誤訳は何故なくならないのか――ポール・ド・マン、ジャック・デリダ、ヴァルター・ベンヤミン、山城むつみの交点

誤訳はなぜなくならないか。理由はいくつか考えられる。けれど、この問題を考える上で、まず除外しておかなければならないものをひとつ挙げておく。それは、「あらゆる翻訳は誤訳である」という考え方だ。

この命題の根には、「翻訳とは、異なる言語に属する表現どうしの間に等価を打ち立てることだ」という前提がある。翻訳=誤訳論は、この前提の上に「異なる言語間の表現に等価を打ち立てることは不可能だ」という常識をさらに積み上げて、その上にふんぞりかえっている。けれど、常識の足場である等価論が間違っているとしたらどうだろう。つまり、翻訳とは異なる言語間に等価を打ち立てることなんかでは全然ないとしたらどうだろう。誤訳本質論は、胡坐をかいた空中浮揚みたいなことになる。こういう発言は、翻訳といえばすぐに「越境!」だとか「トランスなんたら!」だとか、妙に威勢のいいことを言って嬉しがっている人たちに特有の逆説にすぎない。だから逆説って面白いなあって思う人たち以外には面白いものではない。むしろつまらない。

誤訳はなぜなくならないか。真っ先に考えられることは、注意力、集中力の問題だ。ようするに、ケアレスミスだ。これはもう、なくならない。二重三重にチェックする体制を設ければいいわけだが、それでも残るミスは残る。沼野充義の言う通り、「一冊の厚い訳書」には「間違いの百や二百はあっても当り前」(『W文学の世紀へ』)なのだ。だから、誤訳指摘なんてものは、その気になれば誰にでもできる。高校生にでもできる。

ケアレスミスには、どんなものがあるか。似たようなつづりの別の語と間違える(日本語からフランス語への翻訳で、原文に「他方」とあるところ訳文で「province(地方)」としているのを見たことがある)、小数点を桁区切りと混同する(フランス語は小数点にコンマを使うので)、あるいは対義的な表現間で入れ違う(右と左、西と東、上流と下流を間違える。このあいだ、自分もやった)など、いろいろあると思うけれど、否定文を肯定文にしたり、二重否定を単なる否定にしたりするといった、肯定/否定の反転なども、わりとよくあるのではないか。否定辞は、たいてい短くて、見落としやすいから……。

例えば、批評家のポール・ド・マンヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」の仏訳について指摘する数か所の誤訳のうちに、次のようなものが含まれている。

ドイツ語原文:
Wo der Text unmittelbar, ohne vermittelnden Sinn (...) der Wahrheit oder der Lehre angehört, ist er übersetzbar schlechthin.

フランス語訳:
Là où le texte, immédiatement, sans l’entremise du sens (...) relève de la vérité ou de la doctrine, il est purement et simplement intraduisible.

原文は、「テクストが直接に、意味の媒介なしに……真理もしくは教義に関係しているとき、そのテクストは問題なく翻訳可能なのである」(ポール・ド・マン「結論:ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の使命」」、『理論への抵抗』日本語訳p.163)という意味であるが、仏訳では、最後の部分「翻訳可能なのである」ではなく、「翻訳不可能なのである」となっている。*1

ド・マンは、「少なくとも肯定文と否定文の違いを見分けられるぐらいにはドイツ語を知っているはずの翻訳者」が「この比較的単純で明快な」原文に、それと「文字通りに反対の訳をつけてしまう」のが「異常なこと」だと、ちょっと皮肉っぽい調子で言っている。そして、その原因を、ベンヤミンの言葉が「あまりにも常識に反しているので、知的で学識に富んだ注意深い翻訳者にはそれが理解できなかった」せいだと考えている。

常識的な考え方をすれば、翻訳は意味を媒介とする以外やりようがない。意味を媒介としないテクストは完全に「翻訳不可能」だという仏訳の内容は、この常識の内側にある。でもベンヤミンは、そうは書いていない。常識的なガンディヤックは、非常識なベンヤミンの「驚くべき」思考の流れを追うことができなかった。

というのがド・マンの考え方だが、「理解できなかった」は少々言い過ぎという気がする。たぶん、この肯定と否定の反転は、「パリ大学の著名な哲学教授であり、ドイツ語を熟知した学者」である仏訳者モーリス・ド・ガンディヤックの犯した単なるケアレスミスにすぎないのではないか。ガンディヤックは、「知的で学識に富んだ」翻訳者ではあったが、「注意深い」翻訳者ではなかったということにすぎないのではないか。

ところでこれに関して、ド・マンは、もうひとつ「喜劇のおまけ」を付け加える。ジャック・デリダが、このガンディヤックの誤訳混じりの仏訳を使って、パリでセミナーを開いた。聴講者から、原文では「翻訳可能」だと指摘を受けるまで、デリダは「翻訳不可能」と書いてあるものとして講義を行った。

ド・マンは、デリダを茶化すために、この話を持ち出したわけではない。じつに興味深いことを言っている。デリダならば、「翻訳可能」であろうが「翻訳不可能」であろうが「同じことであると説明できた」はずだと言うのだ。しかも自分も「実際的な意味においては同じことであると考えて」いるとも言う。

ここに、誤訳がなくならない第二の大きな理由が潜んでいると考えられる。つまり、言葉は、それが言葉である限り、無限に解釈可能なのだ。解釈しようと思えば、いくらでも、どんなふうにでも、好きに解釈できる。人間の持つ無限の解釈能力。こじつけ能力。黒を白といいくるめる力。

しかもである。こうした解釈は、意図的な、技巧的な読み替えとしてではなく、「自然に、とてもスムーズに」(綿矢りさ)起動する場合があるのだ。その顕著な例が、翻訳の場面である。なぜなら、翻訳の場面で、翻訳者の心理状態は、解釈モードがニュートラルだから。解釈する気満々の翻訳者は、ときに自分が解釈していることさえ忘れるほどなのだ。

だから、否定辞を見落として、否定文を肯定文に訳しても、訳文を見直して整合的に理解することができれば、誤訳であることは、訳文からだけでは分からない。こういう場合、高校生的な視点が必要になるのだが、じつはその視点を用意することは、多忙な大人には厄介なことだったりする。

それにしても、翻訳可能と翻訳不可能が同じことであるとは、どういう意味なのか。

男「僕は1万メートル泳げる」
女「じゃあ泳いでみせてよ」
男「いや、それができないんだ」
女「泳げないの?」
男「いや泳げるよ」
女「なに言っているの?」
男「だから今日は泳げないんだ」

「泳げる」と「泳げない」は、字面だけ見れば、対立しているように見える。でも「僕は1万メートルくらい泳げるけれど、今日は風邪気味なので泳げない」という言い方は、ちっとも逆説的じゃない。それは語り手と聞き手の中で、「泳げる」の可能性の内実の違いが、きちんと区別されているからだ。これは文脈の働きによる。けれど、能力としての可能性と条件としての可能性を、語彙的に区別する言語もあって、例えばフランス語がそうだ。フランス語では、同じ「できる」でも、能力としての「できる」と条件としての「できる」には、別々の単語が割り当てられている。

つまりド・マンは、デリダなら「翻訳可能性」と「翻訳不可能性」が対立を構成せず、「同じこと」になるようなコンテキストや語彙を用意することができる、と言っているのだ。実際デリダは、そのベンヤミン論で、この作業を――「traductible」という言葉を導入することによって――見事に遂行したと考えられる。でもここでは、それとは別のケースを吟味する。山城むつみのケースである。

〈Brot〉と〈pain〉において、たしかに意味されるものは同一であるが、その言い方は同一ではない。つまりこの言い方のなかに、この二語はドイツ人とフランス人とにとってそれぞれに異なるものを意味すること、この二語は両者にとって交換できないものであり、結局はたがいに排除し合うものであること、しかし意味されるものから見て、絶対的に考えれば、同一なものを意味することがあらわれている。

これは山城が「来るべき万葉のプログラム」(『ユリイカ』2010年1月号)という文章で引用した、ベンヤミン「翻訳者の使命」の一節だ。訳したのは円子修平であるが、さて、この一節で、ベンヤミンは、いったい何を言おうとしているか、それを、日本語訳のみに即して考えてみよう。

引用部でまず明らかなのは、「意味されるもの」と「言い方」とが、対立的ないし対照的な概念としてみなされているということだ。この対照性は、この両語を、「シニフィエ」と「シニフィアン」という概念に重ねて読むことを許しているように見える(あるいは「指示対象」と「言葉」でもいいのだが)。そこで、最初の文を「〈Brot〉と〈pain〉でシニフィエは同一だがシニフィアンは同一ではない」と読み替えてみる。奇矯な考え方ではない。ある意味ごく普通の考え方だとも言える。困難は、二つ目の文に入った途端、現れる。「この二語はドイツ人とフランス人とにとってそれぞれに異なるものを意味する」。ここで言われていることは、ごく普通に考えれば、〈Brot〉と〈pain〉の両語で、シニフィエが違っている、同一ではない、ということだろう。つまり円子の日本語訳で、第1文と第2文の命題は、明らかに矛盾しているのだ。でも悩みどころはそれだけではない。第2文をさらに読み進めると、「しかし意味されるものから見て、絶対的に考えれば、同一なものを意味する」とあるのだ。これは、先と同じように読み替えると、「しかしシニフィエから見て、絶対的に考えれば、シニフィエは同一である」となるだろう。考え込まざるを得ない。ベンヤミンは、何が言いたいのか。〈Brot〉と〈pain〉のシニフィエは同じだと言いたいのか、違うと言いたいのか。

山城むつみは、この引用部について、どう考えているか。山城のコメントを見たい。山城は、〈Brot〉と〈pain〉の関係についてベンヤミンが語っていることを、「みち」と「道」の関係に関する白川静小林秀雄の思考と対比させて、次のように言う。

「みち」という和語と「道」という漢字とでは、たしかに「意味されるもの」は同一だけれども、その「言い方」は異なっている。「言い方」に関して言えば、この二つの言葉は和人にとってと中国人にとってとでそれぞれに別の意味をおびていて、互いに交換がきかないどころか、結局は互いに排除し合おうとさえする。(中略)しかし「意味されるもの」に関して言えば、二つの言葉は、絶対的に見て、同一のものを意味している。たとえば、「みち」という和語に内在しているにもかかわらず、この和語だけを単体でとらえている限りではけっして見えず、「道」という漢字との関係に置かれたときにその「まことに不安定な働き」(和語の意識と漢語とのすさまじい落差)によって初めて垣間見えるような「意味されるもの」があるのだ。

ベンヤミンの場合と同様に「意味されるもの」を「シニフィエ」、「言い方」を「シニフィアン」に置き換えてみる。すると山城は、第1文で、「みち」と「道」でシニフィアンは異なるがシニフィエは同一だと言っていることになる。これはさっき見た通り、同意はできないけれど理解はできる一般的な考え方だ。

次、第2文で、山城は、シニフィアンに関して言えば、「意味」は同一ではないと言っている。早くも、内容を追うのがきつくなっている。山城はここで、「シニフィエ」と異なるものとして、「意味」という概念を新たに導入している(そう考えなければ、よく理解できない。単に「道」と「みち」でシニフィアンが違うということを言っているわけではないだろう。その場合、次の「しかし」が宙に浮くからだ)。この「意味」は、シニフィアンの相違を超えて「同一」であると言えるような第1文の「シニフィエ」とは別物だ。そうではなく、シニフィアンが変わればそれに伴って変わるような内容を指す。つまりシニフィアンに密着的なシニフィエのことが、山城によってこのように呼ばれていると考えられる。

問題は第3文だ。山城はこの文で、シニフィエに関して言えば、「絶対的に見て」シニフィエは同一だと言っている。けれど、両語間でシニフィエの同一であることは、すでに第1文で言われているのだ。あえて再びシニフィエが同一であると言われているのだから、山城は、ここでまたもや別の「シニフィエ」概念を持ち出していると見なければならないだろう。ポイントはカッコに括った「絶対的に見て」にある。つまり、第1文の普通のシニフィエとも、第2文の「意味」的シニフィエとも異なる、この第3文の新たなシニフィエ――単独の言語では捉え切れず、異なる言語との関係のうちに置かれたときのみ見えてくるようなシニフィエ――は、「絶対的なシニフィエ」と呼ぶことのできるものだ。山城の思考は、このシニフィエの絶対性を手掛かりに、「純粋言語」の方に伸びていく。

「意味されるもの」の次元から「純粋言語」を考える山城の考えは、じつはまったくもって非ベンヤミン的なのだが、それはそれとして、右で追った山城のロジックは、複雑と言うほかない。この複雑さは、ベンヤミンの日本語訳の矛盾を整合的に解釈するために必要とされた手続きの複雑さを反映しているはずだ。つまりここに、解釈の力業がむきだしなのだ。こんなふうに解釈は、どんな矛盾からでも、その気になれば首尾一貫した読みを引き出すことができるのだ。

誤訳は何故なくならないのか、という問いへの答えから、すでにだいぶ離れているが、せっかくベンヤミンに触れたので、もうひと押ししておきたい。

ベンヤミンの右に引用した一節の、現時点において一番適切だと思われる訳を紹介する。

たしかに〈Brot〉[パンのドイツ語]と〈pain〉[パンのフランス語]において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、互いに交換不可能なものであり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。他方、志向されるものにおいては、この二つの語は、絶対的に考えるならまさしく同一のものを意味している。
(「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』p.397)

訳したのは内村博信だが、円子の訳文にあった矛盾が、すっかり消えている。もっとも易しくなったわけではない。でも、必要以上の難解さは取り払われたと言っていいだろう。ここにある難解さは、いわば必要十分な難解さである。

〈Brot〉と〈pain〉で、「志向されるものは同一」である。「それを志向する仕方」は、両語が違うのだから、いうまでもなく「同一ではない」。また、「志向する仕方」が違えば、両語によって当然「意味されるもの」も違ってくる。しかしこの、両語で異なる「意味されるもの」は、「志向されるもの」の次元においては、絶対的な同一性を獲得する。

最後の部分が難しい。けれど難しさは、円子の訳文で段落の全体にわたっていたところ、最後の文だけに追い詰められている。

参考のため、この部分の訳文を含んだ大宮勘一郎ベンヤミンの通行路』からの引用を下に掲げる。大宮は、「シニフィエ」や「レフェラン」という概念でこのくだりを読んではだめだと言っている。これはいわずもがなのことのように思えるが、あえて注意を喚起しているのは、きっとそうした読み方が少なからず見られるからなのだろう。だとすれば、この大宮の言葉の持つ意味は小さくはない。

Brotとpainにおいて、意思されるものは同じではあるが、他方、それを意思する、その仕方はそうではない。


「意思する、その仕方die Art des Meinens」において諸言語は異なるが、「意思されるものdas Gemeinte」は同じだ、とある。この後者を、言語学でいわゆる概念signifiéや指示対象referentと混同すべきではない[この段落は大宮のコメント]


意思する、その仕方において肝心なのは、双方の言葉がドイツ人とフランス人とにとり、各々異なった何かを指し示し、双方にとりそれらは可換的ではなく、結局最終的には互いを斥けあうのだ、ということであるが、意思されるものにおいてはしかし、それらの言葉は、絶対的に受けとめるなら、同じもの、同一なものを指し示す。
大宮勘一郎ベンヤミンの通行路』pp.85-86)

ちなみに仏訳では、「die Art des Meinens」と「das Gemeinte」が、それぞれ「la manière dont on le vise」、「ce qui est visé」となっている。「シニフィエ」や「レフェラン」と混同することなんて、したくてもできないようだ。諸言語がそれぞれ異なった志向の仕方で志向するもの、それをベンヤミンは「純粋言語」と呼んでいる。

*1:現在入手しやすいfolio版『Walter Benjamin Oeuvres TOME I』では「traduisible翻訳可能」に直っている。