折口信夫『死者の書』冒頭部に見る計算について(フランス語の節連鎖についても少々)

 

折口信夫の小説『死者の書』の出だしの言葉は絶妙に気持ちが悪い。

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。

膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。

折口信夫死者の書』、原文は「ひきつれ」に傍点)

この気持ち悪さに一番よく貢献しているのは三番目の段落であると思われる。「膝が、肘が、徐ろに……」と始まるこの段落は見たところ二つの文から構成されている。うち最初の文は二つの節からなり、その前側の節が助動詞「らしい」の連用形によって後の節に結び付けられている。いわゆる連用中止の形である。連用中止節は後続する節との関係のなかで様々な意味を帯びるが、この文の場合、後続節の結びがダーシで流されており、きちんと終止していない。そのせいもあって、句点まで読み切っても中止節の用法がはっきりしない。だから結び付けられた前後二つの節の、その結び付きのあり方がよく分からない。

だが、まったく分からないというわけではない。そのことについて考えるには、白川博之氏の論考「独立性の高いテ形・連用形について」が良い手がかりとなる。「テ形・連用形の節の中には(中略)形の上では言いさしでありながら、意味的には、独立文とほぼ同等の完結性を備えたものがある」と確認することから論を起こす白川氏は、この種の節を形成しがちな述語のひとつとして、「らしい」のような「モダリティを表わす助動詞」の連用形を挙げている。連用形は一般的にムードを持たず、その表示を後続節に依存的に委ねるが、「らしい」のような助動詞の場合、それ自体がモダリティを表しているぶん、モーダルな助動詞を欠く連用形の節に比べ独立性が高くなるのだという。白川氏は、こうした独立性の高い連用中止節(やテ形節)における前件と後件の関係を、1.「主観的判断の表明」と「前言の補足」の関係、2.「展開型」の連接関係、の二つに大別したうえ、前者1の関係における「補足」の仕方を、a.「一般的→具体的」タイプ、b.「結論→根拠」タイプ、c.「難解な表現→平易な表現」タイプ、の三つに分ける。そしてこのうちb.「結論→根拠」のタイプにおいて、「らしい」等の概言モダリティ助動詞が多く見られると指摘している。言われてみれば、たしかにそうかもしれない、という気がする。白河氏の挙げている例をひとつだけ借りて掲げる。

話してみると彼は民族音楽のファンであるらしく、だいたいいつもいろんな国の音楽を流しながら車を運転しているそうだ。

出典は村上春樹『村上朝日堂』とのことだが、「彼」が「民族音楽のファンであるらしく」思われる(結論)というのは、この「彼」が「だいたいいつもいろんな国の音楽を流しながら車を運転している」という話(根拠)を受けての判断である(白川氏が注意を促しているように、通常のテ形節・連用中止節の用法にいう「原因・理由」とは前件と後件の関係が反転している)。

今検討している『死者の書』の文――モーダルな助動詞「らしい」の連用形「らしく」を含む文――でも、後の節「彼の人の頭に響いて居るもの――」が然るべく言い切られた場合、前件「膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらし(い)」の根拠となるべき内容を担うことになる可能性が高い。日本語文をある程度読み込んでいる人であれば、誰でもきっと、意識するともなくこの意味関係の型をこの文に当てはめ、そう読むはずである。

とはいっても、その人が、自身の日本語の使用経験から得られた、こうした意味関係の暗黙知に基づいて、この文の揺るぎない理解を手にするかといえば、これもそうではないだろう。つまり文末ダーシの下に隠された語列を具体的に思い描くことは、それが期待されているようであるにもかかわらず、たやすくできるとは思えない。なぜなら、たとえじゅうぶん日本語に親しんでいたとしても、一人の死者が膝、肘の感覚を取り戻すことと、その死者の頭に何か音みたいなものが響いていること、すなわち、腕脚の関節部における感覚の回復と聴覚刺激の現前とを「結論→根拠」といった意味関係によって結び付ける方法がよく分からないからである。

ここに露出しているのは、前後二つの節が形成している蓋然性の高い意味関係と、当該二つの節に実現している語彙同士の意味的無関係とのあいだの齟齬である。そしてこの齟齬は、すぐ後に続く文を読むことによっても、強まることはあれ、弱まることはないのだ。

死者の書』第三段落第二文「全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。」は、見たとおり「のだ」で終わっている。「のだ」は、これを末尾に置く文と、それに先行する文との間に意味上のつながりを設定する表現である。つながりは、この場合、後文が前文に対する補足の説明になっているということだと考えていいだろう。「のだ」は「説明のモダリティ」を表示すると言われる。「彼の人の頭に響いて居るもの」があるのは、「全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ」いるのである。そういった関連性において読むことを、後文末に置かれた「のだ」が、その位置で強く促しているのである。

しかし、「響いて居るもの」の由来を明らかにするこの文を読んでも、これに先行する文、すなわち「彼の人の頭に響いて居るもの――。」と言いさして終わる文が暗示する内部意味関係において、当該『死者の書』第三段落第一文によって語られた事態の真相を了解することが易々とできないことに変わりはないだろう。第三段落第二文は、第一文で設定された意味関係を、原因の原因の指定という形で、さらなる意味関係の連鎖に繰り込み、外枠を固めるだけであって、そうした意味の形式に、納得のいく内容を充填するものではないからである。

死者の書』第三段落第一文中「らしく」で終わる節は、独立性、意味的完結性がそこそこ高く、その用法もある程度はっきりしてる。後続の文も同様である。したがって問題の急所は、「彼の人の頭に響いて居るもの――。」の言いさしの箇所にまで追い詰めることができる。それを認めたうえで、ここでたとえばダーシに代えて、「がある」という言葉を置いてみよう。「膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るものがある。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ」。第一文の後件から第二文へと至る流れはなめらかだ。しかしこの場合、第一文の意味関係と語彙とが形づくる、ダーシに隠れて潜在性の次元にとどまっていた齟齬がすっかりむきだしになる。そしてこうした齟齬の露呈は、言うまでもなく、いま問うている折口信夫の気持ち悪さに寄与しない。なぜならこの場合、分かるようで分からない、分からないようで分かるといったジレンマは、わけが分からないというすっきりした解決に取って代わられるからである。

したがって、この段落、とりわけその最初の文において気持ち悪さを醸成する仕組みは、ひとまず次のように整理できるだろう。

  1. 意味関係の型を固定することにより、文意の理解に向けた流れを作り出す。
  2. その意味関係に上手く整合しない言葉を型に流し込むことにより、素直な文意の理解を妨げる。
  3. 文の結びを流すことにより、不整合(理解不能)というきっぱりした判断をも妨げる。

3つ目のステップについて補足する。ここで小松英雄氏を引用するのは、『死者の書』第三段落の近傍から放出される気持ち悪さには、氏の命名による「連接構文」的な側面が強く関与していると考えているからである。現代日本語の動詞は連体形と終止形が基本的に同じ形だが、平安時代の言葉ではそうではない。小松氏は、『枕草子』冒頭から「紫だちたる雲の細くたなびきたる」を取り出し、これを「紫がかった雲が、細くたなびいている、あの」とぶった切りに口語訳することで、古代にあった連体形の存在感をいまに蘇らせる。小松氏によれば、この位置でこの活用形が採用されていることの狙いは、次のとおりである。

所与の文が、「あの~」で終わる〈かきさし〉の形になっているとしたら、それは、書き手が、連体形のあとにつづけるべき適切な体言の択一にためらい、そのまま、表現を中断してしまったことを意味している。したがって、その部分まで文章の流れをたどってきた読み手は、急に書き手につき放され、明示されずに終わった体言を、そして、さらに、それを受けてつづくはずの述部の表現を、あれこれと模索せざるをえなくなる。〈そのありさまは、美の極致としかいいようがない〉とか、〈そのたたずまいは、この世のものとも思えない〉とか、読者は、みずからの経験をそこに融合させて、空想のなかにさまざまの情景を繰り広げることになる。

小松英雄『仮名文の構文原理』)

こうして「受け手の想像力によって、あれこれと模索すれば、候補として脳裏に浮かんだ表出のすべてが末尾の連体形のあとに累積されて豊富な表現になり、しかも、あとに、まだ、漠然とした可能性を残すことになる」。ところが『死者の書』第三段落最初の文の、ダーシを用いた言いさしの場合、すでに見たように意味内容次元の齟齬が仕込まれているため、「みずからの経験」に頼った「空想」を容易に立ち上げることができない。そのため、「彼の人の頭に響いて居るもの」の具体的内容を、文の流れから見れば自然な、「全身にこはゞつた筋」の立てる「僅かな響き」のみならず、先立つ段落に出てくる「水の垂れる音」にも結びつけるという、松浦寿輝氏がその著書『折口信夫論』においてひとつの可能性として示した読み方も、ただちに捨てるわけにはいかなくなる。なぜならダーシの陰に潜む文字列は、権利上、無限近くまで伸ばすことができるのであり、この無限に近い文字列において、「彼の人の頭に響いて居るもの」を「水の垂れる音」に照応せしめるような理屈が展開されている「漠然とした可能性」を捨てることは、誰にもできないからである。

つまり、繰り返しになるが、第三段落は、分かる分からないで言えば、まったく分からないわけではない。なんとなくは分かる。しかし、よく分かるかと言えばそうではない。よくは分からない。まさに、「おおよそのところは理解できるが隈なく明晰になることが決してない」(『折口信夫論』、原文は「おおよそのところ」に傍点)、いやそれどころか、分かっているのか分かっていないのか、そのことさえ分からなくなるようでもある。理解と不理解をめぐるこのような宙吊り状態が、『死者の書』の冒頭部を構成する言葉に特有の、むずがゆいような気持ち悪さを生み出している。

そして、この気持ち悪さの条件としてあるのが、切れているともつながっているとも簡単には言えないような句節の連鎖、そこで終わっているのかいないのか定かでない文、あるいは尻切れトンボの文を許容する「連接構文」の原理であり、そして、そのまた条件としてあるのが、このようなちょっとだらしないとも言える構文――言語類型論で鎖型動詞連続だとか節連鎖だとか呼ばれるもの――を誘発しやすい、日本語の統語論的特性であると、そう考えて、まず間違いないだろう。

もちろん折口の採用する連接構文は、平安時代のそれと同じものではない。小松英雄氏は、源氏物語の冒頭句「いづれの御時にか」の係助詞「か」の結びの消去は、口頭言語に基盤を置いた和文の自然な「呼吸」に基づくものだと言っている。しかし、『死者の書』冒頭部の一節は、むしろこのような「呼吸」の秩序を徹底的に打ち壊すものとしてあるようだ。ツルゲーネフの「あひゞき」の、二葉亭による最初の訳文のように佶屈聱牙な『死者の書』の当該一節は、ひどく息苦しい。

この作品を読み始めた日本語話者は、劈頭において、これまで蓄積してきた自身の日本語使用経験と、いままさに目の当たりにしている文の現実とのあいだに、小さくはあるが決定的な形で開いたギャップに起因する、なんともいえない不快感に襲われる。この不快感は、永い眠りから覚めた死者が金縛りの解ける間際に感じるはずの、自由にならない身体に起因する、もどかしいような不快感と重なり合っている。読者と死者、この二者の感覚が、ここに合一するのである。

死者の書』は全編一様のスタイルで書かれているわけではない。それは、渡邊守章氏、浅田彰氏との鼎談(「折口信夫と越境する伝統――欲望と快楽の定位について」)で松浦寿輝氏の語るとおり、「一種『混雑』した言語態とでも言ったらいいのか、複数の文体、複数のトーンの混淆で成り立っている」。『死者の書』第三段落には、このように場面に応じて様々な言語態を使い分ける折口信夫の緻密な計算が働いていると思われる。折口の連接構文は、明治期の文芸翻訳と狭義の言文一致体を経た後の、表現の具としての連接構文であると言えるだろう。 

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ところで去年、個人的な必要があって『死者の書』の冒頭第一段落から第三段落までをフランス語に翻訳してみたのだが、以上の検討を踏まえ、第三段落を次のように改訳することにした。

(原文)

膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。

(当初の訳文)

Ses genoux, ses coudes semblaient retrouver peu à peu leurs sensations enfouies, alors ce qui résonnait dans sa tête... En effet, avec une légère résonance, les muscles raides de tout son corps étaient sur le point de se contracter même au niveau des paumes des mains et des plantes des pieds.

(改訳したもの)

Ses genoux, ses coudes semblant retrouver peu à peu leurs sensations enfouies, ce qui résonnait dans sa tête... Les muscles raides de tout son corps étaient en effet sur le point de se contracter avec une légère résonance, même au niveau des paumes des mains et des plantes des pieds. 

当初の訳では「膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく」の連用中止節を定動詞(semblaient)で訳していたのだが、これを現在分詞(semblant)に直して絶対分詞節を作ったのがミソである(それに伴って後の文も若干調整した)。このほうが原文にある宙吊り感をうまく表現できると思う。絶対分詞節は、いわゆる従属節と違い、機能上、支配節(主節)に統合されていない(埋め込まれていない)。その一方で定動詞でないため固有のモードやテンスを持たず、それらを支配節に依存している。加えて節間の意味関係のあらわれ(用法)も文脈等に応じて多様であり、一意に決まらない場合も少なくない。こういった点で、絶対分詞節は、日本語の連用中止節(やテ形節)に近い気がするのである。

さて、テ形・連用形の中止節は、従属節に分類されたり、等位節に分類されたり、いろいろのようだが、例えば大堀壽夫氏は、テ形接続について、これがRole and Reference Grammer(RRG、役割指示文法)にいう「連位接続」にあたると述べている(「文の階層性と接続構造の理論」『国語と国文学』平成24年11月特集号)。他方、やはりRRGへの参照を含む論文Eva Havu & Michel Pierrard (2018). Les participiales absolues sont-elles des subordonnées circonstancielles ?  A propos de la sous-spécification des rapports syntaxo-sémantiques(絶対分詞節は状況補語的従属節か? 統語・意味論的関係の不完全指定について)を読むと、絶対分詞節と支配節の関係を連位接続タイプと見なしており、また、絶対分詞節には状況補語としての機能を果たさず「節連鎖」的にふるまうケースがあるともしている。してみれば、テ形ではないけれど同じ中止形である連用形の「らしく」が率いる節を「semblant」の絶対分詞節で訳すのも、案外正攻法ということになるのかもしれない。

ただ、上記仏語論文で節連鎖的とされるのは、例えば次のようなものである(斜体の部分が絶対分詞節)。

[…] : un village vidé de ses habitants, puis rénové ou même partiellement reconstruit à l’ancienne, certains étant alors invités à revenir pour animer ce « village touristique » à la vie artificielle.

こうした節連鎖的な絶対分詞節は支配節に対して後置されることが多く、また、継起性を強調するため、一般的には「alors」等、時況を表す表現を伴うという。

この例を見ても分かるように、フランス語の場合、節連鎖といっても文がだらだら続くという感じではないし、現実的に絶対分詞節をいくつも連ねて文をだらだら続けるのも難しそうだし、後置なら最初の動詞が言い切りになるしで、やはり日本語とは違う。

 

※2021年3月21日追記

絶対分詞節が4つ連なっている例を見つけた。こちら