極限的な恐怖を凌駕する不思議について

 

山内志朗ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』によれば、23歳のライプニッツが次のように書き残している。

(……)だが、時には夢見ている人が、自分は夢を見ているということが分かっていても、それでも夢は続くことは見逃してはならない。そういう人は、いわば、瞬時目覚めたが、夢の力によって、以前の状態に引き戻されたと考えるべきだ。そして次のことも見逃してはならない。夢から自分で目覚められる人もいるということだ。私にはよくあることだが、何か楽しい夢の光景を見ながらも、自分は夢を見ているんだと分かって、光を取り込むために、目を開けようとして、指でまぶたを押し開けたりした。

ライプニッツ「夢について」)

じつはこの記事(元は2011年に個人サイトに上げた文章)で「XXX」と呼んでいるものは、このライプニッツの目覚めの技法とまったく同じものである。すなわち、夢の中で両まぶたを左右の指でぐいっと押し開けるというやり方。こうすると、なぜか現実の自分のまぶたも開く。つまり目が覚めるのである。

遺伝云々ということではなく、案外よくある自己覚醒手段のひとつなのかもしれない。

それにしても気になるのは、ライプニッツは「楽しい夢」を見ているとき何故「目を開けようと」するのか、ということである。「光を取り込むため」とはどういうことか? ライプニッツの夢の舞台は薄暗いのか?

ところで先日、永井均「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?――夢のような何かであるしかないこの現実について」(現代思想2024年1月号)というエッセイを読んだ。「夢」に備わる重要な特徴が四つ挙げられている。

その第一はこういうものである。「夢は必ず覚めてから後でその本質(夢であるということ)が露呈する」。逆にいえば「夢はその内部からはその本質(すなわち夢であるということ)がつかめない」。つまり人は夢を見ている最中に「自分は今、夢を見ている」と自覚することができないということだ。この特徴は、「いま醒めている(現実である)と思っているこれがじつは夢であるかもしれない(夢でありうる)」という、月並みな懐疑の成立条件を構成するものである。

自分のことを言えば、当該記事に書いたとおり、この特徴づけが当てはまらない。わたしは夢(主に悪夢)の中にありながら自分が夢の中にあることを自覚し、かつ、そこから覚醒状態に移行することができる。そのせいか、「自分は今、夢を見ているかもしれない」といったような懐疑にとらわれたことが一度もない。

しかしである。

自分の場合、夢を自覚するのは大概悪夢の最中であり、かつ必ず「起きよう」と考えてしまうため、ライプニッツのように夢を見続けることができない(「夢の力」が弱いのか?)。ライプニッツに言わせれば、夢の自覚はすでに瞬時の目覚めである。だとすれば自分のケースを「夢は必ず覚めてから後でその本質(夢であるということ)が露呈する」という特徴からの逸脱例と見ることはできないのかもしれない。

とすれば、わたしが「自分は今、夢を見ているかもしれない」といった懐疑にとらわれたことがないのは、夢見の最中における夢の自覚や自力覚醒能力(?)のためではなく、それとは別の、何か判断基準のようなものがあるからではないかとも考えられる。

ライプニッツは、先に引用したくだりの直前部において、夢と現実を区別する基準について次のように書いている(山内志朗前掲書から再度孫引き)。

夢見ていることと目覚めていることの違いは、僕たちが目覚めているとき、すべての事柄は、少なくとも隠されたしかたであろうと、最終目的に向けられていることだ。しかし、夢見ているとき、事柄全体への関係は見られない。だから、目覚めていることは、自分自身を取りまとめていること、次のことを考えていることだ。つまり、「なぜここにいるのか答えろ」「わが身を自覚すること」。現在の状態を、残りの人生、または自分自身と結びつけ始めること。こうして、夢見ている経験と目覚めている経験を区別する規準を手にすることができる。

自分が目覚めていると確信できるのは、現在の場所や状態にどうしてたどり着いたのかが分かっていて、現れている事柄が、相互に、そして先に起こった事柄との適切な結合関係が分かっているときだけだ。夢見ているときには、こういう結合関係があっても気づかないし、たとえなくても驚きはしない。

映画『インセプション』でコブ(レオナルド・ディカプリオ)がアリアドネ(エリオット・ペイジ)に「どうやってここに来た?」と訊ねることによって夢の中にいることを気づかせることができたのも、この基準があればこそだ。

永井均の挙げる夢の第二の特徴は、この基準と関係している。第二の特徴とは、

次々と状況が与えられて展開してゆき、そこに反省意識が挟まる隙間がない、というある種の切迫感あるいは緊迫感の存在である。反省意識が介入する余地がないのだから、たとえば過去(その夢の中での)を思い出したり、逆に長期計画を練ったりすることも、ほぼないといってよい。

しかし自分は夢の中で計画を練ることがある。学校の授業にぜんぜん出ていないため、卒業(ないし進級)試験に向けて、自習計画――漠然としたものだが――を立てる夢をわりとよく見る。また、夢の中でその夢における過去を懐かしく振り返ることも結構ある。

もっとも永井均もこの特徴は「偶然的・事実的特徴にすぎないので、そうではない夢を見ることもまた可能ではある」としている。

では、わたしが現実において夢の懐疑にとらわれることがないのは、永井均が「夢の必然的な特徴」として挙げるもの――「幻覚のようなものと類比的に捉えられた、全体として偽であるといった特徴」――を、この現実(自分にとっての現実)が具えていないからだと考えていいだろうか?

自分が見た悪夢――そしてそこから自力で目覚めた悪夢――には例えばこういうものがある。

《前方の彼方からジグザグに自走する巨大なローラーが迫って来る。このローラーが通った後は世界が無に塗りつぶされていく。このままでは自分も無に塗りつぶされてしまう》

かなり非現実的であるように思える。しかしこの非現実性に基づいて「これは夢だ」という自覚が生じたのかと言えば、それも違う気がする。つまり、夢と現実とを区別する基準のようなものを適用して判断しているわけではない。もっと直観的なもの――はっと気づくのである。

いわゆる現実において、この電撃的な気づきが到来したことが自分にはないのだ。しかしそれはあくまで今のところの話であるにすぎないだろう。それが金輪際到来しないと言い切ることはできないだろう。とすれば、自分の現実の現実性の足場は、かなり危ういと言えるのではないか?

このことは、永井均が四つ目に挙げる夢の特徴――「おそらくは最も本質的であるといえる特徴」――と関係している。

夢のもう一つの、おそらくは最も本質的であるといえる特徴を提示してみよう。それは、結局のところ、じつは単独の夢見の主体から開けているだけで、そこに他者もたくさん登場してくるし、自分もその世界の一員として(も)登場しているにもかかわらず、他者たちと共有された世界ではない、という点にあるだろう。その世界は、自分も他者たちもともにそこに内属する世界として現象するにもかかわらず、実のところは、そこで自分とされるその主体だけが一方的に体験している世界であるにすぎない。

永井均の議論の要諦は、この夢の本質的特徴が、この現実にも備わっているのではないか、という点にある。「夢ではない現実の世界と呼ばれているものは、実のところは、その内部に登場する(という建前になっている)ある一人の人物から(だけ)開かれ、実のところは、その人が体験することに尽きている(というあり方をしていざるをえない)のではないか」。

さて永井均はエッセイを次の一文で締めくくっている。「これはいったい何なのだろうか」(「これ」は原文では太字ではなく傍点)。

自分は、この問いを問いとして問うことに関心がない。換言すれば哲学することに関心がない、のだと思う。ただ、極限的な恐怖を凌駕する不思議として終生大事に養っていきたいとは考えている。

 

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