ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」を読む

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い予告文を残している。ベンヤミンの批評観がコンパクトな形で表出されたこの文章を、いまあらためて、ひといきに読んでみたい。

まず、この雑誌がどういう形をとるか、それをお伝えしよう。内容については、あえて触れないことにする。形式についてきちんと説明すれば、内容についての信頼が得られるはず――そう考えた。そもそも雑誌というものは、その本質からいって、綱領とそぐわないところがある。もちろん綱領が不要だといっているわけではない。ただ、綱領を用意すれば、それだけで生産性が得られるというような幻想には与したくないのだ。それに綱領というものは、緊密に結ばれた人々が一定の目的に向けて活動を展開する、というような場合に有効なのであって、雑誌にはあまり有効ではない。なぜなら、雑誌とは、生きた精神の発露であり、予測不可能で無意識的で、そのぶん豊かな未来と発展性を蔵しているものだから。つまり、方針を立てたところで、それにはさほど意味がない。もし雑誌が、自ら綱領的なものについて反省しようというのなら、それは、思想や意見に関するものではなく、根拠や法則に関するものでなければならないだろう。人間も同じ。人間は、心の一番深い場所で自分が何を考えているのかを意識することはできない。けれど、何かに向かって突き動かされている自分の行く先、つまりその使命について意識することはできる。


雑誌の使命とは何だろう。雑誌の真の使命、それは、自らの時代の精神を証言することである。といっても、この時代精神を明晰性のうちに捉えること、あるいは統一性のうちに捉えることは重要ではない。雑誌にとって重要なのは、時代精神のアクチュアリティを捉えることだ。だから、たとえ疑わしいもの、問題をはらんだものであっても、それを是とするのであれば、雑誌は、それを救出しなければならない。雑誌は、こうした救出を可能とするだけの生命をその内に形づくらなければなければならないのだ。さもなくばそれは、新聞みたいに煮え切らない、つまらないものになってしまう。歴史性への自覚を伴ったアクチュアリティがなければ、その雑誌に存在意義はない。ロマン派の雑誌『アテネーウム』が範となるのは、この雑誌が、こうした歴史性への自覚を比類ないほど高々と掲げていたからである。こういってもいいだろう。同誌は、「真のアクチュアリティ」を測る尺度が読者大衆のもとにはないことを示す好例であると。雑誌というものは、この『アテネーウム』と同じく、容赦のない思考と、何事にも動じない発言をモットーに、必要ならば読者大衆を完全に度外視さえして、見かけだけの虚しい新しさの陰で、「真のアクチュアリティ」として形をなすものに就かなければならない。見かけの新しさなんてものは、新聞にまかせておけばいいのだ。

以上、最初の二つの段落を敷衍した。いきなり、「真のアクチュアリティ」という重要な概念が顔を出している。「真のアクチュアリティ」は、「見かけの新しさ」とは別物である。「見かけの新しさ」とは、野村修『ベンヤミンの生涯』で指摘される通り、カール・クラウス論で「ジャーナリズムのアクチュアリティ」と呼ばれているものと同じだろう。カール・クラウスは、「ジャーナリズムのアクチュアリティが厚かましくも事物への支配権をふるっている専横さの、その言語的表現としての常套句に対する戦いに、すべてのエネルギーを傾注する」(「カール・クラウス内村博信訳)。「ジャーナリズムのアクチュアリティ」において抹消されているもの、それは、事物の存在への驚きであり、そうした驚きに打ちのめされる「この私」の存在の不可思議である。クラウスほど「自己自身とその存在に強い関心を示した者が、他にいるだろうか」、そしてクラウスほど「事物の剥き出し(ブロース)の存在に、その根源に、注意深い関心を示した者が他にいるだろうか」

状況追随的な「ジャーナリズムのアクチュアリティ」は、それがどれだけ新しさを僭称しようと、定義上、真の新しさを欠いている。なぜならそれは、本質的に後追いだからだ。真のアクチュアリティは、この奇妙な世界に生きる「この私」の視線の先に立ち現れてくる。

「読者大衆を度外視する」という言葉も、この地点から考えなければならないだろう。これは単に読者を無視するということではない。マスとしての読み手、パブリックとしての読み手に関心を抱かないということだ。逆に言えば、ベンヤミン的な雑誌は、個人としての読者、「この私」としての読者を重視する。

続いて第3段落から第5段落までを読む。掲載される文章のジャンルが三つ示されている。「批評」と「創作」と「翻訳」である。

まず何よりも、批評。アクチュアルな雑誌の巻頭は、それで飾らなければならない。さて、批評と言えば、昔の批評は、単につまらないものをつまらないと言っていればよかった。いまは、それでは駄目だ。なぜか。小手先の技術が向上している。最近の作品や作者は、どれも一見すばらしい。でもじつは、ごまかしが上手くなっただけなのだ。今の批評には、こういうニセモノをニセモノだと見抜くことが求められる。おまけに我が国には、どんなにへっぽこな文章でも「批評」を自称してかまわないという、百年来の伝統がある。ようするに批評は、二つの力を回復しなければならない。ひとつは言葉の力、もうひとつは判断の力である。大げさなまでに文学的な文学作品、あるいは文学作品を装った紛い物に退場を迫ることができるのは、テロルだけだろう。こうした果敢に「ダメ出し」する批評、すなわち「否定する批評」には、作品をより広いコンテクストに置いて見ることが必要となる。というのも、近視眼では、ニセモノを暴くことはできないだろうから。ではそれとは違う批評のやり方、つまり「肯定する批評」に必要なことは何か。それには、ロマン主義者たちがかつてやった以上に、個々の作品にどっぷり浸かることである。文学史の中に位置づけたり、他の作品と比較したりするのではなく、その作品に沈潜すること。哲学は真実を求める。芸術も同じ。それは、作品の真実を求めている。優れた批評とは、こうした作品の真実を開陳するもののことをいうのだ。こんなふうに批評を考えるとすれば、巻末あたりに義務的に置かれた、誰も読まない「書評欄」にそれを追いやることがふさわしくないことがわかるだろう。


本誌には、批評・哲学のみならず、創作も掲載するつもりだ。ここで、創作について、少々言っておきたいことある。世紀の変わり目のあたりから、我が国の文学は、危機の時代に入った。どんな雑誌の綱領にもあるはずの、能天気な話をするわけには、もはやいかなくなったということだ。ゲオルゲは、たしかに我が国の言葉を豊かにしてくれた。だが、その作品は、すでに過去のものだ。一方、若い作者たちの処女作が、文学の言葉をどんどん更新しているように見える。でも、巨匠の流派(この流派は、それが長く続けば続くほど、巨匠の限界を明らかにするだけだろう)に多くは期待できないのと同様、最新の文芸作品の見えすいた小賢しい工夫も、その作者たちの言葉への信頼を、あまり抱かせてくれないようだ。現在、我が国の文学を襲う危機は、かつてないほど大きな影響を、国語それ自体の命運の決定に及ぼすだろう。国語をどうするのか、国語はどうなるのか。その命運を決めるのは、知識や教養や趣味なんかではない。リスクを負った決定だ。これに関し、ここでは、これ以上、踏み込むことができない。ただ、こういうことだけ言っておく。本誌に掲載する詩と散文は、右に述べたことを踏まえたものになるだろう。とりわけ創刊号の諸作品は、右に述べた意味での決定をなすものになるだろう。以降の号に掲載される作品を書く者たちは、この最初の決定的な諸作品の庇護により、高名な作者たちの及ぼす暴力的な影響力から身を守ることができる。


我が国の文芸の現状に鑑みるに、ここに再び、ひとつの文学形式を召喚せずにはいられない。昔から大きな危機が起きるたび、救済の力を発揮してきたその文学形式を、人は翻訳と呼ぶ。ただし、ここで言う翻訳を、お手本となる外国文学の紹介という、古くさい考え方のもとに受け取ってはならない。本誌に載せる翻訳は、生まれたばかり子供が舌を回す訓練のようなものだと考えてもらいたい。翻訳とは、ひとつの言語の成長にとって不可欠な、厳しい訓練のいいである。生まれたばかりの言語は、いまだその固有の内容を持たないので、べつの言語から、自分にふさわしい内容、似つかわしい内容を借りてこなければならないのだ。こうした内容を活かすには、死んだ言葉を思い切って捨て去り、新しい言葉を育てる必要がある。真の翻訳が持つ、こうした形式としての価値を明るみに出すため、訳文には原文を添えよう。この点に関しては、創刊号で詳細に説明する予定である。

批評について、二つの方法が提示されている。「否定する批評」と「肯定する批評」。前者と後者は、正反対のやり方をとる。これは評価にあたってのダブル・スタンダードを意味しない。どちらの方法をとるか、その適用の判断は、作品の評価に基づく。つまり、ベンヤミンにとって、作品に対する評価、価値判断は、批評の目的ではない。それは前提にすぎない。作品の良し悪しをつけることは、批評の仕事ではないのだ。「否定する批評」が単に「貶す批評」でないこと、そしてそれ以上に「肯定する批評」が「誉める批評」でないことは、言うまでもないだろう。誉めたり貶したりは、それ自体としては、批評の関心の外にある。

創作に寄せてベンヤミンが語る危機意識――大家と新人双方への不満――は、「ジャーナリズム」的な現状把握に卑近しているように見える。危機の話は、能天気な話と同じくらい、常套句と呼ばれる資格を持っている。けれど、この部分、どうでもいい部分だ。リスクを負った言葉が国語の将来を決するというところが大事だ。ベンヤミンにおいて、個別の作品の意義は、国語への寄与の度合いで測られる。そのことの是非も、ここでは問わない。ただ、翻訳が重視されることの理由の主要な部分が、こうした国語という大きな総体に向けられた意識の強さと関係していることだけ押さえておきたい。

最後の段落に記された翻訳論は、おおむね「翻訳者の使命」の記述と重ね合わせて読むことができる。末尾で言われる詳細な説明とは、「翻訳者の使命」のことをさす。ベンヤミンは、ボードレール『パリ風景』の翻訳の序文として公にされたこの有名なエッセイを、雑誌『新しい天使』の創刊号に掲載するつもりだったのだ。

翻訳とは国語に対して課せられた不可避の訓練課程である。ベンヤミンはそう見る。こういう見方は、いまとなっては、むしろ受け入れやすい見方のような気がする。このへんを読む上で注意がいるのは、しかし、「内容」という言葉の内実であるだろう。この「内容」は、単純にある言語表現にとっての意味内容のことだと考えない方がいい。個別の語や言表、あるいは言説の内容ではなく、国語そのものの内容を指して、ベンヤミンは言っている。あるいはこの「内容」は、初期言語論でいう「本質」のことを指しているかもしれない。訳文と原文を対訳形式で掲載するという方針は、聖書の行間翻訳が理想であるという「翻訳者の使命」の末尾と照応している。でも、この考え方は、正直よくわからない。訳文だけでは、いけないのか。いけないのだろう。だとしたら、なぜなのか。それがいまひとつわからないのである。

次に見る第6段落と第7段落で主に語られているのは、対象を論じる際の姿勢と、書き手の資格についてである。とりわけ、哲学的および宗教的な取り扱いの重視、そして哲学的および宗教的な普遍性と科学的な普遍性との違いを掴むことが読解のポイントとなる。ベンヤミンは前者の普遍性を「歴史的なもの」、後者の普遍性を「非歴史的なもの」と見ている。アクチュアリティの観点からベンヤミンが雑誌に求めるのは、もちろん前者の、限りなく果敢ない普遍性だ。

この雑誌に普遍性が宿るとして、その普遍性は、いささかも、そこで扱われる対象そのものが持つ普遍性に由来するものではない。普遍性は、対象を哲学的に取り扱うことから生じる。こうした哲学的な取り扱いを心掛けさえすれば、科学的な対象すなわち実利的な対象であれ、政治的な対象であれ、数学的な対象であれ、それに普遍性を付与することができる。逆に、この雑誌に一番おあつらえ向きと思える文学的対象や哲学的対象であっても、それをきちんと哲学的に取り扱うのでなければ、掲載するわけにはいかない。哲学的普遍性という形式を展開することによってこそ、本誌が真のアクチュアリティの感覚を有していることを、正しく証明することができるのだから。さて、もうひとつ、この雑誌の知性が、それにふさわしい普遍性を備えているかどうかを測るための試金石がある。この試金石は、次のような問いの形をとる。「いままさに生まれ出ようとしている、この新しい宗教的構造、そのうちに生きることの覚悟が、お前にはできているのか」。この構造がどのようなものであるのか、それはまだ正確に描くことはできない。それでも、これだけはいえる。新しい宗教的構造のないところ、そこに、真の意味での新しさは、ぜったいにない。ならば、既存の構造に首までつかり、甘い汁をちゅうちゅう吸い、右顧左眄、東奔西走、掘り出し物だ、目っけもんだ、すげえすげえ、と騒ぎ立たてる連中は放っておこう。この雑誌が耳を傾けるべきは、静かに、控えめに、訥々と自らの苦悩と困窮を語る者たちの、沈黙に近い、低い、地を這うような言葉である。本誌に大きな人間はいらない。これはつまり、小さな人間はいらないということだ。とにかく、この雑誌の書き手は、宗教的な魂の探求と哲学的な事物の考察の交わる点、すなわち「信仰の告白」において、ようやく、その対象が更新されることを、よく知っている者たちであるだろう。しかし、この告白は、それが告白であるならば、断固としてあからさまでなければならないのだ。いっておこう。本誌で、主義や信仰を隠れ蓑とした韜晦や煙幕に出合うことがあるとすれば、それは、情け容赦のない批判の対象としてのみである。率直に語れ。曖昧さはこれを排除する。といっても、告白を装ったメロドラマに特有の好奇心の刺激、ぐいぐい読める読みやすさ、読み出したら止まらない面白さに就こうというわけではない。逆に、その文章は、そっけないほど抑制の効いた、しかし、滋味と歯ごたえのあるものとなるだろう。本誌に、慰めや癒し、単なる娯楽は期待しないでもらいたい。そのかわり、合理性をお見せしよう。そしてこの合理性は、自由な精神の下で発露する。そしてこの自由な精神が宗教を語るのだ。この雑誌は、自国語の圏域、西欧の圏域を超え、異なる宗教に関心を抱くことになるだろう。本誌で国語に縛られるのは、創作だけとなるだろう。


しかし、普遍性を追求するとはいうものの、この雑誌には、いわゆる普遍性をそのまま表すことは、たぶんできない。それは本誌が、科学から身を引き離すことになるからだ。なぜか。例えば、本誌の物理的外形は、造形芸術をそのまま表すことを許さない。それと同じく、本誌のアクチュアリティへの志向という本質が、科学性をそのまま誌面に取り込むことを拒絶するのだ。つまり、科学においては、アクチュアルであることが、本質的であることの不可欠な要件を構成していない。科学においては、アクチュアルでなくとも、本質的であることがあり得るということだ。といってもこれは、科学的対象を扱わない、という話ではない。科学的対象は、前段で触れた通り実利の問題に卑近するのであり、それに対して哲学的な濃縮を施さなければ、そこから真のアクチュアリティを取り出すことができない。ということは、哲学的な濃縮を経た科学的対象が本誌に顔をのぞかせる可能性はゼロではない。そういうことである。

論述の対象がある特定の領域に属していることと、論述それ自体が属している領域が、明確に区別されている。哲学的な対象を論じたからといって、その論述がそのまま哲学的になるわけではない。ベンヤミンはこの区別の上に立って、本誌の論述それ自体が、おのおの哲学性を、したがって普遍性を備えることを求めている。

さらに、普遍性をめぐるベンヤミンの思考は、「真のアクチュアリティ」の問題とも、分かちがたく結びついている。すなわち、ベンヤミンの普遍性は、時間性ないし歴史性を、その概念の内蔵の部分に押し込めている。むしろ、「哲学的普遍性」が選ばれるのは、この意味でアクチュアルであることへの執着の効果だと考えると、すんなり理解できるのではないか。

ベンヤミンが、もうひとつ、形式的普遍性(というのも、ベンヤミン的な普遍性は、内容ではなく、哲学的な語りの形式のうちに宿るのだから)を論述に与えるものとして、第6段落で挙げているのは、「宗教的構造」である。「宗教的構造」とはなにか。それは、特定の宗教や宗派の具体的な教理が形成する、あるいはそうした教理に反映する、この世の秩序を指しているのではないだろう。そうではなく、「宗教的構造」とは、全体的な世界観、統一的な世界像、あるいはそうした「世界」を「世界」として認識させる視角そのものの喩としての言葉であると考えたい。

そしてこんなふうに考えると、ベンヤミンが、「普遍性」という言葉を、存在論(哲学)と価値論(宗教)の意味の重なりのうちに捉えていたことがはっきりと見えてくる。この超越論的な二重性は、その根源性において、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語った二つの「語り得ぬもの」、すなわち「論理」と「倫理」を、その上に置くことを促している。この促しを素直に受け取ることには、そんなに躊躇がいらないと思う。もちろん、二人の哲学者の体系は同じではない。でも、ひとまず、重ね合わせることで濃度を高めた両概念の輪郭に、じゅうぶんな注意を払うことだけはしておいてもいいだろう。

「宗教的構造」は、だからもっとはっきりいえば、「価値観の体系」ということだ。価値観は転倒する。大きな人間こそが小さな人間に、低い声こそが高い声になる。そのような価値の転倒の場を用意することが、雑誌の狙いである。既存の価値体系の内側で、物陰にひそむ無名の存在を表に引きずり出すことに、『新しい天使』は関心を抱かない。存在さえしていないものを存在せしめる存在論的なシステムの新設と、擦り切れた価値体系を一新する強力な価値論的パースペクティブの投下、この二つの仕事が、ベンヤミンの雑誌に課せられた使命だ。

付言すれば、宗教が、価値の体系の同義であることは、この段落の最後、自国の言語と文化の圏域から離脱することと、異なる宗教へ関心を持つこととが、連続的に考察されていることを見ても明らかだ。

第7段落は、「科学」がもたらす「科学的普遍性」との違いから、この雑誌の求める「普遍性」の特質をはっきりさせようという意図を持っているものと読める。科学の普遍性は、アクチュアリティと無関係だ。だから、アクチュアルであることを本質とする雑誌で、科学的な意味での普遍性、すなわち歴史的瞬間性を免れた普遍性を狙うことはできないし、狙うべきでもない。ベンヤミンは、このこと――非科学性――を、この雑誌に課せられた制約と見ている。けれど、この制約がなければ、「真のアクチュアリティ」もまたないのだ。したがって、この制約は両価的である。次の段落で、ベンヤミンはもうひとつの制約について語るが、それもまた、これと同じ両価的を持つ。

では最後の二つの段落を読もう。この雑誌を制約するもうひとつの制約と、その制約の帰結について。また、この雑誌が『新しい天使』と名付けられていることの意味について。「この私」が、雑誌の統一性の妨げであると同時に、いやそれゆえに、雑誌の統一性の靭帯をなすということ。そして、結び目としての「この私」の歴史性と一個性が、この雑誌の果敢なさの源にあるということ。「近しさ」という概念の複層性を活用した論述の展開は、ややアクロバティックかとも思えるが、そんなことはあまり気にせずに読めるし、気にせずに読んだほうが却っていいようでもある。

この雑誌は、まだほかにも特有の制約――右のそれよりもずっとクリティカルな制約――を抱えている。それは、この雑誌の編集者が一個の人間として不可避的に備える限界、すなわち、この私の視野の限界である。私は、それが不可避的である限り、この限界を引き受けざるを得ない。そもそも私は、自分が、この時代の知の全体を見下ろすことのできる高みに立っていると言い張るつもりはない。夕刻仕事を終えてから、翌朝仕事に出かけるまでのあいだ、眼前に広がる見慣れた景色を見渡して、その中から、とりわけ目を引いた新しいものを、ひょいとつまみ上げるだけだ。つまり私は、自分の仕事である哲学の材料を、自分の限られた視野に収まる、ごく近しいもののうちに求める。換言すれば、本誌に掲載されるものの中に、この私にとって完全に疎遠なものはなにひとつない――そんなものを載せる理由はないのだから――ということだ。それにしても、この近しさの感覚を、私は、読者大衆と共有することができるだろうか。たぶんできないのではないか。そしてまた、この近しさの感覚が、お互い独立した意志と意識を有する寄稿者たちの間で共有されることも、まずないと思われる。読者大衆に媚びへつらうことも、寄稿者どうしの仲間ボメや馴れ合いも、この雑誌とは無縁だ。虚飾を捨て去り、あるがままを語ること。この精神を共有する者たちの間には、どんなにがんばっても、どれだけそれを望んだとしても、統一性や連帯や共同性を打ち立てることなどできないだろう。本誌に寄稿される文章は、お互い異質で、よそよそしいものとなるほかないだろう。だがしかし、じつは、このよそよそしさは、本誌に掲載される文章が共同性を形成しないことを意味しているわけではないのだ。そうではなく、こんにち、こうした共同性がきわめて語りにくいという事実を語っているだけなのだ。つまりは、共同性が、試されている。一見ばらばらな作品や論考の間に、それらを結び付ける絆がたしかにあることを明かすものがあるとすれば、それは、編集者であるこの私の存在を措いてないだろう。


ゆえに本誌は、果敢なくあらざるを得ない。そして本誌は、その果敢なさを自覚している。真のアクチュアリティを求めようとする以上、これは当然の報いなのである。タルムードの伝説によれば、天使たち――絶えず新たに生まれ、無数の群れをなすこの天使たちは、神の前で賛歌を歌い、歌い終えると、ただちに無の中に消えていく。この雑誌の名前が、こうした唯一真なるアクチュアリティへの希求の表現になってくれていれば、これに勝る喜びはない。

まず第8段落の「近しさ」の用法を腑わけしておこう。ベンヤミンは、以下のように考えている。

読者は恐らく、この雑誌に掲載される文章が、なぜ一冊の雑誌のもとに集められているのか、疑問に思うはずである。読者は、これら掲載作の間に、いかなる統一性も関連性も、すなわちいかなる「近しさ」も見出すことはできない。なぜかと言えば、それは、これら異質な作品を「近しさ」において結び付けるものが、編集者であるこの私にとっての「近しさ」でしかないからだ。したがって、掲載される論考や作品の間には、客観的に証明できる連関がない。私的なものと公的なものとの間に走る、この一本の深い溝、通約不可能性という溝は、同時に、自他の間における心理的な溝を深める。編集者であるこの私は、この雑誌の読み手との間に、社交的な意味での「近しさ」を求めない。仲良くなりたいわけではないのだ。

この私と対象との間の「近しさ」を介した、対象間の「近しさ」が、この私と読者大衆との間の「近しさ」を遠ざけるという構造である。そしてこの認識上の「近しさ」の欠落に、心理上の「近しさ」の欠落が直結されている。公私間に深い溝を掘るこの二重の「近しさ」の否定の関係と構造が、そのまま、寄稿者間の関係にも適用される。寄稿者たちは、自己に固有の「近しさ」の感覚を他の寄稿者たちに期待してはならない。そしてこの通約不可能な「近しさ」の感覚を内に秘めた「この私」の複数である寄稿者たちは、お互い、感情的な「近しさ」に彩られた偽りの社交性を拒絶しなければならない。

認識的な「近しさ」の否定は、告白の誠実さにおいて、心理的な「近しさ」の拒絶に帰結する。さもなくば、そこに誠実さはなかったということになる。そういう厳しい考え方を、ベンヤミンはここでしているものと見える。

私の最深部の暗がりに潜む親密さの領域において見出される私秘性、それに由来する共同性は、私以外の誰にも理解できない。ゆえに本誌の共同性は「きわめて語りにくい」。同時に、共同性の根拠であり源泉である「この私」は、特定の時空間に制約された、最上級の果敢ない存在にすぎない。通約不可能性の集合を束ねる紐は、だから、たしかにある。しかし、この紐は、このように目に見えないほど細く、切れやすい。端的には果敢ない。この果敢なさは、「この私」の存在論と価値論に支えられた「真のアクチュアリティ」をこの雑誌が狙うことの余儀ない代償なのである……。

以上である。最後に率直な感想を言えば、ベンヤミンの文章は、典型的な机上の空論であるという印象が強い。自分がいいと思うものを、詰め込めるだけ詰め込んでいる。発刊の辞の類は、どれもだいたいこういうものであって、こういうものであることを免れないのかもしれないけれど……。その一方で、また、こうも思う。これが思い入れの強すぎる空論であることを、ベンヤミンが意識していなかったはずがない。むしろ彼は、雑誌の予告として、このエッセイが机上の空論であることを十分に意識しつつ、存分に楽しみながら、これを書いたのではないか。あるいは書いている途中は本気だったとしても、書き終えて読み返し、ひとり苦笑したのではないか。

最初に書いた通り、この雑誌は結局、実現しなかった。理由は、依頼主の経済状況の悪化によると言われている。雑誌を創刊するという計画は、ほかにも、ブレヒト、ブレンターノをパートナーに持った『危機と批評』の構想をはじめ、彼の周囲で何度か持ち上がったようだ。けれど、残念ながら、「結局どれも、ベンヤミンの人生に典型的だが、実現しなかった」(三島憲一ベンヤミン――破壊・収集・記憶』p.179)。