日本の言語の起源の補綴


古事記の序の終わり近く、撰録方針について太安万侶の記すところ、「上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難」とある。「昔の言葉は、その形式と内容において、今よりもずっと素朴であった。そのような言葉を文章化するのは難しい」という意味に解される。であるとすれば、安万侶は、「当代の言葉は、もはや素朴ではないから、書くのは困難ではない」と考えていたはずである。そしてこの場合「書く」とは、いうまでもなく、漢文によって書くことであっただろう。安万侶はこの序を正格の漢文で書いている。では、こうして正格の漢文で書いている安万侶に、自分はいま中国語で書いているという意識はあったか。慎重になる必要がある。なかったはずだ。文字としては漢字しか与えられていなかったし、書くこととしては漢文の構文に従って書くことしかなかったのである。

であるとすれば、本文についても同じことがいえるだろう。ことさら日本語で書こう、日本語を書こう、という意識は、安万侶にはなかったとみなければならない。和文を書くのでも、漢文を書くのでもなく、単に書いている。そう考えていたはずだ。すなわち、安万侶が古事記本文において果たそうと考えていたことは、同じひとつの《書く》のなかで、当代の言葉とは異なる、過去の素朴な言葉の姿を、漢字を使った表記に反映させることであった。つまり本文であのような書きざま――だいぶ変体的な漢文――がとられたのは、ただひたすら文体上の工夫であったということだ。

このような確認は、一方では、古事記の本文が「拙なげな」漢文で書かれているのは「ひたぶるに古の語を伝うることを旨とせる故」(「古事記伝」)だという本居宣長の考えをそのまま受け入れ、他方では、序において表明された文字化・文章化の困難に「漢字をもってして日本語を書きあらわすばあい、どのような方策をとったらいいかという一般的な問題」(「古事記はよめるか」)を見て取る亀井孝の見方を否定することに、ひとまずはなるのかもしれない。

では、右において《書く》という方向から見たのと同じことを、こんど《読む》という方向から見なおすと、どういうことになるか。小林秀雄江藤淳との対談で次のように語っている。

聖徳太子が、はじめて『三経義疏』を書いたり、十七条憲法を書いたでしょう。あれは、日本人が書いた最初の立派な漢文ですね。ところが、また、それは日本の文章でもあった。日本人はあれをどう読んでいたかというと、おそらく訓読していたのです。
(「歴史について」)

「訓読」という言葉には、じゅうぶんな注意を払わなければならない。十七条憲法でいえば、「以和為貴」を、日本人は「イ、ワ、ヰ、クヰ」とは読み上げなかった、「和を以て貴しと為し」と読み上げた、という意味において受け取るだけでは、じゅうぶんではない。同じ対談中、小林秀雄は、「日本人は外国語を覚えるのが不得手なのだ。英語でもフランス語でもまだ訓読しているんですよ」ともいっている。こちらでは、「訓読」という言葉が、外国語で書かれた文章の理解の側面を示していることが明瞭になっている。日本人は、外国語を日本語に組み替えて理解している。日本人は、英語なりフランス語なりの音声を使っていくら上手に読み上げることができたとしても、外国語――異なるラング――とのあいだに直接的な、密着的な関係を結んでいない。そのことを、「訓読」という言葉を持ち出して、小林はいいたいのだ。さらには別のところに、訓読をめぐる小林の言葉として、次のような断裁もある。

書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に思い描く事になる、そういう読み方をしたのである。
小林秀雄本居宣長』)

小林秀雄のつかんだ訓読の実相は、このようなものであった。つまり訓読とは、「邦訳語邦訳文を、其処に思い描く事」、すなわち聴覚刺激を伴わない訳文のイメージを脳裏に映し出すことである。「以和為貴」という漢字の連なりがあれば、「和を以て貴しと為し」という文字列を想像することまでが訓読なのであり、「ワヲモッテトウトシトナシ」と音声化するか、「ヤワラカナルヲモッテトウトシトシ」と音声化するか、こういう層まで、読みを確定することは、書かれたものを読み上げるという特別な場面を除いて、求められない。

「一体、漢文の訓読などというものは、今日でも不安定なものだ」(『本居宣長』)。小林はそう指摘する。しかし、これは何も漢文の訓読に限った話ではないだろう。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文で、「国境」を「コッキョウ」と読もうが、「クニザカイ」と読もうが、意味を理解する上で、驚くほど違いが生じない。音読みと訓読みに、等しい可能性が認められている。日本の文章において漢字が使われている限り、こうした《読む》における音声化への無頓着、あるいは文字から意味への直通は、時間と領域を超え、どこまでもつきまとう。日本語話者にとって、漢字を読む、漢字仮名交じり文を読むとは、基本的にこのように、聴覚とはかかわりのない、純粋に視覚的な作業であるといっていいのだ。

こうした《読む》の実相――音声の棄却――を、こんどまた、そのまま、最初見た《書く》の方に投げ返すことができるだろうか。やはり江藤淳との対談で、小林秀雄がこう語っている。「日本の文章というものは漢文の訓読によってできたものです」。次に引く津田左右吉の指摘は、一見、この小林の言葉と真っ向から対立しているように見える。

いわゆる漢文に訓点をつけ、日本語脈になおしてそれをよむということは(中略)、はじめから、漢文をよむよみかたとして考えだされたのではなく、日本語をシナ文字で写し日本語の文章をシナ文字で書くことから導かれたものであろう、ということを、かつて考えたことがある。
津田左右吉「漢文の日本語よみ」)

引用元の随筆で津田のいっているのは、こういうことである。文字を知らなかった日本人が文字を、すなわち漢字を知り、それを用いて日本語を写し始める。たとえば古事記で「旧辞」と呼ばれている文章や、法隆寺金堂薬師仏光背銘などがそのような原初の日本語エクリチュールであったと考えられる。この手の文章は、全部漢字で書かれ、漢文ふうの語順をとっているとしても、「もともと日本語を写したものであるから、書かれた後にそれをよむにも」、日本語として、日本語の語順に直していたに違いない。そしてもしそうであるとすれば、日本語を写そうという意図をもって書かれた文章のみならず、最初から「漢文の形をまねて書かれた文章をも、同じよみかたでよもうとするようになる」だろう。いや、それだけではない。「日本人の書いた漢文に対してのみのことではなく、シナ人の書いた漢文に対しても、同じであったろう」。ようするに津田は、日本人は、自分たちの書いた変体漢文に対して訓読を行っていたからこそ、中国人の書いた純粋漢文に対しても訓読を行うようになったと主張しているわけだ。「日本人が日本人の生活や思想を漢文をまねて書きあらわし、それを日本語脈になおして読んだので、そういう文章のよみかたが、シナ人がシナ人の生活や思想を書きあらわした漢文のよみかたにも移っていった」(強調引用者)というのである*1

津田の考えでは、日本語の文章を書くことが漢文を訓読することに先行している。先ほど見たように、これは小林秀雄の考えと対照的である。両者はともに和文の成立について語っているが、津田は、漢文訓読可能にしたものとしてそれを語り、小林は、漢文訓読可能にしたものとしてそれを語っている。

しかしその一方で、「漢文の形をまねて書かれた文章をも」日本語として読んだ、つまり訓読していたはずだという津田の主張は、正格の漢文で書かれた十七条憲法も、それが読まれるときには訓読されていたはずだという小林の主張と重なっている。そして、このことの前提として津田は、「はじめて文字というもののあることを知ってその文字を用いることを学んだ時」からすでに日本人は「日本語を写すためにそれを用いようとした」ことを考えている。ここで文字を用いるということは、単に文字を借りたというだけではなく、「文字のならべかた」の借用までを含んでいる。漢字でというよりも漢文で日本語を書こうとしたということである。この津田の見方は、古事記の序から導出される「当代の日本語は漢文で書き表すことが可能だ」という安万侶の意識の持ち方と整合的に結びつけることができる。

つまり、漢字が移入されるとすぐに日本人は日本語を漢文で書くことを試みはじめ、その結果、推古時代にはこのような形で散文を書くやり方に相当程度習熟し、八世紀の初めには漢文でじゅうぶん日本語を書き表すことができるという意識を持つ日本人が現れた。しかも、そのように作られた漢文は、外形的には中国語と変わらないのに、中国語としてではなく、日本語として、日本語のシンタックスで読まれた。つまり、ある意味、古事記が著された時代において――いわゆる和習は免れがたい*2にせよ――漢文そのままの形において日本語の読み書きが成立していたと考えてみることができる。

しかし、「漢文そのままの形において日本語の読み書きが成立していた」といっても、これは具体的に、どういう事態をさすことになるのか。

津田左右吉の『日本古典の研究』には、漢字を使って日本語を書き表そうという場合に想定される行程について、言説構造の水準別に考察した個所がある(「第五篇 書紀の書きかた及び訓みかた」)。それによれば、まず第一に、語のレベルにおいては、「漢字の意義をすてて其の音のみを取り、一種の音標文字、即ち所謂仮名、として用いるのと、漢字の意義のみを取ってそれを国語にあてる、即ち所謂訓を用いる、更に換言すれば国語を漢語に訳して記すのと、二つの方法があったはずである」。次に言表のレベルでもやはり、全部仮名を用いて記すやり方と、訓によって表示した単語にテニヲハや活用語尾を仮名で添えるやり方が考えられる。が、こうした添え字は、記されないことも多かったであろうし、中には助字に置き換えることができるものもあるから、「漢語もしくは漢文についての或る知識を有っているものが書けば、おのずから漢語の語法によって文字を排列するようになる」に違いない。「いいかえると或る一句を漢語に翻訳して記すことになる」。そして最終的に言説のレベルにおいては、こうした「種々の書きかたが混用」されるであろうが、「全体としては国語を写した文章ながら、文字の上では漢語の形になっている」ものができあがる。そして、こうしてできあがった文章は、「本来、国語を写したものであるから、それを読むには、やはり、国語によったはずである」。

さらに津田は、こんなふうに漢語化した文章の、その漢文らしさの程度は、「人によって一様でなかったに違いないが、漢文の知識が世に広まるに従い、おのずから」「真の漢語に近づいても来たであろう」と書いている。こうした和文表記は、その理念的完成形態において、漢文とまったく同じ姿をとるというのである。和文即漢文。これが、津田の考える、日本語における《書く》の原像である。この和文である漢文は、意識上、日本語を表記したものだから、読むときにも当然、日本語の音声で、日本語の語順で読まれた。そしてこの、和文即漢文を日本語として読むという読み方が、はじめから中国人によって中国語として書かれた純粋漢文に対しても適用された。これが「漢文訓読」である。

こうした津田の論述の流れを踏まえることによって、逆向きに思えた津田左右吉小林秀雄の考えを同一の時間軸の上に並べることができるようになる。日本語の散文の成立過程において、津田は和文即漢文から漢文訓読という習慣が生じるフェーズについて、小林は漢文訓読の実践から正格の(?)和文が生じるフェーズについて語っているものとして見ることができるのである。

津田は、先に挙げた法隆寺金堂薬師仏光背銘などに見られる、今日、和文が志向されていたことの証拠とされることも多い日本語の語順や語彙の混入を、大ざっぱには漢文への習熟が不足していたことの痕跡と推測している。そしてこのような推測は、すでに見たとおり、正格の漢文で日本語をつづる能力を備えた太安万侶が、古く拙い日本語の文体を再現するにあたり、あえて和習、変体性を取り込んだのだという、古事記序文に記された言葉から抽出可能な考えと整合している。

ここでひとつ、何より注目しておきたいのは、漢文がそのままの形で和文であるというような事態に先立つものとして、津田が当然のように「翻訳」という言葉を持ち出していることである。とりわけ語のレベルにおける津田の闡明は、いわゆる「訓の成立」という言葉でよくいわれるものと同じだが、この「訓の成立」をはっきり「翻訳」としてつかんでおくことは、書き言葉に限らず、日本の言語ができあがっていく過程で起きていたことの意味合いをはっきりさせる上で、決定的に重要なことであると思う。これについては後で詳述する。

さて、文字が移入されてから和文が成立するまでのプロセスは、津田の考えをまとめると、次のように進行する。

①訓の成立→②和文即漢文→③訓読の成立→④和文

小林秀雄が「日本の文章というものは漢文の訓読によってできたもの」というのは、③から④に至るあいだの出来事に着目しているわけである。この局面で起きていたことのありように関しては、山口佳紀の説明が簡にして要を得たものであった。

訓読法がある程度固定し、一定の漢文に対して一定の日本語が思い浮かべられるというような状況が現れると、漢文は日本語を表記する形式でもあるという性格を帯びて来る。たとえば、「以和為貴」という漢文に対して、ヤハラグヲモチテタフトシトスと訓読する習慣が固定すれば、今度はヤハラグヲモチテタフトシトスという日本語を「以和為貴」と表記することが可能になる訳である。
こうして、漢文は、日本人にとって、外国語文であると同時に日本語文でもあるという二重の性格をもつに至った。
(山口佳紀『古代日本文体史論考』)

日本語にはそもそも《書く》が存在していなかったのである。それはつまり文章の型が存在していなかったということだ。この型を作り出したものが訓読である。そう考えられる。だから、「和文即漢文」も、「国語を写した」ものであるというが、じつをいえばこれは、あらかじめ存在する「和文」を「漢文」に移転したというようなものではない。「和文」は、和文即漢文であれ、中国製の純粋漢文であれ、漢文のシンタックスに従った、漢字だらけの文章を日本語として読むこと、すなわち訓読することによって、ようやく姿を見せる。日本の書き言葉は、漢文訓読の効果として成立したということである*3

引用したくだりで、山口は、「一定の漢文に対して一定の日本語が思い浮かべられる」といういい方をしている。このいい方に明らかであるが、「以和為貴」から「ヤハラグヲモチテタフトシトス」へと向かう関係の固定は、後者の片仮名表記に示されるとおりの音韻形態に到達するまでの関係の固定としてとらえる必要はない。訓読法の固定は、像の次元における意味論的な固定であったとしてもいい。というより、そうである。そしてそうであるとすれば、訓読を反転させることで獲得された《書く》ことにも、《読む》という視覚の働きに由来する非音声的な性格が尾を引いているはずである。つまり、日本語話者にとって、《読む》が音声――物理音であれ、「聴覚映像」(ソシュール)であれ――を伴った言葉の再現・再生とは無縁の作業であったように、《書く》は、それに先行する内なる声を文字によって外化することとは、まったく違った形をとる。内なる声を切り捨てる、それが、日本語にとっての《書く》だ。内なる声は、やはり言葉である限り、そのまま他者の声でもあるだろう。だから、極言すれば、日本語の書き手は、自分の書いたことが、読み手にそのまま届くことを、あらかじめ断念しているのでなければ、ひとことも書けないだろう。

断念が条件なのである。あるいは断絶が。日本語の《書く》と《読む》の間には、文字に覆い隠された、基礎的な断絶が深い亀裂を走らせている。これが基礎的なのは、断絶の黒線が、自己と他者の間にではなく、自己の内面に引かれているからである。宣長の「断案」は、ここから来る。

(以下『トラデュイール』第5号)


La prothèse d'origine de la langue: J(aponaise)

Un Japonais a le droit de se dire: « Je suis Jackie ». Mais qui lui a donné ce droit ? Qu'est-ce qui lui a permis de dire cela ? Qu'est ce qui lui est arrivé ? - J majuscule, une lettre en japonais, des lettres pour le japonais, qui sont venues chez nous de l'autre côté de la mer, nées d'une autre mère de l'outre-mer, qui s'appelle la Chine, pour se placer devant nous et avant le mot « aponais », langue sans J initiale, notre système linguistique originaire sans écriture. Il s'agit alors d'un élément supplémentaire et essentiel pour fonder notre langue, langue japonaise étrangère, constituer l'appellation du pays à l'international et devenir un symbole qui nous marque au niveau national depuis surtout les années 90. Or nous sommes mal à l'aise, mal placés devant cette lettre mal placée, à la fois domestique et étrangère, donc domestrangère: « J », soit la pro-thèse, vice-thèse, thèse vicieuse, qui nous fait confirmer que nous sommes tous dans une condition très derridienne, car... monolinguistes-de-l'autre.

*1:山城むつみは、「訓読について」(『批評空間』第11号)において、津田左右吉の随筆から上と同じ個所を引き、津田が「訓読は、漢文を読むためにではなく和文を書くために案出された工夫」と考えていたと指摘している。訓読をめぐる山城の一連の論考には多くのことを教わったが、この指摘は疑問である。津田の真意は本文に要約したとおりであり、山城は結果と目的を取り違える形で誤読していると思われる。

*2:小林秀雄吉川幸次郎が「立派な漢文」と呼ぶ十七条憲法にも、やはり誤用はあるようだ。森博達『日本書紀の謎を解く』を参照。

*3:この点に関してはトラデュイール第2号「志賀直哉『国語問題』再考」で触れた。