天皇制と日本語

 

生来の日本語話者の一群が一群のレベルで折に触れて表出する日本語への異和感は、「いいたいことがうまくいえない」といった言語表現をめぐる普遍的な問題とはおよそ異質なものである。言語が言語であることに由来する、この手のありふれた不満は、その突き詰められた先で、もっぱら例のあの「語りえぬもの」に関係している。しかし、山城むつみは「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」(「文学のプログラム」)というのだ。「毒」(中上健次)は、どうやら日本語での読み書きの全体に回っている。「ドップリ漬かってる」とはそういうことだ。

たとえば丸谷才一鈴木孝夫をはじめとする多くの人たちが、志賀直哉の「国語問題」の文章における明晰さの欠如を指摘する。「こんな調子で書けば(中略)フランス語で書いたつて、ろくな文章はできるはずがない」(丸谷)。「もし同じ議論を英語なりあるいはフランス語で書いたとしても、あいまいで支離滅裂な主張になることを私は疑わない」(鈴木)。しかし、では、明晰に書けば「国語問題」は解決するのだろうか。「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」と山城のいう、こうした虚しさは、それによって解消するのだろうか。むしろ日本語を使う日本人は、明晰に書かれたものをそのまま明晰に書かれたものとして受け取ることができない、そのような条件のもとに置かれているのではないか。

漢文訓読という営為の奇妙さは、だれでも感じているはずのものである。ところが、この奇妙さを言い当てようとすると、どうしたわけか、うまくいかないのだ。そのせいか、「訓読は翻訳の一種である」と、さらりと定義して済ます者たちが少なくない。けれど、漢字をところどころひっくり返して読むという単純な操作だけで、なぜそれが和文として理解できるようになるのか。なぜこんな奇妙な読み方が成り立つのか。なぜ訓読において外国語を読んでいるとも自国語を読んでいるとも容易にいえないような気色の悪い絡み合いが生じるのか。「訓読は翻訳の一種である」だとか「訓読は一種の訳読である」だとかいう場合の、この「一種」という留保に映り込んだあいまいさの影に真正面から向き合おうとする試みに出会うことは意外なほど少ない。「なぜ、何のためにこのような奇怪な読み方をする必要があったのか」という、山城むつみの問いは、こうした翻訳であるとも翻訳でないとも断定しがたい漢文訓読の二本の蔦のように絡み合った性格を前にすれば、ほんとうは誰でも抱くはずのものである。それなのに訓読の謎についてきちんと考えようとすれば、いまなおこの山城が九十年代に書き記した数編の論考にあたるしかないといっていいのだ。

小林秀雄津田左右吉という、やはり例外的存在といえる二人の文人が訓読に向ける視線を自己の目に奪い取った山城の、「訓読は読むための考案ではなく、書くための考案だった」(「文学のプログラム」)という目的論的な見解は穿ち過ぎており、端的に間違っていると思われるが、その周辺に散見される諸々の指摘には、些細な瑕疵を補って余りある貴重な洞察が含まれている。

古代、書くとはすなわち漢文を書くことであったような頃、やまとことばで語っていた日本人も、だから書記行為に及ぼうとすれば、外来のこの文字とこの構文にできる範囲で書くしかなかった。「ここにはチグハグな奇体さがある」と山城はいう。「不自然な異和」ともいっている。こうした書くことに伴う「異和」は、「訓読について」で山城自身がいうように、日本語に限らず「世界の何語に属していようと、書くことが本来的にもたされている質」であるはずだ。しかし山城の考えでは、日本語においては、こうした書くことにまといつく本質的な「異和」を解消するための仕組みが設けられているのである。その仕組みこそが訓読である。山城はそういう。

出発点は、一定の漢文から一定の訓みを機械的に引き出すための体系的な規約を編み出すことであった。このような規約は、それがあれば、それを反転させることにより、一定の和文を一定の漢字の連なりで表記することができるようになる。このようにして表記された文は、「形の上では漢文を保存しながら実質的には和文と化している」。つまり、「漢文=和文」という、密着的な言語の形が、やまとことば話者に獲得される。これにより漢字漢文に由来する「異和」が解消するというのは、漢字漢文で書くことが、この仕組みを通じて、そのまま和語和文で書くことのほうへと、オセロの駒のようにパタパタと裏返されていくからである。訓読に対する山城の基本的姿勢は、この反転のプロセスを、最初から日本文の生成を狙って仕組んだものと考えることにある。これに対する反論は、やまとことば話者(原住民)にとって書くことの原初が漢文で書くことであれば最初から和文を書こうなどという考えが生まれたとは考えられないこと、また、日本列島内での文字表記着手のイニシアティブを握っていたのが原住民ではなく大陸・半島からの渡来人であったと考えられること、また、漢文と和文とを一義的に連結する体系的な規約は訓読のはじまりには存在していなかったこと等々を考えあわせると、比較的容易な作業のように思える。ここでは「日本における散文の成立は(中略)漢文訓読の余得とみるべき」(亀井孝大藤時彦山田俊雄編『日本語の歴史2』)という考え方をとっておきたい。

さて、この二重の所属において、新たな緊張の種子が宿ることは不可避であるだろう。つまり、それが和文としか書かれたものであるのか、漢文として書かれたものであるのか、形の上からは区別ができなくなる。山城によれば「この緊張が訓読というプログラムの初動となった」。具体的には、漢文のシンタクスからの離脱と、てにをは構造の明示化に向かう、和文性の開示に向けた運動がここから発動する。山城は、変体漢文から始めて、史部流、宣命書き、古事記、和漢混淆文、そして近代日本文に至るまでの書記形態の、その方向での変遷を、おおよそ歴史的な時間軸に沿って追うようなそぶりで示しているが、これらの形態はあくまで理念型として取り出されている。これについては山城が付言しているとおりだ。その主眼は、「訓読のプログラム」が現代の日本文においても作動しているという点に置かれている。この主眼を踏まえると、日本語の書記形態が、その中和的効能を維持するため形成途上で招き寄せてきたさまざまな水準の交雑も、現在の日本語文にそのまま尾を引いているという考えが自然に導出される。

交雑の第一は、文字の水準における漢であることと和であることの癒着である。「漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである」(『本居宣長』)と小林秀雄のいうように、和訓は和漢の文字形態上の同化を実現した。この同化はしかしあくまで形態上のものであって、同じ個所で小林のいうような、漢字に「同じ意味合を表す日本語を連結する」というような単純なものではない。もっとも小林はすぐあとで「形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう」と正当な考えを述べている。これは重要な指摘であるといえ、後の機会に詳しく見たいと思うが、いまはまだそのときではないので、第二の交雑に移ろう。これは読むことと書くことの混淆である。和文の成立に先立って訓読の成立があった。これを小林秀雄山城むつみのように「和訓の発明という、一種の放れ技」と見るべきか「余得」と見るべきかはひとまずわきによけて、ここから引き出せることを引き出しておくと、山城のこういうとおりになる。すなわち、「日本語においては『書く』という行為がそれ自体では成立しえず途中で消失しており、『よむ』という行為によって引き受けられることによってしか成立しなかった」のであるから、「現に書かれ読まれているにもかかわらず、厳密には『書か』れてもいなければ『読ま』れてもいないという可能性が日本語には大いにある」。具体的な例は、石川九揚『二重言語国家・日本』の中から拾い上げることができる。石川の挙げる例は、少し単純すぎると思われるかもしれないが、そのぶんわかりやすいというメリットがある。

たとえば「春雨来る」と書かれているときに、「はるさめくる」と「シュンウキタル」との間では意味が異なるにもかかわらず、その違いを無視して読まざるをえないというあいまいさが日本語には避けられず、その幅の容認を強いられ、その部分を空白=〇(ゼロ)記号のままに放置しなければならない。それを克服する道はルビによって読みを与えることであろうが、印刷文がルビを失った、おそらくは戦後から、その曖昧度は進行した。否、それ以上に、ルビなどなくてよいとするあいまいさがあいまいさを加速したとも言えよう。微妙・繊細な性質をもちながら、かつその微妙・微細に名をつむり空白にすることを強いられるという、怪しげな二重性を日本語は強いてもいるのである。

書くことと読むことが相対する構え、書かれたものが読まれるという単線的な図式、これが日本語の場合、成り立っていない。換言すれば、書くことの主導性が読むことに半ば奪われているということだ。

山城の文章から取り出せる三つ目の交雑は、〈書く〉と〈語る〉のあいまいな連合、あるいは言と文との表見的絡み合いである。これは物語と制度の、中上健次のいう「癒着」の局面で発火する。たとえば古事記の文体(かきざま)について、山城は、これが「一種の言文一致の試み」にあたると述べている。

たとえば『古事記』が表記において凝らした実験は言文一致の試みに似ている。中国語に影響される以前の固有の日本語(古言=古事)、それも歌や祝詞のような特殊なことばではなく、ごくふつうに話された平明な日常語の「ふり」や「姿」をうつそうとしたという意味において、『古事記』は一種の言文一致の試みである。むしろ、それは、散乱する文字の諸価値を標準化し、文固有のマテリアルを創出することである。眼目は音の再現(再生)ではなく、文のレベルの生成なのである。

(「文学のプログラム」)

勘どころは、このようにして創出された「文固有のマテリアル」が、次のとおり、言文一致の効果としてある〈言〉の質にべっとり覆い尽くされることを通じて、書かれた端から「中性化」され、その実質を次々きれいに抜き取られ、あるいは打ち消されていくということである。

和「文」は、たしかに外形においては書かれるが、にもかかわらず、書かれたもの(エクリ)であるという質を自ら抹消し、実質的には、語られたもの(パロール)という質を暗示する。それは現象的には書かれても、本質的には書かれていない。書かれていながら、書かれていないというこの奇妙な属性こそ和「文」の特徴である。「文」とは、いわば文(ブン)を中性化して文(アヤ)となしたものである。ここで文(アヤ)とは、詞が派生する詞ならざるもの、すなわち言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味のことである。

(同前)

このような文の実質の自発的、自動的なマスキングによって「文(ブン)」から「文 (アヤ)」に変貌した書記形態において、「文字通りの意味」とは別様の「非言語的な意味」が「生成」する。つまり、「文(アヤ)」のレベルにおいて生じるこの「非言語的な意味」が「文(ブン)」のレベルにおける字義性に覆いかぶさり、それを窒息に追いやっているということである。

この山城の議論は、言文一致の効果を制度の身元保証に見た中上健次の見方を裏面から更新するものであるといえる。中上と同様、山城の念頭にあるのも、日本の書き言葉と天皇制の結託である。古事記に代表される「和『文』の地平の開設は上代天皇制のイデオロギーと不可分の関係にある」と山城はいい、「『古事記』が上代天皇制のイデオロギーとして機能したとすれば、それは皇統を神話化するその内容のためではない。それが和『文』として書かれたその形式のためである」と断定している。こうした形式主義的な転回が山城の議論の山場を形作っていることは否定しがたい。しかし、以下の論述を読む者はだれでも、そこにさしかかるまでの論述にはたしかに見られなかった停滞が、そこからにわかに広がりだしていることに気づかざるを得ない。

外国の文字を受容することは、とりわけ文字の体系を持たない共同体にとっては、強烈な異和を伴う出来事となる。その異和(外傷)は精神障害(たとえば神経衰弱)を引き起こす。だが、日本においては、文字あるいは文がもつこの種の危険性は中和される。訓読というプログラムに即して文(アヤ)のシステムが構築されているからである。漢字や漢文を、その形は保存したまま、実質的に日本文字、日本文と化すことによって、それらが外国の文字や文であることから来る強烈な異和感は巧みに中和されてしまうのである。このことは、結果的には「やまと心」や「やまと魂」が一般的に流通する領域が、外来の文字により拭い去れない危機的なダメージ(外傷)を被ってしまわないよう、これを保護するかたちになっている。

(同前)

ようするに、「訓読のプログラム」の発揮する中和力のおかげで、「やまと魂」や「やまと心」といった言葉を拠り所とした天皇イデオロギー言説が、受け手の「日本精神」に障害を与えることなく普及するという、ちょっと拍子抜けするような話である。そして同時にこれは、ちょっとへんな話でもある。というのも、言説の流布に際しての心理的ストレスを限りなく減らすというようなことが「訓読のプログラム」の効果なのであれば、たとえば天皇制に反対する言説も、天皇イデオロギーと同じように円滑に流通することになるのではないかと考えられるからである。もうひとつ、山城はこうも書いている。「訓読のプログラムは『古事記』を始めとする上代の文献においてのみ作動しているのではない。それは、いわば遺伝子として今日の日本「文」の装置のうちにも伝達されている。その機能は依然として健在であり、上代と同様、現代の天皇イデオロギーのジェネレータとなっている」。書き言葉を支配していたのが制度側の人間に限られていた古代であれば、書かれた言葉を制度的言説で埋め尽くすこともできるだろう。しかし、現代では書きたい人はだれでも書くことができる。この山城の分析では、「訓読のプログラム」は現代の日本文にも受け継がれているのであるからこの形式を撃たなければ天皇制は克服されないという肝心の指摘が宙に浮いてしまうのではないか。

天皇制と訓読の関係をめぐる、こうした拍子抜けの感覚は、「文学のプログラム」の数か月後に著された論考「訓読について」を読むとさらに強まる。山城は、柄谷行人が引用するソシュールジュネーヴ大学就任講演」の一節を参照している。言語の死は常に「外的な原因」によると語るソシュールは、その原因として二つのケースを挙げている。ひとつは「それを話す民衆」が「根絶やしに」されるケース、そしてもうひとつは「強力な民族が自分の特有語を新たに押し付けてくる」ケースである。ただし後者の場合、「政治的支配ではだめであって、まず文明の優位ということが必要です。しかも文字言語の存在はしばしば不可欠で、それが学校、教会、役所、要するに公私にわたる生活路の全体をとおして押しつけられるわけです。こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。山城は後者のケースを日本の古代にそのまま投影して、いっている。「政治的、経済的、軍事的な力」を備えた特定の氏族が、「みずからの俗語を全国に普遍的に流通させ」、それによって他民族を「内面からイデオロギー的に支配する」には、「政治的、軍事的な力に加えて文字言語の力が不可欠なのである」。そして、

じっさい、のちに「天皇家」となる有力氏族が、その武力と政治力を背景に、みずからの俗語を「日本語」として押しつけ、他の諸俗語を圧死させ、その担い手であった諸氏族を内面からイデオロギー的に支配できたとすれば、それは、みずからの俗語を漢文という文字言語と密接に関係させることに成功していたからである。外圧的な力のほかに文字言語の力を背景としていたからにほかならないのである。

私の考えでは、それを可能にしたのは訓読という工夫である。訓読は、その有力氏族が、古代中国帝国から輸入された文字言語を、自らの俗語に関係させ、いわば後光としてその力を取り込んでいくための装置なのである。

(「訓読について」)

ここらへんに見えるのは、思考の停滞というよりむしろ後退というべきものである。言語の強制によって「内面からイデオロギー的に支配」することが可能という安直に思える発想が暗黙の前提になっているが、それよりも問題は、ここにいわれるような支配力は、「書かれた文から文としての物質的価値を消去してしまう」だとか、「『書く』ことの質を無化してしまう」だとかの訓読の働きとはすでに無関係な、「後光」という単純きわまりないところにまで沈み込んでいるということである。文字言語の「後光」というのなら「異和」は解消されていないということになるのではないか。また、「後光」程度のことであれば「訓読のプログラム」といった手の込んだ概念装置を用意する必要はなかったのではないか。「こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。和文に特徴的な複合的性格やそのシステムの生成過程、訓読の中和力等々に鋭く迫っていく考察からの、これは明白な後退であるといえる。漢文訓読という奇妙な仕組みの奇妙さへのすばらしい粘着を起点に開始された論述が、こんなふうに尻すぼみに終わるのは、訓読の成立に対する目的論的な見方に内在する、ある弱さのあらわれなのではないか。これに似た弱さは、天皇の書き言葉と、賤民の話し言葉、語り言葉との自動的な対立に依拠した中上健次の発想にもあった。七十年代の半ば頃、篠田浩一郎「天皇制と日本語」あたりに端を発すると思われる、日本語を天皇制の問題と絡めて問うやり方には、俗流に解釈されたサピア=ウォーフ仮説にも似て、どこかひきつけられるものがある。でももしかすると天皇制と日本語の結び付けそれ自体、中上健次の言葉を借りれば、「根源的な暴力みたいなものによって仕組まれてるんじゃないかって、気がする」。

さて、山城の議論に見える後退は、後退の始まった地点にまで面倒がらずに遡行し、そのとき選ばれなかったほうに細く伸びていく道を選ぶという単純な、あるいは機械的なやり方で意外にも簡単に回避することができそうだ。やりなおしの問いは、こんなふうに立てられるだろう。訓読は、書くことにつきまとう異和を中和することによって「日本精神」を保護する、そういう装置なのではなくて、むしろ書くことの異和を読み書きの全体に波及させることを通じて「日本精神」を絶えず新たに生み出し続ける発生の装置なのではないか。この装置は、異和においてしか存在しえない――漢心の否定によってしか、漢心の影としてしか存在しえない――「やまと心」のため、常に新たに異和をこしらえあげる装置でもあるはずである。さらにここからたぶん、もうひとつ、やりなおしの問いを立ち上げることができる。訓読の問題の核心は、山城むつみの考えるような形式の次元にではなく、天皇制の擁護だとかいった伝達内容の次元にでもとうぜんなく、厳に意味作用(シニフィカシオン)の次元に存するのではないかという問いである。たとえば山城は、すでに見た三つの意味論的交雑の三つ目について述べる箇所で、「言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味」に言及しているが、このような意味ならぬ意味が発生するメカニズムのことを、形式の面に重点を打つ山城の、「音声的な価値である」が同時に「音声的な価値のことであるとは言えない」という矛盾めいた文(アヤ)をめぐる記述は、じゅうぶんに解き明かしていないように思える。

〈言〉を僭称し〈和〉を搾取する言文一致の〈文〉は、「文字通りの意味」の上に「非言語的な意味」の覆いを被せ、それを次々と無害化していく。中上健次のいう「衰弱した、飾りばかり多なってしもうた書き言葉みたいなもの」が、山城むつみのいう「書かれた文(ブン)のおもてに派生する、もはや文(ブン)ならざる彩り」(「文学のプログラム」)が、「本当の言葉の重み」を巧みに打ち消し、「つらい」という言葉、「寒い」という言葉から「つらい」の実質、「寒い」の実質を抜去する。明晰さをひたすら虚しさに追いやるこの条件、字義を「アヤ」に組織的・機械的に転換していく歪曲の力、隠蔽の力、諸力。しかし、これらの力は、いったいどこからくるのか。その源泉は何であり、また、どこにあるのか。訓読とはつまるところいったい何なのか。

解釈の独善性について(3)

 

さて、桜庭一樹氏は②の記事に掲載された見解の冒頭で次のように断言している。

私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています。

ここを読み、大きく分けて二つのことを思った。その第一は、こういうことである。「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し(中略)たことが描かれています」というが、この作品には躊躇なくそう断言することを可能にする記述が極めて乏しいのではないか。いや極めて乏しいどころか、皆無であるのではないか。というより、そのような場面を描くことは、この作品の設定からして原理的にほぼ不可能であるとさえ言えるのではないか。なぜなら、すでに記したとおり、「少女を埋める」は一人称小説であり、かつ、語り手を務める主人公の冬子は二十年に及ぶ老老介護の現場にほぼ居合わせていなかったからである。つまり介護中の両親の具体的な常況は語り手には語り得ない事柄に属する。いわゆる「移人称小説」であれば話は違ってくるが、この作品はそうではない。したがって、冬子がそれについて知り、語るには、両親の身近にいて事情に通じた第三者から話を聞く、あるいは隠しカメラを設置するなどする必要があると思われるが、しかし、この小説にはそのような場面は存在しない。つまり――②における桜庭氏自身の言葉を借りて言えば――「そのようなシーンは、小説のどこにも、一つもありません」ということである。したがって、「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病」云々というのは――やはり②における桜庭氏自身の言葉を借りるが――「実際の描写にはない余白のストーリーを想像」したものにすぎないと言わなければならないのではないか。そしてそれが「想像」であるからには――桜庭氏自身が述べるように――「主観的解釈として掲載すべきであり、実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いては、いけない」のではないか。

②において桜庭氏は、かなり不可解な振る舞いをしているように見える。不可解というのは、何より桜庭氏が上記のような自家撞着を、すでに作品を読み終えた読者に対して取り繕う気がみじんもないように見えるからである。このことの不可解さは、相手方の鴻巣氏が自身の想像の妥当性について、③を書いて公開することを通じ、作品を読んだ読者にも通用する体で証明しようと試みていたことに比べてみれば、いっそう際立ってくる。しかも、「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し(中略)たことが描かれてい」ないことは、「夫の看護を独り背負った母」が「弱弱介護の密室で」「夫を虐待した」ことが描かれていないことと同程度に、あるいはそれ以上に明白な事実であるように思える。一篇を読み通せばだれでもそのこと、つまり「献身的」な「看病」の場面が不在であることに思い至らざるを得ないのである。

しかし少し冷静になれば、作者のこの振る舞いが、じつはいささかも不可解ではないことが見えてくる。

作者は、「少女を埋める」の続編とみなし得る作品「キメラ――『少女を埋める』のそれから」(文學界11月号、以下「キメラ」と呼ぶ)の中で、「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていた」というのは「故郷に向けて単純化した言葉と表現」であり、その「前半はとくに文学の共同体に向けて綴られた言葉ではな」いと語り手に語らせている。この「単純化」ということについては、桜庭氏本人も、冒頭に引用した一節と同趣旨の音声メッセージ(「私は今月、自伝的な小説を発表しました。主人公は自分をモデルにした人物で、ほかに、病気の夫を献身的に看病した母、夫を深く愛していた女性としての母も出てきます」)をTwitterに投稿した直後、「伝わりやすいように言葉や表現を単純化した部分があります」とツイートしている。とはいえ「単純化」とは一体どういうことなのか、その具体的内容については作者、作中人物とも一切言及していない。「単純化」しないで言うとどうなるのか、その点に関しても両者はまったく言葉を費やそうとしない。だから「単純化」の内実については何もわからないとしか言いようがないのであるが、しかし、わかることもある。②における桜庭氏の言葉が、すでに「少女を埋める」を読み終えた人間、そしてこれから読んでみようと考えるような人間には向けられていないということ、そのことがわかる。その言葉が向けられている対象は、この作品をまだ読んでおらず、また、これから読むつもりもさらさらなく、かつ、朝日新聞に書いてあることは何もかもぜんぶ真実だと頭から決めつけている人々、とりわけ――「キメラ」で言われるように――作者の故郷に暮らす「高齢者」たちなのである。この点に関してはいささかも疑う余地がないと思われる。

そもそも桜庭氏が文芸時評に異議を唱えたのは、単に一人の文芸評論家によって自作を誤読されたからではない。自作の誤読に基づく評が「朝日新聞」という「数百万部発行の巨大メディア」(②における桜庭氏の言葉)に掲載されたことにより、同紙には本当のことしか書かれていないと妄信する「故郷の高齢者」たちの間で母親についてあらぬ「噂」が広がることを懸念したからである。したがって、桜庭氏が朝日の記事においてこのような読み手の限定を行ったこと、また、「噂をきっぱり否定するため」(「キメラ」)、時評に記された「虐待」という言葉との対照の際立つ「献身的に看病」という文言を自家撞着を厭わず敢えて入れたことは、不可解どころか、むしろ所期の目的に照らして極めて合理的な行動であったと言わなければならないだろう。念のため言い添えておけば、「小説のどこにも、一つも」ない場面について「想像」で書くことは、朝日新聞においてはすでに公然と認められている。

以上が第一に思ったことのあらましであるが、これに関連し、あらすじと解釈の区別という問題についても少し考えたことがあるので、書いておきたいと思う。

桜庭氏は同じく②において次のような見解を表明している。

小説の読み方は、もちろん読者の自由です。時には実際の描写にはない余白のストーリーを想像(二次創作)することもあり、それも読書という創造的行為の一つだと私は考えます。しかしその想像は評者の主観的解釈として掲載すべきであり、実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いては、いけない。それは、これから小説を読む方の多様な読みを阻害することにも繋(つな)がります。

先に部分的に引用してもいるこの一節において、桜庭氏は、「あらすじ」は《書いてあること》によって構成すべきであり、《書いてないこと》についてなされた「想像」は「あらすじ」に含めてはならず、「解釈」として提示しなければならないと主張している。つまり「あらすじ」と「解釈」の区別を《書いてあること》と《書いてないこと》の区別に関わらせている。同様の主張は「キメラ」においては、より簡潔な言い方でなされている。「作品に書かれていたことはあらすじとして、読んで自分が想像したことは解釈として分けて書く」。桜庭氏が《書いてあること》と《書いてないこと》は客観的かつ明確に区別できるという考えを自明の前提としていることは明らかであるように思われる。しかし、この前提は、それほど自明なものと言えるだろうか?

そもそも《書いてあること》と《書いてないこと》を客観的かつ明確に区別できるのであれば、今回のようなことは起こっていなかったはずである。というのも鴻巣氏は介護中の虐待を《書いてあること》の範疇に繰り込んでいるに違いなく、だからこそ「あらすじ」にも組み込んでいたはずである。したがって《書いてあること》と《書いてないこと》の区別に基づいて「あらすじ」と「解釈」を区別すべしという桜庭氏の主張は、異議申立ての方法としてあまり有効ではないように思える。繰り返すが、鴻巣氏は主観的にはそうした区別を正しく遂行したつもりでいたと考えられるからである。

ここはひとつ別の事例で考えてみよう。ウィキペディアには「ボヴァリー夫人」が立項されているが、その記事を読むと、「『ボヴァリー夫人』(中略)は、フローベールの長編小説で、19世紀フランス文学の名作と位置づけられているフローベール自身の代表作である」との(機械翻訳的にやや拙い)記載があり、続けて「田舎の平凡な結婚生活に倦怠した若い女主人公エマ・ボヴァリーが自由で華やかな世界に憧れ、不倫や借金地獄に追い詰められた末、人生に絶望して服毒自殺に至っていく物語である」(強調引用者)との要約がある。何の問題もないようだが、しかし、『『ボヴァリー夫人』論』の蓮實重彦氏であれば、この要約に鋭く否を突きつけるはずである。なぜなら同書において蓮實氏は、「『フィクション論』の理論家」リュボミール・ドレツェルが「『エンマ・ボヴァリーは自殺した』という命題」を「そのできごとが起こったフローベールの小説の長い部分(第三部、八章)を短く要約したもの」と見なしていることを再三にわたって取り上げ、この命題は「フローベールの小説の長い部分(第三部、八章)」の要約では「ありえない」と述べているからである。なぜか?

理由はごく単純で、『ボヴァリー夫人』には「エンマ・ボヴァリー」という「固有名詞」などひとつとして書きこまれてはおらず、その命題を導きだすドレツェルのテクストの解読そのものが誤りというほかはないからである。あるいは、「エンマ・ボヴァリーは自殺した」という命題は、この理論家がテクストを読む労をいとわず[「労をとらず」の誤りか?(引用者)]に創作した一種のフィクションだというべきかもしれない。

蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』p.56)

(※じつは蓮實氏はこれより数百頁後の部分で別の理由も示しているが、その理由にはやや微妙なところが含まれているので、ここでは触れないことにする。)

電子データ化された本文(これこれ)に全文検索をかけてみるとたちまちわかるが、たしかに「エンマ・ボヴァリー(Emma Bovary)」という言葉は『ボヴァリー夫人』(Madame Bovary)には「書きこまれて」いない。そして「要約」には《書いてないこと》を一切含めてはならないとすれば、テキストに存在しない言葉の紛れ込んでいるこの命題を「要約」と呼ぶわけにはいかなくなる。「創作」とまで呼べるか否かについては様々な判断がありえるとしても、この命題の全体を「解釈」と呼ぶくらいであれば特段の差し障りがあると思えない。少なくともそこにおいて何らかの「解釈」――「エンマ」という洗礼名を持つ女性が「ボヴァリー」という苗字を持つ男性と結婚し、「ボヴァリー夫人」と呼ばれているのであるからには、作中自殺したその女性の名前は「エンマ・ボヴァリー」であるに違いない、というような――が作用しているとは間違いなく言えるのである。

しかし他方、この「エンマ・ボヴァリーは自殺した」という命題が『ボヴァリー夫人』を通読したことのある多くの人々においては第三部第八章の正当な要約として容認されるに違いないということもまた同じように間違いなく言えるのではないかと思える。つまりこれら「多くの人々」は、「エンマ・ボヴァリー」程度の「解釈」であれば《書いてあること》のうちに数えていいものとみなしているわけである。ちなみにこの「多くの人々」には、アルベール・チボーデ、エーリッヒ・アウエルバッハ、アンリ・トロワイヤマリオ・バルガス=リョサ、それに社会学ピエール・ブルデューや分析美学のケンダル・ウォルトンといった錚々たる人士が含まれるようだ。蓮實氏によれば、これらの人たちは自著で『ボヴァリー夫人』に触れる際、この小説に存在しない「エンマ・ボヴァリー」という言葉を平気で書きつけている。

このように「多くの人々」が『ボヴァリー夫人』の中に「ひとつとして書きこまれて」いない「エンマ・ボヴァリー」という言葉を《書いてあること》の範疇に含めている。蓮實氏の観点によれば《書いてないこと》が「多くの人々」の観点によれば《書いてあること》のうちに繰り込まれるということである。

蓮實氏の観点については少し説明がいるだろう。氏は「小説」と呼ばれる散文形式の虚構作品を「テクスト的な現実」と「フィクション世界」の二層に分けて考えている。前者を活字の次元における作品の存在論、後者を想像の次元における作品の存在論と言い換えても、ここではさほど問題は生じないと思う。「エンマ・ボヴァリー」は活字上存在しない。しかし、言語の物質性の反映たる活字を読み進める読者の脳裏に立ち上がる想像の世界においては、現実世界と同様、肉体と精神を備え、ときに「エンマ」、ときに「彼女」、ときに「彼の妻」、ときに「ボヴァリー夫人」と呼ばれる、地に足をつけた人間として立派に存在する。蓮實氏が前者「テクスト的な現実」の観点に立っていることは言うまでもないだろう。逆に「エンマ・ボヴァリーは自殺した」という文字列を要約として容認する「多くの人々」は後者「フィクション世界」の存在論に立脚しているのである。

この二層区分に照らしてみれば、1980年代後半の日本に現れたいわゆる「テクスト論」の眼目が、「テクスト的な現実」の水準において意味作用を有する記号として存在する活字の連なり――すなわち「テクスト」――を徹底的に読み込むことを通じて、それが表象する「フィクション世界」の解像度を引き上げ、またその領域を広げること、すなわち《書いてあること》の領域を思い切って拡充することにあったことがわかる。一方は物質、他方は想像力からなる二つの層はお互い物理的に切断されており、しかもその相関性は比較的緩やかなのであるから、「フィクション世界」の時空間は「テクスト的な現実」による制約からかなりの程度自由でいられる。小森陽一氏らが夏目漱石こゝろ』の読みにおいて示したような、作品に描かれた出来事の後日談とも言える内容に踏み込んだ読解は、こうした「フィクション世界」の特性を足場としていると言えるだろう。

言うまでもないことだが、「テクスト論」的な読解は決して特殊な読み方ではない。ごく普通に小説を読む読者であればだれでも採用しているはずの、活字を追って意味を取り、そこから立ち上がる像に意識を向けるという読み方と、根本的なところで違っているわけではないからである。ただ、蓮實氏が『『ボヴァリー夫人』論』でいうとおり「人類は『テクスト』を読むことをあまり好んではいないし、また得意でもない」ので、どうしても「テクスト的な現実」への注意がおろそかになりやすい。したがって四百字詰め原稿用紙一八〇枚の分量を有する中編小説「少女を埋める」にある「覚えてない」、「覚えてたのか」の呼応を読み落とすようなことは人類である限りだれにでも――文芸評論家と呼ばれる人たちにでも――起こり得るのであって、それ自体珍しいことではない。

たとえば――先に「移人称小説」という言葉を出したので、それにちなんだ例を挙げることにするが――文芸評論家の渡部直己氏が、その著書『小説技術論』に収められた論考「移人称小説論――今日の「純粋小説」について」の中で、岡田利規氏の小説「わたしの場所の複数」では「主役夫婦のあいだで、携帯電話が繋がらない」(強調は原文では傍点)と書いている。また、そのことが「独特の山場をもたらす」ことになるとも言うのだが、しかし、この作品には「夫は(中略)携帯を手に取って(中略)わたし[=妻(引用者)]が書いたメールを読んだ」という記述が含まれており、実際には夫婦の携帯電話は繋がっている。加えてこの作品における「独特の山場」は携帯電話が繋がった後、すなわちこの夫が「メールを読んだ」後に到来しており、ようするに渡部氏はこの記述を単純に読み落としているのである。

話を戻そう。見たように、《書いてあること》と《書いてないこと》の境界は、読み手がどのような立場をとるかによって動く。《書いてあること》の範囲は「テクスト的な現実」に忠実な読解において最も狭くなり、「テクスト論」に依拠した読解において最も広くなる。「多くの人々」にとっての《書いてあること》は、この両極に挟まれた空間に位置づけられると考えていい。

この中間領域において「多くの人々」が採用する読みの構えは、「テクスト的な現実」に意識を縛り付け、ひたすらその意味作用に注意を向けるというものではないだろう。活字の記号を追う読み手が意味に向ける意識には常に想像的な意識が伴っている。とはいえ、「フィクション世界」を構成するこの想像の態様は、「テクスト論」的な読解において見られるような能動的な、前のめりの想像力の行使ともやはり異なるはずである。小説を読むことにおいて自動的、自発的に立ち上がる像の領域が存在するのだ。ジャン=ポール・サルトルは、『想像力の問題』において、読書に伴うこのいわば中動態的な像のことを「像的要素(élément imagé)」と呼び、能動的な想像に伴う「心的イマージュ(image mentale)」と区別している。「多くの人々」が小説を読む際、その意識はこの「像的要素」に浸された記号――単なる意味でも単なる像でもない、両者の性質を兼ね備えたハイブリットな対象――に対面していると思われる。

その意味では、《書いてあること》と《書いてないこと》の切り離しは、小説を読む際「多くの人々」が通常とる意識の構えにおいては、ほぼ不可能であると言っても過言ではないだろう。なぜなら、「テクスト的な現実」の次元における《書いてあること》には、中動態的な想像の像、すなわち《書いてないこと》が絶えず覆いかぶさってくるからである。人類が「テクスト」を読むことを苦手とする最大の理由はここにあると言えるのではないか。

 繰り返しになるが、何が《書いてあること》であり、何が《書いてないこと》であるかは読み手の立場により異なる。また、小説を読む際の通常の意識においては《書いてあること》と《書いてないこと》が絶えず絡み合っている。したがって両者を客観的かつ明確に区別することは困難であり、したがってこの区別に基づいて「あらすじ」と「解釈」を区別することは「簡単そうで難しい」(②における鴻巣氏の言葉)。

 とはいえ、《書いてあること》の範囲を最も厳しく限定した「テクスト的な現実」の観点に立つのであれば、《書いてあること》と《書いてないこと》を厳密に切り分け、したがって「あらすじ」と「解釈」を明確に区別することができるのではないか? しかし、どうやらこの問いに対しても否と答えるのがふさわしいようである。なぜなら「あらすじ」は定義上、その構成にあたって「テクスト的な現実」からの遊離をどうしても必要とするからである。というのも「あらすじ」とは「テクスト」の内容をかいつまんで短くまとめたものをいうのであり、したがってそれは「テクスト」の意味論的、形態論的な圧縮であらざるを得ず、そしてそれが圧縮であるからには言葉の取捨選択やパラフレーズが不可欠であり、こうした作業には不可避的に「解釈」が入り込むからである。端的に言えば、「あらすじ」はそれ自体において「解釈」であらざるを得ない。

したがって、「あらすじ」と「解釈」を「分けるのは簡単そうで難しい」という②における鴻巣氏の言葉はやはり正しいと言うほかない。両者の分離は原理的に不可能であるとさえ言えるだろう。そして仮にそのように言えるとすれば、おそらく可能なのは、《妥当性の高い解釈に基づくあらすじ》と《妥当性の低い解釈に基づくあらすじ》の区別だけであるとも言えるに違いない。しかし、このように言えるからといって、「あらすじと解釈は区別を」という②における桜庭氏の主張に治癒できない瑕疵があり、それが異議申立ての有効性を減殺しているとはただちには言えないのである。

すでに見たように、桜庭氏は、②に掲載された自身の見解中「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病」云々とある冒頭部分は「言葉や表現を単純化した」ものであると語っている。また桜庭氏は、「(母は父を)虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」との文芸時評の言葉を「あらすじ」と呼んでいるのだから、その「内容とは全く逆の」この冒頭部分を「あらすじ」と見ることについて氏に異存があるとは思われない。つまり桜庭氏は、「あらすじ」において「言葉や表現」の「単純化」がなされることを認めている。その上、この桜庭氏による「あらすじ」に含まれる「献身的に看病」という文字列が「少女を埋める」に「ひとつとして書きこまれて」いないことは明らかであるから、この「単純化」が「テクスト的な現実」からの遊離と無関係であるとも思われない。すなわち、「単純化」の施されたこの冒頭部分は「テクスト」の意味論的ないし形態論的な圧縮になっていると考えざるを得ない。したがって桜庭氏は、その実践を通じて、「あらすじ」に「解釈」が含まれること、「あらすじ」がそれ自体において「解釈」であることを暗に認めていると考えざるを得ない。

さらに言えば、桜庭氏が自身の「あらすじ」に含まれる「解釈」を「妥当性の低い」ものと見ているとは考えにくい。したがって②において桜庭氏のいう「あらすじ」は、当然ながら《妥当性の高い解釈に基づくあらすじ》のことを指していると考えなければならないだろう。とすれば、②の見解で桜庭氏が「あらすじ」と対照的に用いる「解釈」は、これも当然《妥当性の低い解釈に基づくあらすじ》を指しているということになるだろう。したがって「あらすじ」と「解釈」を区別せよという桜庭氏の主張は、実質的には《妥当性の高い解釈に基づくあらすじ》と《妥当性の低い解釈に基づくあらすじ》を区別せよという主張であると読まなければならないだろう。

鴻巣氏の見解も見ておこう。鴻巣氏は②の見解において、桜庭氏から「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があった」と述べ、かつ、その「要請に従いウェブ版を修正した」と述べている。修正後の文芸時評を見ると、当初「虐待した」と断言の形をとっていた表現が「『虐(いじ)め』ることもあったのではないか」という言い回しに和らげられているほか、「わたしはそのように読んだ」という言葉が補われている。この追加の言葉は、鴻巣氏が当該箇所を「あらすじ」とは明確に区別される「解釈」として位置づけたということを意味すると考えられる。

ところで鴻巣氏は②の見解において、すでに引用したように、「あらすじ」と「解釈」を「分けるのは簡単そうで難しい」と述べていた。③においても「あらすじと解釈を分離するのはむずかしい」と書いているから、これが鴻巣氏の信念であることが伺われる。また、この信念の内容の正しさについてもすでに確認したとおりである。ところが鴻巣氏は、この「簡単そうで難しい」はずの「あらすじ」と「解釈」の区別を、修正後の文芸時評において、単に表現を和らげ、「わたしはそのように読んだ」という短い文を付け加えるだけで、いとも簡単に遂行しているように見える。なぜこのようなことが可能であるのか? それはこの遂行された「あらすじ」と「解釈」が、「簡単そうで難しい」と形容されていた元々の「あらすじ」と「解釈」の区別とは別の観点において遂行されているからだと考えるのがいちばん理にかなっていると思われる。そしてこの「別の観点」が桜庭氏の観点であると考えることも同じように理にかなっていると思われる。なぜなら鴻巣氏は、桜庭氏の「要請に従いウェブ版を修正した」と述べているからであり、さらに言えば、これもまたすでに確認したとおり、「可能なのは、《妥当性の高い解釈に基づくあらすじ》と《妥当性の低い解釈に基づくあらすじ》の区別だけ」だからである。

桜庭氏の観点によれば「解釈」とは《妥当性の低い解釈に基づくあらすじ》のことなのであった。鴻巣氏は修正後の時評において「わたしはそのように読んだ」といい、「『虐(いじ)め』ることもあったのではないか」という自身の読みが「解釈」であることを認めている。すなわち自身の読みが《妥当性の低い解釈に基づく》ものであることを認めている。一見、情実を交えつつお気持ち忖度案件に持ち込んで幕引きを図ろうとしたかに見える鴻巣氏も、じつは自らの誤読をいさぎよく認めているのであり、また、このような自認の言葉を鴻巣氏から引き出すことに成功したのであるからには、桜庭氏の主張は異議申立てのやり方として極めて有効性の高いものであったということになるのではないか。私はそのように思った。

解釈の独善性について(2)

 

前回の続きなのだが、この問題についてこのようにしつこく書くのには二つの理由がある。ひとつは、小説家の桜庭一樹氏と文芸評論家の鴻巣友季子氏との間にこのほど持ち上がった対立は、たんに両者の対立というにとどまらない、日本近代小説の根幹に触れる大事な論点をはらんでいるのではないかと考えるからである。この論点は作品の読み方にかかわるものであり、桜庭氏の要請を受け入れ鴻巣氏が修正を加えた時評文においても、そのまま引き継がれている。

まずは前回確認した内容に若干の補足を加えつつ、そのポイントをざっと整理しておきたい(①等の番号については前回記事を参照のこと)。

ことの始まりは鴻巣氏が①の文芸時評で桜庭氏の小説「少女を埋める」を取り上げ、これを「実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編」と呼んだうえ、主人公の母親がその夫(肺を患い長期にわたって自宅療養を続けている)、すなわち主人公の父親を「弱弱介護の密室で」「虐待した」と書いたことにある。この記述に対し桜庭氏の側からそのような作中事実はないと物言いがつき、これを受け鴻巣氏が③を公表して自己の解釈につき釈明を行った。

この③の釈明中、鴻巣氏は、主人公の母親が夫の遺骸に向かって「いっぱい虐めた」ことを詫びている場面を引用し、「このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません」と述べている。それとともに、「小説というのは、ある種の選択と要約を含まざるを得ません。『すべてを文字化することができない』以上、その余白の解釈へと読み手をいざなうものではないでしょうか」と語り、また、「小説は多様な『読み』にひらかれている」と語っている。つまりここで鴻巣氏は、小説の読み手には作中に書いてないこと(余白)について自由に解釈する権利があると主張している。もちろん鴻巣氏は、どれほど突拍子もない、どれほど不合理な解釈でも許されるとまでは考えていない。②において「妥当性」という基準を持ち出し、読み手の自由に一定の制限を加えている。

ここから、この小説には「このいじめ」の起きた時期に係る「余白」があり、その「余白」について解釈する権利が自分にはあり、しかもその「余白」について自分のした解釈には「妥当性」があるのだから自分に落ち度はない、そう鴻巣氏が考えていることが見てとれる。

しかし前回見たように、「このいじめ」は「二十年間の看護・介護中に起きた」ものではなく、それに先立つ時期に起きたものであると「妥当性」をもって解釈できるような記述がこの作品にはあった。この点についての「余白」はなかった。つまり鴻巣氏は、書いてないこと(余白)について想像したのではなく、書いてあることに反することを想像したのである。

したがって鴻巣氏は作中にきちんと書いてあること、すなわち作中事実の事実性を否定するに足る合理的な証拠を差し出さなければならないはずだが、そうしていない。③における鴻巣氏の説明は、前回記事で検討したとおり、作中事実に反する自身の解釈を正当化するに足るものではなかった。むしろ鴻巣氏は作品内に記されたいくつかの大切な言葉を、さしたる理由もなく切り捨てて読んでいる。鴻巣氏の解釈のやり方は「妥当性」を欠いていたと言わざるを得ない。私はこのように考え、鴻巣氏の読み方は「根拠薄弱な、不合理な勘ぐり」であるとしたのであった。

以上を踏まえ、今から、この先に横たわる問題について考えていきたい。鴻巣氏は、修正後の文芸時評においても、言い回しはやわらげてあるが、「このいじめ」が介護中にもあったとする自身の解釈は取り下げていない。「わたしはそのように読んだ」。自身の読みを貫いているのである。しかし、なぜ鴻巣氏は、一篇を読み直せばすぐにでもその誤りに気づくはずの「根拠薄弱な、不合理な勘ぐり」を、こうまで頑なに維持しているのか? たんにむきになっているだけ、誤読を認めたくないだけ、と考えることもできるだろう。桜庭氏の要請が、「評者の主観的解釈」(②)であることの明示にとどまり、誤読それ自体の訂正にまで及んでいなかったからということもあるだろう。しかし私はそのようには考えたくないのである。

「弱弱介護のなかで夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか」。鴻巣氏は、自身の心に芽生えたこの信憑の原因を、③の記事を書く際、何らかの理由による思考能力の一時的麻痺のため、作中にうまく探り当てることができなかっただけなのではないか。あるいは、介護中にも「いじめ」があったと読んだその真の理由の在処を、何らかの理由による認識能力の一時的欠缺のため正しく認識できなかっただけなのではないか。あるいは、いろいろ忙しくて十分な検討の時間がとれず、不本意ながら適当な理由をでっちあげただけなのではないか。さらに踏み込めば、鴻巣氏は、たとえ③の説明に不備や誤りがあろうとも、この信憑が自分の心に生じたという事実、その想像の「妥当性」だけは、どうしても譲れないと考えているのではないか。私はこのように考えたいのである。

なぜか? なぜなら私自身もまた、騒ぎを知り、作品を読んで、鴻巣氏とまったく同様、この母親には介護中も「怒りの発作」にかられ夫を虐めることがあったのではないかという印象を、ちらっと抱いたからである。ここに、この問題に拘泥する二つ目の理由がある。主人公のあずかり知らぬところで母親は父親を、もちろん常にというのではないが、虐めていたのではないか、虐待していたのではないか、そう感じてしまったのである。これは鴻巣氏の言葉に影響されたのだろうか。そうかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、この作品には、少なくともそう感じること、そう勘ぐることを無下には否定できなくする、そのような言葉が、きっと仕込まれている。そう思った。「テキストをいい加減に読むこと、あるいは、つじつまの合わないところを勝手に切り捨てて読むことによってしか成立しない」はずの読みが、ちらっとではあれ心に芽生えたのであるからには、この作品には、そのような読みを許す、あるいは促すようなところが――当然ながら鴻巣氏が③で指摘するのとは別の形で――あるに違いない。これは即座に退けていい考え方ではないように思われる。

この作品は、いわゆる一人称小説であり、全編が主人公「冬子」の語りによって統御されている。したがって問いは、この語り手、冬子の語りのどこかに、「いい加減に読むこと」、「ある一定の言葉を考慮せずにいること」を誘発する箇所があるのではないか、ということになる。そして実際、読めばだれでも気づくように、この冬子の語りには、真正面から素直に受け取ることの難しい言葉が散見されるのである。そして、そのような言葉が母親への言及に際して集中的に現れることに気づくのも、さほど難しいことではないと思われる。

母は……。

ひどく偏りがあるだろうわたしの記憶では、だが。家庭という密室で子供に暴力をふるうこともあった。

文學界9月号p.53、強調は引用者)

これもまた主観的記憶なのだが。二十代後半のとき、母がわたしの住む東京に、神社の宮司と名乗る三十代半ばの親しい男性を連れてきたことがあった。

(同p.53、強調は引用者)

これらはわたし個人の視点に過ぎないし、きっとかなり歪んだレンズに映る記憶なのだろうが……。母はいつも父ではない誰かと疑似家族を作りたがっているように見えていた。性別や年齢に関係なく、時々誰かと恋に落ちるように仲良くなり、東京まで連れてきたりし、わたしに会わせた。

(同p.54、強調は引用者)

「母は……。」と言いよどんだ後、堰を切ったようにその母親の振る舞いにまつわる不愉快な思い出を吐露し始める語り手は、その際このようにしきりと自分の記憶が歪んでいる可能性に注意を促している。このくだりの締めくくりに置かれた言葉も引いておこう。

……さて、ここまでのこの話は、果たして本当だろうか? こうして思い返すと、とても事実とは思えないほど変だし、誰かの適当な作り話か、もしくは、このわたしが長い間、狐か狸に化かされていたのが真相なんじゃないかという気もする。

(同p.55、強調は引用者)

だからこの語り手の記憶は曖昧であり、だから疑わしい、だから信用できない、というような、すっとぼけたことが言いたいわけではない。あたりまえである。逆である。むしろ語り手は、ここに述べられたことは紛れもない事実であると確信している。そして読み手もまた、ここに書かれていることは紛れもない事実であると読むだろう。

語り手の言葉に対する、読み手の側からのこの信頼は、どこから来るか。差し当たりそれは、この段に見られる留保の言葉の、機械のように律義な反復から来ると考えることができるだろう。語り手は、母親の所業について新しい事実を語り出すとき常に、まるでとってつけたように、自分の記憶の疑わしさを言っている。この反復強化された「とってつけたよう」な印象が、「とってつけたよう」な部分を、ただのつけたりとして読みから取り除くことを読み手に強く促している。つまり、記憶が不確かであるという言葉を真に受けないこと、その言葉を切り捨てて読むことを強く促しているのである。

もし事実性がそれほどまでに疑わしいのであれば、そのことを語らないという選択もできたはずである。それなのに語り手は、自分の記憶が間違っているかもしれないとその都度断りを入れながらも、母親の過去の所業について語らずにはいられない。語り手は、「この話を信じてもらいたい」と言っている。「信じられないかもしれないが本当の話なのだ」と言っている。読み手はそう読む。つまり、文字どおりには「自分の記憶は不確かである」としか読めない言葉の群に「自分の記憶は確かである」というメタメッセージを読み込むのである。

この作品には、語り手が記憶に関する自身の考えを披歴する箇所がいくつか存在する。しかし、その考察はどれも月並みで、考察の内容それ自体に重点が打たれているようには思えない。先ほど見た、母親の所業について語るくだりの締めくくりの段に現れる「狐か狸に化かされていたのが真相なんじゃないか」という言葉も常套句的であり、他愛ないという以上の感想を抱かせない。むしろ、こうした考察は、②における桜庭氏の言葉を借りて言えば、記憶の不確かさという「一般論」を、何かの「言いわけに使っているように見え」る。

「七年前の春」、冬子が母親に対し、自分が「子供のころ受けた暴力について問う」ところを見よう。問われた母親は「『そんなこと、したことない』ときょとんと」し、そして、「揺るぎない態度で『あたしは楽しいことしか覚えてないのよ』と声を震わせる」。このとき冬子は次のように考える。

人の記憶は、どこを覚えていて、どれとどれをつないで線を作るか、どんな歴史として記憶するかが、みんなバラバラだ。わたしは悲嘆や悔しさが詰まった水袋のような偏った人間に育ち、母が大切な思い出にしてくれている、楽しかった時間のことを忘れてしまったのだろう。

文學界9月号p.56)

冬子の母親はその母親、つまり冬子の祖母にあたる人から一歳の頃、折檻を受けたことがある。しかし冬子の母親は一歳と幼かったため、当然、冬子と違い何も覚えていない。ここで月並みな記憶の一般論を持ち出す冬子は、そうすることによって無理にでも母親を擁護しようとしているように見える。いや違う。擁護しているわけではないだろう。冬子は、本人知ってか知らでか、こうした記憶の一般論を後ろ盾に、暴力を受けた記憶を自己に向けた反省へと置き換え、無理やり飲みこんでいるのではないか。

ここに限らず、冬子は、母親にうんざりしている様子は示すものの、その母親を難詰するような言葉、厳しくなじるような言葉の使用を一貫して避けている。母親との衝突が起きないよう、自分を押し殺し、「目の粗いザル」になっている。先に引用した「母は……」で始まるくだりにおいても、そのまま母親への非難が始まってもおかしくないところ、それは始まらず、すでに見たように記憶の一般論で話を閉じている。冬子の腹の奥底には、無理に飲みこまれたこうした不愉快なあれこれが、正当に言語化されず、ずっしり貯め込まれているのではないか。

前回私は「覚えてない」、「覚えてたのか」の突き合わせに基づき、母親が嘘をついていたと判定した。しかし冬子はと言えば、ここでも、その嘘を嘘といって糾弾するような思考の態勢をとろうとしない。「内心、(覚えてたのか……)と思った。」の直後、次のように語り始める。

自分は知らない、という人たちは、実際はすべてわかってるものなのだろうか。あの人もこの人も、みんな。

異母妹の百夜を虐め殺した赤朽葉毛毬みたいに……。

母はただ涙を流しており、父は、穏やかな顔で、黙っていた。

父は、許しているように、わたしには感じられた。あれだけ優しかった人が、泣いて謝っている人を、しかも愛妻を許さないという姿は想像できなかった。

何もかもが一昨日で終わったのか。すべては恩讐の彼方となるのか。

それにしても、とわたしは思った。

――夫婦って、奴はよ!

深いな。沼だな。で、おっかねぇなぁ、おい。

ぼんやりと鈍そうなポーカーフェイスを保ったまま、内心そんなことを考えていた。

……愛しあっていたのだな。ずっと、わたしは知らなかったのだな。

文學界9月号pp.43-44、強調は引用者)

「愛しあっていたのだな」。急転直下、という印象を受ける。このナイーブさは、どうだろう。何かいろいろすっとばしているのではないか。何かもっとほかに考えることがあるのではないか。「覚えてない」という母親がじつは「覚えてた」こと、母親が嘘をついていたことを確認したばかりの冬子が、母親の流す涙を、そのまま真っすぐ受け入れている。しかしこの、すぐに「きょとん」とする(「キョトン」とする場合もある)母親には、冬子に対してふるった暴力、母方の祖母に目撃されたこともあるそうした暴力を、「七年前の春」、声を震わせて否定することもあったのである。父親について妻を愛していたと想像するのはいい。父親は「優しかった人」と言われ、冬子は「父親っ子」を自認している。しかし母親が夫を心から愛していたとは、この作品に含まれる母親の描写からは、そうやすやすとは想像できない。納骨の際、冬子の従姉妹が発した「子供のころおじちゃんのことが大好きだったの。初恋だったかも」という言葉に母親が顔色を変える場面などもあるが、「子供への愛や執着は強いが、心への興味は薄く感じられた」とも語られる母親のこの反応も、心と心の結び付きによるものではなく、夫への「執着」にすぎないとも読めてしまい、弱い。

冬子は母親をかばおうとしているのだろうか? 擁護しようとしているのだろうか? 違うだろう。冬子は母親を擁護しようとしているわけではないだろう。そうではなく、その母親を伴侶とし、「愛妻」としたその夫、つまり自分の父親の人生を擁護しようとしている。母親を肯定したいから母親を肯定しているのではなく、父親という人間を肯定するには母親という人間を否定するわけにはいかない、そのような曲折した心の動きである。なぜなら冬子は「父が好きだったから」。帰郷にあたり「目の粗いザル」に化けているのも、母親と仲たがいしたくないからというよりは、「七年前の春」のように母親とぶつかることで父親を悲しませたくないからというのが本当だろう。「今は父のために母を支えなくては」。ここでも、これが根本にある。

この一節は、冬子の思考の歪み、あるいは補償的な心の機制が作中一番むき出しになっている箇所であると読める。それゆえ、「愛しあっていたのだな」という冬子の言葉を素直に受け取ることは至難である。この言葉を真に受けるのではなく、いい加減なものとして受け取ること、いい加減に受け取ることが求められている気がするのである。冬子は心の機制のため真実とは逆向きの思考を取っているのであるから、真実を探るには、その思考をさらに反転させて、本来の向きに直さなければならないだろう。母親は父親を愛していなかった、両親は愛しあっていなかった、というように。

納骨を終え、東京に戻ってからの冬子、語り手の様子には、ただならぬ切迫感が漂っている。ここにおいて作用しているのは、すでに見た機械的な律義さと、そして、ようやくあの、「余白」の圧である。

夕方、母から「お元気で!!!」とメールが届く。やっぱり、と思う。これには、返信せず。

文學界9月号p.65)

翌日、(中略)気が重いが、母に(中略)メールを送る。するとすぐ返信がくる。考え、これにも、返信せず。

(同p.65)

数日後。母からメールがくる。考え、これにも、返信せず。

(同p.65)

数日後、また母からメールがくる。

読み、ベランダから飛び降りねばならないと思う。存在していてはいけないと諭す声がする。

(同p.66)

いずれも母親からのメールに記された言葉は記されない。とりわけ四つ目のメールには、おそらく語り手にはとても真正面から向き合うことができないような、自分の記憶を疑う言葉を添える程度では、あるいは思考を逆向きに走らせる程度では、絶対に補償できないような、そうした過酷な言葉が記されていたであろうことが一定の「妥当性」をもって想像できる。

しかし、ここに至ってもなお、語り手は母親を強く否定する言葉を発していない。こうした否定の言葉の徹底した排除ゆえに、逆に、この母親に対する否定的なイメージが、作品を読み進める読み手の腹の奥底に少しずつ、しかし着実に蓄積されていくのである。読み手の腹の奥底に蓄積されたこの負のイメージは、何かの拍子でそれが吐き出された場合、「家庭という密室で怒りの発作を抱えて」いた母親、「家庭という密室で子供に暴力をふるうこともあった」この母親には、自宅介護の閉ざされた空間で、病気で弱った老齢の夫を発作的に虐待することもあったのではないか、いや、あったに違いないという、テキストにまったく書かれていない出来事をめぐる強い疑いとして言語化されるだろう。少なくとも私においては初読時、そのように言語化されたようである。