ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態

ベンヤミン「言語による伝達」ブルジョワ的伝達)と区別した「言語における伝達」(魔術的伝達)について考える上では、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』中の「論理形式」をめぐる記述が参考になる。野矢茂樹訳(岩波文庫)で引用したい。

4.12 命題は現実をすべて描写できる。しかし、現実を描写するために命題が現実と共有せねばならないもの――論理形式――を描写することはできない。

たとえば「犬がいる」という命題を考えてみる。この命題は、「犬がいる」という現実を描写している。そう考えてみる。けれど、こうして「犬がいる」という命題が「犬がいる」という現実を描写していると考えてみる場合において、そのように考えることを可能にしている条件、ないし対応性の構造それ自体を、命題によって写し取ることはできない。この対応性の条件、命題と現実の密着を成立させている記述不可能な条件のことをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼んでいる。

このことを、違った角度から見てみよう。命題が写し取る「現実」のことを、命題を構成する言葉の言い表わす「意味」と考えるのである。すると、命題と現実の密着性は、言葉とその意味の密着性として理解することができる。「犬がいる」という言葉の意味は、「犬がいる」という言葉でしか、ぴったりと言い表わすことができない。「犬がいる」の意味は同語反復的に「犬がいる」としか言えないのだ。

それに対し、「犬がいる」という言葉は「犬が存在する」という事態を意味していると言えるのではないか、という人がいるかもしれない。そして実際こういう見方も、「意味」という言葉の意味次第では、じゅうぶんに可能ではある。

吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか』の「内容と形式とのわかたれない全体性」について明らかにする段で、次のような例を挙げている。

a 海だ。
b 海である。

aとbとは、ヘーゲル的にみれば、おなじようにある対象が海だという概念をあらわしていて、内容がおなじであるとかんがえられる。(中略)しかし、すこし本質的にみれば、aとbは内容形式もちがっているのだ。
(『言語にとって美とはなにか』p.253)

ヘーゲル的」な見方により「内容がおなじである」と把握された場合における「内容」のことを吉本は言語の「意味」とみなし、言語から切り離し可能なこの「意味」を文学作品の享受において二義的なものだと考える。他方、「海だ」と「海である」の二つの文字列はその「内容も形式もちがっている」と見るとき、その差異のうちに見えてくるものを言語の「価値」と考える。こう考えるとき、吉本は、ウィトゲンシュタイン流の「論理形式」の次元に立っていると言えるだろう。つまり「論理形式」とは、形式「海だ」の内容は「海だ」でしかなく、形式「海である」の内容は「海である」でしかないという認識において浮き彫りになる概念だ。あるいは、こうしたトートロジーを生み出すほかない密着性の構造のことだ。命題と現実の密着性だとか、言葉と意味の密着性だとか、形式と内容の密着性だとか、シニフィアンシニフィエの密着性だとかの、コインの両面的に不可分の全体性を構成する対概念は、いずれも前者と後者を貼り合わせると同時に分離する、あるいは貼り合わせることによって分離する「論理形式」の効果であると言ってしまっていいだろう。

少し先回りすると、「言語における伝達」について語るベンヤミンは、こうした「論理形式」の効果としての密着性に起因するトートロジー、すなわち完全に同形の言葉の反復それ自体に、「言語による伝達」とはまったく異なる、ひとつの「伝達」の姿を見ようとしている。だがしかし、この同語反復は、なぜ、どのような意味で「伝達」なのか。やはり『論理哲学論考』に含まれる次の命題を取り上げるのは、そのことを明らかにするためである。場所は4.121。

言語において自ずから姿を現わしているもの、それをわれわれが言語で表現することはできない。(太字は原文では傍点)

「言語において自ずから姿を現わしているもの」とは「論理形式」のことを言っているのだが、この文、ドイツ語の原文では次のような言い方になる。

Was sich in der Sprache ausdrückt, können wir nicht durch sie ausdrücken.

野矢茂樹の訳文からではわからないけれど、「言語において自ずから姿を現わしている」に相当する文節と、「われわれが言語で表現することはできない」に相当する文節で、同じ動詞「ausdrücken(表現する)」が使われている。ただし、その使われ方が異なる。前者においてこの動詞は中動態に置かれているが、後者では能動態をとっている。これを踏まえ、かつ前者の中動態の使い方を「受動的用法」と解釈すれば、この原文は、たとえば次のように翻訳することもできるだろう。

言語において自ずから表現されているもの、それをわれわれが言語で表現することはできない。

つまりウィトゲンシュタインは、このくだりの言いまわしによって、「表現」の二つのありようを区別している。換言すれば、「言語における表現」「言語による表現」を区別しているのである。

そして右で太字の語句が原文でイタリックで強調されているのは、これら二つの表現における主語のありようの違いを際立たせるためだと考えられる。前者の中動態的な「表現」で、主語は表現対象である。つまり「表現」は「誰かの手によって」ではなく、「自ずから」生起する。けれども後者、能動的な「表現」は、「われわれ」という主語を持つ。この「われわれ」は恐らく、人間のことを指しているはずだ。

右の命題の直後には、こうもある。

命題は現実の論理形式を示す。(太字は原文では傍点)

すなわち、ここでウィトゲンシュタインは、「言語において自ずから表現されている」という中動態的な事態を、「命題」すなわち「言語」を主語とした能動的な事態として、このように言いなおしているのである。

さらに、続く4.1212には、次のような記述が存在する。

示されうるものは、語られえない。(太字は原文では傍点)

ここで、いずれも受動態に置かれた「示す(zeigen)」と「語る(sagen)」の対立は、前からの命題の流れを受け、「言語における表現」と「言語による表現」の対立をこのように言い換えたものだ。

つまり、ウィトゲンシュタインによって「語る」と「示す」、二つの動詞表現によって区別される事態も、これをロジカルに遡行すれば、そこに同じ「表現」という言葉によって言い表すことのできる事態に突き当たるということである。そして、これを反転させれば、同じ「表現」という言葉の内実を、「示す」と「語る」という異なる表現によってロジカルに分別することができるということである。その結果、「言語における表現」と「言語による表現」の対立において、同じ「表現」という言葉が内的には大きな違いを持つことになる。

「論理形式」は、「示される」という形で「語られうる」。この場合、「語る」は、通常持っている意味合い(言語による表現)を逸脱して使われている。しかし、そのことは、字面の変化としては、現われていない。

「表現」の二文字をめぐるウィトゲンシュタインの思考は、「伝達」の二文字をめぐるベンヤミンの思考と多く重なり合っている。そのことがこれでわかると思う。

けれどもちろん、ベンヤミンウィトゲンシュタインの思考は、同じではない。ウィトゲンシュタインは動詞「表現する」を動詞「示す」に言い換えたのだった。けれど、前者ベンヤミンは、「言語において自ずから表現されている」という根源的な事態を、その表現の形態にはまったく手を触れず、その解釈の仕方だけを変える。つまり、読み換えを行う。具体的には、「言語において自ずから表現されている」という言葉で言い表わせる受動的中動態の事態を、能動的なそれ、すなわち再帰的中動態の事態に読み換えるのである。

この読み換えを日本語に反映させたものとしては、山元一郎の訳文(中公クラシックス)を挙げることができる。

言語のうちにみずからを表現するものを、私たちが言語で表現することはできない。(太字は原文では傍点)

このような読み換えによって、人間の語り手が存在しないところに、非人間的な語り手が出現する。そしてこのようにして、たとえば事物「ランプ」が、語を用いた人間の言語(ブルジョワ的言語)とは異なる魔術的言語において、語を用いず無言のうちに語り始めることになるのだ。

ただし、この魔術的言語で語るランプは、「ランプそれ自体ではいささかもない」(ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」)。つまり、言語一般に先立って先験的に存在する事物ではない。だからいわゆる「現実」的な存在者ではない。言語外現実ではない。ベンヤミンの「ランプ」は、あくまで「言語としてのランプ(die Sprach-Lampe)」なのである。

ベンヤミンは言う。「何らかの仕方で言語に関係しない出来事や事物は存在しない」。「表現によってその精神的本質を伝達しないものは、なにものも表象されない」(「言語一般および人間の言語について」)。つまりベンヤミンは、存在するとは表象されることであり、あらゆる出来事や事物、すなわち「現実」は、それが存在するからには、自己表現している、言語によってではなく言語において語っているのでなければならない、そう考えている。「言語とまったく関係のない存在を想定することは不毛だ」(「言語一般および人間の言語について」)。

このような考え方は、先験的言語外現実の否定という意味で、ソシュールの思想と重なっているとも言えなくもない。けれど、そのように言うためには、ソシュール的な言語論にあった人間中心主義が邪魔になる(ソシュールの「ラング」は人間の言語だ)。存在者の存在のイニシアティブは、ベンヤミンにおいて、事物の側、出来事の側にある。人間は、その言語によってランプや山々やキツネを切り出すのではなく、ランプや山々やキツネが語る無言の言語に耳を傾け、その無言の声に応じて、人間の言語でそれらに名前を与えるのである。

こうした人間の反応性には、ランプや山々やキツネを含む世界が、このように存在していることに対する、ベンヤミンの驚きが反映していると考えていいかもしれない。

いずれにせよ、ベンヤミンは、「現実」を、「言語としての現実」と考えている。このように考えるとき、ベンヤミンは、「言語」と「現実」の密着について考えているのであり、したがって、両者を張り合わせる不可視の「論理形式」について考えているのでなければならないだろう。

ドイツ語は、それによって人が表現できると信じているものの表現ではいささかもなく、それにおいてみずからを伝達するという形で伝達されるものの直接的な表現なのである。この「みずから」が精神的本質である。
ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」)

恐らく右の「精神的本質」は、ウィトゲンシュタインの思考で「論理形式」と呼ばれるものを、ベンヤミンなりに表現したものだ。そして、「言語的本質」は、ウィトゲンシュタインの思考で「現実」と「命題」の密着性としてあるものを、ベンヤミンがそのように呼んだのである。

こうしてベンヤミンは、「命題」において「論理形式」が「示される」というウィトゲンシュタイン的事態を、「言語」において「言語的本質」が「精神的本質」を「語る」という事態に読み替えたのである。あるいは、語ろうとしても同語反復にしかならないもの――「語り得ぬもの」――を、特定の語り手ぬきに、言語において自動的・自発的・不可避的に「語られてしまうもの」として語った。言語が語るのだと。

「諸言語」は「それらが言おうとしていることにおいて互いに親近的な関係にある」という「翻訳者の使命」の表現で、この「言う(Sagen)」は、以上見てきたような意味での「語る」の同義語として考えなければならない。つまり、「言語による伝達」ではなく「言語における伝達」の意味で。「諸言語によって人間が言おうとしていること」の比喩ではなく「言語それ自体が言おうとしていること」の字義で。この「言う」において語るのは、文字通り言語であって、人間ではない。言語から垂直に浮き上がるアウラとしての「論理形式」について、ベンヤミンは語っているのだ。