ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」を読む

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い予告文を残している。ベンヤミンの批評観がコンパクトな形で表出されたこの文章を、いまあらためて、ひといきに読んでみたい。

まず、この雑誌がどういう形をとるか、それをお伝えしよう。内容については、あえて触れないことにする。形式についてきちんと説明すれば、内容についての信頼が得られるはず――そう考えた。そもそも雑誌というものは、その本質からいって、綱領とそぐわないところがある。もちろん綱領が不要だといっているわけではない。ただ、綱領を用意すれば、それだけで生産性が得られるというような幻想には与したくないのだ。それに綱領というものは、緊密に結ばれた人々が一定の目的に向けて活動を展開する、というような場合に有効なのであって、雑誌にはあまり有効ではない。なぜなら、雑誌とは、生きた精神の発露であり、予測不可能で無意識的で、そのぶん豊かな未来と発展性を蔵しているものだから。つまり、方針を立てたところで、それにはさほど意味がない。もし雑誌が、自ら綱領的なものについて反省しようというのなら、それは、思想や意見に関するものではなく、根拠や法則に関するものでなければならないだろう。人間も同じ。人間は、心の一番深い場所で自分が何を考えているのかを意識することはできない。けれど、何かに向かって突き動かされている自分の行く先、つまりその使命について意識することはできる。


雑誌の使命とは何だろう。雑誌の真の使命、それは、自らの時代の精神を証言することである。といっても、この時代精神を明晰性のうちに捉えること、あるいは統一性のうちに捉えることは重要ではない。雑誌にとって重要なのは、時代精神のアクチュアリティを捉えることだ。だから、たとえ疑わしいもの、問題をはらんだものであっても、それを是とするのであれば、雑誌は、それを救出しなければならない。雑誌は、こうした救出を可能とするだけの生命をその内に形づくらなければなければならないのだ。さもなくばそれは、新聞みたいに煮え切らない、つまらないものになってしまう。歴史性への自覚を伴ったアクチュアリティがなければ、その雑誌に存在意義はない。ロマン派の雑誌『アテネーウム』が範となるのは、この雑誌が、こうした歴史性への自覚を比類ないほど高々と掲げていたからである。こういってもいいだろう。同誌は、「真のアクチュアリティ」を測る尺度が読者大衆のもとにはないことを示す好例であると。雑誌というものは、この『アテネーウム』と同じく、容赦のない思考と、何事にも動じない発言をモットーに、必要ならば読者大衆を完全に度外視さえして、見かけだけの虚しい新しさの陰で、「真のアクチュアリティ」として形をなすものに就かなければならない。見かけの新しさなんてものは、新聞にまかせておけばいいのだ。

以上、最初の二つの段落を敷衍した。いきなり、「真のアクチュアリティ」という重要な概念が顔を出している。「真のアクチュアリティ」は、「見かけの新しさ」とは別物である。「見かけの新しさ」とは、野村修『ベンヤミンの生涯』で指摘される通り、カール・クラウス論で「ジャーナリズムのアクチュアリティ」と呼ばれているものと同じだろう。カール・クラウスは、「ジャーナリズムのアクチュアリティが厚かましくも事物への支配権をふるっている専横さの、その言語的表現としての常套句に対する戦いに、すべてのエネルギーを傾注する」(「カール・クラウス内村博信訳)。「ジャーナリズムのアクチュアリティ」において抹消されているもの、それは、事物の存在への驚きであり、そうした驚きに打ちのめされる「この私」の存在の不可思議である。クラウスほど「自己自身とその存在に強い関心を示した者が、他にいるだろうか」、そしてクラウスほど「事物の剥き出し(ブロース)の存在に、その根源に、注意深い関心を示した者が他にいるだろうか」

状況追随的な「ジャーナリズムのアクチュアリティ」は、それがどれだけ新しさを僭称しようと、定義上、真の新しさを欠いている。なぜならそれは、本質的に後追いだからだ。真のアクチュアリティは、この奇妙な世界に生きる「この私」の視線の先に立ち現れてくる。

「読者大衆を度外視する」という言葉も、この地点から考えなければならないだろう。これは単に読者を無視するということではない。マスとしての読み手、パブリックとしての読み手に関心を抱かないということだ。逆に言えば、ベンヤミン的な雑誌は、個人としての読者、「この私」としての読者を重視する。

続いて第3段落から第5段落までを読む。掲載される文章のジャンルが三つ示されている。「批評」と「創作」と「翻訳」である。

まず何よりも、批評。アクチュアルな雑誌の巻頭は、それで飾らなければならない。さて、批評と言えば、昔の批評は、単につまらないものをつまらないと言っていればよかった。いまは、それでは駄目だ。なぜか。小手先の技術が向上している。最近の作品や作者は、どれも一見すばらしい。でもじつは、ごまかしが上手くなっただけなのだ。今の批評には、こういうニセモノをニセモノだと見抜くことが求められる。おまけに我が国には、どんなにへっぽこな文章でも「批評」を自称してかまわないという、百年来の伝統がある。ようするに批評は、二つの力を回復しなければならない。ひとつは言葉の力、もうひとつは判断の力である。大げさなまでに文学的な文学作品、あるいは文学作品を装った紛い物に退場を迫ることができるのは、テロルだけだろう。こうした果敢に「ダメ出し」する批評、すなわち「否定する批評」には、作品をより広いコンテクストに置いて見ることが必要となる。というのも、近視眼では、ニセモノを暴くことはできないだろうから。ではそれとは違う批評のやり方、つまり「肯定する批評」に必要なことは何か。それには、ロマン主義者たちがかつてやった以上に、個々の作品にどっぷり浸かることである。文学史の中に位置づけたり、他の作品と比較したりするのではなく、その作品に沈潜すること。哲学は真実を求める。芸術も同じ。それは、作品の真実を求めている。優れた批評とは、こうした作品の真実を開陳するもののことをいうのだ。こんなふうに批評を考えるとすれば、巻末あたりに義務的に置かれた、誰も読まない「書評欄」にそれを追いやることがふさわしくないことがわかるだろう。


本誌には、批評・哲学のみならず、創作も掲載するつもりだ。ここで、創作について、少々言っておきたいことある。世紀の変わり目のあたりから、我が国の文学は、危機の時代に入った。どんな雑誌の綱領にもあるはずの、能天気な話をするわけには、もはやいかなくなったということだ。ゲオルゲは、たしかに我が国の言葉を豊かにしてくれた。だが、その作品は、すでに過去のものだ。一方、若い作者たちの処女作が、文学の言葉をどんどん更新しているように見える。でも、巨匠の流派(この流派は、それが長く続けば続くほど、巨匠の限界を明らかにするだけだろう)に多くは期待できないのと同様、最新の文芸作品の見えすいた小賢しい工夫も、その作者たちの言葉への信頼を、あまり抱かせてくれないようだ。現在、我が国の文学を襲う危機は、かつてないほど大きな影響を、国語それ自体の命運の決定に及ぼすだろう。国語をどうするのか、国語はどうなるのか。その命運を決めるのは、知識や教養や趣味なんかではない。リスクを負った決定だ。これに関し、ここでは、これ以上、踏み込むことができない。ただ、こういうことだけ言っておく。本誌に掲載する詩と散文は、右に述べたことを踏まえたものになるだろう。とりわけ創刊号の諸作品は、右に述べた意味での決定をなすものになるだろう。以降の号に掲載される作品を書く者たちは、この最初の決定的な諸作品の庇護により、高名な作者たちの及ぼす暴力的な影響力から身を守ることができる。


我が国の文芸の現状に鑑みるに、ここに再び、ひとつの文学形式を召喚せずにはいられない。昔から大きな危機が起きるたび、救済の力を発揮してきたその文学形式を、人は翻訳と呼ぶ。ただし、ここで言う翻訳を、お手本となる外国文学の紹介という、古くさい考え方のもとに受け取ってはならない。本誌に載せる翻訳は、生まれたばかり子供が舌を回す訓練のようなものだと考えてもらいたい。翻訳とは、ひとつの言語の成長にとって不可欠な、厳しい訓練のいいである。生まれたばかりの言語は、いまだその固有の内容を持たないので、べつの言語から、自分にふさわしい内容、似つかわしい内容を借りてこなければならないのだ。こうした内容を活かすには、死んだ言葉を思い切って捨て去り、新しい言葉を育てる必要がある。真の翻訳が持つ、こうした形式としての価値を明るみに出すため、訳文には原文を添えよう。この点に関しては、創刊号で詳細に説明する予定である。

批評について、二つの方法が提示されている。「否定する批評」と「肯定する批評」。前者と後者は、正反対のやり方をとる。これは評価にあたってのダブル・スタンダードを意味しない。どちらの方法をとるか、その適用の判断は、作品の評価に基づく。つまり、ベンヤミンにとって、作品に対する評価、価値判断は、批評の目的ではない。それは前提にすぎない。作品の良し悪しをつけることは、批評の仕事ではないのだ。「否定する批評」が単に「貶す批評」でないこと、そしてそれ以上に「肯定する批評」が「誉める批評」でないことは、言うまでもないだろう。誉めたり貶したりは、それ自体としては、批評の関心の外にある。

創作に寄せてベンヤミンが語る危機意識――大家と新人双方への不満――は、「ジャーナリズム」的な現状把握に卑近しているように見える。危機の話は、能天気な話と同じくらい、常套句と呼ばれる資格を持っている。けれど、この部分、どうでもいい部分だ。リスクを負った言葉が国語の将来を決するというところが大事だ。ベンヤミンにおいて、個別の作品の意義は、国語への寄与の度合いで測られる。そのことの是非も、ここでは問わない。ただ、翻訳が重視されることの理由の主要な部分が、こうした国語という大きな総体に向けられた意識の強さと関係していることだけ押さえておきたい。

最後の段落に記された翻訳論は、おおむね「翻訳者の使命」の記述と重ね合わせて読むことができる。末尾で言われる詳細な説明とは、「翻訳者の使命」のことをさす。ベンヤミンは、ボードレール『パリ風景』の翻訳の序文として公にされたこの有名なエッセイを、雑誌『新しい天使』の創刊号に掲載するつもりだったのだ。

翻訳とは国語に対して課せられた不可避の訓練課程である。ベンヤミンはそう見る。こういう見方は、いまとなっては、むしろ受け入れやすい見方のような気がする。このへんを読む上で注意がいるのは、しかし、「内容」という言葉の内実であるだろう。この「内容」は、単純にある言語表現にとっての意味内容のことだと考えない方がいい。個別の語や言表、あるいは言説の内容ではなく、国語そのものの内容を指して、ベンヤミンは言っている。あるいはこの「内容」は、初期言語論でいう「本質」のことを指しているかもしれない。訳文と原文を対訳形式で掲載するという方針は、聖書の行間翻訳が理想であるという「翻訳者の使命」の末尾と照応している。でも、この考え方は、正直よくわからない。訳文だけでは、いけないのか。いけないのだろう。だとしたら、なぜなのか。それがいまひとつわからないのである。

次に見る第6段落と第7段落で主に語られているのは、対象を論じる際の姿勢と、書き手の資格についてである。とりわけ、哲学的および宗教的な取り扱いの重視、そして哲学的および宗教的な普遍性と科学的な普遍性との違いを掴むことが読解のポイントとなる。ベンヤミンは前者の普遍性を「歴史的なもの」、後者の普遍性を「非歴史的なもの」と見ている。アクチュアリティの観点からベンヤミンが雑誌に求めるのは、もちろん前者の、限りなく果敢ない普遍性だ。

この雑誌に普遍性が宿るとして、その普遍性は、いささかも、そこで扱われる対象そのものが持つ普遍性に由来するものではない。普遍性は、対象を哲学的に取り扱うことから生じる。こうした哲学的な取り扱いを心掛けさえすれば、科学的な対象すなわち実利的な対象であれ、政治的な対象であれ、数学的な対象であれ、それに普遍性を付与することができる。逆に、この雑誌に一番おあつらえ向きと思える文学的対象や哲学的対象であっても、それをきちんと哲学的に取り扱うのでなければ、掲載するわけにはいかない。哲学的普遍性という形式を展開することによってこそ、本誌が真のアクチュアリティの感覚を有していることを、正しく証明することができるのだから。さて、もうひとつ、この雑誌の知性が、それにふさわしい普遍性を備えているかどうかを測るための試金石がある。この試金石は、次のような問いの形をとる。「いままさに生まれ出ようとしている、この新しい宗教的構造、そのうちに生きることの覚悟が、お前にはできているのか」。この構造がどのようなものであるのか、それはまだ正確に描くことはできない。それでも、これだけはいえる。新しい宗教的構造のないところ、そこに、真の意味での新しさは、ぜったいにない。ならば、既存の構造に首までつかり、甘い汁をちゅうちゅう吸い、右顧左眄、東奔西走、掘り出し物だ、目っけもんだ、すげえすげえ、と騒ぎ立たてる連中は放っておこう。この雑誌が耳を傾けるべきは、静かに、控えめに、訥々と自らの苦悩と困窮を語る者たちの、沈黙に近い、低い、地を這うような言葉である。本誌に大きな人間はいらない。これはつまり、小さな人間はいらないということだ。とにかく、この雑誌の書き手は、宗教的な魂の探求と哲学的な事物の考察の交わる点、すなわち「信仰の告白」において、ようやく、その対象が更新されることを、よく知っている者たちであるだろう。しかし、この告白は、それが告白であるならば、断固としてあからさまでなければならないのだ。いっておこう。本誌で、主義や信仰を隠れ蓑とした韜晦や煙幕に出合うことがあるとすれば、それは、情け容赦のない批判の対象としてのみである。率直に語れ。曖昧さはこれを排除する。といっても、告白を装ったメロドラマに特有の好奇心の刺激、ぐいぐい読める読みやすさ、読み出したら止まらない面白さに就こうというわけではない。逆に、その文章は、そっけないほど抑制の効いた、しかし、滋味と歯ごたえのあるものとなるだろう。本誌に、慰めや癒し、単なる娯楽は期待しないでもらいたい。そのかわり、合理性をお見せしよう。そしてこの合理性は、自由な精神の下で発露する。そしてこの自由な精神が宗教を語るのだ。この雑誌は、自国語の圏域、西欧の圏域を超え、異なる宗教に関心を抱くことになるだろう。本誌で国語に縛られるのは、創作だけとなるだろう。


しかし、普遍性を追求するとはいうものの、この雑誌には、いわゆる普遍性をそのまま表すことは、たぶんできない。それは本誌が、科学から身を引き離すことになるからだ。なぜか。例えば、本誌の物理的外形は、造形芸術をそのまま表すことを許さない。それと同じく、本誌のアクチュアリティへの志向という本質が、科学性をそのまま誌面に取り込むことを拒絶するのだ。つまり、科学においては、アクチュアルであることが、本質的であることの不可欠な要件を構成していない。科学においては、アクチュアルでなくとも、本質的であることがあり得るということだ。といってもこれは、科学的対象を扱わない、という話ではない。科学的対象は、前段で触れた通り実利の問題に卑近するのであり、それに対して哲学的な濃縮を施さなければ、そこから真のアクチュアリティを取り出すことができない。ということは、哲学的な濃縮を経た科学的対象が本誌に顔をのぞかせる可能性はゼロではない。そういうことである。

論述の対象がある特定の領域に属していることと、論述それ自体が属している領域が、明確に区別されている。哲学的な対象を論じたからといって、その論述がそのまま哲学的になるわけではない。ベンヤミンはこの区別の上に立って、本誌の論述それ自体が、おのおの哲学性を、したがって普遍性を備えることを求めている。

さらに、普遍性をめぐるベンヤミンの思考は、「真のアクチュアリティ」の問題とも、分かちがたく結びついている。すなわち、ベンヤミンの普遍性は、時間性ないし歴史性を、その概念の内蔵の部分に押し込めている。むしろ、「哲学的普遍性」が選ばれるのは、この意味でアクチュアルであることへの執着の効果だと考えると、すんなり理解できるのではないか。

ベンヤミンが、もうひとつ、形式的普遍性(というのも、ベンヤミン的な普遍性は、内容ではなく、哲学的な語りの形式のうちに宿るのだから)を論述に与えるものとして、第6段落で挙げているのは、「宗教的構造」である。「宗教的構造」とはなにか。それは、特定の宗教や宗派の具体的な教理が形成する、あるいはそうした教理に反映する、この世の秩序を指しているのではないだろう。そうではなく、「宗教的構造」とは、全体的な世界観、統一的な世界像、あるいはそうした「世界」を「世界」として認識させる視角そのものの喩としての言葉であると考えたい。

そしてこんなふうに考えると、ベンヤミンが、「普遍性」という言葉を、存在論(哲学)と価値論(宗教)の意味の重なりのうちに捉えていたことがはっきりと見えてくる。この超越論的な二重性は、その根源性において、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語った二つの「語り得ぬもの」、すなわち「論理」と「倫理」を、その上に置くことを促している。この促しを素直に受け取ることには、そんなに躊躇がいらないと思う。もちろん、二人の哲学者の体系は同じではない。でも、ひとまず、重ね合わせることで濃度を高めた両概念の輪郭に、じゅうぶんな注意を払うことだけはしておいてもいいだろう。

「宗教的構造」は、だからもっとはっきりいえば、「価値観の体系」ということだ。価値観は転倒する。大きな人間こそが小さな人間に、低い声こそが高い声になる。そのような価値の転倒の場を用意することが、雑誌の狙いである。既存の価値体系の内側で、物陰にひそむ無名の存在を表に引きずり出すことに、『新しい天使』は関心を抱かない。存在さえしていないものを存在せしめる存在論的なシステムの新設と、擦り切れた価値体系を一新する強力な価値論的パースペクティブの投下、この二つの仕事が、ベンヤミンの雑誌に課せられた使命だ。

付言すれば、宗教が、価値の体系の同義であることは、この段落の最後、自国の言語と文化の圏域から離脱することと、異なる宗教へ関心を持つこととが、連続的に考察されていることを見ても明らかだ。

第7段落は、「科学」がもたらす「科学的普遍性」との違いから、この雑誌の求める「普遍性」の特質をはっきりさせようという意図を持っているものと読める。科学の普遍性は、アクチュアリティと無関係だ。だから、アクチュアルであることを本質とする雑誌で、科学的な意味での普遍性、すなわち歴史的瞬間性を免れた普遍性を狙うことはできないし、狙うべきでもない。ベンヤミンは、このこと――非科学性――を、この雑誌に課せられた制約と見ている。けれど、この制約がなければ、「真のアクチュアリティ」もまたないのだ。したがって、この制約は両価的である。次の段落で、ベンヤミンはもうひとつの制約について語るが、それもまた、これと同じ両価的を持つ。

では最後の二つの段落を読もう。この雑誌を制約するもうひとつの制約と、その制約の帰結について。また、この雑誌が『新しい天使』と名付けられていることの意味について。「この私」が、雑誌の統一性の妨げであると同時に、いやそれゆえに、雑誌の統一性の靭帯をなすということ。そして、結び目としての「この私」の歴史性と一個性が、この雑誌の果敢なさの源にあるということ。「近しさ」という概念の複層性を活用した論述の展開は、ややアクロバティックかとも思えるが、そんなことはあまり気にせずに読めるし、気にせずに読んだほうが却っていいようでもある。

この雑誌は、まだほかにも特有の制約――右のそれよりもずっとクリティカルな制約――を抱えている。それは、この雑誌の編集者が一個の人間として不可避的に備える限界、すなわち、この私の視野の限界である。私は、それが不可避的である限り、この限界を引き受けざるを得ない。そもそも私は、自分が、この時代の知の全体を見下ろすことのできる高みに立っていると言い張るつもりはない。夕刻仕事を終えてから、翌朝仕事に出かけるまでのあいだ、眼前に広がる見慣れた景色を見渡して、その中から、とりわけ目を引いた新しいものを、ひょいとつまみ上げるだけだ。つまり私は、自分の仕事である哲学の材料を、自分の限られた視野に収まる、ごく近しいもののうちに求める。換言すれば、本誌に掲載されるものの中に、この私にとって完全に疎遠なものはなにひとつない――そんなものを載せる理由はないのだから――ということだ。それにしても、この近しさの感覚を、私は、読者大衆と共有することができるだろうか。たぶんできないのではないか。そしてまた、この近しさの感覚が、お互い独立した意志と意識を有する寄稿者たちの間で共有されることも、まずないと思われる。読者大衆に媚びへつらうことも、寄稿者どうしの仲間ボメや馴れ合いも、この雑誌とは無縁だ。虚飾を捨て去り、あるがままを語ること。この精神を共有する者たちの間には、どんなにがんばっても、どれだけそれを望んだとしても、統一性や連帯や共同性を打ち立てることなどできないだろう。本誌に寄稿される文章は、お互い異質で、よそよそしいものとなるほかないだろう。だがしかし、じつは、このよそよそしさは、本誌に掲載される文章が共同性を形成しないことを意味しているわけではないのだ。そうではなく、こんにち、こうした共同性がきわめて語りにくいという事実を語っているだけなのだ。つまりは、共同性が、試されている。一見ばらばらな作品や論考の間に、それらを結び付ける絆がたしかにあることを明かすものがあるとすれば、それは、編集者であるこの私の存在を措いてないだろう。


ゆえに本誌は、果敢なくあらざるを得ない。そして本誌は、その果敢なさを自覚している。真のアクチュアリティを求めようとする以上、これは当然の報いなのである。タルムードの伝説によれば、天使たち――絶えず新たに生まれ、無数の群れをなすこの天使たちは、神の前で賛歌を歌い、歌い終えると、ただちに無の中に消えていく。この雑誌の名前が、こうした唯一真なるアクチュアリティへの希求の表現になってくれていれば、これに勝る喜びはない。

まず第8段落の「近しさ」の用法を腑わけしておこう。ベンヤミンは、以下のように考えている。

読者は恐らく、この雑誌に掲載される文章が、なぜ一冊の雑誌のもとに集められているのか、疑問に思うはずである。読者は、これら掲載作の間に、いかなる統一性も関連性も、すなわちいかなる「近しさ」も見出すことはできない。なぜかと言えば、それは、これら異質な作品を「近しさ」において結び付けるものが、編集者であるこの私にとっての「近しさ」でしかないからだ。したがって、掲載される論考や作品の間には、客観的に証明できる連関がない。私的なものと公的なものとの間に走る、この一本の深い溝、通約不可能性という溝は、同時に、自他の間における心理的な溝を深める。編集者であるこの私は、この雑誌の読み手との間に、社交的な意味での「近しさ」を求めない。仲良くなりたいわけではないのだ。

この私と対象との間の「近しさ」を介した、対象間の「近しさ」が、この私と読者大衆との間の「近しさ」を遠ざけるという構造である。そしてこの認識上の「近しさ」の欠落に、心理上の「近しさ」の欠落が直結されている。公私間に深い溝を掘るこの二重の「近しさ」の否定の関係と構造が、そのまま、寄稿者間の関係にも適用される。寄稿者たちは、自己に固有の「近しさ」の感覚を他の寄稿者たちに期待してはならない。そしてこの通約不可能な「近しさ」の感覚を内に秘めた「この私」の複数である寄稿者たちは、お互い、感情的な「近しさ」に彩られた偽りの社交性を拒絶しなければならない。

認識的な「近しさ」の否定は、告白の誠実さにおいて、心理的な「近しさ」の拒絶に帰結する。さもなくば、そこに誠実さはなかったということになる。そういう厳しい考え方を、ベンヤミンはここでしているものと見える。

私の最深部の暗がりに潜む親密さの領域において見出される私秘性、それに由来する共同性は、私以外の誰にも理解できない。ゆえに本誌の共同性は「きわめて語りにくい」。同時に、共同性の根拠であり源泉である「この私」は、特定の時空間に制約された、最上級の果敢ない存在にすぎない。通約不可能性の集合を束ねる紐は、だから、たしかにある。しかし、この紐は、このように目に見えないほど細く、切れやすい。端的には果敢ない。この果敢なさは、「この私」の存在論と価値論に支えられた「真のアクチュアリティ」をこの雑誌が狙うことの余儀ない代償なのである……。

以上である。最後に率直な感想を言えば、ベンヤミンの文章は、典型的な机上の空論であるという印象が強い。自分がいいと思うものを、詰め込めるだけ詰め込んでいる。発刊の辞の類は、どれもだいたいこういうものであって、こういうものであることを免れないのかもしれないけれど……。その一方で、また、こうも思う。これが思い入れの強すぎる空論であることを、ベンヤミンが意識していなかったはずがない。むしろ彼は、雑誌の予告として、このエッセイが机上の空論であることを十分に意識しつつ、存分に楽しみながら、これを書いたのではないか。あるいは書いている途中は本気だったとしても、書き終えて読み返し、ひとり苦笑したのではないか。

最初に書いた通り、この雑誌は結局、実現しなかった。理由は、依頼主の経済状況の悪化によると言われている。雑誌を創刊するという計画は、ほかにも、ブレヒト、ブレンターノをパートナーに持った『危機と批評』の構想をはじめ、彼の周囲で何度か持ち上がったようだ。けれど、残念ながら、「結局どれも、ベンヤミンの人生に典型的だが、実現しなかった」(三島憲一ベンヤミン――破壊・収集・記憶』p.179)。

新しいグーグル翻訳と翻訳者の失業

仕事が一段落したので、話題の新Google翻訳を試してみる。まずは古典的な例文を投入。上が入力、下が出力(以下同様)。

1) He saw a woman in the garden with a telescope.
彼は望遠鏡で庭の女性を見た。

おー。

2) He saw a woman with a hammer.
彼はハンマーで女性を見た。

あー。

3) 彼は世界中に友達がいる。
He has friends all over the world.

おー。

4) 彼は日本中に友達がいる。
He has a friend in Japan.

あー。

フランス人翻訳者の日仏翻訳をチェックしていると、ときどき連体修飾節に関する判断を誤っているのに出くわす。たとえば、「サリンが分解した物質」という日本語文で、「分解する」を他動詞と判断し、「サリンが分解した」と「物質」の関係を内の関係ととらえてしまう。でもこれは実際は「サリンが分解した結果生じた物質」、つまり自動詞かつ外の関係なのである。ここには二重の曖昧性がある。グーグル翻訳ではどうなるか。

5) サリンが分解した物質
Substance decomposed by sarin

失敗だ。もうひとつ試してみよう。

6) 彼は新聞を買ったお釣りを落とした。
He dropped the fishing that bought the newspaper.

「お釣り」が「フィッシング」とされている。で、その「フィッシングが新聞を買った」。一見なんの変哲もない文だけれど、じつは曖昧であることが機械にかけるとはっきりする。

訳文で直訳的な構文を採用した場合において、その構文が成り立つうえで必須の情報が原文に欠けているときも、人手で誤訳の可能性が高まる。たとえば、いわゆる「主語の省略」のある日本語文を仏語や英語に訳す場合、非熟練翻訳者は物理的に近いところにある名詞を無理やり引っ張ってきて訳文の主語に据えたりする。5のような外の関係も、場合によっては情報の欠落したケースと考えることができるかもしれない。次の例は内の関係と解釈できるけれど、動作主情報が欠落している。どうなるか。

7) 抱かれたい男
The Man Who Wants to be Embraced

原文で「(女性がその男に)抱かれたい」という意味が、訳文では「(その男が誰かに)抱かれたい」という意味に変わってしまった*1。文にしてみる。

8) 今年の抱かれたい男は斎藤さんです。
Saito is the man that I want to embrace this year.

「斎藤は今年私が抱きたい男です」。主語として「I」が補充された。あと、「抱かれたい」が「抱きたい」になっている。つまり受身が能動態に訳されている。

9) 今年抱きたい男は斎藤さんです。
Saito is the man that I want to embrace this year.

上とまったく同じ訳文が生成された。「れる・られる」は能動態に訳されがち? いや、そういうわけではないようだ。

10) 猫に足を噛まれた。
The cat was bitten by my feet.

受動態。ただし、噛む・噛まれるの関係がひっくりかえってる。「猫が私の足に噛まれた」。不条理だ。似たような文を入れてみる。

11)猫に足を噛まれる。
Cats are bitten by a cat.

「猫」が分裂した。こうした分裂は「斎藤さん」文のバリエーションでも起きる。

12) 一昨日、本年の抱かれたい男が斎藤氏に決定した。
The day before yesterday, Mr. Saito decided Mr. Saito to be embraced this year.

よく分からない。

現状、機械翻訳は文単位のペアで学習しているということなので、先験的な話だと思うけれど、文間の結束性や照応、文より広い文脈は考慮されない(この点については2016年9月27日付のGoogle Research Blogでも指摘されている)。でもいちおう試す。夏目漱石は欧文脈の比較的シンプルな文章を書く。「道草」の一節を訳してもらおう。

13) 彼は途々自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行してい なかった。
He has always thought of his work. The work never progressed as I intended.

1文目の「自分」は「his」と正しく訳されているが、2文目の「自分」が「I」になってしまった。

次は「吾輩は猫である」から、有名な出だしの部分。

14) 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
I am a cat. There is no name yet.

一昔前の翻訳ソフトで、実際にこう出力するものがあったらしい。これなんか、翻訳結果を日本語に訳し戻して、

15) I am a cat. There is no name yet.
私は猫です。名前はまだありません。

となるのを確かめて、「完璧?」とか思う人もいたりして。

英仏翻訳も試してみる*2Google Research Blogで、英仏は高い精度が掲げられている(人手評価)。まずは従来型のシステムでもある程度うまくいきそうなものから。Noam ChomskyのSyntactic StructureのPrefaceの冒頭の2行。

16) This study deals with syntactic structure both in the broad sense (as opposed to semantics) and the narrow sense (as opposed to phonemics and morphology). It forms part of an attempt to construct a formalized general theory of linguistic structure and to explore the foundations of such a theory.
Cette étude traite de la structure syntaxique à la fois au sens large (par opposition à la sémantique) et au sens étroit (par opposition à la phonémie et à la morphologie). Elle s'inscrit dans une tentative de construire une théorie générale formalisée de la structure linguistique et d'explorer les fondements d'une telle théorie.

かなりいい感じである。原文の「(in) the narrow sense」が、きちんと「au sens étroit」と訳されている。また、2文目の主語代名詞(Elle)の性が、1文目の主語(Cette étude)と偶然にも一致している。

では、英仏語間で逐語訳ができないような文はどうだろう。たとえばフランス語は、能動態の文で間接補語になる要素を主語にして受動態の文を作ることができない。だから、英語の「He was laughed at.」のような簡単な文でも訳すのに工夫がいる。

17) He was laughed at.
On le riait.

Onを主語にして能動文に直すのはいいとして、rireは自動詞または間接他動詞だから、この文は無理(On riait de luiとかならいい)。

18) He was laughed at by all of his classmates.
Tous ses camarades de classe se moquaient de lui.

成功。ただし、受動態を能動態に直しているので、単独の文なら問題ないけれど、文章に組み込まれると流れが悪くなる場合もあるだろう。

19) Thomas was laughed at by everybody.
Thomas se moquait de tout le monde.

こちらは失敗。「トーマスはみんなに笑われた」が「トーマスはみんなのことを笑っていた」になっている。

20) The doctor was sent for.
Le médecin a été envoyé pour.

これも失敗。受動態のまま逐語訳するとこういう感じになる。フランス語文として破綻。

別の構文も試そう。フランス語は、英語と違い、間接補語には基本的に前置詞を付けなければならない。だから英語の二重目的語構文のように名詞を並べることができない。

21) Thomas sold Mary his car.
Thomas vendit à Mary sa voiture.

22) Thomas sold Alfred his car.
Thomas a vendu Alfred sa voiture.

メアリーに売るのは成功、アルフレッドに売るのは失敗。同じ構文でも結果が違ってくるのは、ニューラルネットワークを使った機械翻訳では統辞構造を考慮しないという話だから、当然といえば当然なのだろう。

最後、仏英翻訳は精度が高いということなので、少し長めのフランス語文を英語に訳し、それをさらに日本語に訳してみる。

23) Secteur prospère, qui ne pâtit pas d'un environnement politique consternant, la beauté développe des dispositifs très divers pour convaincre de ses talents une clientèle essentiellement féminine, mais où l'homme prend une place grandissante : les codes des aménagements intérieurs, comme ceux des aspects graphiques et de flaconnages intègrent désormais cette dimension.
A prosperous sector, which does not suffer from an appalling political environment, beauty develops very diverse devices to convince its talents of a predominantly female clientele, but where man takes a growing place: codes for interior fittings, such as those for Graphic and flask aspects now integrate this dimension.

24) A prosperous sector, which does not suffer from an appalling political environment, beauty develops very diverse devices to convince its talents of a predominantly female clientele, but where man takes a growing place: codes for interior fittings, such as those for Graphic and flask aspects now integrate this dimension.
悲惨な政治環境に苦しんでいない繁栄した部門は、優秀な女性顧客の才能を納得させるために非常に多様なデバイスを開発していますが、人間が成長を続ける場所:グラフィックやフラスコのような内部装備のコード 今この次元を統合する。

まず仏英の段階で原文の2つの目的語の関係が入れ替わってしまった(「convaincre A de B」→「convince B of A」)。英日の後半部は支離滅裂。拙訳は下のとおり。

ショッキングな政治情勢にも動じることなく、繁栄を続ける化粧品業界。この業界は、さまざまなやり方で、自分たちの魅力を消費者に訴えている。主なターゲットは女性客。だが、男性客も増加傾向にある。それゆえ、グラフィック・デザインや容器のみならず、内装のコンセプトにおいても、いまや男性客が意識されている。

新しいGoogle翻訳では、「今年の抱かれたい男は斎藤さんです。」と「今年抱きたい男は斎藤さんです。」が同じ英文に訳される。「トーマスはみんなに笑われた」という意味の英文が「トーマスはみんなのことを笑っていた」という意味の仏文に訳される。注意力が散漫な人みたいだ。人間の翻訳者が原文をざっと流し読みして、あとは記憶だけに頼って訳文を作ったらこうなるのではないかというような。記憶だから当然、モレがある。細かいつながりも忘れている。「おおまかな訳」という意味で使われる「意訳」に近いといえるかもしれないけれど、大意の把握だとか、内容を理解した上での要約だとか、そういうのとは違う。もっとふわっとしたもの。そんな印象。

以上、現状確認。

ところで、このあいだ、こういうタイトルの仏語ブログ記事を見つけた。「テクノロジーが翻訳者を失業させる?

ただし、2015年2月24日付の記事なので、統計的機械翻訳の話が中心。2人の研究者の言葉が紹介されている。まずはモントリオール大学で自然言語処理を研究しているPhilippe Langlais教授。この人はこう言っている。「(コンピュータが人間の翻訳者と同じくらい有能になるのは)不可能だと思う。そんなことができるとすれば、人工知能の問題も解決している」。

もう一人、モントリオール理工科大学のMichel Gagnon教授によれば、統計的機械翻訳でも「80%、いや90%のスコアも達成できるだろう。残念ながら、あと10%がアルゴリズムでは難しい。そして多くの場合、この10%が理解の肝になるのだ」

その一方で、こういう事実もまた厳としてある。「西洋史を見れば、80パーセントなり90パーセントなりのそこそこの翻訳が文化を動かしてきたと言って過言ではありません」(柴田元幸「翻訳――作品の声を聞く」『知の技法』p. 64。原文は「そこそこ」に傍点)。

きっと近い将来、ニューラルネット機械翻訳を使えば、だれでも外国語の内容が「そこそこ」分かるようになる。文化的、経済的、その他もろもろ、インパクトがないわけがない。

翻訳の仕事はどうなる? ちゃんとしたエージェントの場合、むしろ増えるのではないかという気がする。これは和訳の話だけれど、お金を払って翻訳の仕事を発注する人っていうのは、大抵「そこそこ」原文が読める。ものすごく読める人もいる。まったく読めないと発注できない。Google翻訳のおかげで、「そこそこ」読める人が増える。発注者予備軍が増えるということだ。「そこそこ」読んでしまえば、きちんと読みたくなる。それが人情というものだ(?)。



例文の画面キャプチャはここにまとめた。

*1:ちなみに「女性が抱かれたいと思っている男」で試すと「A man who wants to be held」となり、「女性」が訳されない。こうした「訳漏れ」が起きることも2016年9月27日付のGoogle Research Blogに書いてある

*2:仏日・日仏はまだ稼働していない

こねこ文、あるいはシニフィアンとシニフィエの結合不良

互盛央「蓮實重彦のイマージュ、反イマージュの蓮實重彦」を読む。工藤庸子編『論集 蓮實重彦』に収められた文章のひとつで、蓮實重彦「「魂」の唯物論的な擁護にむけて」を主題的にとりあげている。この蓮實の論考、90年代の初め5号まで刊行された雑誌、ルプレザンタシオンの最終号に掲載されたものである。手元にあるので発行日を確認すると、互のいうとおり1993年11月25日。当時わたしは会社勤めをしていた。バレリーナ相手にレオタードやトゥシューズを売っていた。内容のある文章を読む時間なんてほとんどなかったけれど、この号はなぜか書店で手に取り、蓮實のを立ち読みし、買って帰ったのだった。互と同じく「丸山圭三郎の記憶に」と献辞のあるのが気になったのかもしれない。

さて、互のエッセイである。つかみの挿話から面白く、するする読み進めていたのだが、ある箇所で引っかかった。フェルディナン・ド・ソシュールの一般言語学講義に出席していた学生の一人、エミール・コンスタンタンのとった聴講ノートの引用が出てくるところ。ノートの原文はフランス語なので、翻訳なのだが、その訳文がひどく難解なのである。

この注意を付け加えよう。そうすることで私たちは、ありうべき曖昧さなしにその全体、
[シニフィエシニフィアン]
を示す、不在を嘆きうる語を手にしないだろう。(記号辞項など)どの用語が選ばれるにせよ、脇に滑って一部分しか示さない恐れがあるだろう。おそらく、そんな用語はありえない。
言語(ラング)では、ある用語が価値の観念に適用されるとすぐに、横線の一方の側にいるのか、もう一方の側にいるのか、それとも同時に両方の側にいるのかを知ることはできなくなる。
だから、誤解の余地なく連合を示す語を手にするのは非常に困難。
(互盛央「蓮實重彦のイマージュ、反イマージュの蓮實重彦」、工藤庸子編『論集蓮實重彦』pp. 239-240、太字は原文で傍点の付された字、[シニフィエシニフィアン]は横長の楕円が一本の横線で上下に区切られた図であって上側に「シニフィエ」、下側に「シニフィアン」と記載のあるもの)

冒頭、「この注意を付け加えよう。そうすることで」とある。この「そうすることで」の「そうすること」は、直前に記された一つの行為を指していると考えられる。つまり、「そうすることで」は「この注意を付け加えることで」と同義である。そうとしか読めない。「この注意」がどの注意か不明だが、とにかく、ここでソシュールは何らかの意図をもって聴講者たちに呼びかけている。注意せよと。

ところで、一般的に人は、他人から「注意せよ」といわれた場合、どのようなことを考えるだろう。その「注意」を払うことによって、危険を未然に防ぐことができたり、物事の新たな側面に気付いたりといった、労力に見合った恩恵に浴することを期待するのではないか。では、この場合、つまり一般言語学講義という場において、恩恵とはどのようなものでありえるだろう。たとえば、「ありうべき曖昧さなしにその全体、[シニフィエシニフィアン]を示す、不在を嘆きうる語」を手にすることなどが、そのような恩恵の一つでありえるだろう。ところがである。互の訳文によれば、聴講者たちは、わざわざ追加的な注意を払うことによって、このような恩恵的な語を「手にしないだろう」。一体なぜソシュールは、そんな無意味な注意を払うことを求めているのか。

難解すぎる翻訳はいくらでもある。だから単に難解すぎるというだけなら、わざわざ論うことはしない。不思議に思ったことがあるのだ。それは、この難解すぎる訳文を載せた互が、出典として、引用元の原文だけでなく、すでに存在するその日本語訳の対応箇所を明記していることである。つまり、コンスタンタンの聴講ノートには既訳が――少なくとも二つ――ある。そして互が「文献」欄に掲げている既訳の訳文は、読んでみると、互自身のものと違い、ふつうに意味の通じる日本語になっている。互は、このふつうに意味の通じる訳文に目を通しているにもかかわらず、同じ原文[註1]を――敢えてなのか何なのか――ほとんど意味の通じない形に訳出し、自分のエッセイに引いているのだ。

互の参照している影浦峡田中久美子の訳文は次のとおりである。

次の注意を付け加えておきましょう。すなわち、残念なことですが、これでもまだ、私たちは、シニフィアンシニフィエの結びつきを曖昧性なく示す言葉を手にしていません。


(記号、項、語など)どのような用語を選んでも、この総体の傍らをかすめるだけで、その一部しか指し示さない危険がある。[シニフィエシニフィアン]


おそらく、適当な用語がないのです。言語においては、価値という概念に用語を当てはめるや否や、境界の一方の側を示すのか、もう一方の側を示すのか、二つを一度に表しているのかが、わからなくなります。したがって、曖昧性なくこの結び付き
[シニフィエシニフィアン]を表す語を得るのは大変難しいのです。
(『ソシュール一般言語学講義――コンスタンタンのノート』影浦峡田中久美子訳pp. 118-119、[シニフィエシニフィアン]は原文では横長の楕円が一本の横線で上下に区切られた図であって上側に「シニフィエ」、下側に「シニフィアン」と記載のあるもの)

これなら分かる。我々はまだ、シニフィアンシニフィエの結合体であるところのそれをズバリ言い表すことができていない。残念だ。でも、そんなことのできる言葉なんて、実際のところ存在しないのではないか。ソシュールはそういっている。この点に関し、難しいところはない。互は、このように意味のきちんと伝わる訳文を確かめておきながら、このようには意味をとることのできない、前記のような晦渋な訳文を提示している。どうして互は自分の訳文を直さなかったのだろう。

この聴講ノートの一節は、互のエッセイ中、蓮實重彦の言葉に「端的」な「間違い」が含まれていることを示すための証拠として引かれたものである。しかも引用は、「これを読めば蓮實の誤りは明らかだ!」といわんばかりに、内容について何の注釈もなく、それだけが投げ出される形になっている。でも分からなかった。

いや、もちろん互も、自分の訳文が既訳よりも読みやすい、分かりやすいものになっているとは考えていないだろう。おそらく読みにくい、分かりにくいものだと考えているだろう。けれど逆にいえば、自分の訳の欠点は、この程度のもの――ちょっと分かりにくいだけ――だと考えている。そして、この程度の些細な欠点を補うだけの意義が自分の訳文には備わっていると考えている。たとえば、「生硬だが語学的に正確」ないし「原文に忠実」な訳文であると考えている。たしかに分かりにくいところがあるかもしれないが、読む人が読めばちゃんと分かるはずだ。自分の訳は、影浦・田中訳と、本質の部分で重なり合っている。想像するに、互が訳文を直さないのは、こんなふうに考えてのことなのではないか。エッセンスは伝わっているのだからこれでもう十分だと。

けれど互盛央の訳文と影浦・田中の訳文とを照らし合わせてみれば、両者がその意味的本質において等しくなっているとは、だれも思わないだろう。原文にあたることなく、前者の訳文だけを材料に、後者の訳文を引き出すことは不可能だ。前者の訳文の言葉をきちんと理解しようとすればするほどそうなのである。

互訳は、学校英語式、英文和訳式の、いわゆる「直訳」に近いものであり、ある程度の長さを備えた原文に「直訳」式が機械的に適用された場合によく見られる、単なる晦渋さを超えた意味の歪みを伴っている。しかし、繰り返すが、問題はここにはない。問題は、この明らかに不備欠陥を抱えた訳文を、それよりも妥当性の高い訳文を目にしておきながら、そのまま放置する、その姿勢のほうにある。この姿勢が悪いというのではない。不思議なのだ。このような姿勢を許す、言語活動に係る現実の、その不思議さについて問いたいのである。

この不思議な言語活動の及ぶ圏域は、翻訳の場に限られない。佐々木中との対談で、保坂和志が、自作『生きる歓び』の一文だと称して、次のような文を示している。

私は子猫の動くのを見ていると、いつもハ虫類みたいだ。[註2]

そして、こう語る。

この文章、変だって言われるのね。「いつもハ虫類を思い出す」とか「連想する」にしろという直しが入る。最近思うんですけど、こう書いても、そういう風に直せたっていうことは、通じているわけですよね? (中略)直せるっていうことは、そう読めているということだから、書いてあるということと同じことで、それでいいじゃないかという。
(「小説の言葉、思想の言葉」、佐々木中『この日々を歌い交わす』p. 11)

「直せるっていうことは、そう読めているということだから、書いてあるということと同じ」。先に見た互の訳文は、影浦・田中訳の形に「直せる」ものではないが、この違いは主観と客観の違いにすぎない。つまり、互本人は「直せる」と思っているはずなのであるから、互盛央と保坂和志との間には、言葉の取り扱いにおいて、共通の姿勢があるといっていいだろう。ちょっと不自由な文だとしても、十分伝わる(と思われる)のであれば、整った文に直す必要はない。そういう判断がある。

ただ、ここで一点注意しなければならないことがあるとすれば、保坂の場合、「直せる」とはいっているものの、実質的には「直せない」と考えているということである。「私は子猫の動くのを見ていると、いつもハ虫類みたいだ。」(以下、この文を「こねこ文」と呼ぶことにする)という文と、たとえば「私は子猫の動くのを見ていると、いつもハ虫類を思い出す。」という文が、「同じ」であるとは、じつは考えていない。文の入口をA、出口をBとする。そういって、次のような意見を述べている。

こうやって書いちゃったっていうことは、書いてる自分としては、この状態にいるAとBで気分が変わってるんです。それを、ここがつじつまが合うような、これはここで断絶しているっていう意味なんだけど、ここで断絶していないセンテンスにこだわると、このAからBへの気持ちとか思考の移動がうまくいかないんだよね。とにかく書くというこの時間の中で、書いている人間にとって大事なのは何なのかというと、このAからBへ移動することだと思うんです。
(前掲p. 12)

「AとBで気分が変わっている」。通りのいいセンテンスに直すと、こうした変化、運動、AからBへの移動の軌跡が消えてしまう。つまり、書き手の主体的側面の表出という水準では、修正前と修正後のセンテンスは「同じ」ではない。「ズレた文章」の「ズレ」具合を、単に「きれいな文章」からの逸脱、偏差、隔たりとしてではなく、それそのものとして余すことなく味わい尽くすことを保坂は、保坂の読者に求めている。「こういうズレた文章は読みたくない、俺はきれいな文章が読みたいんだとかっていうさ、そういう人は読者にいらないわけ」(前掲p. 32)

内容とは別に、書き手の「気分」「気持ち」「思考」の動くさまが言葉に反映するという見方は、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で提示したコンセプト――「指示表出」に対置された「自己表出」、「意味」に対置された「価値」――に重ね合わせることができるだろう。保坂は、吉本語でいえば、「意味」ではなく「価値」の次元での言葉の受容、作品の享受を読み手に期待しているわけだ。

しかし、互盛央、保坂和志という二人の言語使用者に限定的な言葉の使い方を超えて、とりあえずは「日本語」と呼ばれる言語の圏域において確認される現実を可視化するには、「意味」と「価値」、この二つの概念に、互のところで「エッセンス」と呼んでおいた第三の次元を概念化し、これを加えた三分法により、言語活動を考えてみるのが有効だと思われる。

『言語にとって美とはなにか』で、吉本はこういう例を挙げていた。「海だ。」と「海である。」。この二つの文を読み比べたとき、日本語話者であればだれでも、ある観点から見れば両者は「同じ」だが、別の観点から見れば「同じ」でないと感じるはずだ。前者の観点が「意味」の観点であり、後者の観点が「価値」の観点である。「海だ。」と「海である。」は、吉本の術語で「意味」は同じだが「価値」は異なるということになる。

この前提に立ち、いまここで「エッセンス」というカタカナ語でとらえようとしているのは、「意味」の観点からも「同じ」とはいえない言表間に、ある種の精神的態度のもと設定される同一性のことである。

たとえば保坂は、こねこ文をそれとは別の自然な表現に「直せる」というが、実際には、相当の確実性をもって一定の文に直すことはできない(こねこ文はこの点で「言い間違い」の類と異なる)。「連想する」と「思い出す」は同じ意味ではないだろう。つまり「エッセンス」とは、「連想する」と「思い出す」の間、あるいは「手にしないだろう」(互盛央の訳文)と「手にしていません」(影浦峡田中久美子の訳文)の間にある明白な意味の違いがどうでもいいものとして消去されるような次元での言葉の交換にかかわる要素である。

こういうふんわりした言葉のやりとりの傍らで、言葉に対して厳しく反省的な姿勢を示す人々がいないわけではない。けれど彼らが言葉のふるまいを精密に観察するという構えをとるとき、すぐに持ち出されるのが話者の主体性、その思考や心情の動き、あるいは聞き手の身体性への働きかけといったものであるのはどういうことなのか。視線が言語を突き抜けてしまうのである。これは時枝誠記もそうだし、三浦つとむもそうだ。ある意味では森有正もそうかもしれない。吉本隆明は顕著にそうだし、すでに見たとおり保坂和志もそうなのだ。

日本語の体をなしていない、意味のよく伝わらない言葉であっても、なんとなく分かるのだからそれでいい。言葉を観察するとは畢竟言葉の外部を観察することにほかならない。この二極的な言葉に対する態度から抜け落ちているものは何か。言語の言語的存在である。「日本語」の圏域においては、言語が言語であることが、頑強な抵抗にあっているようなのだ。「言語というようなものはない」という吉本隆明の言葉、あるいは「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」という山城むつみの言葉は、こうした言語の軽視、無視、あるいは言語に対するぞんざいな扱いの、その根にあるものへの鋭い嗅覚がいわせたものなのではないか。

(続く)

※註

註1
厳密には同じじゃないみたい。影浦峡田中久美子訳は、手書きのノートを原稿に起こして訳したそうだ(すごい)。互盛央氏は、エングラーの校訂版を底本としながらも、最新の校訂版ソシュール研究誌58号)を参照して訂正を加えている。後者、最新の校訂版に基づく原文は次のとおり。エングラー版と微妙に違う(どっちの校訂版Google ブックスで見れた)。

Ajoutons cette remarque : Nous n'aurons pas gagné par là ce mot dont on peut déplorer l'absence et qui désignerait sans ambiguïté possible leur ensemble
[signifié / signifiant]

Probablement qu'il ne peut pas en avoir.
Aussitôt que dans une langue un terme s'applique à une notion de valeur, il est impossible de savoir si on est d'un côté de la barre ou de l'autre ou des deux à la fois.

主な違い。上で太字の「barre」がエングラー版では「borne」になってる。また、「pas en avoir」がエングラー版では「pas y en avoir」。山括弧は加筆箇所であることを示すよう。影浦峡田中久美子訳『ソシュール一般言語学講義――コンスタンタンのノート』の口絵にある原ノートの写真(ちょうどこの一節が含まれる見開きのものだった)で確認すると、該当箇所は文字が小さくて、色も若干濃い。

拙訳はこんな感じ。

注意しておきますが、以上のようにしたからといって、私たちがその不在を嘆いて然るべき一つの語、シニフィアンシニフィエからなる全体を曖昧さなしに示すことのできる、そうした語が手に入ったということにはならないでしょう。
(どんな言葉を選んでも――たとえば「記号」だろうが「項」だろうが「語」だろうが――狙いが外れ、片方しか示さないおそれがある。)
たぶん、どうしたって無理なんです。
どんな言語であれ、ただ何か言葉をあてがうだけで、その価値的概念が横棒の上を示すのか、下を示すのか、あるいは両方まとめて示すのか分かってもらうなんて、そんなことできっこありません。
([シニフィアンシニフィエ]の連合を曖昧さなしに示す語を手に入れるのは非常に難しいということ。)

この日、すなわち1911年5月19日の講義は、ソシュールが「シニフィアン」「シニフィエ」という二つの語を初めて口にした回として知られている。言語記号の性質を明確に定義するため、これまで「聴覚イメージ」と呼んできたものを「シニフィアン」と呼び、「概念」と呼んできたものを「シニフィエ」と呼ぶことにする。ソシュールは、そう語ったあと、引用部にあるような「注意」を喚起したのだ。

なお、引用部直前には山括弧に入った1文があって、こう書いてある。「これまで単に『記号』と呼んできましたが、この語ではまだ曖昧でした」。原文は「)」。エングラー版でデガリエのほうのノートを見ると、これとほとんど同じ文が本文扱いされている。原文の「par là」は、この文をじかに受けていると解釈できる? だとしたら、拙訳中「以上のようにしたからといって」は、「この呼び方ではやはり」に置き換えたほうがいいかも。影浦・田中訳の「これでもまだ」という訳し方は、指示の範囲を広くとることも狭くとることもできて上手いと思った。

最後、「Aussitôt」で始まる文の解釈について細かい論点を2つ挙げておきます。

まずは、従属節(Aussitôt節)が主節全体にかかっているか、それとも動詞savoirだけにかかっているかという問題。互訳、影浦・田中訳の解釈は前者、わたしは後者。

次に、「une notion de valeur」中のdeの用法について。互訳、影浦・田中訳では同格用法と解釈されているように見える。わたしの場合、この文脈でそれは難しいと思った。

註2
どうでもいいけど、この文、単行本の『生きる歓び』にはないよね(初出は未確認)。『未明の闘争』連載中の保坂氏が即興的に作ったものかもしれない。こねこ文として含まれているのは下の文。

この子猫にかぎらず子猫は一般に手足が細く、しっかり足場を確かめるためにいっぱいに前足を伸ばすその姿が私はいつもヤモリを思いだす。


La phrase-koneko* ou la disjonction du signifiant et du signifié

« Une chose telle que LA langue n'existe pas. » a dit l'écrivain, poète et penseur japonais Yoshimoto Takaaki (1924-2012). Cette formule a l'air impossible et presque ridicule. Malgré cela, au Japon, il n'est pas le seul à penser ainsi (tout comme Davidson ? Mais non !). Évidemment, la langue, même japonaise, existe. Sans surprise. C'est une réalité (sociale ? psychologique ? physique ?). Que veut dire alors Yoshimoto par là ? En fait, il a remis en cause l'idée de système des signes, ou le statut des signes japonais, je pense. Afin de décrire cet état de choses, j'ai d'abord recours à un triptyque conceptuel sémantique : le sens, la valeur et l'essence. Décryptage du (dys)fonctionnement des signes dans l'Empire des signes.

(*)Le mot koneko signifie en japonais « chaton ».