幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて

保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で「これを『私』の『幽体離脱』と評している」そうだ。ところで作家本人は――これもやはり渡部直己の指摘にあるけれど――『未明の闘争』の刊行にあわせて行われた磯崎憲一郎との対談(「小説はなぜおもしろいのか」)で、「記憶の中の『私』はかなり『彼』に近い」と語っている。「記憶の中の自分は大体三人称で出てきている。よっぽど正確な記憶の部分じゃないと、一人称では出てきていない」。さらに保坂氏は、若竹千佐子との対談(「人の心は一色ではない」)でも、「考えてみたら、自己イメージって幽体離脱的なもので、『俺』と言った時一人称だけど、人は必ず自己像を外からの目で見ている」と、まさに「幽体離脱」という言葉を使い、自己をめぐる想像の見えについて説明している。つまり保坂和志幽体離脱的な書き方は、その幽体離脱的な自己イメージに対応している。前者の対談で、磯崎憲一郎保坂和志の言葉に対し、「普通、そういうのは文章の異化効果と思われがちなんだけど、実はそっちのほうが現実に近い」と応じているけれど、この「現実」という言葉を借りていえば、保坂和志の書き方には――これまた渡部直己のいうとおり――「現実」的な根拠があるということになる。

たとえば「こことよそ」で描写される夢の情景には、「人は必ず自己像を外からの目で見ている」という幽体離脱的な視野の「現実」がだいぶ色濃く反映しているように思われる。《見られる私》が出てくるのだ。

夢は明るい広い長い校舎の廊下を内藤と長崎とコウ子さんがこっちに向かって弾むように歩いてくるのから始まった。三人が先頭で三人の後ろには映画の仲間がパレードのようにつづいている、私はそのパレードの一員でもあり、先頭の三人の一員でもあり、廊下のこっちからみんなが来るのを見ている十九歳でみんなの中の最年少でもあった、私はただこっち側から見ているのではなくこの光景を記録するために見ている、そして先頭の三人の一人でもある、先頭は内藤と長崎とコウ子さんと私の三人だ。

実際、保坂氏は、夢の想起をめぐる「現実」について、かつて次のとおり語ってもいた。 

夢を思い出そうとすれば、夢の中で自分は現実と同じように見て聞いて行動していたはずなのに、途端に〈私〉としての姿が与えられ、映画の一場面のようにして〈私〉は思い出す自分自身によって見られつづける。

保坂和志『世界を肯定する哲学』)

さて、じつはわたしは、自己イメージをめぐる保坂和志の言葉――「人は必ず自己像を外からの目で見ている」――を読んで、ちょっとびっくりしたのだが、それはなぜかといえば、自分についての記憶や想像において、そして夢を思い出す場合であっても、自分自身が客体として姿をあらわすことが、わたしの場合、皆無だからである。つまりわたしの想起や想像は常に一人称視点をとっている。《見られる私》は出てこない。自己像が見えたり見えなかったりは、人それぞれということか。自伝的記憶における視点のありようについては、本多啓『アフォーダンスの認知意味論』に、次のとおり、ニグロとナイサーの分類を紹介している箇所がある。

Nigro and Neisser(1983)はエピソード記憶における想起のモードに二種類あることを指摘している。想起の際、人は記憶のなかに自分自身の姿を見ることがある。これは、想起者としての現在の自分が観察者または第三者の視点から過去の自分を含むシーンを眺めたものである。このような想起のモードを「観察者の記憶(observer memory)」と呼ぶ。それに対して、その出来事を経験したときと同じ視座からシーンを想起する場合があり、これを「視野の記憶(field memory)」と呼ぶ。

(本多啓『アフォーダンスの認知意味論――生態心理学から見た文法現象』)

保坂和志エピソード記憶は「観察者の記憶」が大半を占めているのに対し、わたしの場合、ことごとく「視野の記憶」になっているということだ。どちらの想起モードがとられるかについては、森田健一「幼児期記憶とその連想記憶における想起視点」等を参照すると、体験された出来事の性質やその時期に応じた傾向性が見られるようだが、このあいだ読んだ濱田英人氏の論文「日英語話者の視点構図と事態内参与者の言語化/非言語化」には、日本語話者の場合、「視野の記憶」のほうが「優勢」とあった。日本語話者は「I認知モードによる事態把握が基本」だからというのが、その理由である。

この「I認知モード(Interactional mode of cognition)」というのは、中村芳久氏の提唱する概念で、認知主体が対象や環境に没入し、それと一体化するような態勢をとって行う事態把握のことをいう。「私たち認知主体」が「ヒトとしての身体を有する」という事実、そして、「私たち認知主体は、なんらかの対象を観ているのではなく、そのような対象とのインタラクションを通して認知像を形成している」(「認知モードの射程」、坪本篤朗・和田尚明・ 早瀬尚子編『「内」と「外」の言語学』所収)という事実に立脚し、もっぱら「観る・観られ関係」に基づくラネカーの視点構図(標準的視点構図と自己中心的視点構図)に欠けている「身体的インタラクション」の側面を認知の構図にはっきりと取り込んでいるところに、この概念の肝がある。

そしてもう一点、特記しておきたいのは、この主観的な認知モードの構図が、いわゆる独我論の構図に酷似しているという事実である(『アフォーダンスの認知意味論』に「認知言語学が独在論的であるという批判は、必ずしも目新しいものではない」という指摘もあるけれど)。中村氏によれば、「私たちが外界に存在すると思っているもの」はすべて「実際は認知の場の中の存在であり、認知像でしかない」(同前)。また、「いわゆる世界は、認知主体の外にあるようでもあり、認知主体の内部にあるようでもある」ともいわれ、こうした認知の成り立ちが「主客未分」のインタラクションと名指されている(同)。中村氏は、このIモードこそが「私たちの認識の本質により忠実」(同)であるとしているけれど、これを読んで、わたしなど、どうしても永井均の言葉を思い出してしまう。「まったく虚心坦懐に、事態をあるがままに捉えることができるならば、独我論ないしはそれに類する世界の捉えかたは、端的な事実そのものの素直な受容であって、哲学者の作り出した屁理屈でも深遠な形而上学でもない」(永井均「独在性と他者」)。

さらに中村氏は、「原初的」とも形容されるこの認知モードに加え、そこから「移行」した、もうひとつの認知モードについても述べている。「認知の本質がIモード、あるいはそれに近いものであるにしても、Iモードによって私たちが何らかの外界とインタラクトしながら構築している認知像を、客観的存在として信じこむ性向が私たちにはある」(中村前掲)。構築された認知像にすぎないものを客観的存在とみなすこうした認知モードは「Dモード(Displaced mode of cognition)」と呼ばれる。こちらのモードでは、「認知主体としての私たちが、何らかの対象とインタラクトしながら対象を捉えていること(認知像を構築していること)を忘れて、認知の場(中略)の外に出て(displaced)、認知像を客観的事実として眺めている」(同)。この「信じ込む」だとか「忘れて」だとかいう言い回しも、なんだか面白い。

中村論文では、これら二つの認知モードが日英両語の表現形式に対照的に反映していると主張されている。具体的には、日本語はIモードが強く反映した「Iモード型言語」であり、英語はDモードが強く反映した「Dモード型言語」であるという。ここで反映というのは、たとえば英語話者が窓から外を眺めて「I see a mountain.」と発話するような状況で、日本語話者が「山が見える。」といい、「私」を言語化しない傾向にあるのは、山を見ている「私」が視野に入ってこないIモード認知の反映であり、逆に英語話者が「I」を言語化しているのは、Dモードのメタ認知が反映していると考えるものである。

で、濱田英人氏の論文に話を戻せば、濱田氏は、日本語では、事態をありのままに把握するIモード認知が、現在の出来事のみならず、過去の事態把握にもそのまま適用されることを文例を挙げて確認している。そして、そのことを踏まえて、日本語話者では、メタ認知的な「観察者の記憶」が主とならず、客体的な自己像の現れる余地のないIモード的な見えに対応する「視野の記憶」が「優勢」になるというのである(なお、濱田氏は、日本語話者においては、「私」が言語化されないことに加え、話し手と聞き手による「共同注意」が成立している対象事物も言語化されないことにも注目している)。

先ほど参照した森田健一氏の論文「幼児期記憶とその連想記憶における想起視点」に記された調査結果を見ると、実際には日本語話者であっても「観察者の記憶」を持つ場合が少なくないことがわかる。ただしフロイトがいうように、幼児期の記憶が「観察者の記憶」であるのは、それがありのままの記憶ではなく、「なんらかの加工を受けたことの証拠とみなすことができるかもしれない」(「隠蔽記憶について」)。また、森田氏が同論文で考察するとおり、「幼児期の出来事はもはや"自分の体験した出来事"として当時のまま想起されることは難しく、それゆえ断片的に記憶しているイメージを、家族からの情報や写真を手がかりに膨らませて作り上げられた(すなわち"再構成された")からだ、という解釈も出来るだろう」。

幼児期の記憶において後者の可能性のありえることは、保坂和志も意識していて、『世界を肯定する哲学』の中で、「〈記憶〉によって自分のアイデンティティが保証される」という考え方に対し、「それは本当だろうか」と疑問を投げかけている。「〈エピソード記憶〉にしても、幼年期のものとなると親や親戚から聞かされたエピソードによって構成されていることが多い」。そして、この種の――「厄介なことに」――伝聞に基づいていながらそのことが意識されにくい記憶を「伝聞記憶」と呼び、「私は毎日庭に出ていって池の鯉を手摑みしていた」と言語化できる記憶について、こういっている。

伝聞記憶の場合、私には自分が池まで歩いていく映像は見えているのに、池で泳いでいる鯉の映像の方は見えていない。これは逆でなければおかしい。私に見えているのは、池の鯉の方で自分の姿であるはずはない。伝聞記憶では、記憶の中の映像は語り手[=母親(引用者註)]の視点によって構成されていて、私自身の目が見ていたはずのものは欠落している。

保坂和志『世界を肯定する哲学』)

ところが保坂氏は「もう一つ厄介なこと」があるという。どういうことかといえば、

実際の記憶の方でもほとんどの場合、自分の姿が第三者からの視点のようにして構成されていることだ(ただし実際の記憶の場合には、それと同時に自分自身の目が実際に見ていたものの方も残っている)。

(同前)

整理すると、保坂和志の場合、「伝聞記憶」はすっかり観察者の記憶としてあるが、「実際の記憶」も純粋な視野の記憶とならず、観察者の記憶の骨格と、遺存した視野の記憶との二重写しになることが多い。そういうのである。そしてそういわれてみれば、先に引用した「こことよそ」の夢の情景も、Dモード的な、まじりけなしの観察者の記憶となっておらず、Iモード的な視野の記憶の残像が、そこかしこ高度に溶け込んでいるようだ。たとえば「こっちに向かって(中略)歩いてくる」等の「こっち」には、身体的インタラクションを伴ったIモード的な事態把握が明瞭な形で反映している。でもとりわけ注目すべきは、最後に出てくる「先頭は内藤と長崎とコウ子さんと私の三人だ」という奇態な表現だ。末尾に記された人数がふつうに「四人」であれば文句なく、まじりけなしのDモードといえる。でも「三人」だ。これは《見られる私》が「私」として言語化された直後、人数を数える段になり、この「私」が《見る私》として迅速に視野の外に引っ込んだからに違いない。この文があらわしているのは、IモードとDモード、二つの認知像の混淆したようすである。情景の中に入りきってもいないし、そこから抜けきってもない、作中の、夢の「私」のありようは、保坂和志により想起された記憶の「私」の現実を忠実になぞっている。そう思われる。

保坂和志の記憶は、磯崎憲一郎との対談で語られるとおり、よほどのことがないかぎり、純粋に自己の視点から見られた「視野の記憶」という形をとらない。これだけでも視野の記憶オンリーのわたしには興味深いが、『世界を肯定する哲学』ではその先に、もっと興味深いことが書いてある。

もし純粋な自分の記憶というものにこだわるのなら、すべてが自分の目で見た視野ということになって、(中略)そこには自分自身の姿は自分の視野に入ってくる手や足の一部分ぐらいしか残らないことになるかもしれないが、そういう映像は記憶として残しておいてもナンセンスだし効率が悪い。

(同前、強調は原文では傍点)

「効率が悪い」というのは措くとして、こんなふうに保坂氏が、視野の記憶に「ナンセンス」とレッテルを貼っていることは、いろいろなことを考えさせる。ひとつはこういうことである。

この世界には「意識の超難問」と呼ばれるものがあって、それは、「なぜ私はほかでもないこの私なのか?」というような《私が私であること》をめぐる問いのことなのだが、この問いは、この世界のだれにとっても等しく真面目な問いになりえるわけではない。「もし自分がブッシュ大統領であったら」というような反実仮想出生の想定に意味があると考える、そのような感性を持った人間にとってしか、正当な問いとして成立しない。「ほかでもない」という気分は、「ほかでもありえたはずなのに」という気分を前提とするからである。以前書いた記事でも引用したように、渡辺恒夫は、反実仮想出生を想定することに意味がないと感じる人と、意味があると感じる人とでは、「想像力の働かせ方に違いがあるのではないか」といっている。

前者[=意味がないと感じる人]は、「私」を対象化し、霊魂のような「モノ」としてブッシュ大統領の身体に移入することで、反実仮想出生想定を行う。後者[=意味があると感じる人]は、「私」が渡辺恒夫でなくジョージ・ブッシュである一点を除けば寸分違わぬ世界を思い描くことで、反実仮想出生想定を行う。前者が自己を対象化するのに対し、後者は世界の方を対象化する。

(渡辺恒夫『〈私の死〉の謎』)

つまり、反実仮想出生に意味がないと感じる人は、Dモード的な観察者の立場で事態を想像するのに対し、意味があると感じる人は、Iモード的な主観的視野のもとでそれを想像するのではないかということである。観察者の記憶が記憶想起の主調をなし、視野の記憶による見えをナンセンスと言い切る保坂和志は、反実仮想出生についてどう思うだろう。やはりナンセンスと考えるだろうか?

視野の記憶をナンセンスという言葉を読んで、もうひとつ考えるのは、独我論に対して保坂和志が示す、あの軽蔑的な態度のことである。保坂氏の書くものでは、独我論的思考に向けて、一貫して「中学生みたい」(『小説、世界の奏でる音楽』)だとか、「幼稚にも程がある」(「鉄の胡蝶は夢と歳月に記憶は彫るか」)だとか、悪しざまな言葉が浴びせられている。こうした独我論嫌悪と、「視野の記憶」に対するネガティブな評価には、つながりがあるのではないか。

というのも、すでにいったように、視野の記憶の見えに対応するIモードの認知構図は、永井均の言葉でいう「独我論ないしはそれに類する世界の捉えかた」にそっくりなのである。保坂和志が視野の記憶をナンセンスと退けるのは、独我論的思考を小馬鹿にするその態度と整合している。保坂氏はたぶん、ある種の思考がとるIモード的な、主客未分の態勢が気に入らないのだ。

保坂和志がよく槍玉に上げるのは「自分が死んだら世界もなくなる」という考え方である。厳密にいえば保坂氏は、本来性質の異なる「世界は私の作り出したもの」(私>世界)タイプの独我論と、「世界と私は密着している」(私=世界)タイプの独我論とを一緒くたに扱っているのだが、「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける」(『世界を肯定する哲学』、強調は原文)ということを「実感するために小説を書いていく」(同)という保坂氏にとっては、「私」が「世界」より大きかったり、「私」が「世界」と等号で結ばれたりする関係は、どちらも同じ資格で否定の対象だ。ラッセルの世界五分前仮説が『小説、世界の奏でる音楽』で「馬鹿馬鹿しい」と一蹴されるのも同じ。この仮説では、「自分が生まれる前からこの世界があったということに確実性を与えられない」し、「自分が死んだ後もこの世界がありつづけることにも確実性を与えられない」(強調は原文では傍点)からである。「哲学だけでなく芸術を含めて何か考えたり表現したりすることにとって必要なことは、自分の確実性を検証したりそれに根拠を与えたりすること以上に、この世界が確かにあると実感することであり、この世界が自分が生まれる前からあり、自分が死んだ後もありつづけることを実感することだ」。こうした信条を抱く保坂氏にとって望ましい「世界」と「私」の関係は、《世界>私》という形をとる。

注意したいのは、保坂氏が独我論的な思考を否定するのは、それが観念論だからではないということである。そのことは、保坂氏が荘子の「胡蝶の夢」に魅かれていることからも明らかだ。「いまここにいる自分という存在は、他の存在(中略)が夢に見ていることにすぎないではないか、という思い」について、「ラッセルの"世界五分前仮説"とは逆向きだ。読んだときの気持ちも息苦しさとは遠く離れて、胸が空洞になって風が吹きすぎていくようだ」(『小説、世界の奏でる音楽』)と書いている。ということは逆に、保坂氏は、エルンスト・マッハの有名な自画像のようなIモードの視野に「息苦しさ」をおぼえるはずである。自己という堅牢なフレームにはめ込まれ、閉じ込められ、身動きがとれなくなっているような気分になってしまうのだ、きっと。で、こういうふうに感じる保坂氏であるとすれば、いま生きている自分が本当は観念的存在であること、自己の存在の足場が揺らぐことは、むしろ願ってもないことだろう。保坂氏にとっては、これもまた「そっちのほうが現実に近い」の領野に置かれてしかるべきものなのである。たとえば『〈私〉という演算』に含まれる同名の一篇に、「『今こうしている自分がすべて過去のある時点の自分が想像している世界の中で生きているに過ぎない』という想像が作り出す不思議さというかある種の不安定さのことを、『リアリティ』と解釈することもできる」という一文がある。この一文を受け、この一篇では、ふつう「確かさ」の意味あいで使われる「リアリティ」――たとえば「今こうして生きているということ」に伴うそれ――という言葉を、「不確かさ」の意味あいで使ってもいい言葉として扱っている。保坂和志が理想とする「現実」像は、だからこう描くことができる。確実性をもって存在する、揺るぎない基盤としての「世界」と、そうした堅牢な基盤、枠組みから離脱した、幽体のように不確かな「私」。

もちろん保坂氏は、こうしたDモード的な世界像・自己像を、その生のすべての局面において活性化させているわけではない*1。例をあげていえば、『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』という本。この本に「自分が生まれていない可能性」*2について考えるところがあるけれど、最終的にこの問題それ自体を非本質的であるとして棄却する際、保坂氏が援用する理由は、こうである。「(この問題は)いま生きている自分にとって、この生の外に立つことが絶対に不可能だということがすべての思考の前提でなければならないのに、自分が生きている状態をパッケージにして、その外に立つという誤りを犯してしまっている」。つまりここで、Iモード的な《いまここ》の確かな生の名の下に、Dモード的な俯瞰の像が否定されているのである。

再三引用している『世界を肯定する哲学』にも、「私」と「世界」が密着しているという意識を作り出す、「私」が存在していることの自明性、そしてその「私」の視野に収まる形で「世界」が存在していることの自明性について語る、次のようなくだりが見える。

「私」はあまりに明らかに存在している。いまこうしてこれを書いてる私にいろいろなものが見えていること――つまり(中略)私の前に視界があるという事実――が、いちいち言語によって確認する必要がないのと同じように、私はあまりに明らかに存在している。

そして同時に、私の前に視界があることによって世界も存在している。「私」も「私の視界」も「世界」も「私の肉体」も、どれが先ということでなく、それらはいつも揃って、渾然一体となって、言語に先立って、あまりに明らかに存在している。

保坂和志『世界を肯定する哲学』、強調引用者)

ただし保坂氏は、この本で「リアリティ」と対置されるこの「自明性」について、引用部のあと、疑いの目を向けている*3。それでも、この本で保坂氏がカフカを評価するのは、カフカが「俯瞰という視覚イメージをいっさい使わなかった」からだということは、ぜひいっておきたいことである。「この、誰もが無意識のうちにやってしまっている、垂れ流し的な〈自己像〉形成に行き着く操作の筋道を絶った」という点にカフカの現代性があるというのである。保坂氏は、「三人称であるにもかかわらず徹底して主人公グレーゴル・ザムザの目によって実際に見えるものに限定している『変身』において、ザムザは、自分の姿の全体を見ることはできない」といい、「カフカにとって『世界』は絶対に俯瞰することができない」といい、「しかし本当は、カフカだけでなく、誰にとっても『世界』とは俯瞰することができない」といっている。つまり、現実世界のIモード的な成り立ちを承認している。カフカは、このような現実世界の成り立ちに忠実に書いた。そのことを保坂和志は評価する。

引用が続くけれど、『試行錯誤に漂う』に収められた「意識と一人称」という文章にも、こういう指摘がある。「生きている私の意識は一人称ではなかった」。

意識は歩いているとき、「私は歩いている」と考えているのではなく、「人がきた」と思ったり、「車がくる」と思ったり「狭い道なのにスピード出し過ぎ」と思ったり、「この辺にこんな人いたっけ?」と他にも見覚えがない人がいっぱいいるのに特定の誰かのことをそう思ったり、「脚が長い」「残念、胸が小さい」「この二の腕いいな」「あ、猫だ、ペチャに似てる」「このカラス大胆だな」「ここの花は(妻に)教えなくちゃ」と思ったりしているそこに「私は」という主語はない

保坂和志『試行錯誤に漂う』、強調引用者)

このように保坂和志が「生きている私の意識」について、またカフカの書き方について指摘する特徴は、本多啓や池上嘉彦や森田良行や安西徹雄、そしてこのブログで何度か取り上げたこともある熊倉千之らが、これまで日本語の表現について指摘してきた特徴――状況没入性、状況密着性、臨場性、現場性、体験性、あるいは「私」性や「いま・ここ」性、ようするに身体的インタラクションを伴った参照点型の非有界的認知、すなわちIモードの認知を反映した言語表現の特徴と同じだ。保坂和志は、カフカの書き方のうちに日本語のIモード性を再発見しているのだ。

日本語はIモード型言語である。冒頭引用した「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」という文を読んで「体がクニャッとなる」(「小説はなぜおもしろいのか」)のは、保坂和志の記憶のDモード的な自己像を反映したこの文が、日本語に古くから備わったIモード的な身体性に、思い切りぶつかるからである。

保坂和志が『未明の闘争』に仕込んだ認知上の変則は、でも、この面での抵触にとどまらない。というよりもじつは、こうした文レベルにおけるDモードの反映は、この作品で、かなり例外的といっていいのである。むしろこの作品では、日本語のIモード性が一種極限まで突き詰められている。そしてその突き詰めにおいてこそ、読み手の身体性に強く働きかけてくる。具体的には題目の係助詞「は」が濫用されている。ただの「は」でない。『未明の闘争』でユニークに用いられる「は」は、「は」であるのに、Iモード認知の参照点を反映する目印としての機能を、正しく果たしていない。網羅的に挙げることはしないけれど、たとえば作中「しかしそれは現実のジョンと重なり合うわけではないのは、八十何歳の人がそろそろ寿命だ」という文を読んで、読み手は、「は」の導きに従っていては、狙われた事態の中心にうまく着地できない。だからどうしても無理な姿勢になる。保坂和志との対談で磯崎憲一郎のいう「ガクッとくる感じ」はそのせいだ。『未明の闘争』の読者の身体は、こうした無理な使い方に起因する脱臼、捻挫、肉離れにより満身創痍だ。ズタボロだ。『未明の闘争』以後、保坂和志を読むことの、ここに紛れもない、リアリズムではない、現実がある。 

 

※関連するエントリ:

 

*1:保坂和志は自身の「現実」を截然と二つに分けている。Iモードに対応する《現前の現実》とDモードに対応する《想像の現実》である。これは《世界と密着した「私」の現実》と《世界を離脱した「私」の現実》といいかえることもできる。また、保坂氏は「世界」の永続性をアプリオリな前提としているので、《「私」が死なない現実》と《「私」が死ぬ現実》といいかえることもできる。

*2:「自分が生まれていない可能性」について問うことは、自分が別の誰かとして生まれていた可能性を想定することと同じではない。三浦俊彦は、『多宇宙と輪廻転生』等の著書で、前者の可能性をめぐる問い(「私は存在しないこともありえたのに、なぜ存在してしまったのか」)は問うに値する正しい問いだが、後者の可能性をめぐる問いはナンセンスな問いだとしている。永井均も、〈私〉がそもそも存在しないこともできたはずなのに事実として存在していることを「奇跡性」と呼び、〈私〉が別の人間に実現することだってありえたはずなのに事実としてそうなっていないことを「偶然性」と呼んで、両者を区別している。

*3:『世界を肯定する哲学』の「リアリティ」――「私」と「世界」のズレ、「私の死」の可能性、「世界」の存在をめぐる感触のようなもの――は、『〈私〉という演算』で「不確かさ」に置換可能といわれる「リアリティ」に対応し、「自明性」は、「確かさ」に置換可能な「リアリティ」に対応する(ような気がするけれど、断定はできない)。

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(4)

 

一九八二年九月十六日、レバノンパレスチナ難民キャンプにキリスト教系の武装集団が侵入し、無差別の殺戮行為に手を染める。イスラエル軍の後ろ盾があったと言われているが、彼らは三昼夜にわたりキャンプの住民をひたすら残虐なやり方で殺し続けた。このとき偶然にもベイルートに滞在していたジュネは、「サブラ・シャティーラの虐殺」と呼ばれるこの事件の直後、現場のひとつ、シャティーラ・キャンプに足を踏み入れることに成功する。ジャーナリストになりすました七十二歳の作家は、炎天下、路地に転がるいくつもの死体のあいだを縫うように歩き回り、目に入る凄惨な光景を脳裏に焼き付ける。その後ただちにパリに戻った作家が、十月のまるひと月を費やして書き上げた『シャティーラの四時間』は、ルポルタージュだが、ただのルポルタージュではない。ジュネは中東を複数回訪れている。最初の訪問は一九七〇年で、その年の十月から翌年の四月まで、ヨルダンのアジュルーン地域にとどまり、フェダイーンと呼ばれるパレスチナ人の若い戦士たちとずっといっしょに過ごした。『シャティーラの四時間』は、この半年間に及ぶ滞在の、しあわせな気分に満ちた「妖精劇」の情景と、細密に描かれたシャティーラの虐殺の現場とを、鮮やかなコントラストのもとに提示する。転換は暴力的だ。十年を超える歳月を隔てた二つのパレスチナ体験、ムードのまるで異なる二つの世界を、ジュネは電撃的に往還する。けれど保坂和志がジュネのテクストから抜き出し、「こことよそ」の終わり近くに嵌めこむのは、一九八二年のシャティーラの腐敗した、膨張し、巨大な黒い、一個の膀胱と化した男の死体の描写でも、両手の指先をすっかり剪定された女の死体の描写でも、その周囲を飛びまわる無数のハエの描写でもなく、ヨルダンのキャンプで、森の軍事基地で、ジュネが接したパレスチナ人の女たち、子供たち、そしてとりわけ「フェダイーンの少年たち」の無邪気さ、明るさ、美しさをめぐる記述それのみだ。「彼らのように、この少年たちも死ぬのだろう。国を求める闘いは満たすことができる、実に豊かな、だが短い人生を」。「こことよそ」の話者は、この少年たちと、自分のかかわった映画に出てくる「暴走族の少年たち」を重ね合わせ、思考している。でも重なりはそれにとどまらない。「誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンがヨルダンのジャラシュとアジュルーン山中で過ごした六カ月が、わけても最初の数週間がどのようなものだったか語ることはないだろう。(中略)あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく彼らと上官の間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう」。『シャティーラの四時間』の冒頭に据えられ、遺作となった長編『恋する虜』にもやや異なった形で再登場するこの一節から浮き彫りになる、語ることのできない関係というモチーフが、「こことよそ」の末尾に設置された不意の素朴さにきれいに照応しているさまは、わたしたちの目にはもう、まぶしいほどだ。

わたしたちは、「こことよそ」の末尾の素朴な表明に、濃密な実在性の手ごたえを感じる。そしてその手ごたえを、ほかならぬ作者の素朴な内面からあふれ出した、言語化できない感情の重みとして受けとめる。でも、このような受けとめは、ひとつの規約に従っているという以上のものではない。ここにある素朴さは、ひとつの構造の実現と、規約的な情動喚起のため、よそから借り出され、知的に配置された、意匠としての素朴さであると言っていい。

言語の内部の歪みを言語の外部に結わえ付ける思考、たとえばそれを言葉にならない何かの表現とみなすこと、言葉にならない何かに働きかける通底器とみなすこと、言葉にならない何かを生み出す力の源泉とみなすこと、こうした内部と外部の関係をめぐる常套化した思考や、理念や、習慣の構築性について、あるいは、こうした言語の内と外を橋渡しする正誤を超えた理屈の型について、さらにはそのことにまつわる地理的な、社会的な、歴史的な、文化的な次元において確認される微妙かつ本質的な相違について、いまここで立ち入って検討することはできない。わたしたちにはその余裕がない。いまここで続けて考えてみたいのは、巧緻に実現された作品構造の、その先でわたしたちが出会うことになる、もうひとつの巧緻の相についてだ。いまここで目視された作品構造に対して、「こことよそ」の内部に加えられた、もうひとひねりの態様はどのようなものか。この作品が、その文の独創的なおかしさによって、『未明の闘争』以降の、折り目正しくない文を連ねることによって、日本語を過酷に使役する小説の象徴的事例として自らを構成するばかりでなく、おかしさの独創性の一時点におけるリミットを標定し、言語の非言語的使用に立脚した伝達機構を最高度に使いこなした事例であることを自負できるのは、主にこのもうひとひねり――作品の全体にかかる巨大なよじれ――のためだと言える。わたしたちがこの作品を向後の保坂作品に対する期待の地平を鮮明に引くものと見、その個別の達成の度合いをはかる貴重な試金石にしようと考えるのは、そのような理由による。「こことよそ」という作品を、いま見たような構造のものとして受けとめてみたとして、このような受けとめにも重大な瑕疵があると感じられるのは、たぶん気のせいではない。それはこの作品に次のような条りが含まれているからだ。

晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いていたのを思い出した、私はそのときまさに『異端者の悲しみ』を読んでいた、その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった。

注意深く読む必要のある条り。そして、注意深く読めば読むほど、どんどん分からなくなるような条りでもある。わたしたちは、保坂和志の作り出す、言葉たちの作り出す、深淵にいまから降りていく。

 

(続く)

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(3)

 

作品はこの段落で閉じられている。ここに出てくる「死んだ尾崎」というのは話者の「私」が「二十代の前半に関わっていた映画の仲間」の一人で、かつて「横須賀の暴走族のアタマだった」と語られる人物だ。映画の撮影があった一九八〇年、何度か「私」と道ですれ違い言葉を交わした一九八七年、そしてその「お別れの会」の開かれた近過去の三つの時間層にわたって登場する特権的な固有名詞である。二度出てくる「あの時点」は映画の撮影時、「二十代の前半」の若い頃をさしている。だから「あの時点の感触」とは、こうした若い時代、話者の手中に生きていたなまなましい「感触」のことだ。この「感触」にはひとまず「人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない」という言語が与えられている。しかしそのあと話者は言いよどむ。この言語表現に満足できないのだ。「何度書き直しても届かない」。でもそれだけではない。「今の私」と「死んだ尾崎」、「あのときの私」と「暴走族の気配を引きずっていた尾崎」、この四者が取り結ぶ「関係」、歳月の隔たりを超えて「私」と「尾崎」とが取り結ぶこの「関係」についても、話者は、ただ語りそこなうことしかできない。「書いても書いても固定する言葉がない、それは言葉の次元ではない」。

ここには不意打ちの素朴さがあるけれども、このありふれた素朴な言い回しが、ありふれた素朴な言い回しにはふつう考えられないほど高度な説得力を獲得していることに注意を向けなければならない。言い回しとしてみれば、これまでさんざん使いまわされてきた「その思いは言葉で言い表せない」の変奏でしかない末尾の文句が、およそはじめてといっていいくらい実のある余韻を響かせている。それは常套句めいたこの言い方に元手と手間がかかっているせいだ。だれもやらないような、おかしな文を丹念に積み重ねるという構成的な努力の果てに、とうとう得られた空疎であることの充実だ。

この作品を閉じる右に引いた条りを作りあげる文で実行されていることは、この条りに至るまで文の直上に重石としてあった言語の外部を、そのままの姿、かたちで文のつらなりの先、作品の向こう側、こちら側に置きなおすことである。文の連鎖が、自ら背負っていた言葉にならない作者の思いの塊りを読者の見ている目の前で、その足もとにおろした。読者はこの異様な、不恰好な塊を黙って受領するしかない。それは当惑を呼ぶ。けれど言語の外部は、このように分析不能な塊りのまま、わたしたち読者のもとに、たしかに、ごろりと届けられたのである。

この作品で、おかしな文のおかしさは、このように巧みな、だれも考えてもみなかったような伝達構造に組み込まれ、その一環をなすものとして、とても精密に機能している。こうした機能が可能であるのは、言語の内部から言語の外部へと向かう制度化された視線のすばやい動きを、露骨におかしい保坂和志の文が、その露骨さに重ねて巧みに利用しているからだ。そしてこの事実は、言語の内部が未整理であることのうちに、未整理であるほかない言語の外部の反映を見るという、歴史的に確認される視覚の一傾向を、作品の巧みな構成を実現するため、わたしたちには作者としか呼べないようなそのひとが巧みに利用しているということを意味する。この作品において何か意志のようなものが働いているとして、その意志は、ひたすらこの一点に向かっているのだと言える。文の水準で作品の言葉に歪みがあるのは、そこに作者であるそのひとの、そのひとの思いに忠実であることに向けた強い意志が、あらわれているという以上に言葉の歪みを言葉にならない、ひとの思いのしるしとみなす思考の一般的傾向を、利用し切るために言葉の歪みの実現を果たしてやろうという作者である、そのひとの高度な意志が、あらわれている。そのことを、構造の乱れた文とかたちのおかしな文の連鎖が、経時的に作り出す巧緻な構造が、その巧緻さにおいて、告げているのだ。

作品の末尾に言い回しとしてとつぜん噴きあがる素朴さについても、同じことが言えるだろう。

この素朴さは、どこから来たのか。わたしたちはその源流を作者の内面に探り当てることはできない。というのもわたしたちは、この素朴さが、ジャン・ジュネの晩年の文章からそっと持ち出されたものであることを知っているからだ。そのことを作者は、話者は、隠そうとしていない。

 

(続く)