」ではない。それはむしろ、客観的には不確定なところに、言語学者が一つの選択を押し付けたものなのである。
(丹治信春『クワイン――ホーリズムの哲学』p.216)

ようするに、「翻訳の手引き」は、ある種の「決定」をその背景として持っているということだ。

さて、ここでクワインから離れ、「翻訳の手引き」の成立に関して、もうひとつ大事だと思われることを指摘したい。それは、この「翻訳の手引き」の成立に先立つ「決定」が、根本的翻訳の場面において、不可避的に一方向的になされる、ということである。これは、「翻訳の手引き」の典型としての辞書の形を見れば明らかだ。例えば、英和辞書は、あるひとつの英語の単語に対して、それに対応する日本語を記載するという形をとる。この方向の単一性は、「翻訳の手引き」の本質をなすものだろう。双方向的な手引きは想像できない。この事実が大事だと思われるのは、それがバイリンガルによる翻訳について考えるときに活きてくるからだ。

バイリンガルが「翻訳の手引き」を作る場合、そうではないフィールドワーカーより有利であることは否定できない。けれど、「翻訳の手引き」が仮にバイリンガルの手によるとしても、「翻訳」という行為の根源的な一方向性が、やはり「選択」ないし「決定」という非自然なプロセスを不可避とするだろう。

このことは、例えば、人間が生得的に備える普遍的な中間言語のようなものを想定したとしても揺るがない。ある言語とこうした中間言語を対応づける行為は、常に一方向的になされるのであり、その際には、必ず何らかの「決定」が入り込むはずである。

ようするに、「翻訳の手引き」が成立するには、それに先だって必ず非自然的かつ一方向的な決定の過程がある。ところでこの「翻訳の手引き」は、すでに見た通り、「そう書かれている通りの置き換え」の根拠であった。ということは、「そう書かれている通りの置き換え」の根拠は、突き詰めれば、この「非自然的かつ一方向的な決定」にある、ということだ。

これはなかなか面白い。というのも、先に見た「そう書かれている通りではない置き換え」を正当化する根拠が、やはり同じ「非自然的かつ一方向的な決定」であったからである。一見すると真逆の性質を持つかに見える「そう書かれている通りの置き換え」と「そう書かれている通りではない置き換え」は、実際のところ、同類だった。あるいは、「そう書かれている」の自然さは「そう書かれていない」の不自然さと同じ根拠に支えられている。つまり、前者の自然さは、人為的な決定の過程に目をつぶることによって、かろうじて主張される自然さにすぎないということだ。こうした翻訳における非自然性を視界の外に追いやること、例えばバイリンガルならば完全な翻訳を行うことができるはずだと考えること、こうした思考のあり方を、とりあえずここで「自然主義的翻訳観」と呼んでおくことにする。

前段、「そう書かれている通りではない翻訳」という呼び方をためらった。けれど、この躊躇はもはや不要である。なぜなら、こう呼ばれる翻訳が、「いわゆる翻訳」と異なる性質を持たないことが今や明らかとなったからである。そこで安心して、こう言うことができる。「そう書かれている通りの翻訳」と「そう書かれている通りではない翻訳」の区別は、結局「自然主義的翻訳観」の効果でしかなかった。

最後に、「分析仮説」について、ひとこと。日本人による日本語への翻訳の場合、この分析仮説の定立において、ある特殊な事情がからんでいるのではないかと個人的には考えている。特殊な事情とは、具体的に言えば、上代における漢文との接触である。これに関しては、別の場所で書くつもりです。