複合過去から村上春樹へ、あるいは時制のゼロ度

 

これも自分の営業用ホームページに載せていた文章。2010/7/14という日付が入っている。ずいぶん前のものだけど、英語ネイティブ(たぶん)の日英翻訳者の方が、本ブログの記事「やはり『た』は『過去形』ではない」と併せて、ご自身のツイッターで参照してくれている。そのことに気づいた。それでこちらに残しておくことにした。

その方が一連のツイートで話題にしているのは、日本語の小説によく見られる「現在形」と「過去形」の混在のことなのだが、関連する過去の投稿やリプライをたどっていくと、「自分が教わった日本語の先生はみんな『これが過去形です』としか言わないから他の時制はどこいったのか謎だった」というスペイン語話者のコメントや、「エディットがしょぼいだけなんじゃないの?」なんていう意見もあったりして、たいへん興味深い。なお、前記の方に本ブログを紹介してくれたのは、この方のよう。

以下、「複合過去から村上春樹へ、あるいは時制のゼロ度」から主張の要点を抜き出して、簡単な補足を加える。要点は①から③まである。

①単純過去を基盤としたフランス語の小説は、完全に過ぎ去った過去の物語として書かれ、読まれる。一方、日本語の小説は、そうではない。物語を構成する個々の場面は、書き手と読み手の眼前、双方の〈いま・ここ〉に置かれている。小説を夢に譬えれば、単純過去を使ったフランス語の小説は、夢から覚めた後、「ああ夢だったのか」という安心感のもとに、その夢を思い返しての報告という形をとる。一方、日本語の小説は、夢を見ながらの実況中継だ。日本語の小説には、その言語的特性に由来する緊張感、臨場感、現前性が備わっている。

日本語の物語では「個々の場面は、書き手と読み手の眼前、双方の〈いま・ここ〉に置かれている」。時の表現の話なのに、単なる〈いま〉ではなく、〈いま・ここ〉を問題にしていることに注意。つまりこの〈いま〉は、〈ここ〉という場と切り離せないものとしての〈いま〉なのであって、過去・現在・未来という継起的な流れの中の〈現在〉とは別物である。

私は「時制のゼロ度」というものが日本語の語りの基盤を作っていると考えているわけだが、このツイートによれば、プリンストン大学のリチャード・オカダ(Richard Okada)という研究者が、平安時代の物語について「無時制の語り(tenseless narrative)」という概念を提示しているらしい。ツイート主であるChristina Laffin氏(前近代日本文学文化の研究者)は、20世紀の日本の小説で「現在形」と「過去形」の混在が見られるのも、こうした「古典的なナラティブの名残なのかも」と呟いている。

気になったのでリチャード・H・オカダ(岡田リチャード英樹)氏の著作『Figures of Resistance: Language, Poetry and Narrating in the Tale of Genji and Other Mid-Heian Texts』をGoogleブックスでパラ見してみた。平安時代の語りには概して時制のマークがない、「非過去」的、「無時制」的である、それゆえ、語られた出来事は語られたまさにそのとき起きているように感じられる、などと書いてある。氏によれば「無時制の語り」とは、絵巻物(あるいはスライドショー)を見ながら1コマ1コマ逐次コメントしていくような、個々の場面に軸足を置いた語り方のことである。この語り方で話者は、特定の場面に長くととどまったり、逆に適当にはしょったりもできる。無声映画の弁士の語り方を思わせるともオカダ氏は述べている。

この著作では源氏物語に関する熊倉千之氏の論文も取り上げられているようだけど、その熊倉氏も、オカダ氏と同じく、「日本の物語」は「絵巻物」にそっくりだと指摘している(ちなみに後で触れる服部達も『われらにとって美は存在するか』の中で日本の文芸作品の作風と「絵巻物形式」との親近性について語っている)。

常に語りの現在を物語の場としてもつ日本の物語形式は、視覚的に絵巻物の形式に似ている。絵巻を繰り展げて場面から場面へと移して行くときの眼は(中略)「平行線が一点に交わる点」をもたない。そういう「点」は、西欧の絵画のように視点を画面の一点に固定してかからなければ得られない。西欧の物語は、まさにそうした固定点(過去時制)をもっている。

絵巻の視点は現在時点の連続だから、視点そのものが画面を常に移動することになり、画面のイメージは鑑賞するものにとって現在化される。

(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)

「現在時点の連続」ということは「現在」しかないということであるから、この「現在」は過去・現在・未来という線状の流れの中に位置付けられる時制的な「現在」とは性格を異にする。リチャード・オカダ氏も「無時制の語り」は「現在時制の語り」を意味するわけではないと明言している。こうした古代の語りの特性、〈いま・ここ〉の現前性が、近代以降の日本語の小説にも尾を引いている。そう考えていいと思う。

①の話に戻る。単純過去で語られた物語の「安心感」というのは、昔サルトルモーパッサンの小説技術について語っていたこと(19世紀の小説はブルジョワ社会の安定性を脅かさない)や、ロラン・バルトが「小説のエクリチュール」について語っていたこと(単純過去は作り物くさい。作り話だと分かっているから、どれだけリアルで恐ろしい話でも安心してきける。それは秩序と安泰の表現である)、そして、〈はなしの時制〉とは系列の異なる〈かたりの時制〉が「緊張緩和」を誘うというヴァインリヒの指摘を念頭に置いている(ヴァインリヒは現物を読んだわけではなくて、坂部恵『かたり』の概説を読んだだけなのだが)。

バルトの考えを敷衍すれば、単純過去で表わされたフランス語の動詞は、単に「現在」から切り離されているというばかりではない。それは「現実」からも切り離されている。単純過去は出来事を点の連鎖でとらえる。個々の動詞から血の通った肉を殺ぎ落とし、実存の厚みのない、干からびた代数記号に変えてしまう。それは〈いま・ここ〉に置かれた不確かな世界とは別の世界、因果関係と呼ばれる安定した秩序の支配する、作り物の世界の現出に寄与する。バルトが『零度のエクリチュール』で「単純過去はもはや時制を表す役割を担っていない」というのは、単純過去が発揮する、こうした脱現実化の作用、「緊張緩和」の作用に目を向けているのである。

しかし日本語の物語や小説はそのようには安心して読むことができない。個々の場面において、その現場に居合わせているかのような緊張感、臨場感がつきまとう。この実感に絶えず立ち返って考える必要がある。そう思っている。

②日本語の「時の表現」における基準時は、現在・過去・未来からなる絶対的な時間軸とも、主節と従属節が形づくる相対的な先後関係とも異なったポイントに置かれていると考えられる。

それは〈いま・ここ〉に立脚した無時間的なポイントである。あるいは基準時が自由に動くというべきか。そのことは視点が自由に動くことと密接に関係している。日本語の物語は視点が定まっていない。「遠近法の崩壊」(松浦寿輝折口信夫論』)を生きている。

この点について考えるうえで、最近読んだものの中では樋口万里子氏の論文がすごく参考になった。次の引用中「基本形」は「ル形」のこととみなして差し当たり問題ない。なお、樋口氏は「タ形」について「完了」という言葉を用いるのに慎重な様子である。私は後述するように、「タ形」は「過去」を表さず「完了」を表すと考えている。迂闊なのかもしれない。

本稿が提案したいことは、日本語の時制は、そもそも発話時や主節時といった特定の基準時を持つのではなく、事態との相対的な位置に視点を持ってくるものと考えてみてはどうかということである。(中略)基本形やタ形が関るのは、ある視点と事態の相対的な時間的位置関係だけで、その視点がどこにあるかについては、文脈等で補う仕組みになっているのではないかと考えてみたいのである。

樋口万里子「日本語の時制表現と事態認知視点」

もう一箇所。

基本形は事態の途中又は事態がこれから起きるという時点に、タ形は事態が終ったものとして見える時点に、認知主体の視点を導くマーカーの様なものと言ってもいい。だから日本語では事態を見る視点が可動的で、事態をいろいろな方向から眺めるのが可能となる様に思われるのである。

(同) 

こういった視点の移動は時間的な移動に限られない。現代日本小説の情景描写に見られる空間的なパースペクティブの狂いについては、例えば中上健次村上龍限りなく透明に近いブルー』の描写について、渡部直己保坂和志『未明の闘争』の描写について、まるでそれが特異な出来事であるかのように語っている。けれどこうした「遠近法の崩壊」は、三島由紀夫潮騒』の描写に関する服部達の指摘――「この描写には、遠近法が欠けている」(『われらにとって美は存在するか』)――を引きつつ板坂元が言うように、「日本語では普通の現象」(『日本人の論理構造』)であり、「千年前からの手法」(同)の一環であるにすぎない。あたりまえのものでも目を凝らすと特別なものに見えてくる。

③日本語には、時制を表わす述語マーカーは存在しないと考えられる。したがって、「日本語は時制がルーズ(時制が曖昧)」という言い方も、ある意味で正しいと言える(日本語は「時の表現」を持たないとか、テンスの表示ができないとか、テンスが混乱しているとか、そういう意味ではない)。ようするに、日本語では、時制を表わす要素が文の成立において義務的な参加者となっていない、ということだろう。日本語は、そのことによって時制をニュートラルに保つことができる。ロラン・バルトふうに言えば、「時制のゼロ度(le degré zéro du temps)」が可能なのだ。

つまるところ私は「た」は過去形ではないと考えている。仏訳された日本の小説を読んで感じる根本的な違和感を突き詰めると、そういう結論に到らざるを得ない。「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを思った。」と始まる中上健次「岬」を読んでも過去の話であるという気がまったくしない。でも「La terre avait commencé à grésiller. Un son à peine perceptible, semblable à un bourdonnement d’oreille. Toute la nuit durant, les insectes allaient continuer à bruire. Il pensa à l’odeur, la nuit, de la terre froide.」と始まるJacques Lévy氏の翻訳で読むと、これはもう明らかに過去の話なのである。

もしフランス語の単純過去が「過去形」なのであれば、日本語の「た」は「過去形」ではない。これはもちろん、日本語では過去のことが言えないとか、そういう馬鹿げたことを言っているのではない。③にあるとおりだ。例えば太郎の母親が単身赴任中の夫に夜電話で「太郎、徒競走で一位になったよ」と言えば過去の話だ。そうに決まっている。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。」も同じ。ただそのこと――語られた出来事が発話時から見て過去に帰属すること――が、「た」という助動詞によって表示されているわけではないということである。

私は「た」は専ら「完了」を表していると考えている。熊倉千之氏の主張には受け入れにくいところも少なくない(日本語の音と意味のあいだには有縁性があるとか、日本語と「モノ造り」とのあいだには関連性があるとか、話者と作者の素朴な同一視に基づく「作者の死」批判とか)けれど、「た」を用いた文章から喚起されるイメージの描き方には同感できる。だから熊倉氏も「た」の意味は「完了」であると考えていると思っていた。でも、ちょっと違うようである。以前はざっと目を通すだけだった氏の著作『日本語の深層:〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』(2011年7月に出た本なのでホームページやブログの記事を書いたときは読んでいない)を今回よく読んでみたら、「『タ』は純粋に『完了』でも『過去』でもない」と書いてある!

最近発見したのは松下大三郎の説である。『標準日本口語法』の「第六節 完了の動助辞」に次のような記述があった。

「た」は動作性活用の語の第二活段へ附いて完了の意を表すものである。現在、過去、未来、不拘時の何れにも用いられて其の完了を表す。

1  御覧なさい、綺麗な月が出ました。             現在の完了

2  私は子どもの時は国に居りました。             過去を完了に表す

借りたものは還さなければならない。         不拘時の事件の完了

4  明日伺ったらばお目に掛かれましょうか。  未来の事件の完了

文法上「完了」というのは事件の真の終結をいうのではない。仮に「我」をその事件の完了後へ置いて考え、その事件の完了を表すのである。(4)の例で言えば「我」を明日へ置いて考えるから「伺う」という動作は完了した動作と考えられる。(1)に於ては「我」が現在に置かれているから、その完了は実際の完了と一致する。

(1)[(2)の誤り(引用者)]の事件が過去に属することは「子どもの時は」に由って表されている。「た」が過去を表すのではない。過去の事件を完了として取扱い、その完了を表すのである。「た」の自体に過去の意のないことは(3)(4)等の「た」を見てもわかる。(1)(2)(3)(4)の「た」は皆同じ「た」が種々に用いられたのである。

1930年に出版された本だけど、「我」の視点の移動についても触れられているし、これで申し分なさそうな感じだ。

 

 

複合過去から村上春樹へ、あるいは時制のゼロ度

 

1.「過去」を表わさない「複合過去」

フランス語で動詞の時制(テンス)が複合過去に置かれているのに「過去」を表わさない場合がある。文法書などによく載っているのは、次の2つのケースだ。

1. Si節で「前未来」に代わる

Si dans deux jours la situation n’a pas changé, il faudra aviser.(例文1)

もし二日たっても容態(事情)が変らなかったら、考えなければなるまい。

2. 主に日常会話で「急速完了」を表わす

A-t-on bientôt terminé cette besogne ? (例文2)

その仕事はじきに終わりますか?

例文は田辺貞之助『フランス文法大全』から借りた。いずれも複合過去が使われていながら、それによって語られている事柄は未来に関係している。つまりここで複合過去は「過去」の時制ではなく、もっぱら「完了」のアスペクトを表現するものとして使われているのだ。だからこそ「dans deux jours」や「bientôt」といった未来を表わす表現と併用することができる。

島岡茂『フランス語統辞論』によれば、複合過去形(avoir+過去分詞)はもともと「完了」アスペクトを表わす表現であったらしい。しかし「完了」と「過去」には意味的なつながり(「完了」した事柄は「過去」になる)のあることから、たんなる「過去」時制としても使われるようになったのだという。現代フランス語の複合過去形は、その名称から言って基本的には「過去」時制とみなされていると考えられるが、「現在完了」的な使われ方も多く見られるし、上の2つの例のように時制機能を脱落させて純粋な「完了」アスペクトとして使われるケースもまれではない。つまり「複合過去は今日のフランス語では過去(時称)と完了(アスペクト)とを両方あらわすことができる」(『フランス語統辞論』)。したがって読み手は、文中に複合過去形が現れた場合、それが「過去」を表わすものなのか「完了」を表わすものなのか正しく判断しなければ、正しい解釈に至ることができない。

もっとも、こうした判断は特別に難しいものではないということもできる。例えば上記の未来完了的な用法について言えば、「日常会話」や「Si節中」という文脈的な限定があることに加え、「必ず未来をあらわす副詞または副詞句を伴う」(『フランス文法大全』)とされている。ということは、こうした環境における複合過去の使用にさえ気を付けておけばいいということになる。

では次の文はどうだろう。

Quand on a cassé quelque chose de précieux, il faut qu’on s’excuse.(例文3)

『フランス語とはどういう言語か』第2章「動詞のあらわすもの」(同章執筆者は春木仁孝)から引用した。日本語では「大切な物を壊したら、謝らなければならない」という意味になる。この文の従属節(Quand節)では動詞casserが複合過去形をとっているが、全体として「過去」の話ではないし、といって「未来」の話だとも言いにくい。ここで述べられて事柄は、時間との関係を持っていないからだ。主節の動詞は、いわゆる「超時的現在」に置かれており、従属節の動詞の複合過去形は、それに対応する動作が、主節の動詞が表現する動作よりも前に「完了」していることだけを表わしている。つまりこの複合過去も「過去」を表わさない「完了」アスペクト用法なのである。

これに対応する記述を『フランス文法大全』に探ると、まずは、

(e) 一般的真理、経験的事実、格言等に用いられる。この際はtoujours(常に)、jamais(決して)、souvent(しばしば)等の副詞を添える。

という記述が目にとまる。けれど例文3は、ここに列挙されたような副詞は伴っていない。そこでこの記述の周囲にも目を配ると、下のような説明があることに気づく。

(d) 現在時の主文に対し、その直前の事実は複合過去であらわされる。――Aussitôt que、à peine(...するやいなや)に導かれる節において。

やはり但し書きの条件は当てはまらないが、(d) と(e) の合わせ技(?)で、「一般的真理、経験的事実、格言等」では「現在時の主文に対し、その直前の事実は複合過去であらわされる。――従属節において。」と定式化できそうだ。

だがしかし、『フランス語統辞論』の「複合過去の用法」の「普遍的事実」の項に、次のような例文が挙げられている。

Marie s’est approchée, il la joint sur le devant de la scène. (例文4)

「マリーは近づき、かれはかの女と舞台の前面で一しょになる。」

これは「ト書」の文だが、複合過去形を含む「Marie s’est approchée,」は従属節ではない。この項の説明を引用すると、「普遍的事実を示す現在形に対応して、それに先行する完了をあらわす。芝居のト書などについても同じである」とあり、主節・従属節に関する記述はない。つまり、「芝居のト書など」においては、従属節中に限定されることなく、アスペクト用法の複合過去が現れるということだ。

例文4では、もはや文中にはアスペクト用法であることの際立った標識が存在しない。したがって、「過去」時制なのか「完了」アスペクトなのかの判断においては、狭義の文脈のみならず、文章全体・文書それ自体の性質や種類に注意を払うことが必要となる。従属節外での完了アスペクト用法は、「芝居のト書など」で見られるのであって、「芝居のト書」に限って見られるわけではないからだ。興味深い例があるので紹介したい。

Actions concernant l’objectif 1 :

1. Les politiques et stratégies actuelles sur la prévention contre la pollution sont vérifiées

2. Un plan d’actions pour améliorer les politiques et stratégies actuelles sur la prévention contre la pollution a été développé.

3. Le plan d’actions est mené par la Direction de la prévention de la pollution.

(例文5、強調引用者)

ある国の公害予防計画の一部である。「目標1」を達成するために行う「アクション」が3つ列挙されている。語彙的には特に難しいところはないと思う。けれど、ある程度フランス語になじんでいる人でも、読んで、一瞬とまどいを覚えるのではないか。原因はもちろん、2.の文で動詞が複合過去形をとっていることにある。

つまりこれもまた超時的なアスペクト用法なのである。2.の文で使われている複合過去は「過去」を表わしているのではなく、それが3.の「アクション」に先行することを示しているにすぎない。だからこの文を例えば、「2. 現行の汚染防止政策・戦略の改善に向けた行動計画を策定した。」と日本語に訳すと、おかしい。なぜならフランス語で「超時的」な「完了」を意味するところ、日本語では「現実的」な「過去」*1を意味することになってしまうからである。そのおかしさは、これを全体の訳に組み込んでみると、一層はっきりしたものとなる。

目標1に関するアクション

1. 現行の汚染防止政策・戦略を確認する。

2. 現行の汚染防止政策・戦略の改善に向けた行動計画を策定した

3. 当該行動計画を公害防止局が実施する。

文章がねじれている気がするはずだ。このねじれを解消するためには、下のように訳さなければならないだろう。

目標1に関するアクション

1. 現行の汚染防止政策・戦略を確認する。

2. 現行の汚染防止政策・戦略の改善に向けた行動計画を策定する

3. 当該行動計画を公害防止局が実施する。

フランス語原文に戻れば、2.の文は、もちろん現在形で記述してもいいはずだ。それなのにどうして複合過去形が使われているのか。こんなふうに考えることができるだろう。複合過去の使用には、プロセスの先後関係を明確化する効果がある。つまり、「2のアクションの実施→3のアクションの実施」という順序が、2.の文で複合過去を使用することによって強調されるのである。その結果、目標1の達成に向けて、まず現行の政策の中身を確認し、次にそれを踏まえて改善策を立案し、最後にそうして立案された改善策を実行に移す、という3段階を経ることの時間的な重なりが、読み手にありありと実感される。複合過去のアスペクト機能により、こうした時間的立体感を叙述に付与することができるのだ。

ほかにも同種の好例があるので見ておく。フランスの大学評価マニュアルのひとつ「Guide de l’évaluation des licences de la vague B」*2に以下のような記述がある。

Les licences professionnelles ont été évaluées selon la procédure habituelle pilotée par la DGES : le résultat des évaluations est transmis à l’expert coordinateur qui le prendra en compte pour l’évaluation par établissement.(例文6、強調引用者)

これは職業学士課程の評価手続きを説明したくだりだが、まず通常手続きによる評価が行われ、次にその評価の結果が評価コーディネーターに送られ、最後に評価コーディネーターが大学別の評価でこの評価を考慮するという3つの局面が、複合過去、現在、単純未来の3つの時制のアスペクト機能によって、超時的かつ立体的に表現されている。

先の例同様、厄介なのは、引用部だけを見れば、通常手続きによる評価がすでに実際に行なわれており、その評価の結果が(これから)評価担当者に送付され、大学別評価の際に考慮される予定になっている、という現実の時間軸に位置付ける読み方もできなくはない、ということである。しかし、こうした読み方は、このドキュメントそれ自体の性格を踏まえ、かつ冷静に文章の流れを追えば、無理であることがわかる。

 

2.日本語には時制はない、か?

ここで話は変わるが、「日本語には時制がない」という説がある。これについて検討したい。「日本語には時制がない」ことの根拠として挙げられるのは、「過去形」と通称される助動詞「た」の使い方で、「過去」を表わさない場合があるという事実である。代表的な例を下に掲げる。

1. 従属節中の「た」

早く食べ終わっ人から入浴して下さい。(連体修飾節)

明日雨が降っら遠足は中止です。(連用修飾節)

2. ムード(心的態度)を表わす「た」

そうだ、明日は花子の誕生日だっよね?

さあ、買っ、買っ

よし、おれが買っ

いずれも「た」を使っていながら、語られている事柄は過去に属さない。したがって、「過去」時制であることを表示する述語の形態としての「過去形」なるものは日本語には存在しない、さらには日本語には時制がない、日本語には(中国語と同様)アスペクトしかない、ということがしばしば言われる*3

また、「た」が「過去形」でないことの根拠として、助動詞「た」の起源を挙げる説明もよく目にする。曰く。「た」は「たり」に由来し、「たり」は「てあり」に由来する。この「てあり」は、「て」(完了の助動詞「つ」の連用形)と「あり」が結合したものだ。したがって助動詞「た」は本来的には「完了」アスペクトの表現である。

なるほど、「た」は必ずしも「過去」時制を表わすわけではない。加えてこの「た」は、もともとは「完了」アスペクトの表現であった――。どこかで聞いたことのある話である。そう、日本語の助動詞「た」は、この二点において、フランス語の複合過去にそっくりなのだ。

さて、ここからが本題である。上記のとおり、日本語の「た」とフランス語の複合過去は、お互い非常によく似た境遇にある。そして前者「た」の境遇は、いくつかの日本語論で、「日本語には時制はない」という主張につながっている。ところがフランス語の場合、どうだろう。フランス語は時制が複雑である、発達していると言われることはあるにせよ、その逆、つまりフランス語に時制はない、曖昧だと言われることは、まずない。この違いは注目に値する。これは、いったいどんな理由によるものか。

すぐに思いつくことは、フランス語には、アオリスト的な過去時制である「単純過去」が存在することだ。これは複合過去とは違い、「現在」から切り離された、純然たる「過去」を表わす形態である。こうした純粋な「過去」時制は、現代の日本語には見られない*4

例えば日本語で読んだことのある小説の仏訳を読んでいるとき、なにか根本的と言っていいような違和感をおぼえることがあるが、それは、フランス語に翻訳された日本の小説で、いまの日本語には存在しない、このアオリストが使われていることによると思われる。具体例を挙げる。

エレベーターのドアが閉まるシュウッというコンプレッサー音を背中に確かめてから、おもむろに目を閉じる。そして意識の断片をかきあつめ、アパートの廊下をドアに向かって十六歩歩いた。目を閉じたまま正確に十六歩、それ以上でもそれ以下でもない。ウィスキーのおかげで頭はすりきれたネジみたいにぼんやりとして、口の中は煙草のタールの匂いでいっぱいだった。

村上春樹羊をめぐる冒険』)

Je fermai tranquillement les yeux, m’étant assuré que le compresseur avait bien émis son chuintement derrière moi à la fermeture des portes de l’ascenseur. Ensuite, rassemblant les morceaux épars de ma conscience, je fis seize pas dans le couloir en direction de la porte de mon appartement. Juste seize pas, les yeux clos. Pas un de plus, pas un de moins. Avec le whisky que j’avais avalé, ma tête tournait à vide comme une  vis émoussée ; ma bouche était pleine d’un goût de nicotine.

LA COURSE AU MOUTON SAUVAGE ; traduit du japonais par Patrick De Vos)(例文7)

上に並べたのは村上春樹羊をめぐる冒険』第2章冒頭部の日本語原文とそのフランス語訳(いずれも強調引用者)だが、見たとおり、原文で、いわゆるル形(「閉じる」)とタ形(「歩いた」)が混じっているところ、仏訳では単純過去で統一されている。

ところで、日本語の小説を西洋の言語に翻訳する翻訳者(後者の言語を母語とする者)が、日本語は現在形と過去形をごちゃまぜに使うとよく言う(例えば柴田元幸沼野充義藤井省三四方田犬彦『世界は村上春樹をどう読むか』の「ワークショップ1」を参照)。しかし、日本語を母語とする者ならば、上の村上春樹の文章を読んで、「ごちゃまぜ」だとか「めちゃくちゃ」だとか、こういった類の印象を抱くことはないはずである。これは単純な話、上の日本語文において「閉じる」は現在形ではないし、「歩いた」は過去形ではない、ということだろう。

つまり、仏訳を読んでの違和感は、時制を表示していない日本語の表現が、「単純過去」という純粋な過去時制に置きかえられていることに起因すると思われる。

日本語とフランス語の『羊をめぐる冒険』の印象の違いは、さらにはこう敷衍するできる。単純過去を基盤としたフランス語の小説は、完全に過ぎ去った過去の物語として書かれ、読まれる。一方、日本語の小説は、そうではない。物語を構成する個々の場面は、書き手と読み手の眼前、双方の<いま・ここ>に置かれている。小説を夢に譬えれば、単純過去を使ったフランス語の小説は、夢から覚めた後、「ああ夢だったのか」という安心感のもとに、その夢を思い返しての報告という形をとる。一方、日本語の小説は、夢を見ながらの実況中継だ。日本語の小説には、その言語的特性に由来する緊張感、臨場感、現前性が備わっている。

最後に、もうひとつ指摘したい。上に引用した『羊をめぐる冒険』の日本語原文では、「閉じる」で終わる文と「歩いた」で終わる文が「そして」という接続詞で結ばれている。つまり、ル形を持つ前者の文の表わす事態が、タ形を持つ後者の文の表わす事態に先行している。これが何を意味するかと言えば、日本語の文では、ル形とタ形の使い分けにおいて、前後の文との時間的先後関係が考慮されていないということだろう。つまりタ形は、その周囲の要素の表わす「時」に対して相対的に先行しているから使われるわけではないのだ*5

この見方は、「相対的テンス」という概念にも適用できると思われる。従属節で、主節の時より前だからタ形、後だからル形を使うという「相対的テンス」の考え方は、ちょっとあやしい気がする(そもそも「主節」や「従属節」という概念が日本語に関して適当なのかどうか)。

いずれにせよ、やはり日本語には、時制を表わす述語マーカーは存在しないと考えられる。したがって、「日本語は時制がルーズ(時制が曖昧)」という言い方も、ある意味で正しいと言える(日本語は「時の表現」を持たないとか、テンスの表示ができないとか、テンスが混乱しているとか、そういう意味ではない)。ようするに、日本語では、時制を表わす要素が文の成立において義務的な参加者となっていない、ということだろう。日本語は、そのことによって時制をニュートラルに保つことができる。ロラン・バルトふうに言えば、「時制のゼロ度(le degré zéro du temps)」が可能なのだ。

 

2010/7/14

 

*1:これが本当に「過去」を意味するかどうかは後の記述を参照。

*2:Agence d’évaluation de la recherche et de l’enseignement supérieurの文書。同機関のウェブサイトからダウンロード可。ちなみにフランスの大学は、教育省との間に「4年契約」を締結する必要があり、この契約の時期の異なるAからDまでの4つの地域別グループに分けられている。「Vague B」は、その「Bグループ(第2陣)」のこと。またフランスの大学評価は、まず「unités de recherche(研究部門)」、次に「licences(学士課程)」をはじめとする「formations(教育部門)」、最後に「établissement(大学全体)」の順に実施される。つまりこの文書は、Bグループに属する大学の学士課程のための評価ガイドラインということになる。

*3:ここで「時制(テンス)」および「アスペクト」という概念の定義が問題となる。例えば従属節中の「た」を完了のアスペクトではなく主節の時を基準とした「相対的テンス」(後出)と捉える考え方がある。

*4:しかしどうやらかつてはあった。「き」「けり」がそれだ。坂部恵は、その著書『かたり』で、藤井貞和らの所説を踏まえ、「き」とアオリスト、「けり」と半過去の類似性を指摘している。

*5:この点で、日本語のタ形は、フランス語の複合過去と異なる(複合過去形は、現在形で表わされた事態や未来を表わす副詞句の「時」に対して時間的に先行している場合のみ完了アスペクトとして使用される)。両形態のふるまいは重なる部分もあるが、やはり本質的には別物として見るべきだろう。複合過去を用いた例文1の日本語訳でタ形が使えるのに対し、例文5の日本語訳でタ形が使えないのはなぜなのか。日本語のル形とタ形の使い分けの規則や基準は、別途検討すべき事柄である。ここでは断定的なことは言えないが、日本語の「時の表現」における基準時は、現在・過去・未来からなる絶対的な時間軸とも、主節と従属節が形づくる相対的な先後関係とも異なったポイントに置かれていると考えられる。なお、小説等におけるタ形とル形の混用ないし使い分けについて、『日本語』(岩波新書)の金田一春彦は、森鴎外の小説を例にとり、状態を表わす動詞ではル形、生起を表わす動詞ではタ形(金田一は「過去形」と呼ぶ)を使う「きまり」があるとしている。しかし、『羊をめぐる冒険』では、状態動詞ではない「閉じる」でル形が使われており、この規則が当てはまらない。また、タ形とル形の混用に関しては、「た」の連続で文章が単調になるのを避けるため適宜「る」を入れるのだという、単なる「調子」の問題に還元した説明もよく見られる。しかし、ある動詞をタ形とするかル形とするかの選択が純粋に音的(形式的)な側面にのみ基づいているとは考えにくい。そこには両形態の機能にかかわる基準が存在するはずである。「文章に変化をつけるため」では説明不足だろう。