雑記

前回、「た」に関する松下大三郎の説を「最近発見した」と書き、『標準日本口語法』から関係する一節を引用するなどしたが、2011年に書いた「やはり『た』は『過去形』ではない」で言及した藤井貞和『日本語と時間』に、『標準日本口語法』の同じ箇所を取り上げているところがあった……。ただ、その取り上げ方がちょっとおかしい。藤井氏は当該一節から四つの用例の部分を抜き出し引用しているのだが、引用の前後で、「た」には「完了」を表す場合と「過去」を表す場合の二つがあるという自説を述べている。その一方で、松下大三郎が「た」は「過去」を表さないと断言していることについては明示的には触れていない。つまり藤井氏は、松下が「た」には「過去」の意味はなく「完了」の意味しかないというために掲げた用例を、「た」に「完了」と「過去」の二つの意味があることの例示として引いている(ように見える)のである。用例を借りるならほかにいくらでもあったろうに、なんでわざわざ自説と異なる考えを持つ松下大三郎から借りたのか? これってもしかして遠まわしの松下批判だったりするのか?

   今日の「た」について、先に述べ出したように、(1)結果と存在とを担い(=完了と言われる)、(2)過去という時制をもあらわすという、たいへん重たい二重の責任があることに気づく。

   松下大三郎の文法書『標準日本口語法』から用例を借りると、

 

      1 御覧なさい、きれいな月がでました。

      2 私は子どもの時は国におりました。

      3 借りたものは還さなければならない。

      4 あす伺ったら、お目にかかれましょうか。

 

   のうち、過去と言えるのは2だろう。松下は1を「現在の完了」、3を「不拘時の事件の完了」、4は「未来の事件の完了」とする。(2は「過去を完了に表す」とする。)

   一つの助動辞が担う役割として、(1)完了、(2)過去をともに請け負うのはえらく過重だなと、だれも思わずにいられない。

藤井貞和『日本語と時間』pp. 190-191)

■ところで当ブログは去年「はてなダイアリー」から引っ越してきたのだが、移行(インポート)が一部うまくいかなったみたいで、欧文の引用が消えたり、文字修飾が変わったり、「久野暲」が「久野翮」になったりしている。

■それはそうと先日、夕方の吉祥寺で、ベビーカーに乗せられた子供が、「いやだあー、帰りたくないー」と泣きじゃくっているのに向かって、フランス人と思われる女性(たぶん母親)がしゃがみ込み、「Tu arrêtes, tu arrêtes s'il te plaît(やめなさい、やめなさい)」と怖い顔で繰り返しているのに出くわした。子供はずっと日本語で、女性はずっとフランス語。「やめなさい」は「日本語で話すのはやめなさい」ってことかとも思ったけど、やはりふつうに「駄々をこねるのはやめなさい」という意味だろうか。

■「s'il te plaît」で思い出した。学生の頃、はじめてフランスに行ったとき、マクドナルドでポテトを単品で注文しようとして、ポテトに付ける冠詞をどうしていいかわからず、とっさに「des frites, s'il vous plaît」といったら、「deux frites」が出てきて、「……なるほどね」となったことがあった(ぜんぶ食べた)。

■以下は「ブリュノ・ラトゥールの伝言ゲーム」という題で書き始めた文章です。

ブリュノ・ラトゥールが2013年、エジンバラ大学「Facing Gaia, Six Lectures on the Political Theology of Nature」と題し、6回にわたる連続講義を行っている。そのうちの1つ「The Anthropocene and the Destruction of the Image of the Globe」は、タイトルに示されるとおり、「人新世」と呼ばれる新しいエポックにおける地球像の見直しがテーマである。ラトゥール氏は「Earthはglobeではないかもしれない」と語っている。つまり球体としての地球というイメージを問題視している。スローターダイクを援用しながら氏が指摘するところによれば、Globeという形象は「プラトンからNATOに至るまで(from Plato to NATO)」一貫して共有される西欧に特有のコスモロジーキリスト教神学の産物である。このプラトニックな形象が有する抽象性や矛盾、ごまかしは、人新世の時代にあっては、もはや持ちこたえられないだろう。のみならず有害でさえある。なぜなら完成した球体のイメージは、その形状を手に入れるために必要な作業、いくつもの円環――地球規模の大気循環や窒素循環――を描き出すという大事な作業を隠蔽してしまう。グローバルな視点、「どこでもないところからの眺め(view from nowhere)」により得られたサッカーボール大の青い地球、逆説的にもローカルなそのイメージを撫で回している場合ではないのだ。アントロポセンのアントロポス――ヒューマンではないもの――に求められているのは、ふたたび地(earth)に足をつけること、「リローカリゼーション」の具体的な作業を通じて、あらためてEarthの、Globeとは異なるかもしれない、その知られざる相貌を描き出すことである。人新世に生きるとは、こうした地球の輪郭線――いくつもの円環――に対する感覚を研ぎ澄ませること、すなわち、古義に立ち返った意味での「美学(aesthetic)」の下に生きることだ――。

ラトゥール氏は、いずれも「地球」を指し示す二つの単語、EarthとGlobeの意味内容の違いを梃子にして議論を進めているが、日本語の「地球」という言葉にはearth(地)でありglobe(球)であるところの「地球」という意味しかない。だから「Earthはglobeではないかもしれない」(the Earth itself might not be a globe after all.)という言葉を、その言い回しの面白さと、議論全体との整合性を保ったまま、注釈抜きで日本語に翻訳するのは、それなりに大変だと思う。

これが日本語ではなくフランス語への翻訳だとしたら苦労はいらない。「Earthはglobeではないかもしれない」は「Terreはglobeではないかもしれない」と訳せばすむ。とはいえフランス語はフランス語であって英語ではないのだから、いつもこんなふうに機械的な置き換えがうまくいくわけではないのは当然の話。

じつはエジンバラの連続講義のうち、4つ目にあたるこのレクチャーだけ、早くもその翌年にフランス語訳が出ている。翻訳はアレクサンドル・コイレの有名な本のタイトルをもじった『De l'univers clos au monde infini』(閉ざされた宇宙から無限の世界へ)という表題の論文集に収められているのだが、ブリュノ・ラトゥールのオフィシャルサイトでも読める。訳文に付けられた注記によれば、翻訳したのは本人ではなく、Franck Lemonde氏という人。また、訳文は各所に手直しが入っており、英語で行われた講義を忠実に反映する形になっていない。

講義の冒頭、ラトゥール氏は、もし「人新世」が地質年代として公式に認められたとすればと仮定したうえで、次のように語っている。 

①For the first time in geostory, humans were to be officially declared the most powerful force shaping the face of the Earth.

(The Anthropocene and the Destruction of the Image of the Globe, 2013)

フランス語訳で、これに対応する箇所を見ると、次のような具合である。

②Pour la première fois dans la géohistoire, on allait déclarer officiellement que la force la plus importante pour donner forme à la Terre c'était celle des humains.

(L'Anthropocène et la destruction de l'image du Globe, 2014)

まず目が行くのは、原文が単文であるのに、訳文では主節と従属節からなる複文になっている点である。英語の「were to be」のような言い回しはフランス語に逐語訳できないから、訳し方を考えなければならないわけである。あと、原文で現在分詞を使っているところ(shaping the face of …)で、訳文では前置詞pourを伴った、やや鈍重な表現(pour donner forme à ...)を採っている。情報提示の順番も違う。原文が「人間(humans)」→「力(force)」の順になっているのに対し、従属節内で左方転位構文をとった訳文では「力(force)」が「人間(humains)」に先行している。そのうえ、後に回された「人間」が、原文と違い、「人間」のままではなく、「人間の力(celle des humains)」だ。「人間」を「力」と見るのはいいけれど、「力」を「人間」と見るのには抵抗があるということか? いずれにせよフランス語訳は英語原文より語数が増え、構造も複雑で、やや力みかえったような印象である。フランス語っぽいといえなくもない。

ブリュノ・ラトゥールは2015年、このエジンバラでの連続講義をもとにして、『Face à Gaïa. Huit conférences sur le nouveau régime climatique』(ガイアと向き合う:新気候体制をめぐる8つの講義)というタイトルの本を刊行している。CAIRNのサイトで各レクチャーの冒頭部だけ読めるので、第4レクチャーの②に対応する箇所を確かめてみた。

③L'enjeu est énorme : pour la première fois dans la géohistoire, on allait déclarer solennellement que la force la plus importante qui façonne la Terre, c'est celle de l'humanité prise en bloc et d'un seul tenant.

(L'Anthropocène et la destruction (de l'image) du Globe, 2015)

語句の追加や単語の変更(レクチャーの名称そのものも「L'Anthropocène et la destruction (de l'image) du Globe」に変わっている)があり、文章に磨きがかかっているけれど、基本的には②のフランス語訳を骨格にしていることが分かる。

この本『Face à Gaïa』が2017年に英語に翻訳される(『Facing Gaia. Eight Lectures on the New Climatic Regime』)。Google Booksで一部読めるので、③に対応する箇所を確認すると、次のように訳されている。

④The stakes are enormous: for the first time in geohistory, someone was going to make the solemn declaration that the most important force shaping the Earth was that of humanity taken as a whole and as a single unit.

(The Anthropocene and the destruction of (the image of) the Globe, 2017)

翻訳者のCathy Porter氏は、フランス語の字句の流れに寄り添うように訳している。それでも、左方転位がない、従属節の時制が過去形になっている(原文は現在形)等、おそらくは英仏語間の表現特性の違いに基づく相違点が見られる。面白いのは、仏語原文の「géohisoitre」を「geohistory」と訳しているところで、これは最初の英文(①)では「geostory」だった。「ジオストーリー」→「ジェオイストワール」→「ジオヒストリー」。こういうことが起きるのは、フランス語の「histoire」に「story」の意味と「history」の意味が兼ね備わっているからである。

と、ここまで書いたところで、どうにもつまらなくなったので、書くのをやめました。