「棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい」――小説の地の文にたびたび現れる、人称制限を意に介さない文について

そういえば、「私は怖い」は「I am scared」で、「彼は怖い」は「he scares me」だというG氏のツイートへのリプライのひとつに、「『彼は怖い』を英語に翻訳するのなら『he scares me』よりむしろ『he is scary』なのでは?」というのがあって、これに対してG氏が「自分は日本語の話をしているだけだ」と答える場面があった。つまり「翻訳の話はしていない」ということなのだが、相手の人は納得していないようで、「いいえ、どうやって英語に翻訳すればいいかって話もしてました」と言い返していた。ふと思ったけれど、このあいだ自分が投稿した記事も翻訳の話だと勘違いされたりしてるんだろうか?

日本語の感情形容詞文の意味構造の話である。「私は怖い」と「彼は怖い」は外見上同じ構造をとっているが、感情形容詞の主客両面の表現性と、感情形容詞文の人称制限という二つの要因により、前者と後者の文で意味構造に違いが生じている。「私は怖い」で「は」の前に来ている要素は感情主だが、「彼は怖い」で「は」の前に来ているのは感情主ではない。感情の誘因(ないし対象)である。例文では「は」によって主題化されているが、無題化しても変わらない。感情形容詞文では多くの場合、感情の主体と誘因がどちらも「が」格で表示される。表面上、違いが出ない。でも意味構造は異なっている。G氏の示した二つの英文は、こうした日本語の感情形容詞文の意味構造の違いを明示化したものである。それだけではない。「彼は怖い」の説明にあたる「he scares me」という英文は、日本語の感情表現における人称制限(そしてその根底にあると考えられる、日本語の視点の《私》性)のため「彼は怖い」において表面上現れていない感情主「私」の存在を「me」によって際立たせるものでもある。「he is scary」という英文では、日本語文「彼は怖い」において感情主の「私」が暗黙化されているという事実が説明されない(これはもちろん、「彼は怖い」を「he is scary」と翻訳するのが間違いだという意味ではない。「彼」が「怖い」ことをその「彼」の客観的属性として述べる場合も想定できるからだ。「虎は怖い」(the tiger is scary)と同じように)。

ようするにGさんの話は「彼は怖い」という日本語文をどう英訳すべきかという話ではない。私の前回の記事も同じである。表題として掲げた「『彼女は悲しい』は『she makes me sad』か?」という問いは、「悲しい」という感情形容詞に客観用法が成り立つか?という問いであって、「彼女は悲しい」の翻訳として「she makes me sad」が適当か?という問いではない。そこは問題にしていない。どう翻訳すればいいのかというのは、その先の話だ。

いやもちろん、「she makes me sad」という英文と、客観用法による場合の「彼女は悲しい」の構文論的・意味論的・語用論的な違いについて考える、あるいは「悲しい」と「sad」の語彙レベルの違いについて考えるというのは、それはそれで面白いことだとは思う。

たとえば、「彼女は悲しい」の「悲しい」は字義どおりの「悲しい」ではなく、「考えが甘い」というときの「甘い」と同じく比喩的に拡張された「悲しい」なのではないか、したがって実質的に属性形容詞と変わらないのではないか、とか、「悲しい」の客観用法による解釈は寺村秀夫のいう「一般的な品定め」の場合にしかうまくいかない、つまり「SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい」はいいとしても「彼女は悲しい」や「(自分の)母は悲しい」といった個別的な状況にはマッチしない(だからもともと違和感を感じない人は当然に主観用法として解釈するし、違和感を感じる人も好意に基づき主観用法として解釈する)(だからGさんやH氏は出す例が悪かった)のではないか、とか。

――前回の続きを書くつもりはなかったのだが、トイレットペーパーと交換する古新聞を紐でくくっていたら、広告欄に「女はいつも、どっかが痛い」という文字列(書名)があるのが目に入り、また考え始めてしまった――

というわけで続きである。前回、三人称小説の地の文では人の内面について言い切りの形で表現できると書いた。この一般論に対し、甘露統子「人称制限と視点」では、「『太郎はうれしい』という文は、『語り』だとしても、やはり不適格な表現」であり、「許容されない」と述べられている。しかし、この手の人称制限に抵触する文が、とりわけ小説の語りの中にしばしば現れるというのは疑いようもない事実であり、「許容されない」はずの文が許容されているように見える。このあたり一体どうなっているのか、というのが今回のテーマである。

まずは実例から。町屋良平の三人称小説「しずけさ」に次のような文がある。

棟方くんは夕方のひかりを浴びてこわい。

これは「棟方くん」と呼ばれる人物が「夕方のひかりを浴びて」いつもより全体的な輝きを増し、第三者から見て「こわい」風貌になっているという客観描写ではない。ふだんは「夜のあいだ起きていて、朝と昼と夕はずうっとねむっている」「棟方くん」が、心療内科に行く日、「夕方のひかりを浴びて」不安に陥っているその内面を言い切りの形で表出した文である。この作品には、小説の地の文以外では「人称制限に抵触している」と判定されそうな、こうした文がよく出てくる。「いつきくんはひとこいしい」だとか、「司ちゃんもいつきくんといっしょにいるとちょっとうれしい」だとか。こういった文をどう考えればいいかということなのだが、板坂元『日本人の論理構造』(1971年)に、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」に言及した次のような一節があるということを、まずいっておきたい。太字にしたところが大事なところである。

日常使われているHe is sad.という英語は、日常言語学派の哲学者をしばしば悩ませているが、これをそのまま日本語に直して「彼は悲しい」という文を麗々しく掲げた日本語教科書がある。「彼は悲しい」という日本語がまったく存在しないわけではない。たとえば、小説などで、「彼は悲しかった」という表現が出て来る。けれども、この場合は「彼は悲しいのだ」の省略であろうし、作者と小説中の「彼」が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない。「あの映画は悲しい」の場合は、「私が悲しい」のである。要するに悲しい、ひもじい等の情意性は一人称にしか用いることができない。一人称以外には、「悲しそうだ」「悲しがっている」という風に、かならず見えとして表現されるのが普通であろう。

(板坂元『日本人の論理構造』、太字引用者)

それゆえ「『彼は悲しい』という日本語教科書の文は完全な誤りである」と板坂はいうのだが、この言い方には少し引っかかりを感じる。ここで「誤り」というのはたぶん文法的に間違っているということを意味していると思われる。でも、「普通」ではないからといって、その表現を一足飛びに間違いとみなすのはどうなのか。私は以前の記事に記したように、人称制限については文法の問題ではないと考えている。

「私は悲しい」と同じ意味合いで「彼は悲しい」というと不自然な感じがする。心理状態の表現に関し、日本語には人称制約がある。けれど、人称制約に抵触することが、そのまま文法違反(意味論的な違反、統語論的な違反)になるかといえば、それには留保がいると思うのだ。もし、この制約が「語り」において解除されるのだとすれば、なおさらそうだ。文法違反と見えても、それは単に、その言葉を然るべく機能させる文脈が、まだ見つかっていないだけかもしれないからだ。

二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』(追記あり) - 翻訳論その他

引用元の記事では藤野可織芥川賞受賞作「爪と目」を取り上げている。この作品には大層奇妙なところがあって、出版社のサイトで「純文学的ホラー」という惹句が付けられているけれど、読み通してみればわかるが、実際のところ、さほど怖いことが書かれているわけではない。それなのになぜかこの作品は「怖い」(属性形容詞寄りの客観用法)。鍵は言葉の使い方にあると思われた。「あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった」というような文が出てくる。文末の「やった」はふつうなら「くれた」だろう。この作品、こうした不自然な文がてんこ盛りなのである。

上に引用したくだりで指摘したように、不自然な文の中には、「然るべく機能させる文脈」のもとで自然な言い方に転じるものがある。たとえば「お前から始めろ!」という言い方は自然だが、「私から始めろ!」は不自然に響く。でも、「今から一人ずつ君らの首を絞めて殺してやろう。だれから始めようかなあ」と悪い人がいうのに対して、自分の体に触れた相手の脳を念力で爆破できる人が「私から始めろ!」というのは自然だろう。つまり、あるひとつの文が自然である、不自然であるというのは、文脈に左右されるところが少なくないということである。

「爪と目」の怖さについて考えるうち閃いたのは、不自然な文を読む読者は、そうした不自然さを解消することができる文脈を知らず識らずのうちに探索しているのではないか、ということである。だからこそ、「爪と目」は怖いのではないか。つまり、この作品の怖さは、不自然な文の使用を正当化する、作中には記されていない場面や状況のうちにあるのではないか。おそらくこの作品が「怖い」(主観用法寄りの客観用法)読者は、顕在的な文のつらなりが喚起する、そうした潜在的な文脈を読んでいるのである(どのような文脈が潜んでいるかについては当該記事に書いた)。

人は個別の文を文脈の中で読む。それとともに人は、欠如した文脈を自ら補うため言外の領域を探索することがある。これを別の角度から見れば、個別の文には、こうした言外の文脈の探索を促す力、あるいは、こうした言外の文脈を招き寄せる、引っ張ってくる力が備わっている、ともいえるのではないか。「爪と目」が「ホラー」足り得るのは、個別の不自然な文の有する、こうした文脈牽引力のためであると。

少し話が逸れてしまったかもしれない。とにかく文脈が肝要である。人称制限にかかる文がそのままの形で、つまり不自然さを保ったまま三人称小説の地の文で許容されるのであれば、そこには必ずや文脈――個別の文を然るべく機能させる枠組み――の働きがあるに違いない。そう思われる。

さて、日本語における人称制限は、感情形容詞(や感覚形容詞)だけの問題ではなく、主観表現一般に関わる問題であり、したがって感情動詞はもとより、知覚動詞(「見える」等)、思考動詞(「思う」等)、認知動詞(「分かる」等)、さらには願望・欲求を表す「たい」や「ほしい」を用いた表現でも同じように問題となる。たとえば「宇崎ちゃんは遊びたい!」という言葉が妙に耳に残るのは、人称制限に抵触するこのタイトルがもたらす不安定な響きにその大きな一因があるのではないかと思われる。

しかし、「宇崎ちゃんは遊びたい!」に次のような文脈を付けるとどうだろう。不安定感がいくらか軽減するのではないか?

(1)宇崎ちゃんは遊びたい。けど先輩は遊びたくないんだ。

これは次のように言い換えても、その内容に大きな変化はないと思われる。

(2)宇崎ちゃんは遊びたいけど、先輩は遊びたくないんだ。

(1)の最初の文「宇崎ちゃんは遊びたい。」は文末に句点が打たれており、外見上立派な文であるような恰好だが、実際には、末尾に「のだ」を置く後続の文に支えられることによって、ようやく文としての安定感と体裁を保っている。つまり後続の文に従属している。だから文というより従属節に近いといえるだろう。

この種の従属節っぽい文については、「ふつうの文がもつような完全なモダリティを備えておらず、文らしさの点でも典型的な文より劣る文」として、野田尚史「真性モダリティをもたない文」(1989年)で詳しく論じられているが、いま注目したいのは、「真性モダリティをもたない文」では「『~たい』『ほしい』などの人称制限」が働かないという重要な指摘である。一般的に従属節(や引用節)では人称制限が解除されるが、それと似たような効果がこの種の従属節的な文にも備わっていると野田氏はいい、次のような例文を掲げている。

何としてでも夢をつなげたい。中日と4・5ゲーム差がついた今、首位を争う“切符”を得るのはこの広島戦2連勝以外はない。巨人の気迫が広島にプレッシャーをかけた。(スポーツニッポン1988.8.17p.1)

(下線は原文では波線、太字は二重下線)

最初の文「何としてでも夢をつなげたい。」は「たい」で終わっているが、そのような願望・欲求を抱いているのは記事執筆者ではなく、「巨人」である。つまりこの文では、「たい」で終わる文に通常かかるはずの人称制限が働いていない(前回「他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもある」と書いたのは、このケースを指している)。

(1)における「宇崎ちゃんは遊びたい。」の場合も、文としての独立性の低下、文らしさの低下と呼応するかのように、通常「たい」に備わる感情表出のモダリティが弱まっているように感じられる。三人称と「たい」が共起しているのに違和感が薄くなるのは、おそらくそのためであろうかと思われる。ただ、「宇崎ちゃん」の文は、たとえ従属節っぽくあるとしても、南不二男氏の分類でC類にあたる相対的に独立性の高い従属節に相当する文である。よってモダリティも相対的に弱まっているにすぎず、典型的な「真性モダリティをもたない文」からは外れるともいえそうだ。だから(1)でもまだ違和感が残るという人も少なからずいるはずである。

ところで野田論文では、こうした「他の文に従属している」というパターンとは別に、もうひとつ「真性モダリティをもたない文」が「存在できる」条件が挙げられている。その条件とは、「文章・談話の枠に依存している」というものである。野田氏は、「文章・談話には、対話、講演、物語、随筆、日記、使用説明書などいろいろあるが、それぞれについて、その中に現れるモダリティに制約がある」と述べている。たとえば「作者が過去の事態を事実として描くだけの」、そういうタイプの「小説では、モダリティに関しても、命令・依頼や質問はもちろん、推量も現れない」。もし「推量の形式が現れる」とすれば、それは「作者の推量ではないと考えられるので、真性モダリティではない」。実例として示されているのは、連城三紀彦『暗色コメディ』から引かれた次の一節である。

バスが白い蒸気を吐いて走り去ると、白い破片が散乱する夜に彼ひとりが残された。碧川(あおかわ)宏は背宏の襟をたてると、停留所に備えつけられた待合用のボックスに入った。待合用といっても廂(ひさし)に守られただけの狭い場所である。それでも何とか雪を避けることはできた。粗末なベンチが街燈の薄い燈に赤錆(あかさび)と傷と落書を曝けている。ベンチの脇に花模様の女物の傘がたてかけられていた。まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう

(下線は原文では波線)

野田氏は、このような「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプの作品において「推量などのムードの形式が現れたときには、それは作中人物の推量というふうに解釈される」といい、これを「特殊な文学的な技法のひとつ」とみなしている。ここでひとつ疑問に思うのは、この下線部の言葉は、野田氏の主張に反し、「作者の推量」と考えることもできるのではないか、ということである。つまり、実際のところ、この作品は、「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプではなかったと考えることもできるのではないか。作者(というより「語り手」というべきだろう)が推量を行う小説は珍しくない。例を挙げるまでもないかもしれないが――

島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう

だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立ったのかもしれない

川端康成『雪国』、太字引用者)

『暗色コメディ』を「作者が過去の事態を事実として描くだけの」タイプと前提するから、推量の形式が現れないはずだという判断が生まれ、また、仮にそれが現れた場合には「作者の推量ではない」という判断が生まれる、ということではないだろうか。そのような論点先取めいた前提を取り払えば、このような判断は生じないのではないかと思われる。

では「まだ新品だからうっかり誰かが忘れていったものだろう」という推量は実際のところ、だれが行っているのか。これはだれの視点から発せられた言葉なのか。この点については、砂川有里子「話法における主観表現」(2003年)の指摘にあるように、語り手と作中人物の「どちらの視点から語られているのかはっきりしない」と見るのが妥当であるように思う。砂川氏は高樹のぶ子『霧の子午線』から次の一節を引いている。

日曜日。沢田八重は狭いベランダを掃いていた。昨日希代子から電話があり、二晩の外泊で光夫が帰ってきたと連絡があった。

体がだるいのは朝薬をのみ忘れていたせいだろう。台所で立ったまま、サラビゾリンをのみこむ。

(下線引用者)

下線部について、砂川氏はいう。「この部分は、八重の体調について語り手が解説を付しているように読むことができる。しかしその一方で、八重の心内語が彼女のことばとして直接再現されているようにも読み取れる」。というのも「そのどちらかを決める語彙的・形態的指標を見いだすことはできない」。砂川氏は、このような文の使い方を「自由間接話法」と呼んでいる。もちろん、日本語には英語みたいな直接話法も間接話法もないのだから自由間接話法もへったくれもない、ということもできなくはないので、この場合、《日本語における「自由間接話法」》ということになる。

つまり『暗色コメディ』や『霧の子午線』の文は、真性モダリティをもたない、のではなく、真性モダリティをもつのか、もたないのか、はっきりしない、のである。こういった主客の明滅状態を指して、語り手と作中人物が一体化している、二重化しているといわれることがあるが、これを野田氏のように「特殊な文学的な技法」というのであれば、この「技法」は板坂元が前掲書でいうとおり「源氏物語の頃に完成して、今日まで踏襲されている」「千年前からの手法」である。しかし、砂川氏も「日本語の物語文体では、語り手のことばなのか登場人物のことばなのかがあいまいになり、どちらとも読みとれる以上のような表現が頻繁に観察される」というように、ことさら「技法」というほどのものではなく、日本語で書かれた物語の、いわば常態であり基調であるといったほうが実情にかなっているのではないか。日本の物語は、基本的にこの意味での「自由間接話法」によって書かれているとさえいっていいくらいだ(そのため、情景描写でなくとも、小説の冒頭部を読んだだけでは一人称小説なのか三人称小説なのかわからないことがよくある)。

こうした一体化・二重化は、言葉の帰属先を語り手と作中人物のいずれかに確定することができないという、いわば消極的な形において実現されているものである。しかし、砂川氏が「自由間接話法」と呼ぶ表現は、こうした消極的な形のものに限られない。積極的なタイプ、すなわち「なんらかの語彙や形態が指標になって」言葉の帰属先が明らかにされる場合がある。

この四月から、就学困難な児童のための(教科用図書の給与に対する国の補助に関する法律)が施行された。志野田先生はその補助を、クラスの三人の子供たちのために申請してやりたい。しかし新しい規定であるだけにその手続きが解らない。教育委員会へ出すのか民政委員に出すのか市役所に出すのか、まだだれも知らないらしい。

石川達三『人間の壁』から引かれた一節であるが、下線の文について砂川氏は、「感情・感覚・希求など、それを感じる主体にしか感じられない主観が現在形で表されていること、およびそれが三人称主語をもつ文であること、これらが指標となって(中略)自由間接話法と判定される」と述べている。ここまで来れば、小説中の「彼は悲しい(彼は悲しかった)」について「作者と小説中の『彼』が不分離の状態になったときのことで、純粋な三人称の文ではない」と板坂元がいっていることの意味が分かるはずである。板坂氏は、三人称小説の地の文において人称制限に抵触する文は、日本語におけるこのタイプの「自由間接話法」の文にあたるといっているのである。

先に見た主客の決定不能性に基づく「自由間接話法」に対し、こちらの「自由間接話法」は、文のレベルにおける主客の露骨な、あからさまな接合、融合の上に成立している。主観の直接的表出性が強く、一人称にしか用いられないはずの表現を、こうして無理やり三人称に当てはめることが醸し出す、主客のねじれのような違和感は、甘露統子氏のいうとおり、「語り」だとしても、やはり簡単には消えないようである。しかし、ここでひとつ留意しておかなければならないのは、日本の近代小説においては、むしろこの違和感こそが表現上の勘所になっているという事実である。消極的な「自由間接話法」が日本の物語の長い伝統を受け継ぐものであったのと違い、「彼は悲しい」型の積極的な「自由間接話法」は、中山眞彦『物語構造論』で示唆されているように、「日本語の物語文体が、西欧近代小説と接触した際に生じた波紋の中に」、その淵源を探り当てることができると思われる。いわゆる「言文一致」以降の日本の文学が、外国文学の生硬な翻訳に文体的・感性的な基盤を置いてきたことについては以前触れたことがある(二葉亭の「逐語訳」の「影響力」をめぐって - 翻訳論その他)。つまり文章のぎこちないことは、文学作品においては、マイナスの要素とならない。というか、大きなチャームのひとつだ。「信一は、笹島さんを彼女を恋して居る、この心持は段々にそれと自分に分ったが、信一は彼女をはっきりと思う工合になっても、この一ツの心持は誰れにも秘めてジッと堪えて居た」(瀧井孝作「結婚まで」)みたいな節くれだった文章が平気で受容される文学環境においては、「小説の神様」の文体の流れを引く平明な文章は、「凡庸なシンタックス」(大江健三郎私小説について」)などといわれてしまうことさえある。

そろそろ締めくくりたい。「『感情の直接的表出』というムード」(寺村秀夫)の強い表現を伴う文は、三人称の感情主が「は」等によって文中明示された場合、たとえ小説の地の文であっても、一定の違和感を喚起する。つまり小説の地の文だからといって人称制限が解除されるわけではない。ただ、小説においては、人称制限に抵触する文の喚起する違和感が、ある種の《良さ》として認知され、そのため許容されるということである。

「彼女は悲しい」は「she makes me sad」か?

これは後追いで知ったのだが、数日前、「Language learning influencer」を名乗るある人物のツイートが日本語学習者界隈をざわつかせた。SNS上では、その人の発言を肴に熱い議論が交わされており、なかにはずいぶん感情的なやりとりも見える。議論は匿名掲示板(4chanReddit)の方にも飛び火していて、とても全部を追うことはできない。英語が苦手なので、発言のニュアンス等、よくわからない部分もあるけれど、なかなか面白かった。

発端となったのは、gambsさんという方の次のツイートだと思われる。

日本語は自己中心的な言語である。たとえば主語を言わなければ、自分自身のことを言っていることになる。また、日本語では他人の心の中のことを言うことができない。たとえば「彼女は悲しい」と言うことはできない。いや、言ってもいいのだけれど、その場合、「she is sad」と言っていることにはならない。「she makes me sad」と言っていることになる。「彼女は悲しい」は基本レベルの言い回しだけど、ちゃんと理解していない学習者、まだ結構いるのではないか。

若干補足したところもあるが、大筋としてはこんな主張である。主に議論になっているのは太字にした部分で、この主張に対し、仕事で日本語に関わっている人たち、「日本語はネイティブ並み」を自称する人たち、英語に堪能な日本語ネイティブなんかが猛然と噛みつく。「私の妻は日本人だが、彼女はそんな事実はないと言っている」、「私は日本生まれの者ですが、『彼女は悲しい』は普通に『she is sad』ですよ。『she makes me sad』ではないです」、「あなたは本当に日本語ができるのですか?」、「頭だいじょうぶですか?」等々。

反論を受けたgambs氏は、自分の主張の裏付けとして学術論文その他いくつかの文章を挙げるが、「いや論文なんて知りませんけど?」という感じで相手にされない。

じつはgambs氏が主張の裏付けとして挙げるものの中に、私の書いたブログ記事へのリンクも含まれている。それもあって、ちょっと書いておこうと思った。

まず、「日本語では他人の心の中のことを言うことができない」という主張について。この主張に対し、言葉尻を捉えて反論することはできる。つまり、日本語では他人の心の中のことを絶対に言うことができないわけではない。一定の条件下では、それができる。たとえば文末にある種の表現(形容詞なら「のだ」、「らしい」、「ちがいない」等、判断や推量のモダリティを表すもの、動詞なら「ている」)を付け加えることによって、他人の心の中について述べることができる。助動詞「た」を添えることによっても、だいぶ自然な感じで言えるようになる(ただし金水敏氏がかつて指摘したとおり、文脈次第では不自然さが残る場合がある)。あるいは三人称小説の地の文でも人の内面のことを断定的な言い方で語ることができる。しかし、こういった点については、gambs氏もきちんと説明している。

(じつは他人の内面について断定的に述べることができる条件は、小説の地の文であること以外にもあるのだが、長くなるのでここでは触れない。)

日本語では「she is sad」と同じ意味を持つものとして「彼女は悲しい」という文は使えない、という見解についても、おそらく日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである(と信じたい)。「彼女は悲しい」という文に対して、たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う。何の変哲もない言い方にも聞こえるけれど、どこか不自然な文だなあと。

しかし、不自然というのであれば、「(私は)悲しい」という言い方も相当に不自然である。日常生活において、こんなことを言う人はまずいない。芝居がかっている。だから、単に「不自然」というのとは別種の違和感が「彼女は悲しい」という言い方にはあると考えなければならないだろう。

「彼女は悲しい」という文がもたらすこの違和感は、「私は悲しい」と同じ意味構造、同じ意味合いでこの文を理解しようとしたときに生じるものである。「私は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰だろう? 「私」である。問題ない。では、「彼女は悲しい」で「悲しい」という気持ちを抱いているのは誰か? 「彼女」? でも、もしそう言いたいのなら、普通は「彼女は悲しそうだ」とか、「彼女は悲しいにちがいない」とか、「彼女は悲しいのだ」とか、そういう言い方になる。その方が自然だ。でも、なんで「彼女は悲しい」は不自然に響くのだろう?

この問いを、日本語学者や、日本語に詳しい言語学者や、文法学者にぶつけてみよう。帰ってくる答えはたぶんこうだ。それは「人称制限」というものがあるせいです――

日本語の感情形容詞文の感情主(感情の持ち主)に人称制限があることはよく知られている。すなわち、感情主は述語が断定形を取る平叙文では1人称、疑問文では2人称に限られるのである。

(1) 僕はとても悲しい。

(2) あなたは今悲しいですか。

(3) *花子はとても悲しい。

3人称を感情主とする断定文(3)は不適格な文である。

(益岡隆志『日本語文法の諸相』、2000年)

日本語では、感情や思考のような人の内的状態を表す文において、その主語の人称に制限がある。例えば、以下の(1)(2)は感情形容詞文であるが、三人称主語で言い切りの形を取っているので、不自然な文とされる。

(1) *彼はうれしい

(2) *花子は悲しい

このような現象は、感情形容詞の人称制限と呼ばれ、広く知られている。

(甘露統子「人称制限と視点」、2004年)

つまり、「彼女は悲しい」という文の不自然さは、日本語の感情形容詞文の人称制限というルールに違反していることに起因する不自然さであると、ひとまずは考えてよいと思われる。

しかし!

注意すべきことがある。上で「日本語話者の多くはgambs氏に同意するはずである」、「たいていの日本語話者は違和感を覚えると思う」と書いたが、これはつまり、感情形容詞文に人称制限のあることを意識しない日本人もどうやら存在するらしいからである。

a. 私ハ犬ガコワイ

b. ?アノ子ハ犬ガコワイ

寺村秀夫氏は、『日本語のシンタクスと意味II』(1984年)の中で、「人称制限」の例として上の文などを挙げた後、こう述べている。「a.は当たり前の文だが、b.は(中略)おかしいと感じられる。(中略)もっとも最近では、b.に類する表現をおかしいと感じないという若い学生がいる。ここでは、ふつうの日本人はb.をおかしいと判定する、という前提で話を進める」(太字引用者)

じつを言えば私も、「彼女は悲しい」という文には違和感を感じるが、「アノ子ハ犬ガコワイ」という文には、あまり違和感を感じない……。それはそれとして、日本語では「彼女は悲しい」と言えないというgambs氏の主張は、「言えない」という言葉を必要以上に強くとらない限り、「ふつうの日本人」が同意するはずの、まったくもって正しい見解であると言えるだろう。日本語では、「彼女は悲しい」という文を自然な表現として使うことはできない。

さて、ここまではいい。つまり、ここからが問題。

「she is sad」と同じ意味あいで使われた場合に不適格な文になる「彼女は悲しい」は、「she makes me sad」という意味あいで使われれば適格になるのか? 端的に言えば、「彼女は悲しい」は「she makes me sad」という意味になるのか?

SNS上では、「彼女は悲しい」はたしかに日本語として不自然な表現であるが、だからといって「she makes me sad」という意味にはならないだろう、という意見が日本語ネイティブの間に散見される。正直、私もそう思った。「彼女は悲しい」を「she makes me sad」と解釈するのは無理なのではないか?

これは、gambs氏が参照しているブログ記事に書いたことの繰り返しになるけれど、「悲しい」、「嬉しい」、「楽しい」、「怖い」といった感情を表す日本語の形容詞には二つの用法がある。その記事では次のように説明した。

(この種の形容詞には)情意を主観の内側から表す場合と、対象の外面的な状態ないし属性として表す場合を区別できる。例を挙げた方がわかりやすい。たとえば「さびしい」という形容詞ではこうなる。

 

私はさびしい

この町はさびしい。

 

上の二つの文は意味構造が異なる。「私はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは発話者の「私」だが、「この町はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは「この町」ではない。発話者である。発話者が「この町」の状況(ひとけがない、さびれている等)を観察して、そう表現しているのだ。

ここでひとまず、前者の使い方を「主観用法」、後者の使い方を「客観用法」と呼び分けるとすれば、日本語の場合、情意形容詞の「主観用法」は、一人称の場合にしか成立しない。たとえば、「あの人はさびしい」という場合、発話者が「あの人」の内面に入り込んで「あの人」の感じている「さびしさ」を取り出して表現していること(主観用法)にはならず、普通あくまで外側から「あの人」の状況を見て、発話者自身が「さびしさ」を催している(客観用法)ものと理解される。つまり、「あの人はさびしい人だ」という意味になる。

「He is sad」と言えても「彼は悲しい」と言えないことをめぐって - 翻訳論その他

「主観用法/客観用法」というのは私の造語であり、一般的に使われている言葉ではないけれども、情意形容詞の働きに両面性があることそれ自体については、時枝誠記はじめ多くの人がすでに指摘していることであって、とくに珍しい話ではない。

これに関連して、「この町はさびしい」が「this town makes me feel lonely」みたいな意味になるといったことは無生物主語の場合に限られるという趣旨の発言も目にしたが、そんなことはない。たしかに、「は」の前に来る要素が人(someone)なのか物(something)なのかという区別は大事だと思う。けれど、この位置に人が来ても客観用法が成り立つケースはいくらでもある。ひとつだけ例を挙げる。

私は楽しい。I am happy. / I have fun, etc.

彼は楽しい。He makes me happy. / He makes me laugh. / He entertains me...

gambs氏も、うまい例を挙げている。

私は怖い。I am scared.

彼は怖い。He scares me.

「私は楽しい」が「I am happy」という意味であり、「彼は楽しい」が「he makes me happy」の意味であるのなら、その類推で、「私は悲しい」=「I am sad」、「彼女は悲しい」=「she makes me sad」と考えるのは理にかなっている。

しかし!

注意すべきことがある。それは、情意形容詞の用法には「主観用法」と「客観用法」の二つがあるといっても、すべての情意形容詞について、この二つの用法がうまく成り立つわけではない、ということである。

たとえば、上で「楽しい」という形容詞について二つの用法を見たが、似たような意味を持つ「嬉しい」では客観用法による解釈がうまくいかない。「彼は嬉しい」は「he makes me happy」という意味にはならないのだ。

「彼は嬉しい」という文は、「he is happy」という意味で理解しようとすると違和感がある。しかし、だからといって「he makes me happy」という意味になるわけではない。この文の場合、客観用法の解釈(「he makes me happy」)が起動せず、ただの不自然な文、違和感のある文、あるいは「*彼は嬉しい」で終わってしまうのである(ただし、「は」の前に来る要素が物であれば、客観用法による解釈の容認可能性が高くなる。例:「このプレゼントは嬉しい」=「this present makes me happy」)。

そして「悲しい」という形容詞もまた、この「嬉しい」と同様、「は」の前に人が来る場合において客観用法が成立しにくい形容詞なのである!

しかし!

gambs氏がその主張の支えとして掲げる画像のひとつに、次の一節が見える。

a.  私は寒い。

b.  #母は寒い。

c.  母は[寒がっている/寒そうだ]。

This restriction on psych predicates and their potential subjects is so inflexible that when the predicate is polysemous, the function of the subject necessarily shifts to conform to this restriction. In (d), kanashii indicates that the subject is sad (subject = experiencer). In (e), by contrast, the mother is the stimulus/source that causes the speaker’s sad feeling, ‘Mother makes me sad’, not ‘Mother feels sad’, which violates the constraint.

d.  私は悲しい。 I feel sad.

e.  母は悲しい。 Mother makes me sad.

「e. 母は悲しい。 Mother makes me sad.」とある。この画像の元になった文書は、言語学者Yoko Hasegawa(長谷川葉子)氏の著作『The Routledge Course in Japanese Translation』(2012年)である。

引用部でHasegawa氏の述べていることは、次のようなことだ。

心理述語と、その取り得る主語に関する日本語の制約(つまり「人称制限」)は非常に厳しく、簡単に曲げることができない。だから、述語が多義性を有する場合には、主語の役割について解釈がなされる際、必ずこの制約を満たす解釈が選ばれる。たとえばd.の場合、主語の「私」は悲しみを抱いている主体と解釈される。対してe.のケースでは、主語の「母」は発話者「私」の抱く悲しみを引き起こす原因と解釈される。つまりe.の文は、「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味になるのであって、「母は悲しみを抱いている(Mother feels sad)」という意味にはならない。なぜなら後者の解釈では前記の制約に違反してしまうからである。

「母は悲しい」という文は必ず「母は私を悲しませる(Mother makes me sad)」という意味に解釈されるとHasegawa氏は言っているわけだから、「彼女は悲しい」という日本語文は「she makes me sad」という意味で理解すべしというgambs氏と同じ見解であると言っていいだろう。

Hasegawa氏の理屈はよくわかるのだ。でも問題は、「悲しい」が「polysemous(多義性を有する)」述語に当たるかどうか、ということである。というのも私には、「母は悲しい」という言葉が「母は私を悲しませる」という意味で使われる場面、状況、文脈をうまく思い浮かべることができない。やはり「母は悲しい」は「Mother makes me sad」という意味にはならないのではないか?

と、書こうとした矢先(いや、書いたのだが)、なぜか隣の部屋からSuchmosの「STAY TUNE」が聞こえて来て、私の拙い考えは一瞬にして覆ってしまったのであった。回心した、とさえ言えるかもしれない。アウグスティヌスの「取りて読め」じゃないけれど。

「ブランド着てるやつ」は悲しい。

「Mで待ってるやつ」は悲しい。

「頭だけいいやつ」は悲しい。

「広くて浅いやつ」は悲しい。

なるほど。コツ(?)がわかった。こういうのはどうだろう。

母はグッチとかシャネルとかブランドものの服ばかり着ている。私の好きなGUの服になんて見向きもしない。格好いい服もたくさんあるのに……。母は悲しい。悲しすぎる。

こういうのも思いついた。

SNSで日本語学習者の使う日本語を馬鹿にする日本語ネイティブは悲しい。

このへんで切り上げることにする。ちなみに私の妻もたまたま日本人だが、彼女に「『彼女は悲しい』って言い方、不自然だよね?」と聞いてみたところ、「どこが?」と言われた。「日本人の妻」に聞くってのが、そもそも間違いなのかもしれない。

天皇制と日本語

 

生来の日本語話者の一群が一群のレベルで折に触れて表出する日本語への異和感は、「いいたいことがうまくいえない」といった言語表現をめぐる普遍的な問題とはおよそ異質なものである。言語が言語であることに由来する、この手のありふれた不満は、その突き詰められた先で、もっぱら例のあの「語りえぬもの」に関係している。しかし、山城むつみは「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」(「文学のプログラム」)というのだ。「毒」(中上健次)は、どうやら日本語での読み書きの全体に回っている。「ドップリ漬かってる」とはそういうことだ。

たとえば丸谷才一鈴木孝夫をはじめとする多くの人たちが、志賀直哉の「国語問題」の文章における明晰さの欠如を指摘する。「こんな調子で書けば(中略)フランス語で書いたつて、ろくな文章はできるはずがない」(丸谷)。「もし同じ議論を英語なりあるいはフランス語で書いたとしても、あいまいで支離滅裂な主張になることを私は疑わない」(鈴木)。しかし、では、明晰に書けば「国語問題」は解決するのだろうか。「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」と山城のいう、こうした虚しさは、それによって解消するのだろうか。むしろ日本語を使う日本人は、明晰に書かれたものをそのまま明晰に書かれたものとして受け取ることができない、そのような条件のもとに置かれているのではないか。

漢文訓読という営為の奇妙さは、だれでも感じているはずのものである。ところが、この奇妙さを言い当てようとすると、どうしたわけか、うまくいかないのだ。そのせいか、「訓読は翻訳の一種である」と、さらりと定義して済ます者たちが少なくない。けれど、漢字をところどころひっくり返して読むという単純な操作だけで、なぜそれが和文として理解できるようになるのか。なぜこんな奇妙な読み方が成り立つのか。なぜ訓読において外国語を読んでいるとも自国語を読んでいるとも容易にいえないような気色の悪い絡み合いが生じるのか。「訓読は翻訳の一種である」だとか「訓読は一種の訳読である」だとかいう場合の、この「一種」という留保に映り込んだあいまいさの影に真正面から向き合おうとする試みに出会うことは意外なほど少ない。「なぜ、何のためにこのような奇怪な読み方をする必要があったのか」という、山城むつみの問いは、こうした翻訳であるとも翻訳でないとも断定しがたい漢文訓読の二本の蔦のように絡み合った性格を前にすれば、ほんとうは誰でも抱くはずのものである。それなのに訓読の謎についてきちんと考えようとすれば、いまなおこの山城が九十年代に書き記した数編の論考にあたるしかないといっていいのだ。

小林秀雄津田左右吉という、やはり例外的存在といえる二人の文人が訓読に向ける視線を自己の目に奪い取った山城の、「訓読は読むための考案ではなく、書くための考案だった」(「文学のプログラム」)という目的論的な見解は穿ち過ぎており、端的に間違っていると思われるが、その周辺に散見される諸々の指摘には、些細な瑕疵を補って余りある貴重な洞察が含まれている。

古代、書くとはすなわち漢文を書くことであったような頃、やまとことばで語っていた日本人も、だから書記行為に及ぼうとすれば、外来のこの文字とこの構文にできる範囲で書くしかなかった。「ここにはチグハグな奇体さがある」と山城はいう。「不自然な異和」ともいっている。こうした書くことに伴う「異和」は、「訓読について」で山城自身がいうように、日本語に限らず「世界の何語に属していようと、書くことが本来的にもたされている質」であるはずだ。しかし山城の考えでは、日本語においては、こうした書くことにまといつく本質的な「異和」を解消するための仕組みが設けられているのである。その仕組みこそが訓読である。山城はそういう。

出発点は、一定の漢文から一定の訓みを機械的に引き出すための体系的な規約を編み出すことであった。このような規約は、それがあれば、それを反転させることにより、一定の和文を一定の漢字の連なりで表記することができるようになる。このようにして表記された文は、「形の上では漢文を保存しながら実質的には和文と化している」。つまり、「漢文=和文」という、密着的な言語の形が、やまとことば話者に獲得される。これにより漢字漢文に由来する「異和」が解消するというのは、漢字漢文で書くことが、この仕組みを通じて、そのまま和語和文で書くことのほうへと、オセロの駒のようにパタパタと裏返されていくからである。訓読に対する山城の基本的姿勢は、この反転のプロセスを、最初から日本文の生成を狙って仕組んだものと考えることにある。これに対する反論は、やまとことば話者(原住民)にとって書くことの原初が漢文で書くことであれば最初から和文を書こうなどという考えが生まれたとは考えられないこと、また、日本列島内での文字表記着手のイニシアティブを握っていたのが原住民ではなく大陸・半島からの渡来人であったと考えられること、また、漢文と和文とを一義的に連結する体系的な規約は訓読のはじまりには存在していなかったこと等々を考えあわせると、比較的容易な作業のように思える。ここでは「日本における散文の成立は(中略)漢文訓読の余得とみるべき」(亀井孝大藤時彦山田俊雄編『日本語の歴史2』)という考え方をとっておきたい。

さて、この二重の所属において、新たな緊張の種子が宿ることは不可避であるだろう。つまり、それが和文としか書かれたものであるのか、漢文として書かれたものであるのか、形の上からは区別ができなくなる。山城によれば「この緊張が訓読というプログラムの初動となった」。具体的には、漢文のシンタクスからの離脱と、てにをは構造の明示化に向かう、和文性の開示に向けた運動がここから発動する。山城は、変体漢文から始めて、史部流、宣命書き、古事記、和漢混淆文、そして近代日本文に至るまでの書記形態の、その方向での変遷を、おおよそ歴史的な時間軸に沿って追うようなそぶりで示しているが、これらの形態はあくまで理念型として取り出されている。これについては山城が付言しているとおりだ。その主眼は、「訓読のプログラム」が現代の日本文においても作動しているという点に置かれている。この主眼を踏まえると、日本語の書記形態が、その中和的効能を維持するため形成途上で招き寄せてきたさまざまな水準の交雑も、現在の日本語文にそのまま尾を引いているという考えが自然に導出される。

交雑の第一は、文字の水準における漢であることと和であることの癒着である。「漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである」(『本居宣長』)と小林秀雄のいうように、和訓は和漢の文字形態上の同化を実現した。この同化はしかしあくまで形態上のものであって、同じ個所で小林のいうような、漢字に「同じ意味合を表す日本語を連結する」というような単純なものではない。もっとも小林はすぐあとで「形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう」と正当な考えを述べている。これは重要な指摘であるといえ、後の機会に詳しく見たいと思うが、いまはまだそのときではないので、第二の交雑に移ろう。これは読むことと書くことの混淆である。和文の成立に先立って訓読の成立があった。これを小林秀雄山城むつみのように「和訓の発明という、一種の放れ技」と見るべきか「余得」と見るべきかはひとまずわきによけて、ここから引き出せることを引き出しておくと、山城のこういうとおりになる。すなわち、「日本語においては『書く』という行為がそれ自体では成立しえず途中で消失しており、『よむ』という行為によって引き受けられることによってしか成立しなかった」のであるから、「現に書かれ読まれているにもかかわらず、厳密には『書か』れてもいなければ『読ま』れてもいないという可能性が日本語には大いにある」。具体的な例は、石川九揚『二重言語国家・日本』の中から拾い上げることができる。石川の挙げる例は、少し単純すぎると思われるかもしれないが、そのぶんわかりやすいというメリットがある。

たとえば「春雨来る」と書かれているときに、「はるさめくる」と「シュンウキタル」との間では意味が異なるにもかかわらず、その違いを無視して読まざるをえないというあいまいさが日本語には避けられず、その幅の容認を強いられ、その部分を空白=〇(ゼロ)記号のままに放置しなければならない。それを克服する道はルビによって読みを与えることであろうが、印刷文がルビを失った、おそらくは戦後から、その曖昧度は進行した。否、それ以上に、ルビなどなくてよいとするあいまいさがあいまいさを加速したとも言えよう。微妙・繊細な性質をもちながら、かつその微妙・微細に名をつむり空白にすることを強いられるという、怪しげな二重性を日本語は強いてもいるのである。

書くことと読むことが相対する構え、書かれたものが読まれるという単線的な図式、これが日本語の場合、成り立っていない。換言すれば、書くことの主導性が読むことに半ば奪われているということだ。

山城の文章から取り出せる三つ目の交雑は、〈書く〉と〈語る〉のあいまいな連合、あるいは言と文との表見的絡み合いである。これは物語と制度の、中上健次のいう「癒着」の局面で発火する。たとえば古事記の文体(かきざま)について、山城は、これが「一種の言文一致の試み」にあたると述べている。

たとえば『古事記』が表記において凝らした実験は言文一致の試みに似ている。中国語に影響される以前の固有の日本語(古言=古事)、それも歌や祝詞のような特殊なことばではなく、ごくふつうに話された平明な日常語の「ふり」や「姿」をうつそうとしたという意味において、『古事記』は一種の言文一致の試みである。むしろ、それは、散乱する文字の諸価値を標準化し、文固有のマテリアルを創出することである。眼目は音の再現(再生)ではなく、文のレベルの生成なのである。

(「文学のプログラム」)

勘どころは、このようにして創出された「文固有のマテリアル」が、次のとおり、言文一致の効果としてある〈言〉の質にべっとり覆い尽くされることを通じて、書かれた端から「中性化」され、その実質を次々きれいに抜き取られ、あるいは打ち消されていくということである。

和「文」は、たしかに外形においては書かれるが、にもかかわらず、書かれたもの(エクリ)であるという質を自ら抹消し、実質的には、語られたもの(パロール)という質を暗示する。それは現象的には書かれても、本質的には書かれていない。書かれていながら、書かれていないというこの奇妙な属性こそ和「文」の特徴である。「文」とは、いわば文(ブン)を中性化して文(アヤ)となしたものである。ここで文(アヤ)とは、詞が派生する詞ならざるもの、すなわち言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味のことである。

(同前)

このような文の実質の自発的、自動的なマスキングによって「文(ブン)」から「文 (アヤ)」に変貌した書記形態において、「文字通りの意味」とは別様の「非言語的な意味」が「生成」する。つまり、「文(アヤ)」のレベルにおいて生じるこの「非言語的な意味」が「文(ブン)」のレベルにおける字義性に覆いかぶさり、それを窒息に追いやっているということである。

この山城の議論は、言文一致の効果を制度の身元保証に見た中上健次の見方を裏面から更新するものであるといえる。中上と同様、山城の念頭にあるのも、日本の書き言葉と天皇制の結託である。古事記に代表される「和『文』の地平の開設は上代天皇制のイデオロギーと不可分の関係にある」と山城はいい、「『古事記』が上代天皇制のイデオロギーとして機能したとすれば、それは皇統を神話化するその内容のためではない。それが和『文』として書かれたその形式のためである」と断定している。こうした形式主義的な転回が山城の議論の山場を形作っていることは否定しがたい。しかし、以下の論述を読む者はだれでも、そこにさしかかるまでの論述にはたしかに見られなかった停滞が、そこからにわかに広がりだしていることに気づかざるを得ない。

外国の文字を受容することは、とりわけ文字の体系を持たない共同体にとっては、強烈な異和を伴う出来事となる。その異和(外傷)は精神障害(たとえば神経衰弱)を引き起こす。だが、日本においては、文字あるいは文がもつこの種の危険性は中和される。訓読というプログラムに即して文(アヤ)のシステムが構築されているからである。漢字や漢文を、その形は保存したまま、実質的に日本文字、日本文と化すことによって、それらが外国の文字や文であることから来る強烈な異和感は巧みに中和されてしまうのである。このことは、結果的には「やまと心」や「やまと魂」が一般的に流通する領域が、外来の文字により拭い去れない危機的なダメージ(外傷)を被ってしまわないよう、これを保護するかたちになっている。

(同前)

ようするに、「訓読のプログラム」の発揮する中和力のおかげで、「やまと魂」や「やまと心」といった言葉を拠り所とした天皇イデオロギー言説が、受け手の「日本精神」に障害を与えることなく普及するという、ちょっと拍子抜けするような話である。そして同時にこれは、ちょっとへんな話でもある。というのも、言説の流布に際しての心理的ストレスを限りなく減らすというようなことが「訓読のプログラム」の効果なのであれば、たとえば天皇制に反対する言説も、天皇イデオロギーと同じように円滑に流通することになるのではないかと考えられるからである。もうひとつ、山城はこうも書いている。「訓読のプログラムは『古事記』を始めとする上代の文献においてのみ作動しているのではない。それは、いわば遺伝子として今日の日本「文」の装置のうちにも伝達されている。その機能は依然として健在であり、上代と同様、現代の天皇イデオロギーのジェネレータとなっている」。書き言葉を支配していたのが制度側の人間に限られていた古代であれば、書かれた言葉を制度的言説で埋め尽くすこともできるだろう。しかし、現代では書きたい人はだれでも書くことができる。この山城の分析では、「訓読のプログラム」は現代の日本文にも受け継がれているのであるからこの形式を撃たなければ天皇制は克服されないという肝心の指摘が宙に浮いてしまうのではないか。

天皇制と訓読の関係をめぐる、こうした拍子抜けの感覚は、「文学のプログラム」の数か月後に著された論考「訓読について」を読むとさらに強まる。山城は、柄谷行人が引用するソシュールジュネーヴ大学就任講演」の一節を参照している。言語の死は常に「外的な原因」によると語るソシュールは、その原因として二つのケースを挙げている。ひとつは「それを話す民衆」が「根絶やしに」されるケース、そしてもうひとつは「強力な民族が自分の特有語を新たに押し付けてくる」ケースである。ただし後者の場合、「政治的支配ではだめであって、まず文明の優位ということが必要です。しかも文字言語の存在はしばしば不可欠で、それが学校、教会、役所、要するに公私にわたる生活路の全体をとおして押しつけられるわけです。こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。山城は後者のケースを日本の古代にそのまま投影して、いっている。「政治的、経済的、軍事的な力」を備えた特定の氏族が、「みずからの俗語を全国に普遍的に流通させ」、それによって他民族を「内面からイデオロギー的に支配する」には、「政治的、軍事的な力に加えて文字言語の力が不可欠なのである」。そして、

じっさい、のちに「天皇家」となる有力氏族が、その武力と政治力を背景に、みずからの俗語を「日本語」として押しつけ、他の諸俗語を圧死させ、その担い手であった諸氏族を内面からイデオロギー的に支配できたとすれば、それは、みずからの俗語を漢文という文字言語と密接に関係させることに成功していたからである。外圧的な力のほかに文字言語の力を背景としていたからにほかならないのである。

私の考えでは、それを可能にしたのは訓読という工夫である。訓読は、その有力氏族が、古代中国帝国から輸入された文字言語を、自らの俗語に関係させ、いわば後光としてその力を取り込んでいくための装置なのである。

(「訓読について」)

ここらへんに見えるのは、思考の停滞というよりむしろ後退というべきものである。言語の強制によって「内面からイデオロギー的に支配」することが可能という安直に思える発想が暗黙の前提になっているが、それよりも問題は、ここにいわれるような支配力は、「書かれた文から文としての物質的価値を消去してしまう」だとか、「『書く』ことの質を無化してしまう」だとかの訓読の働きとはすでに無関係な、「後光」という単純きわまりないところにまで沈み込んでいるということである。文字言語の「後光」というのなら「異和」は解消されていないということになるのではないか。また、「後光」程度のことであれば「訓読のプログラム」といった手の込んだ概念装置を用意する必要はなかったのではないか。「こんなことは、歴史のなかでは数えきれないくらい繰りかえされています」。和文に特徴的な複合的性格やそのシステムの生成過程、訓読の中和力等々に鋭く迫っていく考察からの、これは明白な後退であるといえる。漢文訓読という奇妙な仕組みの奇妙さへのすばらしい粘着を起点に開始された論述が、こんなふうに尻すぼみに終わるのは、訓読の成立に対する目的論的な見方に内在する、ある弱さのあらわれなのではないか。これに似た弱さは、天皇の書き言葉と、賤民の話し言葉、語り言葉との自動的な対立に依拠した中上健次の発想にもあった。七十年代の半ば頃、篠田浩一郎「天皇制と日本語」あたりに端を発すると思われる、日本語を天皇制の問題と絡めて問うやり方には、俗流に解釈されたサピア=ウォーフ仮説にも似て、どこかひきつけられるものがある。でももしかすると天皇制と日本語の結び付けそれ自体、中上健次の言葉を借りれば、「根源的な暴力みたいなものによって仕組まれてるんじゃないかって、気がする」。

さて、山城の議論に見える後退は、後退の始まった地点にまで面倒がらずに遡行し、そのとき選ばれなかったほうに細く伸びていく道を選ぶという単純な、あるいは機械的なやり方で意外にも簡単に回避することができそうだ。やりなおしの問いは、こんなふうに立てられるだろう。訓読は、書くことにつきまとう異和を中和することによって「日本精神」を保護する、そういう装置なのではなくて、むしろ書くことの異和を読み書きの全体に波及させることを通じて「日本精神」を絶えず新たに生み出し続ける発生の装置なのではないか。この装置は、異和においてしか存在しえない――漢心の否定によってしか、漢心の影としてしか存在しえない――「やまと心」のため、常に新たに異和をこしらえあげる装置でもあるはずである。さらにここからたぶん、もうひとつ、やりなおしの問いを立ち上げることができる。訓読の問題の核心は、山城むつみの考えるような形式の次元にではなく、天皇制の擁護だとかいった伝達内容の次元にでもとうぜんなく、厳に意味作用(シニフィカシオン)の次元に存するのではないかという問いである。たとえば山城は、すでに見た三つの意味論的交雑の三つ目について述べる箇所で、「言語が文字通りの意味以外に生成する非言語的な意味」に言及しているが、このような意味ならぬ意味が発生するメカニズムのことを、形式の面に重点を打つ山城の、「音声的な価値である」が同時に「音声的な価値のことであるとは言えない」という矛盾めいた文(アヤ)をめぐる記述は、じゅうぶんに解き明かしていないように思える。

〈言〉を僭称し〈和〉を搾取する言文一致の〈文〉は、「文字通りの意味」の上に「非言語的な意味」の覆いを被せ、それを次々と無害化していく。中上健次のいう「衰弱した、飾りばかり多なってしもうた書き言葉みたいなもの」が、山城むつみのいう「書かれた文(ブン)のおもてに派生する、もはや文(ブン)ならざる彩り」(「文学のプログラム」)が、「本当の言葉の重み」を巧みに打ち消し、「つらい」という言葉、「寒い」という言葉から「つらい」の実質、「寒い」の実質を抜去する。明晰さをひたすら虚しさに追いやるこの条件、字義を「アヤ」に組織的・機械的に転換していく歪曲の力、隠蔽の力、諸力。しかし、これらの力は、いったいどこからくるのか。その源泉は何であり、また、どこにあるのか。訓読とはつまるところいったい何なのか。