「音位転換」ではない――「フインキ現象」についての一考察

 

「雰囲気」という言葉を「ふいんき」と発音する人がいる、という話がありますが、幸いにも(?)私は今日に至るまでそのような人にお会いしたことがありません。ただし急いで付け加えますが、私はこの言葉を文字通り「ふんいき」と発音する人にも会ったことがないのです。

実際に聞いて確かめてもらった方が話が早いかもしれません。第31回三島由紀夫賞の発表(2018年5月16日)のライブ映像です。

youtu.be

この動画の中で選考委員の一人、辻原登氏が「雰囲気」に当たる言葉を三度口にします(58:10~58:28)。Youtubeの字幕をオンにすると、いずれも「雰囲気」と表示されます。おそらく辻原氏は標準的な発音でこの言葉を発していると思われます。

私が常日頃耳にする「雰囲気」の発音もこれと同じです。この「雰囲気」の発音の仕方が、私には子供のころから謎でした。「ふんいき」と言っているようには聞こえなかったからです。ところが近親者の一人に聞くとどうでしょう。その人は自分には「ふんいき」と聞こえるというのです。

以下の文章は、この問題――「フインキ現象」と呼んでいます――をめぐって2008年7月28日付で書かれたものです。個人サイトに載せていた記事ですが、近々閉鎖する予定なので、こちらに転載しておくことにしました(たまに参照している方がいらっしゃるので)。

 

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「音位転換」ではない――「フインキ現象」についての一考察

 

「フインキ現象」(あえて定義しない)を考えるのに、まず大事なことは、問題それ自体のありかを正確につかむことだ*1。でも、これがけっこうむずかしい。たとえば、この現象を「音位転換」(metathesis、音位転倒、音転位)や「イイマツガイ」の一種と見たり、「無知」や「漢字が読めないこと」に起因すると考えたりする人は多いみたいだけれど、はっきりいって的外れである。こういう分析でよしとするのは、たぶん問題を正しく捉えていないからだ。

なぜ「フインキ現象」を言挙げ(?)するのか、これを言挙げする人たちが、いったい何にひっかかっているのか、そのことが、どうやら、うまく伝わっていない。ネット上の掲示板なんかを見ると、この問題が何度も蒸し返されているのがわかる。これは、もちろん、腑に落ちる答えを求めてのことだろうけれど、それよりもなによりも、どんな問い方をすれば問題がうまく伝わるか、それを手探りしている印象が強い。だから、ワタシを含めた彼らは、まずは「問題」の不思議さを共有したいのであって、ただちに明快な「答え」を得たいと思っているわけではない。つまり、「フインキ現象」が問題であるとして、その第一の問題は、この、「問題の伝わらなさ」にある、ということだ。

ところで、この「不思議さ」に発する問いには、ネット上で、「雰囲気をフインキという人なんていない」と決め付けたり、「馬鹿だから」と切り捨てたりする、冷え切った反応が少なくない。こういう反応の乱暴さ、かたくなさは、こちらをたじろがせる。けれど、「フインキ現象」を問題にする声に拮抗する、この種の無化的な応答の数々は、問い方について問う上で、ずいぶん有益だともいえる。

けれど、まずは、この無化の、ソフトで、ユーモアあふれる例を見たい。荒川洋治の文章である。

荒川は、1999年5月の文芸時評で「ふんいき・ふいんき」の問題に触れている。当時、雑誌『言語』で「手のひらの言語学」という特集が組まれた。内容は、「言葉の素朴な疑問に専門家が回答」するというものだ。その「素朴な疑問」の中から、荒川は、次のものを拾い上げる。(以下引用は荒川洋治文芸時評という感想』による)

〈「雰囲気」は「ふんいき」と読むはずなのに、発音すると「ふいんき」のようになるのはどうしてですか。〉

これに対する荒川の感想は、こうだ。

変な質問だ。「雰囲気」は誰もが「ふんいき」と読むし、「ふいんき」に聞こえることはないとぼくは思った(自分でも何度か発音してみた)。

さて、専門家(言語学者国語学者?)の回答が、どんなものか、見れば、

〈答えに入る前にまず触れておくべきことは、「ふんいき」が「ふいんき」のようになることは、まったくないというわけではありませんが、この語を普通に発音し、あるいは、気を付けて発音すれば、「ふいんき」にはならないと思います。〉

次は、この回答に対する荒川の反応。ちょっと長いけれど、そのまま引用する。熟読玩味(?)してほしい。

おかしい。笑ってはいけないところだ。ぼくは笑った。ぼくはとても楽しい。

この「ふいんき」になるような言葉の現象を「音転位」というそうだ。「舌鼓」は「したつづみ」が正しいが、実際には「したづつみ」。「山茶花」は「さんざか」だが「さざんか」に。ああ、そうだったのか、と感動する人もいるだろう。

「ふんいき」の例は回答者自身がつくったのだろうが(明記されていないが多分そうだろう)、あまりに突飛、というか意表をつくものだとはいえないか。よくぞこんな例を思いついたものだ、とぼくは感心してしまった。

自問自答をするとき、人は普段ならとても考えつかないようなことまで思いつく。現実には存在しないものや、まったくもっておかしな、あるいはおもしろいものが飛び出す。それが自問自答の世界だ。想像力のみなもとは、結局のところ、自問自答にあるのかもしれない。

ここで話は、やおら「小説の世界」における「自問自答」の話にシフトする。つまりここまで、じつは文芸時評の前フリなのだ。荒川が本気かどうかわからない、白を切っているのかもしれない、そう思う人もいるかもしれない。でも、本気でなければ、「自問自答」が時評の前フリとして機能しない、そういう筋になっている。だから、ここは本気だと考えなければならない。荒川は、どうやら心底から、「『ふんいき』の例は回答者自身がつくった」と思っているのだ。そしてこの事実は、こちらをずいぶん考え込ませる。荒川に問題は伝わっていない。この問題は、彼には存在しないのだ。そして、荒川みたいな人や、荒川からユーモアを抜いて、かわりに攻撃性を充填したような人が、ネット上にたくさんいる。ここにフインキ「問題」の本当の問題があるといっていい。

ワタシがこの「問題」に気づいたのは、小学生の頃だ(1970年代の話である。だからこの「問題」は「最近の若者の言葉使い」の問題ではない)。ワタシの「問題」は次のような形をとっていた。今でも、これが切実な(?)「問題」である人には、同じ形をとっているはずだ。こうである。

「雰囲気」は「ふんいき」であるはずなのに、まわりの誰も、平仮名で躊躇なく「ふんいき」と書けるようには、発音していない。両親、祖父母、親戚、学校の友達、学校の先生、テレビに出ている人、もちろん自分自身も、誰一人として「ふんいき」とは言っていない。

子供のワタシは、近親者のひとりにきいてみた。その人の答え。「そう? ちゃんと言ってるんじゃない? 『ふ・ん・い・き』って」

ワタシは、ちょっとびっくりした。そして、この問題を胸の奥にしまい、封印することにした。

その後、この問題が、いわば「おおやけ」になり、こちらの耳にも届き、「やっぱり!」という感想を抱かせたのは、よく言われるとおり、ワープロの普及、そしてインターネットの拡大以降だ。「雰囲気」を意味する言葉を、手書きで、漢字でそのまま「雰囲気」と書いていたのでは、問題は隠されたままだ(でも、平仮名で書くときはどうだったのだろう?)。この「雰囲気」を意味する言葉を、平仮名あるいはローマ字で一文字一文字入力した後、漢字に変換するという過程で、変換の失敗という形で、問題は、多くの人に意識されるようになった。そして、その一方で、この「問題」を「問題」と見ることを断固として拒否する一派も現れた。ときに彼らは、拒否するだけにとどまらず、「フインキ現象」を問う人や「ふいんき」愛用者(?)に痛罵を浴びせることさえする。いわく、「バカしか言わない」「恥知らずが増えただけ」「親の顔が見たい」、などなど。

この手の、感情的に問題を「無化」しようとする人たちは、けれど、ずいぶん無防備に思える。というのもそれは、避けがたく、こちらの邪推を誘発するからだ。つまり、この手の人たちにとって、「雰囲気」を「ふいんき」と言うことは、「無知から来る誤用」であり、そして、この「誤用」を、やんわりとではなく、痛烈に非難するのは、この「無知から来る誤用」が、なんらかの理由で、指摘した本人に卑近なものとして感じられているからではないか(遠回しな言い方だ)。そんなふうに勘ぐりたくなるのである。

それはさておき、こうした感情的な「無化」と表裏一体の関係にある「無知から来る誤用」説は、けれど、ほんとうに正しいだろうか。

「無知から来る誤用」説によれば、「ふんいき」が「ふいんき」と聞こえるのは、実際に間違って「ふいんき」と発音する人が存在するからである。でも、これは、よく考えると、ちょっとおかしい。

この説にいう「誤用」は、専門用語で「音位転換」と呼ばれるタイプのものだ。「音位転換」とは、語中の二つの音韻(文字)の位置が入れ替わること。参考のため、フランス語のWikipediaの「metathese(音位転換)」の項を見てみると、この入れ替わりが生じる原因として、四つのケースが挙がっている。

1.病気

2.無知

3.まだ子供で呂律が回らない場合

4.外国語を話すとき

「2.無知」の具体例として挙げられているのは、次の二つだ。

例1:「aréopage」を間違えて「aéropage」と言ってしまう。「aréopage」とは、ギリシャ語の「Areopagusアレオパゴス」*2に由来する言葉で、現代フランス語では、有識者や専門家を集めた、改まった「会議」を意味する(らしい)。この単語が「aéroport」(空港)等に引張られて「aéropage」になってしまうのである。

例2:「(心筋)梗塞」を意味する「infarctus」という単語を間違えて「infractus」といってしまう。こちらは、「infraction」(違反)等に引張られていると考えられる。

二つの例の共通点は、どこにあるか。それは、言い間違いを引き起こす元の言葉が、日常生活では、あまり使われない言葉だということにある。「aréo」という音を連ねた単語は、「aéro」を語頭に置く単語に比べると、そもそも数が少ないし、加えてどれも専門用語の類いで、毎日お目にかかるものではない(例:「aréographie」火星地理学、「aréole」小室[解剖学用語]、輪[医学用語]、「aréometre」比重計)。「infar」も同じで、「infra」みたいに、よく耳にする音の連続ではない。

見慣れない、聞き慣れない言葉だから、慣れた音の連鎖に引張られたり、隣接した音素(文字)の順番を、なかば無意識の内に言いやすいように逆転させたり、ようするに「誤用」をおかしてしまうのだ。こうした使用頻度の低さ、使用経験の少なさは、「音位転換」的な「誤用」が生じる条件として、必須のものだと思える。

たとえば、もし日常生活で頻繁に使われる単語を誰かが間違って使ったとしたら、その間違いは、ただちに身近の人から指摘され、直されるはずだ。「音位転換」が放置され、広がっていくのは、かなり難しいと見なければならないだろう。「音位転換」は、wikipediaにもあるとおり、子供の言葉によく見られるけれど(ウチの子供の例:「こっちがわ」→「こっちわが」)、それがいつまでも残ることは、まずない。成長の過程で、親に直されるか、自分で間違いに気づくからだ。

翻って「雰囲気」という言葉は、どうか。この言葉は、日常生活に頻出する。そして、これだけ日常的な言葉の「音位転換」が見過ごされることは、ちょっと考えにくいのだ。

身近に間違いを指摘する人がいない、つまり、誤用者の周辺にいるすべての人がすでに誤用におかされている(つまり地域的に定着している)からだ、と考える人もあるかもしれない。まわりの人間がみんな間違っているから、間違いが指摘されずに生き延びている、ということだ。でも、これもおかしい。だって、まわりの人間には、たとえばラジオのDJやテレビのアナウンサーや映画の出演者も含まれるのだ。もしこうした「公共的な」人々が、自分やその周囲と違う発音で話していれば、自分やその周囲が「誤用」をおかしている(あるいは方言を使っている)可能性に思い至らないわけがない。

そして、もうひとつ、重大な点は、もし、全国メディアで話す人々が、この言葉を誤用しているのだとしたら、荒川をはじめとする、「『ふいんき』なんていう人はだれもいない」という見解と齟齬を来たしてしまう、ということである。

ここに、問題の核心がある。

つまり、ある人(たとえばワタシ)には、「ふんいき」と言っている人なんて一人もいないように思われている、その一方で、別のある人(たとえば荒川)には、「ふんいき」と言っていない人なんて一人もいないように思われている。ここから言えることは、こういうことだ。ワタシには決して「ふんいき」とは聞こえない、あの言葉、「雰囲気」を意味する、あの一連の音が、荒川には「ふんいき」としか聞こえないという、そういう事態が成立している。そう考えざるを得ない。

だから「音位転換」ではない。

「音位転換」の例として、ナントカの一つ覚えみたいによく挙げられるのは、「山茶花」のケースである(荒川の引用した専門家の回答にもあった)。「さざんか」は、もともと「さんざか」だった、という話だ。

さて、この「山茶花」、ある人が、これを「さざんか」と言えば、誰がきいても「さざんか」と聞こえるし、別のある人が、これを「さんざか」と言えば、誰がきいても「さんざか」と聞こえる。なぜかといえば、「音位転換」が起きているからである。「ざ」と「ん」が入れ替わっていることは、誰の耳にも明らかなのだ。

ところが、「雰囲気」の場合、そうではない。荒川が発音した「ふんいき」が、私にはたぶん「ふんいき」と聞こえない、そういう話なのである(実際に聞いたわけではないけれど)。

また、「無知」ということでは、この問題を「雰囲気」という漢字の読みの問題に還元している記述も、たまに見かける。でも、これも問題を捉え損ねていると言わざるをえない。

たとえば『問題な日本語』(大修館書店)に、こういう説明がある。

「雰囲気」という漢字がありながら、それを「ふいんき」と読んでしまうということは、「雰」を「ふ」と誤読し、「囲」を「因」と混同した結果かもしれません。

けれど、なぜ「『雰』を『ふ』と誤読し、『囲』を『因』と混同」するのだろうか。「雰」という漢字が「難しい」というのであれば、けっして少なくはない一定数の若者が、それを「う」でも「ぶ」でもなく、決まって「ふ」と読む理由はなにか。また、いくら「ボキャブラリーの少ない若者」であるとしても、「『囲』を『因』と混同」するなんて、よほど目が悪いのでない限り、ありえないのではないか。

「雰囲気」という漢字に「ふいんき」と読み仮名を振ってしまうのは、漢字を一字一字読んでいるわけではないだろう。そうではなく、「雰囲気」と漢字で表記される意味を持つ言葉の使われる文脈・場面で、この言葉が、「ふいんき」と発音されるのを耳にしてきた、かつ自分でもそう発音してきた、その経験に基づいて、「雰囲気」に「ふいんき」と読み仮名を振るのではないか。だから、この、「ふいんき」と仮名を振った「若者」の中には、「あれっ」と思う者がいたことだって想定できるのである。この場合、彼は、「雰囲気」を「ふいんき」と読むことの不思議さに打たれたのだ。この不思議さは、どうして生じるか。それは彼が、「雰囲気」という文字を冷静に眺め、かりに「雰」を知らないとしても、「囲」「気」が普通には「い」「き」としか読めないことに気づき、したがって、「雰囲気」を「ふいんき」と読むことが、かなりイレギュラーな読み方であることに気づいたからである。ただ、残念なことに(?)、漢字のイレギュラーな読み方は、あまりにも多いのだ。「雰囲気」という漢字を見れば、知っていれば、「ふいんき」ではオカシイことに気づくはずであり、それに気づかないのは、漢字を知らないから、教養が低いからだ、と考える人の教養の低さは、この点に関わる。つまり、「無知だから『雰囲気』に『ふいんき』と読み仮名を振る」と短絡的に考えるのは、こうした漢字と仮名の関係の恣意性について、それこそ「無知」だから、あるいは無頓着だからである。

「フインキ現象」の不思議は、「無知」によるのではなく、逆に、「雰囲気」を「ふんいき」と読むことを知ればこそ、知っていればこその不思議なのである。

ところで誤用説に似たものに、こういうものがある。本人としても「ふいんき」が誤用であるとはウスウス感づいているのに、間違いを認めたくないため、それに固執している、という見方だ。

この見方にも、反論したい。ワタシも含め、「フインキ現象」に固執する人たちは、たぶん、それが「自分の間違い」なのであれば、いさぎよく白旗をあげる準備がある。でも、この問題は、たんに「自分の問題」なのではなく、「他人の問題」でもあるのだ。だから、固執する。自分だけが間違っているのなら、素直にアヤマチを認めよう。それはヤブサカではない。でも、間違っているのは、ワタシだけじゃない。アナタも、貴方も、貴女も、間違っている。というよりも、正しく「ふんいき」と言っている人間なんて、どこにもいないじゃないか! ということなのだ。

さて、ここからが、次の問題である。

もう気づいているかもしれないけれど、ここまで注意深く、自分の話としては、「雰囲気」が「ふんいき」とは聞こえない、とは言っても、「雰囲気」が「ふいんき」に聞こえる、とは言っていない。その理由をここで明かせば、それは、「フインキ現象」とは呼ぶものの、ワタシには、「ふんいき」は問題外であるにせよ、「ふいんき」でも、ちょっと違和感があるからなのだ。

では、どういうふうに聞こえるか。これが、なかなかむずかしい。無理に表記すれば、こうなる。

「ふい~き」

反発されるのは覚悟の上だけれど、ある程度の賛同が得られるであろうことは、ネット検索でわかる。そして、「フインキ現象」を、無知や無教養のせいにするのではなく、メタテシスでもなく、それとは別の側面から検討すべき事象と見ている者がちゃんといることも、同じくネット検索でわかる。こうした人たちは、正当にも、一定の環境(言語学的な意味での)がこの現象に組織的に関わっていることを指摘し、かつ、同じ「ん」と「い」の連続を含む単語を引き合いに出して、「フインキ現象」を相対化しようとする。

おおむね賛成なのだが、しかし、「ふい~き」派のワタシには、これでも、ちょっと物足りない。

この角度から「フインキ現象」に触れる人がしばしば引き合いに出す言葉のひとつに、「原因」がある。例えば、あるサイトに、「雰囲気(ふんいき)」では、

早めに話すと「ん」と「い」が一体となり、「鼻音化した『い』」になります。この音をい°と表わすと、「ふい°ーき」となります。これを耳で聞いても、「ふんいき」か「ふいんき」かが区別できません。。他にも「げんいん」も「げい°ーん」のような発音になってしまいますので、「げいいん」に聞こえる人がいるようです。

とある。こうした「原因」等への参照と、それによる現象の相対化に、にわかには賛成できない理由は、「雰囲気」が、ワタシの耳に「ふい~き」みたいなカンジに現象する一方で、「原因」の場合、どうしても「げい~ん」とはならず、「げ~いん」としか聞こえないからである。これは「ん」と「い」の隣接を持つほかの単語、たとえば「全員(ぜんいん)」や「圏域(けんいき)」でも同じで、「ぜ~いん」「け~いき」とは聞こえても、「ぜい~ん」「けい~き」とは聞こえにくい。つまり同じ「ん」と「い」のつながりでも、「雰囲気」の場合だけ、「~」(長短アクセント?)の位置が特殊なのだ。

ようするに、「フインキ現象」が環境の問題であるにせよ、これが起きるには、たんに「ん」と「い」の隣接による鼻音化だけではなく、なにか他の要素も関係しているのではないか、ということである*3

最後に、もうひとつ「問題」(?)を指摘したい。それは、この「フインキ現象」が「音位転換」ではない、つまり「ふんいき」が正しいところ、言い間違い、読み間違いで「ふいんき」になってしまった、ということではないのに、専門家やマニアや妙なコンプレックスを抱えた連中による「誤用だ」という指摘を鵜呑みにして、へんに「意識して」、あるいは、必要ないのに「注意して」、文字通り「ふ・ん・い・き」と「正しく」発音するオモシロイ人たちが増えてしまうのではないか、ということである。そして同時に、あくまで「ふ・い・ん・き」という文字列に固執する、開き直った人間(ワタシを含む)が、ネット上での表記にとどまらず、不必要な滑舌のよさでもって「ふ・い・ん・き」を日々連発するようになることも懸念される。こうした二極化が進み、発音上の曖昧さが解消され、「ふんいき」と「ふいんき」とが完全に分離し、だれの耳にもはっきりと両者の区別がつくようになったあかつきに、何が起きるか。事後的に「音位転換」説が正しいものとなるのである。服に体が合ってしまうのだ。

あー、つまり、一部の専門家が言うように、「今、私たちは、『ふんいき』から『ふいんき』への音位転換が定着するかもしれない歴史的場面に立ち会っている」のだとしても、なんだかこれ、悪い意味ではなく、結果的に、マッチポンプみたいになってるんじゃないかと。そういうことです。

 

2008/7/28

*1:この問題をめぐっては、「問題が見えている人」、「問題が見えていない人」、「問題が見えているのに見えていないフリをしている人」が、それぞれの立場から、かみ合わない議論を展開している気がする。

*2:「Areopagusアレオパゴス」とは、古代アテナイの、アクロポリス西側にあった小さな丘の名前。ここで、元老院最高裁判所に相当する会議が開かれた。そのため、この会議それ自体も「アレオパゴス」と呼ぶ。(参考:平凡社世界大百科事典)

*3:「フインキ現象」には、特殊なタイプの「異音」が関与していると思われる(←おもいつきデスよ)。通常、音声的差異としての「異音」は意識されにくいが、「ふんいき」の「ん」→「い」の場合、何らかの理由で偶然、音声的(実質的)に「い」→「ん」に極めて近くなり、それゆえ音声的差異であるものが、音韻的差異と取り違えられているのではないか。実際に音韻レベルでの交替が生じているわけではないので、この現象は「音位転換」ではない。また、「い」→「ん」への類似性ゆえ、「異音」としては例外的に多くの人々に感受されているが、事は音声の領域に関わるため、やはりこれを感受しない人もいる。感受しない人にとっては、「ふんいき」は、どうあがいても「ふんいき」でしかありえない。

「棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい」――小説の地の文にたびたび現れる、人称制限を意に介さない文について

そういえば、「私は怖い」は「I am scared」で、「彼は怖い」は「he scares me」だというG氏のツイートへのリプライのひとつに、「『彼は怖い』を英語に翻訳するのなら『he scares me』よりむしろ『he is scary』なのでは?」というのがあって、これに対してG氏が「自分は日本語の話をしているだけだ」と答える場面があった。つまり「翻訳の話はしていない」ということなのだが、相手の人は納得していないようで、「いいえ、どうやって英語に翻訳すればいいかって話もしてました」と言い返していた。ふと思ったけれど、このあいだ自分が投稿した記事も翻訳の話だと勘違いされたりしてるんだろうか?

日本語の感情形容詞文の意味構造の話である。「私は怖い」と「彼は怖い」は外見上同じ構造をとっているが、感情形容詞の主客両面の表現性と、感情形容詞文の人称制限という二つの要因により、前者と後者の文で意味構造に違いが生じている。「私は怖い」で「は」の前に来ている要素は感情主だが、「彼は怖い」で「は」の前に来ているのは感情主ではない。感情の誘因(ないし対象)である。例文では「は」によって主題化されているが、無題化しても変わらない。感情形容詞文では多くの場合、感情の主体と誘因がどちらも「が」格で表示される。表面上、違いが出ない。でも意味構造は異なっている。G氏の示した二つの英文は、こうした日本語の感情形容詞文の意味構造の違いを明示化したものである。それだけではない。「彼は怖い」の説明にあたる「he scares me」という英文は、日本語の感情表現における人称制限(そしてその根底にあると考えられる、日本語の視点の《私》性)のため「彼は怖い」において表面上現れていない感情主「私」の存在を「me」によって際立たせるものでもある。「he is scary」という英文では、日本語文「彼は怖い」において感情主の「私」が暗黙化されているという事実が説明されない(これはもちろん、「彼は怖い」を「he is scary」と翻訳するのが間違いだという意味ではない。「彼」が「怖い」ことをその「彼」の客観的属性として述べる場合も想定できるからだ。「虎は怖い」(the tiger is scary)と同じように)。

ようするにGさんの話は「彼は怖い」という日本語文をどう英訳すべきかという話ではない。私の前回の記事も同じである。表題として掲げた「『彼女は悲しい』は『she makes me sad』か?」という問いは、「悲しい」という感情形容詞に客観用法が成り立つか?という問いであって、「彼女は悲しい」の翻訳として「she makes me sad」が適当か?という問いではない。そこは問題にしていない。どう翻訳すればいいのかというのは、その先の話だ。

いやもちろん、「she makes me sad」という英文と、客観用法による場合の「彼女は悲しい」の構文論的・意味論的・語用論的な違いについて考える、あるいは「悲しい」と「sad」の語彙レベルの違いについて考えるというのは、それはそれで面白いことだとは思う。

たとえば、「彼女は悲しい」の「悲しい」は字義どおりの「悲しい」ではなく、「考えが甘い」というときの「甘い」と同じく比喩的に拡張された「悲しい」なのではないか、したがって実質的に属性形容詞と変わらないのではないか、とか、「悲しい」の客観用法による解釈は寺村秀夫のいう「一般的な品定め」の場合にしかうまくいかない、つまり「SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい」はいいとしても「彼女は悲しい」や「(自分の)母は悲しい」といった個別的な状況にはマッチしない(だからもともと違和感を感じない人は当然に主観用法として解釈するし、違和感を感じる人も好意に基づき主観用法として解釈する)(だからGさんやH氏は出す例が悪かった)のではないか、とか。

――前回の続きを書くつもりはなかったのだが、トイレットペーパーと交換する古新聞を紐でくくっていたら、広告欄に「女はいつも、どっかが痛い」という文字列(書名)があるのが目に入り、また考え始めてしまった――

というわけで続きである。前回、三人称小説の地の文では人の内面について言い切りの形で表現できると書いた。この一般論に対し、甘露統子「人称制限と視点」では、「『太郎はうれしい』という文は、『語り』だとしても、やはり不適格な表現」であり、「許容されない」と述べられている。しかし、この手の人称制限に抵触する文が、とりわけ小説の語りの中にしばしば現れるというのは疑いようもない事実であり、「許容されない」はずの文が許容されているように見える。このあたり一体どうなっているのか、というのが今回のテーマである。

まずは実例から。町屋良平の三人称小説「しずけさ」に次のような文がある。

棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい。

これは「棟方くん」と呼ばれる人物が「夕方のひかりを浴びて」いつもより全体的な輝きを増し、第三者から見て「こわい」風貌になっているという客観描写ではない。ふだんは「夜のあいだ起きていて、朝と昼と夕はずうっとねむっている」「棟方くん」が、心療内科に行く日、「夕方のひかりを浴びて」不安に陥っているその内面を言い切りの形で表出した文である。この作品には、小説の地の文以外では「人称制限に抵触している」と判定されそうな、こうした文がよく出てくる。「いつきくんはひとこいしい」だとか、「司ちゃんもいつきくんといっしょにいるとちょっとうれしい」だとか。こういった文をどう考えればいいかということなのだが、板坂元『日本人の論理構造』(1971年)に、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」に言及した次のような一節があるということを、まずいっておきたい。太字にしたところが大事なところである。

日常使われているHe is sad.という英語は、日常言語学派の哲学者をしばしば悩ませているが、これをそのまま日本語に直して「彼は悲しい」という文を麗々しく掲げた日本語教科書がある。「彼は悲しい」という日本語がまったく存在しないわけではない。たとえば、小説などで、「彼は悲しかった」という表現が出て来る。けれども、この場合は「彼は悲しいのだ」の省略であろうし、作者と小説中の「彼」が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない。「あの映画は悲しい」の場合は、「私が悲しい」のである。要するに悲しい、ひもじい等の情意性は一人称にしか用いることができない。一人称以外には、「悲しそうだ」「悲しがっている」という風に、かならず見えとして表現されるのが普通であろう。

(板坂元『日本人の論理構造』、太字引用者)

それゆえ「『彼は悲しい』という日本語教科書の文は完全な誤りである」と板坂はいうのだが、この言い方には少し引っかかりを感じる。ここで「誤り」というのはたぶん文法的に間違っているということを意味していると思われる。でも、「普通」ではないからといって、その表現を一足飛びに間違いとみなすのはどうなのか。私は以前の記事に記したように、人称制限については文法の問題ではないと考えている。

「私は悲しい」と同じ意味合いで「彼は悲しい」というと不自然な感じがする。心理状態の表現に関し、日本語には人称制約がある。けれど、人称制約に抵触することが、そのまま文法違反(意味論的な違反、統語論的な違反)になるかといえば、それには留保がいると思うのだ。もし、この制約が「語り」において解除されるのだとすれば、なおさらそうだ。文法違反と見えても、それは単に、その言葉を然るべく機能させる文脈が、まだ見つかっていないだけかもしれないからだ。

二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』(追記あり) - 翻訳論その他

引用元の記事では藤野可織芥川賞受賞作「爪と目」を取り上げている。この作品には大層奇妙なところがあって、出版社のサイトで「純文学的ホラー」という惹句が付けられているけれど、読み通してみればわかるが、実際のところ、さほど怖いことが書かれているわけではない。それなのになぜかこの作品は「怖い」(属性形容詞寄りの客観用法)。鍵は言葉の使い方にあると思われた。「あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった」というような文が出てくる。文末の「やった」はふつうなら「くれた」だろう。この作品、こうした不自然な文がてんこ盛りなのである。

上に引用したくだりで指摘したように、不自然な文の中には、「然るべく機能させる文脈」のもとで自然な言い方に転じるものがある。たとえば「お前から始めろ!」という言い方は自然だが、「私から始めろ!」は不自然に響く。でも、「今から一人ずつ君らの首を絞めて殺してやろう。だれから始めようかなあ」と悪い人がいうのに対して、自分の体に触れた相手の脳を念力で爆破できる人が「私から始めろ!」というのは自然だろう。つまり、あるひとつの文が自然である、不自然であるというのは、文脈に左右されるところが少なくないということである。

「爪と目」の怖さについて考えるうち閃いたのは、不自然な文を読む読者は、そうした不自然さを解消することができる文脈を知らず識らずのうちに探索しているのではないか、ということである。だからこそ、「爪と目」は怖いのではないか。つまり、この作品の怖さは、不自然な文の使用を正当化する、作中には記されていない場面や状況のうちにあるのではないか。おそらくこの作品が「怖い」(主観用法寄りの客観用法)読者は、顕在的な文のつらなりが喚起する、そうした潜在的な文脈を読んでいるのである(どのような文脈が潜んでいるかについては当該記事に書いた)。

人は個別の文を文脈の中で読む。それとともに人は、欠如した文脈を自ら補うため言外の領域を探索することがある。これを別の角度から見れば、個別の文には、こうした言外の文脈の探索を促す力、あるいは、こうした言外の文脈を招き寄せる、引っ張ってくる力が備わっている、ともいえるのではないか。「爪と目」が「ホラー」足り得るのは、個別の不自然な文の有する、こうした文脈牽引力のためであると。

少し話が逸れてしまったかもしれない。とにかく文脈が肝要である。人称制限にかかる文がそのままの形で、つまり不自然さを保ったまま三人称小説の地の文で許容されるのであれば、そこには必ずや文脈――個別の文を然るべく機能させる枠組み――の働きがあるに違いない。そう思われる。

さて、日本語における人称制限は、感情形容詞(や感覚形容詞)だけの問題ではなく、主観表現一般に関わる問題であり、したがって感情動詞はもとより、知覚動詞(「見える」等)、思考動詞(「思う」等)、認知動詞(「分かる」等)、さらには願望・欲求を表す「たい」や「ほしい」を用いた表現でも同じように問題となる。たとえば「宇崎ちゃんは遊びたい!」という言葉が妙に耳に残るのは、人称制限に抵触するこのタイトルがもたらす不安定な響きにその大きな一因があるのではないかと思われる。

しかし、「宇崎ちゃんは遊びたい!」に次のような文脈を付けるとどうだろう。不安定感がいくらか軽減するのではないか?

(1)宇崎ちゃんは遊びたい。けど先輩は遊びたくないんだ。

これは次のように言い換えても、その内容に大きな変化はないと思われる。

(2)宇崎ちゃんは遊びたいけど、先輩は遊びたくないんだ。

(1)の最初の文「宇崎ちゃんは遊びたい。」は文末に句点が打たれており、外見上立派な文であるような恰好だが、実際には、末尾に「のだ」を置く後続の文に支えられることによって、ようやく文としての安定感と体裁を保っている。つまり後続の文に従属している。だから文というより従属節に近いといえるだろう。

この種の従属節っぽい文については、「ふつうの文がもつような完全なモダリティを備えておらず、文らしさの点でも典型的な文より劣る文」として、野田尚史「真性モダリティをもたない文」(1989年)で詳しく論じられているが、いま注目したいのは、「真性モダリティをもたない文」では「『~たい』『ほしい』などの人称制限」が働かないという重要な指摘である。一般的に従属節(や引用節)では人称制限が解除されるが、それと似たような効果がこの種の従属節的な文にも備わっていると野田氏はいい、次のような例文を掲げている。

何としてでも夢をつなげたい。中日と4・5ゲーム差がついた今、首位を争う“切符”を得るのはこの広島戦2連勝以外はない。巨人の気迫が広島にプレッシャーをかけた。(スポーツニッポン1988.8.17p.1)

(下線は原文では波線、太字は二重下線)

最初の文「何としてでも夢をつなげたい。」は「たい」で終わっているが、そのような願望・欲求を抱いているのは記事執筆者ではなく、「巨人」である。つまりこの文では、「たい」で終わる文に通常かかるはずの人称制限が働いていない(前回「他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもある」と書いたのは、このケースを指している)。

(1)における「宇崎ちゃんは遊びたい。」の場合も、文としての独立性の低下、文らしさの低下と呼応するかのように、通常「たい」に備わる感情表出のモダリティが弱まっているように感じられる。三人称と「たい」が共起しているのに違和感が薄くなるのは、おそらくそのためであろうかと思われる。ただ、「宇崎ちゃん」の文は、たとえ従属節っぽくあるとしても、南不二男氏の分類でC類にあたる相対的に独立性の高い従属節に相当する文である。よってモダリティも相対的に弱まっているにすぎず、典型的な「真性モダリティをもたない文」からは外れるともいえそうだ。だから(1)でもまだ違和感が残るという人も少なからずいるはずである。

ところで野田論文では、こうした「他の文に従属している」というパターンとは別に、もうひとつ「真性モダリティをもたない文」が「存在できる」条件が挙げられている。その条件とは、「文章・談話の枠に依存している」というものである。野田氏は、「文章・談話には、対話、講演、物語、随筆、日記、使用説明書などいろいろあるが、それぞれについて、その中に現れるモダリティに制約がある」と述べている。たとえば「作者が過去の事態を事実として描くだけの」、そういうタイプの「小説では、モダリティに関しても、命令・依頼や質問はもちろん、推量も現れない」。もし「推量の形式が現れる」とすれば、それは「作者の推量ではないと考えられるので、真性モダリティではない」。実例として示されているのは、連城三紀彦『暗色コメディ』から引かれた次の一節である。

バスが白い蒸気を吐いて走り去ると、白い破片が散乱する夜に彼ひとりが残された。碧川(あおかわ)宏は背宏の襟をたてると、停留所に備えつけられた待合用のボックスに入った。待合用といっても廂(ひさし)に守られただけの狭い場所である。それでも何とか雪を避けることはできた。粗末なベンチが街燈の薄い燈に赤錆(あかさび)と傷と落書を曝けている。ベンチの脇に花模様の女物の傘がたてかけられていた。まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう

(下線は原文では波線)

野田氏は、このような「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプの作品において「推量などのムードの形式が現れたときには、それは作中人物の推量というふうに解釈される」といい、これを「特殊な文学的な技法のひとつ」とみなしている。ここでひとつ疑問に思うのは、この下線部の言葉は、野田氏の主張に反し、「作者の推量」と考えることもできるのではないか、ということである。つまり、実際のところ、この作品は、「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプではなかったと考えることもできるのではないか。作者(というより「語り手」というべきだろう)が推量を行う小説は珍しくない。例を挙げるまでもないかもしれないが――

島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう

だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立ったのかもしれない

川端康成『雪国』、太字引用者)

『暗色コメディ』を「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプと前提するから、推量の形式が現れないはずだという判断が生まれ、また、仮にそれが現れた場合には「作者の推量ではない」という判断が生まれる、ということではないだろうか。そのような論点先取めいた前提を取り払えば、このような判断は生じないのではないかと思われる。

では「まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう」という推量は実際のところ、だれが行っているのか。これはだれの視点から発せられた言葉なのか。この点については、砂川有里子「話法における主観表現」(2003年)の指摘にあるように、語り手と作中人物の「どちらの視点から語られているのかはっきりしない」と見るのが妥当であるように思う。砂川氏は高樹のぶ子『霧の子午線』から次の一節を引いている。

日曜日。沢田八重は狭いベランダを掃いていた。昨日希代子から電話があり、二晩の外泊で光夫が帰ってきたと連絡があった。

体がだるいのは朝薬をのみ忘れていたせいだろう。台所で立ったまま、サラビゾリンをのみこむ。

(下線引用者)

下線部について、砂川氏はいう。「この部分は、八重の体調について語り手が解説を付しているように読むことができる。しかしその一方で、八重の心内語が彼女のことばとして直接再現されているようにも読み取れる」。というのも「そのどちらかを決める語彙的・形態的指標を見いだすことはできない」。砂川氏は、このような文の使い方を「自由間接話法」と呼んでいる。もちろん、日本語には英語みたいな直接話法も間接話法もないのだから自由間接話法もへったくれもない、ということもできなくはないので、この場合、《日本語における「自由間接話法」》ということになる。

つまり『暗色コメディ』や『霧の子午線』の文は、真性モダリティをもたない、のではなく、真性モダリティをもつのか、もたないのか、はっきりしない、のである。こういった主客の明滅状態を指して、語り手と作中人物が一体化している、二重化しているといわれることがあるが、これを野田氏のように「特殊な文学的な技法」というのであれば、この「技法」は板坂元が前掲書でいうとおり「源氏物語の頃に完成して、今日まで踏襲されている」「千年前からの手法」である。しかし、砂川氏も「日本語の物語文体では、語り手のことばなのか登場人物のことばなのかがあいまいになり、どちらとも読みとれる以上のような表現が頻繁に観察される」というように、ことさら「技法」というほどのものではなく、日本語で書かれた物語の、いわば常態であり基調であるといったほうが実情にかなっているのではないか。日本の物語は、基本的にこの意味での「自由間接話法」によって書かれているとさえいっていいくらいだ(そのため、情景描写でなくとも、小説の冒頭部を読んだだけでは一人称小説なのか三人称小説なのかわからないことがよくある)。

こうした一体化・二重化は、言葉の帰属先を語り手と作中人物のいずれかに確定することができないという、いわば消極的な形において実現されているものである。しかし、砂川氏が「自由間接話法」と呼ぶ表現は、こうした消極的な形のものに限られない。積極的なタイプ、すなわち「なんらかの語彙や形態が指標になって」言葉の帰属先が明らかにされる場合がある。

この四月から、就学困難な児童のための(教科用図書の給与に対する国の補助に関する法律)が施行された。志野田先生はその補助を、クラスの三人の子供たちのために申請してやりたい。しかし新しい規定であるだけにその手続きが解らない。教育委員会へ出すのか民政委員に出すのか市役所に出すのか、まだだれも知らないらしい。

石川達三『人間の壁』から引かれた一節であるが、下線の文について砂川氏は、「感情・感覚・希求など、それを感じる主体にしか感じられない主観が現在形で表されていること、およびそれが三人称主語をもつ文であること、これらが指標となって(中略)自由間接話法と判定される」と述べている。ここまで来れば、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」について「作者と小説中の『彼』が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない」と板坂元がいっていることの意味が分かるはずである。板坂氏は、三人称小説の地の文において人称制限に抵触する文は、日本語におけるこのタイプの「自由間接話法」の文にあたるといっているのである。

先に見た主客の決定不能性に基づく「自由間接話法」に対し、こちらの「自由間接話法」は、文のレベルにおける主客の露骨な、あからさまな接合、融合の上に成立している。主観の直接的表出性が強く、一人称にしか用いられないはずの表現を、こうして無理やり三人称に当てはめることが醸し出す、主客のねじれのような違和感は、甘露統子氏のいうとおり、「語り」だとしても、やはり簡単には消えないようである。しかし、ここでひとつ留意しておかなければならないのは、日本の近代小説においては、むしろこの違和感こそが表現上の勘所になっているという事実である。消極的な「自由間接話法」が日本の物語の長い伝統を受け継ぐものであったのと違い、「彼は悲しい」型の積極的な「自由間接話法」は、中山眞彦『物語構造論』で示唆されているように、「日本語の物語文体が、西欧近代小説と接触した際に生じた波紋の中に」、その淵源を探り当てることができると思われる。いわゆる「言文一致」以降の日本の文学が、外国文学の生硬な翻訳に文体的・感性的な基盤を置いてきたことについては以前触れたことがある(二葉亭の「逐語訳」の「影響力」をめぐって - 翻訳論その他)。つまり文章のぎこちないことは、文学作品においては、マイナスの要素とならない。というか、大きなチャームのひとつだ。「信一は、笹島さんを彼女を恋して居る、この心持は段々にそれと自分に分ったが、信一は彼女をはっきりと思う工合になっても、この一ツの心持は誰れにも秘めてジッと堪えて居た」(瀧井孝作「結婚まで」)みたいな節くれだった文章が平気で受容される文学環境においては、「小説の神様」の文体の流れを引く平明な文章は、「凡庸なシンタックス」(大江健三郎私小説について」)などといわれてしまうことさえある。

そろそろ締めくくりたい。「『感情の直接的表出』というムード」(寺村秀夫)の強い表現を伴う文は、三人称の感情主が「は」等によって文中明示された場合、たとえ小説の地の文であっても、一定の違和感を喚起する。つまり小説の地の文だからといって人称制限が解除されるわけではない。ただ、小説においては、人称制限に抵触する文の喚起する違和感が、ある種の《良さ》として認知され、そのため許容されるということである。

「彼女は悲しい」は「she makes me sad」か?

これは後追いで知ったのだが、数日前、「Language learning influencer」を名乗るある人物のツイートが日本語学習者界隈をざわつかせた。SNS上では、その人の発言を肴に熱い議論が交わされており、なかにはずいぶん感情的なやりとりも見える。議論は匿名掲示板(4chanReddit)の方にも飛び火していて、とても全部を追うことはできない。英語が苦手なので、発言のニュアンス等、よくわからない部分もあるけれど、なかなか面白かった。

発端となったのは、gambsさんという方の次のツイートだと思われる。

日本語は自己中心的な言語である。たとえば主語を言わなければ、自分自身のことを言っていることになる。また、日本語では他人の心の中のことを言うことができない。たとえば「彼女は悲しい」と言うことはできない。いや、言ってもいいのだけれど、その場合、「she is sad」と言っていることにはならない。「she makes me sad」と言っていることになる。「彼女は悲しい」は基本レベルの言い回しだけど、ちゃんと理解していない学習者、まだ結構いるのではないか。

若干補足したところもあるが、大筋としてはこんな主張である。主に議論になっているのは太字にした部分で、この主張に対し、仕事で日本語に関わっている人たち、「日本語はネイティブ並み」を自称する人たち、英語に堪能な日本語ネイティブなんかが猛然と噛みつく。「私の妻は日本人だが、彼女はそんな事実はないと言っている」、「私は日本生まれの者ですが、『彼女は悲しい』は普通に『she is sad』ですよ。『she makes me sad』ではないです」、「あなたは本当に日本語ができるのですか?」、「頭だいじょうぶですか?」等々。

反論を受けたgambs氏は、自分の主張の裏付けとして学術論文その他いくつかの文章を挙げるが、「いや論文なんて知りませんけど?」という感じで相手にされない。

じつはgambs氏が主張の裏付けとして挙げるものの中に、私の書いたブログ記事へのリンクも含まれている。それもあって、ちょっと書いておこうと思った。

まず、「日本語では他人の心の中のことを言うことができない」という主張について。この主張に対し、言葉尻を捉えて反論することはできる。つまり、日本語では他人の心の中のことを絶対に言うことができないわけではない。一定の条件下では、それができる。たとえば文末にある種の表現(形容詞なら「のだ」、「らしい」、「ちがいない」等、判断や推量のモダリティを表すもの、動詞なら「ている」)を付け加えることによって、他人の心の中について述べることができる。助動詞「た」を添えることによっても、だいぶ自然な感じで言えるようになる(ただし金水敏氏がかつて指摘したとおり、文脈次第では不自然さが残る場合がある)。あるいは三人称小説の地の文でも人の内面のことを断定的な言い方で語ることができる。しかし、こういった点については、gambs氏もきちんと説明している。

(じつは他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもあるのだが、長くなるのでここでは触れない。)

日本語では「she is sad」と同じ意味を持つものとして「彼女は悲しい」という文は使えない、という見解についても、おそらく日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである(と信じたい)。「彼女は悲しい」という文に対して、たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う。何の変哲もない言い方にも聞こえるけれど、どこか不自然な文だなあと。

しかし、不自然というのであれば、「(私は)悲しい」という言い方も相当に不自然である。日常生活において、こんなことを言う人はまずいない。芝居がかっている。だから、単に「不自然」というのとは別種の違和感が「彼女は悲しい」という言い方にはあると考えなければならないだろう。

「彼女は悲しい」という文がもたらすこの違和感は、「私は悲しい」と同じ意味構造、同じ意味合いでこの文を理解しようとしたときに生じるものである。「私は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰だろう? 「私」である。問題ない。では、「彼女は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰か? 「彼女」? でも、もしそう言いたいのなら、普通は「彼女は悲しそうだ」とか、「彼女は悲しいにちがいない」とか、「彼女は悲しいのだ」とか、そういう言い方になる。その方が自然だ。でも、なんで「彼女は悲しい」は不自然に響くのだろう?

この問いを、日本語学者や、日本語に詳しい言語学者や、文法学者にぶつけてみよう。帰ってくる答えはたぶんこうだ。それは「人称制限」というものがあるせいです――

日本語の感情形容詞文の感情主(感情の持ち主)に人称制限があることはよく知られている。すなわち、感情主は述語が断定形を取る平叙文では1人称、疑問文では2人称に限られるのである。

(1) 僕はとても悲しい。

(2) あなたは今悲しいですか。

(3) *花子はとても悲しい。

3人称を感情主とする断定文(3)は不適格な文である。

(益岡隆志『日本語文法の諸相』、2000年)

日本語では、感情や思考のような人の内的状態を表す文において、その主語の人称に制限がある。例えば、以下の(1)(2)は感情形容詞文であるが、三人称主語で言い切りの形を取っているので、不自然な文とされる。

(1) *彼はうれしい

(2) *花子は悲しい

このような現象は、感情形容詞の人称制限と呼ばれ、広く知られている。

(甘露統子「人称制限と視点」、2004年)

つまり、「彼女は悲しい」という文の不自然さは、日本語の感情形容詞文の人称制限というルールに違反していることに起因する不自然さであると、ひとまずは考えてよいと思われる。

しかし!

注意すべきことがある。上で「日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである」、「たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う」と書いたが、これはつまり、感情形容詞文に人称制限のあることを意識しない日本人もどうやら存在するらしいからである。

a. 私ハ犬ガコワイ

b. ?アノ子ハ犬ガコワイ

寺村秀夫氏は、『日本語のシンタクスと意味II』(1984年)の中で、「人称制限」の例として上の文などを挙げた後、こう述べている。「a.は当たり前の文だが、b.は(中略)おかしいと感じられる。(中略)もっとも最近では、b.に類する表現をおかしいと感じないという若い学生がいる。ここでは、ふつうの日本人はb.をおかしいと判定する、という前提で話を進める」(太字引用者)

じつを言えば私も、「彼女は悲しい」という文には違和感を感じるが、「アノ子ハ犬ガコワイ」という文には、あまり違和感を感じない……。それはそれとして、日本語では「彼女は悲しい」と言えないというgambs氏の主張は、「言えない」という言葉を必要以上に強くとらない限り、「ふつうの日本人」が同意するはずの、まったくもって正しい見解であると言えるだろう。日本語では、「彼女は悲しい」という文を自然な表現として使うことはできない。

さて、ここまではいい。つまり、ここからが問題。

「she is sad」と同じ意味あいで使われた場合に不適格な文になる「彼女は悲しい」は、「she makes me sad」という意味あいで使われれば適格になるのか? 端的に言えば、「彼女は悲しい」は「she makes me sad」という意味になるのか?

SNS上では、「彼女は悲しい」はたしかに日本語として不自然な表現であるが、だからといって「she makes me sad」という意味にはならないだろう、という意見が日本語ネイティブの間に散見される。正直、私もそう思った。「彼女は悲しい」を「she makes me sad」と解釈するのは無理なのではないか?

これは、gambs氏が参照しているブログ記事に書いたことの繰り返しになるけれど、「悲しい」、「嬉しい」、「楽しい」、「怖い」といった感情を表す日本語の形容詞には二つの用法がある。その記事では次のように説明した。

(この種の形容詞には)情意を主観の内側から表す場合と、対象の外面的な状態ないし属性として表す場合を区別できる。例を挙げた方がわかりやすい。たとえば「さびしい」という形容詞ではこうなる。

 

私はさびしい

この町はさびしい。

 

上の二つの文は意味構造が異なる。「私はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは発話者の「私」だが、「この町はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは「この町」ではない。発話者である。発話者が「この町」の状況(ひとけがない、さびれている等)を観察して、そう表現しているのだ。

ここでひとまず、前者の使い方を「主観用法」、後者の使い方を「客観用法」と呼び分けるとすれば、日本語の場合、情意形容詞の「主観用法」は、一人称の場合にしか成立しない。たとえば、「あの人はさびしい」という場合、発話者が「あの人」の内面に入り込んで「あの人」の感じている「さびしさ」を取り出して表現していること(主観用法)にはならず、普通あくまで外側から「あの人」の状況を見て、発話者自身が「さびしさ」を催している(客観用法)ものと理解される。つまり、「あの人はさびしい人だ」という意味になる。

「He is sad」と言えても「彼は悲しい」と言えないことをめぐって - 翻訳論その他

「主観用法/客観用法」というのは私の造語であり、一般的に使われている言葉ではないけれども、情意形容詞の働きに両面性があることそれ自体については、時枝誠記はじめ多くの人がすでに指摘していることであって、とくに珍しい話ではない。

これに関連して、「この町はさびしい」が「this town makes me feel lonely」みたいな意味になるといったことは無生物主語の場合に限られるという趣旨の発言も目にしたが、そんなことはない。たしかに、「は」の前に来る要素が人(someone)なのか物(something)なのかという区別は大事だと思う。けれど、この位置に人が来ても客観用法が成り立つケースはいくらでもある。ひとつだけ例を挙げる。

私は楽しい。I am happy. / I have fun, etc.

彼は楽しい。He makes me happy. / He makes me laugh. / He entertains me...

gambs氏も、うまい例を挙げている。

私は怖い。I am scared.

彼は怖い。He scares me.

「私は楽しい」が「I am happy」という意味であり、「彼は楽しい」が「he makes me happy」の意味であるのなら、その類推で、「私は悲しい」=「I am sad」、「彼女は悲しい」=「she makes me sad」と考えるのは理にかなっている。

しかし!

注意すべきことがある。それは、情意形容詞の用法には「主観用法」と「客観用法」の二つがあるといっても、すべての情意形容詞について、この二つの用法がうまく成り立つわけではない、ということである。

たとえば、上で「楽しい」という形容詞について二つの用法を見たが、似たような意味を持つ「嬉しい」では客観用法による解釈がうまくいかない。「彼は嬉しい」は「he makes me happy」という意味にはならないのだ。

「彼は嬉しい」という文は、「he is happy」という意味で理解しようとすると違和感がある。しかし、だからといって「he makes me happy」という意味になるわけではない。この文の場合、客観用法の解釈(「he makes me happy」)が起動せず、ただの不自然な文、違和感のある文、あるいは「*彼は嬉しい」で終わってしまうのである(ただし、「は」の前に来る要素が物であれば、客観用法による解釈の容認可能性が高くなる。例:「このプレゼントは嬉しい」=「this present makes me happy」)。

そして「悲しい」という形容詞もまた、この「嬉しい」と同様、「は」の前に人が来る場合において客観用法が成立しにくい形容詞なのである!

しかし!

gambs氏がその主張の支えとして掲げる画像のひとつに、次の一節が見える。

a.  私は寒い。

b.  #母は寒い。

c.  母は[寒がっている/寒そうだ]。

This restriction on psych predicates and their potential subjects is so inflexible that when the predicate is polysemous, the function of the subject necessarily shifts to conform to this restriction. In (d), kanashii indicates that the subject is sad (subject = experiencer). In (e), by contrast, the mother is the stimulus/source that causes the speaker’s sad feeling, ‘Mother makes me sad’, not ‘Mother feels sad’, which violates the constraint.

d.  私は悲しい。 I feel sad.

e.  母は悲しい。 Mother makes me sad.

「e. 母は悲しい。 Mother makes me sad.」とある。この画像の元になった文書は、言語学者Yoko Hasegawa(長谷川葉子)氏の著作『The Routledge Course in Japanese Translation』(2012年)である。

引用部でHasegawa氏の述べていることは、次のようなことだ。

心理述語と、その取り得る主語に関する日本語の制約(つまり「人称制限」)は非常に厳しく、簡単に曲げることができない。だから、述語が多義性を有する場合には、主語の役割について解釈がなされる際、必ずこの制約を満たす解釈が選ばれる。たとえばd.の場合、主語の「私」は悲しみを抱いている主体と解釈される。対してe.のケースでは、主語の「母」は発話者「私」の抱く悲しみを引き起こす原因と解釈される。つまりe.の文は、「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味になるのであって、「母は悲しみを抱いている(Mother feels sad)」という意味にはならない。なぜなら後者の解釈では前記の制約に違反してしまうからである。

「母は悲しい」という文は必ず「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味に解釈されるとHasegawa氏は言っているわけだから、「彼女は悲しい」という日本語文は「she makes me sad」という意味で理解すべしというgambs氏と同じ見解であると言っていいだろう。

Hasegawa氏の理屈はよくわかるのだ。でも問題は、「悲しい」が「polysemous(多義性を有する)」述語に当たるかどうか、ということである。というのも私には、「母は悲しい」という言葉が「母は私を悲しませる」という意味で使われる場面、状況、文脈をうまく思い浮かべることができない。やはり「母は悲しい」は「Mother makes me sad」という意味にはならないのではないか?

と、書こうとした矢先(いや、書いたのだが)、なぜか隣の部屋からSuchmosの「STAY TUNE」が聞こえて来て、私の拙い考えは一瞬にして覆ってしまったのであった。回心した、とさえ言えるかもしれない。アウグスティヌスの「取りて読め」じゃないけれど。

「ブランド着てるやつ」は悲しい。

「Mで待ってるやつ」は悲しい。

「頭だけいいやつ」は悲しい。

「広くて浅いやつ」は悲しい。

なるほど。コツ(?)がわかった。こういうのはどうだろう。

母はグッチとかシャネルとかブランドものの服ばかり着ている。私の好きなGUの服になんて見向きもしない。格好いい服もたくさんあるのに……。母は悲しい。悲しすぎる。

こういうのも思いついた。

SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい。

このへんで切り上げることにする。ちなみに私の妻もたまたま日本人だが、彼女に「『彼女は悲しい』って言い方、不自然だよね?」と聞いてみたところ、「どこが?」と言われた。「日本人の妻」に聞くってのが、そもそも間違いなのかもしれない。