日本語のための第三空間――主語論の余白に

日本語文法学会編『日本語文法事典』(2014年)では「主語」の項を3つ立てている。そのうちの1つに、「日本語に主語はないという主張は、主語を専ら統語上の概念だと決めてかかる観点に立つものである」(p.267)とあって、ちょっと考え込んでしまった。

というのも、自分はこう考えているからである。日本語に主語はない。なぜなら日本語で主語と呼ばれるものは、統語上の概念ではないから。

英語やフランス語の主語(subject, sujet)は、文の成分として必須である。文の成立のため、動詞と並び立ち不可欠の名詞句を主語という。だから、主語がなければ、その文は非文となる。しかるに、こうした名詞句は日本語の文には存在しない。よって日本語に主語は存在しない。シンプルな話ではないか?

金谷武洋『日本語に主語はいらない』(2002年)が出たとき、最初タイトルだけを見て正直なにをいまさらと思ってしまったのだが、右のようにはっきりと言えるようになったのは、この本のおかげである。

そこで金谷は、「多くの印欧語において、主語は客観的に観察できる構文的概念である」(p.62)と指摘した上で、主語であることの一番大事なメルクマールとして、「基本文に不可欠の要素である」という点を挙げていた。

この立場は、フランスの言語学者マルチネの考え方を踏まえたものである。このあいだ書類の整理をしていたら、学生の頃フランス語学の授業で読んだプリントが出てきた。アンドレ・マルチネ『フランス語の機能文法』(1979年)の一部なのだが、主語について、次のように書いてあった。

フランス語で、ある言表に動詞が1つ、名詞類が1つしか見えないとき――例えば「La pendule marche」や「Elle marche」において――この名詞類が担う機能を「主語」と呼ぶ。ただし、この呼び名は習慣的なものであり、このように呼ばれているという事実から、結論じみたことを引き出そうとしてはならない。主語だからといって必ずしも言表の中心的な主題というわけではないのだ。だからこそ、主語機能は通常、この機能を担う名詞類が動詞に対して一定の位置をとることによって識別することができる。


言表が動詞1個のほか複数の名詞類を含み、各名詞類が動詞との間にそれぞれ異なる関係を取り結んでいる場合――例えば「Le chien suit son maître」「Il suit son maître」「Il le suit à la chasse」――においても、名詞類のうちのどれか1つは必ず、形式的に識別可能な主語機能を担っている。


つまりフランス語では、動詞(「人称法」のもの)はいつも、主語機能を担う名詞類を伴う(命令法については§2.34を参照)。したがって、主語機能の頻度は極めて高く、当然、最も経済的な方法で表現されることになる。すなわち、特別な記号素の介在を要しない。フランス語では通常、動詞に対して前置されるだけである。
(André MARTINET, Grammaire fonctionnelle du français, p.158拙訳)

「主語」を意味する「sujet」という語は、フランス語では「主題(thème)」という意味でも使われるのだが、そのことに気を取られてはいけないと、まずはじめマルチネは指摘している。主語機能を果たす要素を「sujet」と呼ぶのは、あくまで習慣の話であって、この呼称から意味論的な含意を汲み取るべきではないと。動詞に寄り添う名詞が1個であるのなら、その名詞がとる位置(動詞の前)、ただそれだけによって、主語であることが認定される。意味について考える必要はない。

これは名詞が複数あっても変わりがない。つまり、どの名詞が主語であるのかは、やはり意味に頼ることなく、形式の次元(位置、形態、前置詞の有無)において確かめることができる。どれが主語なのか、主語があるのかどうか、深く悩む必要はない。フランス語の主語に謎めいたところはないのだ。

主語は、その本質を定義しようとすれば、それなりに難しいのかもしれないが、その存在については、自明なのである。文の構造上、主語が分からなければ、英語やフランス語の文章は、1文たりとも読むことができないはずだ。

最後、3つ目の段落には、こう書いてある。フランス語の動詞は、不定法や命令法以外の構文――ざっくり言って基本文――であれば、必ず主語を伴う。それは「動詞に対して義務的に付加されるもの(addition obligatoire au verbe)」(MARTINET p.159)なのである。頻繁に使われるものであるから、使い方も簡単なほうがいい。前置詞はいらない。動詞の前にポンと置けばいい。

ここで、主語の位置がこのようであることが、主語の必須性から導かれていることに注意したい。つまり、主語が動詞に対して前置されるというのは、主語であれば備えている蓋然性の高い性質であるにすぎない。こういう蓋然性の高い性質――「主語らしさ(subjecthood)」――は、ほかにもたくさん挙げることができるだろう。例えば、主格であること。しかし、仮に主語が常に主格であるとしても、主格であれば常に主語であるわけではない。換言すれば、主格であることは主語であることの十分条件ではない。そういうことになる。

マルチネによる主語の規定は、金谷の言うとおり「驚くほどシンプルであっけない」(金谷p.58)。例えば主語廃止論を唱えた三上章であれば、主語の格(主格)の特別であることや優位であることを言うが、マルチネは、そんなことは言おうとしない。動詞に随伴して必ず現れる名詞で、形式的に同定可能なもの。これが主語であるとされる。

こうした潔癖な姿勢からただちに読み取れるのは、マルチネが、言語から意味的な外被をできる限り削ぎ落とそうとしているということだ。

意味的な外被とは、端的に論理学のことである。つまり、文の構造に命題の構造を重ね合わせる思考のスタイルだ。「主語(sujet)」は単なる呼び名にすぎないと言い、「主題(thème)」とは無関係だと言うとき、マルチネは、こうした論理学的偏見を否定しようとしていると考えられる。

文の成立に不可欠な要素の一方を「主語」と呼び、他方を「述語」と呼んだとき、すでに文は――言葉は――そのありのままの姿において見られていない。論理学的偏見は、文の構造に命題の構造を投影する。それだけではない。こうして事後的に外部から投影した映像を、文の骨格、内部構造の反映であるとみなすのである。典型的な例として、17世紀フランスのポール・ロワイヤル文法を挙げることができるだろう。「Pierre vitと言うのはPierre est vivantと言うのと同じことである」(ランスロー=アルノー『ポール・ロワイヤル文法』南館英孝訳p.108)。

「Pierre est vivant」という言表は、三上章も指摘するとおり、「フランス語としては非常に不自然な語法」(「近代論理学抄」『象は鼻が長い』新装版p.212)である。また、ノーム・チョムスキーも、『デカルト言語学』の注で、この「根底にある構造」が「現実の文と同一視されていない」(p.141)ことに注意を促している。西欧の見方で動詞文がコピュラ文に還元されることを説明するにあたり、時枝誠記以下一様に「The dog runs.」から「The dog is running.」あるいは「The dog is in the state of running.」への「変形」を例示しているが、このような座りのいい英文では、論理学的解釈の強引さと、その抽象性、非現実性がだいぶ薄まってしまうのではないかと思われる。

あらゆる動詞の下にestre(être)が潜在している、すなわち、あらゆる文にS-P構造が隠れているとする「一般・理性文法」では、「命題」とは「判断」、すなわち、「認識」された「二つの事項」を結び付けることである。逆に言えば、「判断」であるからには、必ず「認識」由来の「二つの事項」、すなわち「主部」と「述部」を備えていなければならないということになる。そして「判断」とは「命題」であり、「命題」とは「文」の内部構造なのであるとすれば、「文」には必ず「主部」と「述部」に対応する部位が存在するということにもなる。

『日本語文法事典』の「主語1」の項で、尾上圭介が「述定文(述語を持つ文)には、表面上主語が現れていない場合も含めて、原理的に必ず主語があると、ほぼ言ってよい」と述べる際の「原理」とは、以上のような形而上学の原理のことを言っていると考えていいだろう。

主語-述語の関係は、認識の側面で言えば、〈認識の対象〉-〈認識の内容〉という関係である。この関係を存在の側面で言えば、〈存在するもの〉-〈存在の仕方(在り方)〉という関係であると言うことができる。(中略)〈認識内容〉があるのに〈認識対象〉がないということはありえないし、〈存在の仕方〉だけあって〈存在するもの〉がないということはありえない。

具体的には、

「まるい」という在り方を認識しているのにまるいという形状をもって存在しているモノを認識していないということはありえない。

結論として、

〈存在するもの〉と〈存在の仕方〉とは必ず一体として認識される。主語と述語とは、一つの存在を、〈存在するもの〉と〈存在の仕方〉とに引き剥がして並べたものであって、原理的に一体である。述語を持つ文には原理的に必ず主語があると言わねばならない。

まず問いたいのは、尾上が「原理的に必ず」「ある」というこの「主語」は、「表面上」「現れていない」とすれば、いったいどこに「ある」のか、ということである。「まるい」という言葉は、最後に句点を打つことで、そのまま文として認められる。この「まるい。」という文の表面に「主語」は現れていない。一方、この言葉を発したその人の目の前には、認識の対象として、人一人がようやく収まるくらいの黒い球体があったかもしれない。けれど、この球体はあくまで現実の球体であり、「球体が」という言葉ではない。言語外現実であり、だから「主語」ではない。つまり、尾上が「必ず」「ある」という「主語」は、言葉の表面にあるわけでもないし、言葉の外側にあるわけでもない。どこにあるのか。

認識上なければならないものと、言語上なければならないものは、区別しておかなければならない。尾上の「主語」は前者であり、英仏語の主語は後者だ。英仏語では、同じように形而上学的・論理学的前提をとった場合でも、命題を構成する二つの事項に対応する要素は、それぞれ必ず言語の表面にも表れている。つまり、主語は、だれにとっても、目に見えるもの、耳に聞こえるものとして、「ある」。それは、「客観的に観察できる構文的概念」なのだ。

日本語の文法の範囲内で、既存の格(「が格」等)の範疇では説明しきれないような、一定の特徴的挙動を示す名詞句を「主語」として改めて定義するのは、べつにかまわないというのが自分の立場だ。例えば、小池清治のように、ほかの格を持つ語と違い、あらゆる用言で「潜在的格要求」の対象となる要素を「『主格補足語』の短縮による省略形という意味」(『現代日本語文法入門』p.159)で「主語」と呼ぶのはいい。話がおかしくなるのは、こうして新規に設定された「主語」と、英語やフランス語の主語概念との間に、何らかの類似性や共通点が発見されるときである。

尾上圭介は、「『ガ格に立つ名詞項』(表面上はガ格でなく、ハ・モ・ダケ・サエなど係助詞、副助詞下接であっても、また無助詞であっても、その名詞と述語との間の関係を格助詞で言うとすればガになる名詞項)」を「主語」と規定し、こうした日本語の「主語」と英語等の主語とに間に、「認識上の立場(事態認識の中核)、述語に対する意味的立場(属性の持ち主、動作・変化の主体など)などの点で大きな共通性があり、諸言語の主語とのこのようなつながりに目をふさいで『日本語に主語はない』と言ってしまうことは大きな損失であると考えられる」と書いている。

けれども、異なる言語間に、形式的な次元ではなく、認識や意味の次元において、このような共通性があったとして、そのことに格別大きな意味を持たせる必要があるとは、あまり思えないのである。ある言語において、ある形式の担う内容が、別の言語において、別の形式で表されるというのは、それほど不思議ではないだろう。お互い人間同士なのだから。また、主語と「主語」との間に共通性があるというのも当然の話だ。共通性があるものを「主語」と呼ぶことにしたのだから。「主語」は、もともと日本語にあった文法範疇ではない。

ある言語における形式上の概念を、別の言語に移入・適用しようとすれば、意味論的にならざるを得ない。主語必要論では、この手の意味論的な共通点が、それこそ意味ありげに持ち出されるが、いずれにせよ意味論である。こうした共通点をいくら強調し、あるいは積み重ねても、そもそも統語的な、フランス語や英語の主語概念には届かないだろう。

ところが主語必要論を唱える研究者には、尾上と違い、シンタクスの次元で、英仏語の主語と日本語の「主語」との間に共通性が見られるとする者がある。例えば柴谷方良は、「主語は尊敬語化現象及び再帰代名詞化現象を誘発するという統語的機能を持っていると特徴づけることが出来る」(『日本語の分析』pp.184-185)と述べている。ここで「尊敬語化」というのは、例えば、

このグループでは、山田先生が一番お若い。

という文において、「主語」である「山田先生が」が「お若い」という尊敬語を引き出しているというものであり、「再帰代名詞化現象」というのは、

太郎が花子が自分のグループのなかで一番好きだ(ということ)

という言い方で、いずれも「が」を伴う「太郎が」と「花子が」のうち、「主語」である「太郎が」だけが「自分」という「再帰代名詞」に一致しているというようなことである。

まず尊敬語化について言えば、柴谷は「主語」が尊敬語化を誘発すると言うけれど、上の例文で「山田先生が」は、尊敬語化を誘発などしていないのではないか。なぜなら、この例文の「お若い」から「お」を抜いた、

このグループでは、山田先生が一番若い。

という文も、まったく非文ではないからだ。英語やフランス語で主語と動詞の活用が一致してなければ、文法的におかしい。すなわち非文となる。けれど日本語の場合、尊敬語を使わなくても、ちゃんとした文だ。ということは、尊敬語を使うか使わないかは、統語上の問題ではなく、選択の問題であるにすぎない。尊敬語化を引き起こしているのは、「山田先生が」という言葉ではなく、話者の配慮であるということだ。英仏語の文法的一致に、話者の選択の入り込む余地などないだろう。

同じく日本語の尊敬表現に着目する久野翮は、次の文を非文法的であるとしている(「日本語の主語の特殊性」『「言語」セレクション』第1巻p.171)。

花子ガ山田先生ヲオ訪ネニナッタ。

しかし、この文は、意味的におかしいのあって、文法的におかしいとは言えない。「花子」と呼び捨てにされるような人物の行為に尊敬語をあてがうことは、おかしみを狙った修辞表現とみれば成り立つ。特定のコンテキストに置かれることで文として認められるのだから、これは非文とは言えない。

次に「再帰代名詞化現象」についてだが、まず「自分」を「再帰代名詞」と呼んでいいのかどうかという問題がある。けれど、ここでは問わない。もっぱら「主語」と「自分」との照応の問題として考える。「自分」は十中八九「再帰代名詞」ではないとしても、英仏語にも名詞照応というものがあるのだし、品詞の話と照応の話は切り離すことができる。あと、自称表現としての「自分」も検討から除外する。

さて、英仏語の再帰代名詞と、その先行詞、すなわち主語との照応は、再帰代名詞のとる形態によって確認することができる。しかし、日本語の「自分」は、先行詞に合わせて形を変えることはない。だから、形態に基づいて照応関係を見つけることはできない。それゆえ、次の文で、「自分」が「太郎」と「花子」(いずれも「が格」に置かれている)のどちらに照応しているのかは、文字面だけを見ていては、ぜったいに判断できない。

太郎が花子が自分のグループのなかで一番好きだ(ということ)

日本語には、形態的にも構文的にも、照応の目印がないのだ。では、上の例文で、「太郎」の指示対象と「自分」のそれとが一致していることを、日本語話者は、どうして知ることができるのか。それは――形式的に判断できないのであるから当然――意味を考えることによってというほかないだろう。

けれど、上の例文では、「自分」の先行詞は、「花子」ではなく、どうしても「太郎」でなければならない。解釈上、ここに選択の余地はないのだ。ということは、「太郎が」と「自分」との間には、やはり、意味から独立した何らかの束縛関係、文法的と呼べるであろう関係があると考えなければならないだろう。上の例文で、「太郎が」の「が」は主格として、「花子が」の「が」は対格として機能していることが分かる。いま、「太郎」と「自分」の関係を作り出す働きを、多田道太郎の言葉を借りて、「かくされた文法」と呼ぶとすれば、この「かくされた文法」は、次のように言い表すことができるのではないか。

「自分」は主格名詞を要求し、これと一致する。

ただし、この主格名詞は、金谷らの指摘するとおり、「自分」という言葉が含まれるのと同じ文中に置かれるとは限らない。いや、それどころか、同じ言説中にまったく顔を出さないこともあり得る。つまり、「自分」に対応する名詞句の表示は義務ではない。義務ではないということは、定義上、それは主語ではない。また、統語論の対象は文を超えないとされているのだから、「自分」の照応関係は、統辞論で扱われる現象ではない。

しかし、この照応関係を、純粋に意味論的な現象と見るのも、明らかに間違っている。意味論・形態論・統辞論といった西欧の言語学に由来する区分ではとらえきれない領域が、日本語の環境として編成されていると考えるべきだ。「自分」は、その照応先として、言語の表面に姿を見せない名詞を指定することができる。この不可視の名詞は、不可視とはいえ名詞なのであるから、言語外現実に存在するものではない。だが、それはある。どこにあるのか。言語の内側でも外側でもない場所、すなわち、尾上圭介がそこに「主語」の存在を見出した場所である。不可視の名詞は、この第三の場所に、「かくされた」ものとして「ある」。


(Troisième topique pour la langue japonaise)
La notion de sujet est l'un des « sujets » dominants de la linguistique japonaise. En effet, elle fut introduite en 1897 par OTSUKI Fumihiko, éditeur du premier dictionnaire moderne japonais « Genkai ». Avant on ne connaissait donc pas le « sujet ». C'est ainsi que les linguistes japonais discutent souvent sur la légitimité et la nécessité de cette notion importée. Parmi les « hors-sujetistes », on peut citer tout d'abord MIKAMI Akira, précurseur dont le travail est très apprécié par KANAYA Takehiro, écrivain et auteur d'une thèse intitulée « La notion de sujet en japonais » (1997). Pour les linguistes en faveur du sujet en japonais, nous avons deux personnalités dans le milieu académique: SHIBATANI Masayoshi et KUNO Susumu, tous deux grammairiens générativistes.
A mon avis, la notion de sujet grammatical n'est pas nécessaire pour décrire la structure syntaxique des énoncés japonais, toutefois les arguments présentés par les défenseurs du sujet, mis en cause, contribuent à une réflexion approfondie sur notre langue qui devrait demander un autre espace syntagmatique.