年末から元日にかけて、保坂和志の『小説の誕生』を読んでいたのだが、小島信夫の「裸木」と梶井基次郎の「檸檬」の文章を比べていた。「裸木」は「檸檬」に似てないとある。でもそれをいうならむしろこうじゃなかろうか。「裸木」は「檸檬」にだけは似てない。次のようなことが書いてあった。
この小説(「裸木」のこと:引用者註)をはじめて読んだ何日後かに、ちょうど小島さんから電話があったので、私はこの小説について(中略)「誰の小説の影響なんですか」と訊いた。
「あの頃は読む本といってもろくになかったですからねえ。梶井基次郎ぐらいしか読んでなかったんじゃないですかねえ。」
というのが、小島さんからの答えだった。
(保坂和志『小説の誕生』)
その「あの頃」のことを、小島信夫は、あるところで、こんなふうに回想している。
昭和十年か十一年かに、高等学校の同室の沢木譲次君という人がいて、私に武蔵野書院から出た「檸檬」を見せてくれたので読んだのが、そもそも梶井を読むはじめであった。
その時の私の印象は、文学というものが、こんなに自分に近しいものなら、自分でも何か書けるといったものであった。私はこの友人とその後転々と下宿を変り、いつも同室か、隣り合せの部屋にいたが、原稿用紙をひろげ、にらみ合う姿勢になっていた。そうして頭の中は、何とか梶井のような小説を書けたら、ということばかりであった。
(小島信夫「詩と骨格」)
「昭和十年か十一年」とある。「裸木」が一高の校内新聞に発表されたのは昭和12年の2月だ。この小説は「何とか梶井のような小説を書けたら」という気分の中で執筆されたとみていいだろう。
もちろん、だから似ているといいたいわけではない。
問題は、第一に、影響は必ず類似という形をとってあらわれるか、ということだ。しかし、どこか似た部分がなければ、作者自身の言葉を抜きにして、第三者が影響について云々することはできないというのもたしかだ。そして第二は、類似の印象が必然的にはらむ、基盤としての違いの問題である。似ているとはつまり同じではないということなのだから。
それとあとひとつ。似ていると思って注意深く観察すると、どこが似ているのかと思う。そういうことがよくあるのも厄介だ。
「主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである」と、ニーチェはいっている。《それゆえ私たちは身体に問いたずねる》(「権力への意志」)。このようにいうとき、彼は、意識への問い、すなわち内省からはじまった「哲学」がすでに一つの決定的な隠蔽の下にあることを告げている。《私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている》(「権力への意志」)。意識に直接に問いたずねるということにおける現前性・明証性こそ、「哲学」の盲目性を不可避的にする。だが、ニーチェは同時に「意識に直接問わない」ような方法をも斥けていることに注意すべきである。
(柄谷行人「内省と遡行」)
わたしたちは主観がじぶんによって世界を制約すること、またその到達できる範囲もはじめから局限されていることをすでに知っている。また主観的な認識はどんな対象でも選ぶことができるが、それもまた局限された認識の総和だから局限されたものだと感じている。こういう制約は一般的には、制約の線上に対立するふたつの概念が貌をあらわすことでたやすく知ることができる。善か悪か、有効か無効か、肯定か否定か、利益か不利益か等々のように。
(吉本隆明「親鸞論註」)
二つの批評文の書き出しはとてもよく似ている気がする。その類似は、両者の文章を構成する要素やその特質が違っている――前者では引用が推進力を担っている、後者では同じ語の積み重ねがリズムを刻んでいる――ことによって逆に際立っている気がする。この「気がする」という主観を局限しているものは、だが何なのか。
あからさまに似ているケースもあるだろう。やはり梶井基次郎の影響を受けているといわれる(そして本人たちも概ね認めている)第三の新人の作品では、安岡章太郎の「陰気な愉しみ」など――加藤典洋も指摘しているけれど――「檸檬」にそっくりだ。どちらの小説でも、病気を抱えた主人公が町をさまよっている。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げて行った。(中略)以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。
(梶井基次郎「檸檬」)
いったいどうしたことだろう。お金のないときには、あんなに悠々と歩けた街が、いまはこんなに気おくれしなければならないとは。
(安岡章太郎「陰気な愉しみ」)
「そうだ……」
そのとき突然、私は一人の婆さんを頭にうかべた。
(安岡章太郎「陰気な愉しみ」)
「檸檬」で檸檬が占めている位置に「婆さん」をはめ込むと「陰気な愉しみ」になる。「檸檬」の「私」は檸檬のおかげで気が晴れるが、「陰気な愉しみ」の「私」は「婆さん」のおかげで気が重くなる。「陰気な愉しみ」、ダウナー系の「檸檬」。
「裸木」の場合はどうだろう。じつは今回「裸木」を読み直してみたら、以前ほど梶井に似てると思わなかった(きっと注意深く読んだせいだ)。けれど、小島信夫が梶井を読み込んでいたことの痕跡は、あいからわず、文面からそこだけくっきりと浮かび上がっているようでもあった。
この道角まで来た時、かすかに地面から洩れる騎馬の蹄の音が私の耳に伝わる。よく耳を澄ますと軈てそれは異国の酒宴の太鼓のような、物憂い後響きを残して消え去った。恐らく此の騎馬隊は私が道角に立つ暫く前に此の坂道を登り、坂の上の平地を歩んで行ったのであろう。然し私の目には丘の上の冷やかな微動だにしない、瀬戸物色の空と、一叢の枯木の上枝の外には何一つ見えなかった。私の前にあるものはそれだけである。けれども此の上の彼方には、あらゆるものがあるのだ。この丘の彼方にこそ、西欧の或詩人が賦った如く「幸の住む国」があるのだ。
(小島信夫「裸木」)
右の一節には、複数の梶井作品から取り出された諸要素が雑多に詰め込まれているように見える。文体的な印象をいえば、「裸木」の文章は、梶井より硬質で、冷たい。だから同じではない。だが似ている。
ところで保坂和志は、先に挙げた本の中で、「檸檬」の冒頭部を長く引用した後、こう書いている。「檸檬」は「『裸木』と比べて端正だ」。小島信夫のものと比べたら、たいていの小説が「端正だ」ということになってしまうのではないか、というのは措くとして、これはその通りで、「檸檬」は「端正」である。しかし他方、この「端正」は、梶井の作品としては、「一寸異風」(三好達治)だというのもまた本当なのだ。つまり、「檸檬」は、まぎれもなく梶井基次郎の書いたものではあるのだが、どこか似ているの話にも似て、それ以降の梶井のものとは、どこか違っている。別人が書いたようだ、というのは言いすぎだとしても。
率直に言えば、「檸檬」は、あの梶井基次郎の作品として、「端正」すぎるのだ。これならばむしろ、梶井の個別の作品のどれとも似ているわけではない小島の「裸木」のほうが、梶井本来(?)の作品に近いとさえいいたくなる。
ところで梶井基次郎の処女作「檸檬」は、同人誌『青空』大正14年1月号に掲載された。脱稿は前年の10月である。書き上げた直後、梶井は、兄事する近藤直人に宛てた手紙(11月12日付)の中で、この作品に関し、こんなことを書いている。
創作といつても短いのを一つ――あまり魂が入つてゐないものを仕上げて此度出す雑誌へ出しました。此度いよいよ雑誌が出るのです。名前は青空――
ここに見られる「あまり魂が入つてゐないもの」という言葉が、これまで何人かの研究者、文藝評論家の注意を引いてきた。単なる謙遜の修辞なのか、それとも字義通り受け取るべき実質的な意味を持つ言葉なのか。たとえば三好行雄は、この文面に触れ、「定稿と、定稿以前の試行とに、ある種の挫折感がはさまれているという見方も可能」(「青春の虚像――『檸檬』梶井基次郎」)だとした。この「挫折感」について、飛高隆夫は、「『檸檬』は梶井の資質のうち、最も奥深い所に存在するものに眼をつむることによって成立し得たもの」(「梶井基次郎論のためのノート」)と踏み込んだ。鈴木沙那美(現・鈴木貞美)は、『転位する魂 梶井基次郎』の序章において、「これを必要以上の謙遜ととるわけにはいかない」と軸足を固定し、その上で、梶井が後に中谷孝雄に対して語った、創作集を出すならば処女作の「檸檬」から、という言葉から滲み出す「表現者としての自覚」のありように着眼し、「意志と作品との乖離」という新たな論点を提出した。加藤典洋は、「新旧論」において、この鈴木の「乖離」という見方を、時を置いての「評価の逆転」ととらえなおし、問いを二つに割った。すなわち、「檸檬」に対する梶井の評価が当初低いのはなぜか。そして、後年その自己評価が肯定的なものに反転したのはなぜか。
「檸檬」には、それにつながる草稿がいくつか残されているが、最も完成形に近い、原型ともいえるような文章のあることが知られている。習作「瀬山の話」に含まれる、「檸檬」と題された一節がそれである。
「瀬山の話」は、400字詰め原稿用紙で65枚ほどの、かなり構成に凝った小説で、語り手の「私」が「瀬山」という名の放埓な生活をおくる友人について紹介するという大枠に、語り手自身がその瀬山に成り代わって一人称で独白する形の二つの挿話――三好行雄はこれを「昼の記憶」、「夜の記憶」と呼び分けている――がはめ込まれている。さらには最終部において、瀬山からの手紙を引用する計画のあったことが読み取れもする。梶井は、未完に終わったこの小説の柱となる二つの挿話の片方、清澄な感じのする「昼の記憶」の部分だけを抜き出して、逆に言えば、ほかの部分をそっくり削ってしまって、梶井基次郎といえばこれ、というくらいの「端正」な作品「檸檬」に結実させた。
加藤典洋は、前記「新旧論」で、この「檸檬」という作品を「全く『新しい』小説」と呼んでいる。そして、このような新しい小説を生み出した梶井基次郎の芸術観がそれと対照的に何とも古臭いもの――「白樺派流」――であることに注目することから、論を書き起している。かくして先に挙げた二重の問いに加え、新たな問いが問われることになる。「このようにも『古めかしい』紋切型の芸術観を抱いて、梶井はなぜ、また、どのように、『檸檬』以降の『新しい』小説を書くことができたのか」
当時の梶井基次郎は、どうやら志賀直哉のような「小説らしい小説」を書きたいと望んでいた。だが、どうしても書けなかった。構成の複雑さからいっても意気込みの感じられる「瀬山の話」も、結局終わらせることができなかった。しかし、同人誌を出すことはすでに決まっている。そこで、梶井のとった行動は、「瀬山の話」から一挿話だけ抜き出して、文章を整えることだった。なんとか仕上げた。それが「檸檬」である。しかし、この作品は、梶井には、このような外的な事情のあったこと、また、それゆえ、白樺派的な「人生上の苦悶」「自我の苦しみ」といったテーマを扱えなかったことを理由として、まったく不本意なものであった。だからこそ、「魂が入っていない」ものと映った。
「しかし」と加藤は続ける。
しかし、やがて彼には、ある手応え、書くという仕事をつうじて、――「手」から教えられるようにして――自分が本当に書きたかったのは、この「あまり魂の入つてゐないもの」だったのではないか、という感想が生じる。
(加藤典洋「新旧論」)
このような気付きの瞬間が梶井に到来したのではないか、そしてこの気付きが評価の逆転を引き起こしたのではないか、というのが加藤の考えである。
そもそも、創作集には「檸檬」から入れたいという梶井の言葉が、本当に中谷孝雄の語る通り、作品に対する「自信」だとか、作家としての「自覚」だとかを表す言葉だったのか、というのは措くとして、筋は通っている。
また、「新旧論」に固有の問い、「このようにも『古めかしい』紋切型の芸術観を抱いて、梶井はなぜ、また、どのように、『檸檬』以降の『新しい』小説を書くことができたのか」という問いに対しては、こう答えることができるだろう。外から与えられた欲望(白樺派ふうの小説が書きたいという「頭」の欲望)ではなく、自己本来の欲望(西洋の音楽や美術、珍しい舶来品――香水や石鹸――を愛玩したいという「身体」の欲望)に期せずして忠実であったことが、「檸檬」という「新しい」小説を生み出したのだ。梶井は、「頭」が新しかったのではなく、「身体」が新しかったのだ。
こうした考えは、小林秀雄に端を発する資質論の一種であるともいえるし、外発的なものに対する内発的なものの優位という江藤淳的な文学観の変奏であるともいえる。
さて以下、自分の考えを述べたい。
加藤の考えで、「瀬山の話」から「檸檬」が抽出される過程で打ち捨てられた部分、三好行雄が「夜の記憶」と呼ぶパートにあったものは、白樺派流の文学観、いってみれば、《精神》である。しかし、この打ち捨てられた部分にあったものを、その《文字》に即して眺めた場合、すこし違った景色が見えてくるようである。やや引用が長くなるけれども――
劫初から末世まで吹き荒ぶと云おうか、量りしられない宇宙の空間に捲き起る、想像も出来ないような巨大な颱風が私を取巻いて来たのを感じはじめる。それがある流れを形作っていて、急に狭い狭い――それまた想像も出来ないような狭さに収斂するかと思うと再び先ほどの限りもない広さに拡がるのだ。その変化の頻繁さは時と共にだんだん烈しくなり、収斂、開散に伴う変な気持も刻一刻強くなってくる。
もしその時に自分自身の寝ている姿が憶い浮かんで来ると、その姿はその流れの中に陥ち、その流れの通りの収斂、開散をする。その大きさを思うと実に気味がわるい。ゴヤの画に出て来る、巨男が女を食っている図や大きな鶏が人間を追い散らしている図 規模は小さいが ちょっとあれを見たときの気持に似ているようにも思われる。
しかし何も憶い浮かべないでもその気持は、機械の空廻りと同じで 形の見えない、形の感じというようなものの大きな空廻りをやっている。
私はそれが増大してゆくにつれて恐ろしくなって来る、気が狂いそうに、よほどしっかりしてないとさらってゆかれるぞと思う。
(「瀬山の話」、強調引用者)
梶井が「檸檬」という「端正」な作品をなすために切り捨てた部分には、右のごとく「変な気持」があった。そして梶井が、この四つの文字とその周囲に張り巡らされた混濁した夜の言葉にこだわっていたことは、「檸檬」の直後に発表された「城のある町にて」で、右引用部がすこし圧縮されて再登場していることからも、いえるだろう。彼――主人公の峻――は、眠れない夜、「えたいの知れない気持」に襲われる。
変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵程になる。確かどこかで触ったことのあるような、口ヘ含んだことのあるような運動である。廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持に直ぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。
(「城のある町にて」、強調引用者)
「城のある町にて」には、また、次のようなくだりがある。峻が城跡から遠くを望む場面だが、彼は海岸の入江の「特別心を惹くようなところ」をもたないその景色を眺め、「変に心が惹かれ」ている。
なにかある。ほんとうになにかがそこにある。と云ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。
例えばそれを故のない淡い憧憬と云った風の気持、と名づけて見ようか。誰かが「そうじゃないか」と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかも知れない。しかし自分では「まだなにか」という気持がする。
(同前)
気持の名前を探るというモチーフは、「瀬山の話」の「夜の記憶」の「気持の混乱」について語る部分で、それをいいあてるための四苦八苦という形で、すでにひとつの場を占めていた。
君には多分こんな経験があるだろう。――私の力ではそれがどうしても口では伝えることが出来ないのだが――もし君がそれを経験しているのだったら、あるいはこのような甚だ歯がゆい言い方だがそれで、ああそれそれ! と相槌を打ってくれるだろうと思う。
経験しながら探っていると一度何かで経験したことのある気持であるにちがいないと いう気がする、触感からであったか、視覚からであったか、――それが思い当ればそれらを通してその気持を説明出来るのだが、しかし見す見すそれが思い浮かばないのだ。(「瀬山の話」)
処女作の成立過程で切り捨てられ、第二作でさっそく復活したこの二箇所に、梶井が当初書きたかったこと、込めたかったことの核心があると考えるのは無理筋ではないだろう。梶井基次郎の「魂」とは、名づけられない気持、すなわち「変な気持」のことだったのだ。
そして梶井が、この「変な気持」に――それもその字面に――執着していたことは、三作目の作品「泥濘」を《文字》に即して読むことで一層明確になる。
自分はかなり根をつめて書いたものを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の変に病的だったことがその後の生活にまでよくない影響を与えていた。そんな訳で自分は何かに気持の転換を求めていた。
(「泥濘」、強調引用者)
けれど手元不如意で、外出することもままならず、気分がふさいでいた。一週間ほど、なにも書いていない。無気力な日々。
先ほども言ったように失敗が既にどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変に憶い出せなくなって来たりした。読み返しては訂正していたのが、それもできなくなってしまった。どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのものが自分にはどうにも思い出せなくなっていたのである。
そして、書くのをやめた彼は、ずっと「ぼんやり」している。
その不活溌な状態は平常経験するそれ以上にどこか変なところのある状態だった。花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶が不愉快で堪らなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにかに魅せられている気持である。
このあとも、しばらく「ぼんやり」の話が続く。そして、第一章の終わり近く、深夜の鏡を覗き込んでの錯覚と、それに伴う恐怖が語られたあとに、こんな文が顔を出す。
鏡を見たり水差しを見たりするときに感じる、変に不思議なところへ運ばれて来たような気持は、却って淀んだ気持と悪く絡まったようであった。
引用はこのへんにしておく。「泥濘」は三つの章から構成されているが、後の二つの章でも、ほぼ同じような頻度で、「変」と「気持」の二語が出現するのだ。
これが意図的に、意識的にやられていたのかどうか、日記や書簡を見ても言及がなく、わからない。しかし、少なくとも梶井基次郎の「手」は、「変な気持」というテーマ語を作品中に散りばめるという、その効果も定かではない、ソシュール的な意味での「アナグラム」(のようなもの)を試していたのだ。
梶井の「手」は、「城のある町にて」で、心境小説的な言葉の地から「変な気持」を浮き立たせ、際立たせるという方向で語を置きにいった。逆に「泥濘」では、「変な気持」の分散、希釈により、読み手を「ぼんやり」とその気分に巻き込むことが「手」の企図となっていた。では、続く四作目「路上」で、梶井の「手」は、どのように動いたか。これに関しては、「変な気持」というエッセイに書いたので、ここに詳しくは書かないけれど、簡潔にいえば、「手」の狙いは、心境小説の機械に「魂」を憑依させることにあった。なお、梶井は、やはり近藤直人宛ての書簡で、「路上」の主題が「変な気持」にあったことを明かしているが、「変な気持」をめぐるその「手」の模索は、ひとまず、この作品で終わりを見る。これに続く書簡体の作品「橡の花」は、梶井が創作集に入れることを頑なに拒んだものだが、その理由、というより原因としては、「変な気持」が手放されたこと、素手が新しい主題をまだ見つけていないこと、それゆえ作品に手ごたえが感じられなかったことが考えられる。
梶井は「変な気持」を断念することで「端正」な「檸檬」を手に入れた。語り得ぬものについて語らなかったこと、沈黙したことの果実、それが梶井基次郎の「檸檬」なのである。
「武蔵野文学」第62集を読んだ。梶井基次郎の特集。河野龍也「梶井基次郎『檸檬』を生んだ偉大な〝失敗〟――梶井基次郎『瀬山の話』直筆草稿が語るもの」が興味深い。長く行方不明だった「瀬山の話」の草稿が平成23年に発見され、実践女子大学が所有している。これまで「単一の草稿として紹介されてきた『瀬山の話』が、下書きと清書の二段階の草稿を貼り合わせたものと判明した」。おまけに、下書きの原稿には「現在まで全く紹介されずに埋もれてきた」「約三四〇〇字」が含まれている。現物(淀野隆三の編集指定の入ったもの)を確認した河野氏によれば「この作品は、眩惑的な分身小説に発展する要素を多分に持っていた」。「確かに皮肉な言い方をすれば、この長篇が失敗したからこそ、名作『檸檬』が後世に残されたという言い方もできる。だが、打ち捨てられた草稿には、『瀬山の話』ではなく、それよりもっと魅力的な『私とAの物語』が生まれる萌芽が残っていた」。
(Le Citron, perfection sans âme)
Le Citron est une nouvelle écrite par l'écrivain japonais KAJII Motojiro en 1924 et publiée en 1925 dans une revue littéraire de cercle intitulée Aozora (le ciel bleu). Il s'agit d'une de ses œuvres les plus connues et les plus emblématiques avec Sous les cerisiers. Les textes de Kajii, notamment ce premier fruit de son travail, sont qualifiés par certains écrivains comme YOSHIYUKI Junnosuke, YOSHIDA Kenichi, MARUYA Saiichi et plus contemporainement SUWA Tetsushi, de « parfait ».