アントワーヌ・ベルマンの二つの著作と、ある新鮮なベンヤミン論


最近アントワーヌ・ベルマンが国際哲学コレージュで行ったセミナーの記録が相次いで日本語に翻訳された。『翻訳の時代』と『翻訳の倫理学』である。読んでみたら、どちらも相当に面白かった。以下その感想のようなもの。

まずは『翻訳の倫理学――彼方のものを迎える文字』(藤田省一訳、晃洋書房)。「翻訳における文字性の観念」をテーマとしたセミナー初年度の記録。本書を読んで、ベルマン唱える「文字の尊重(littéralité)」という考え方の真意が、ようやくはっきりした。

アントワーヌ・ベルマンが単なる「逐語訳(mot à mot)」でなく、「逐語的かつ自由な(à la fois littérale et libre)」翻訳を提唱していたことは、ミカエル・ウスティノフ『翻訳――その歴史・理論・展望』(服部雄一郎訳、文庫クセジュ)によってすでに教えられていた。でも、そこで挙げられていた具体例(ベルマン自身によるスペイン語からフランス語への翻訳)を見ても、その狙いがどこにあるのか、正直よくわからなかったのである。

(原文)A cada día le basta su pena, a cada año su daño.
(訳文)A chaque jour suffit sa peine, à chaque anneé sa déveine.

私はスペイン語は読めないけれど、逐語的に訳されているほか、原文の押韻が訳文において(別の形で)再現されていることは見ただけでわかる。

つまり「逐語的かつ自由な」翻訳とは、できる限り逐語的に翻訳した上で、レトリックの移転にも留意するというような、あらゆる水準において原文に忠実な、全面的な等価をめざす翻訳、すなわち柴田元幸が以前「究極的には負けいくさ」(「愛の翻訳論へ向けて」)と称した翻訳の仕方を指している。そんなふうに思ってしまった。もちろん、これは誤解である。

本書でベルマンは、ピエール・クロソウスキーによる『アエネーイス』の翻訳を取り上げ、こう指摘している。クロソウスキーの訳はよく「リテラル」であると言われるが、実際に原文と突き合わせてみると、ふつう「リテラル」と形容される翻訳において観察される(ないし期待される)ような厳密な逐語訳になっていない。逐語性の観点から言えば、原文に忠実ではないところがあるのだ。それなのに、その訳文を読むと、「リテラル」であるという「印象」がもたらされる。

ここにクロソウスキーの工夫があるのであり、この工夫があることにより、クロソウスキーの訳文は、「逐語訳(mot à mot)」すなわち「盲従的翻訳」であることを免れている。これを積極的に言い直せば「文字に即した翻訳(traduction littérale)」が実現されているということになるだろう。

この工夫(フランス語のラテン語化など)の詳細についてはここでは見ないけれど、「文字の尊重」ということで、ベルマンがいわんとしていることが、この章を読むことで、だいぶ理解できた。ベルマンは、「負けいくさ」とはぜんぜん別の次元で考えている。その狙いは、ある形式の意味を別の形式に受肉させることではなく、ある形式を別の形式においてそのまま実現することにあるのだ。

しかし、クロソウスキーの訳文に顕著だが、こうした「文字に即した翻訳」は、ある重大な問題を引き起こす。「判読可能性(lisibilité)」の問題だ。「読みにくい」という批判がある。これじゃあ読めない、いくらなんでも「行き過ぎ」じゃないか?

この「行き過ぎ」について、ベルマンはこう言い切る。「行き過ぎとは、『翻訳の不全』が文字に即した翻訳において姿を現わす際のあり方なのだ」。そしてさらには、この「行き過ぎ」があることにより、「われわれは『アエネーイス』のすべてを読む必要がなくなるのだし、すべてを読むことができないのかもしれない」(強調は原文では傍点による)。

このように「読まれること」を犠牲にしてまで、ベルマンが賭けているものは何なのか。なぜそうまでして、「彼方より来たるものを迎え入れる宿」となる必要、「〈他なるもの〉を〈他なるもの〉として受け入れる」必要があるのか。

「翻訳はコミュニケーションではない」(訳者あとがき)。けれど、そもそもなぜ「翻訳」という行為が存在しているかと言えば、そこに、意味のわからない言葉の意味を知りたいという欲望があったからではないだろうか。そして欲望をめぐるこの問いは、こう反転することもできるだろう。「翻訳者の望みは、原語の知識を欠くがゆえに『味わう』ことのできない作品を読者(public)に『届け伝える(コミュニケ)』ことではないか」。こうした二つの側からの欲望が、翻訳の原初にあったことは間違いない。

しかし、この「意味を知りたい」「意味を伝えたい」という原初の欲望そのものが、ある種の構成物であったとしたら?

翻訳をめぐる思索が「文字と精神」の二元論に帰着しがちなのは、翻訳という作業の対象物である言語そのものが、この「文字と精神」の二元論において受け取られているからに違いない。したがって、翻訳をめぐる二元論の問い直しは、言葉をめぐる二元論の問い直しに直結する。訳者の藤田氏はあとがきにこう書いている。「実のところ言葉とは、伝わったか伝わらなかったかをそもそも計り知ることのかなわぬものではないだろうか」

「文字に即した翻訳」を促す、「〈異なるもの〉を〈異なるもの〉のままおのれの固有の空間たる言語に向けて開きたいという欲望」(強調は原文では傍点による)は、このような水準で働いているものと思われる。「翻訳の倫理」には、別の欲望のあり方が賭けられているのだ。

けれど、この「別の欲望」は「新しい欲望」ではない。意味への欲望を駆り立てる、そのおおもとにある二元論――すなわちプラトン主義――に先立つ地点で、別の道が選ばれていた場合に抱くことができたかもしれない、可能的な欲望である。

この可能的な欲望の救出を企図したアントワーヌ・ベルマンはもうこの世にいない。やや残念なことだ。

次は、『翻訳の時代:ベンヤミン「翻訳者の使命」註解』(岸 正樹訳、法政大学出版局)である。

以前このブログで3回にわたって「ベンヤミン『翻訳者の使命』を読みなおす」と題した記事を書いた。この調子であと2回くらい続ければ、ベンヤミンの残したこの難解なエッセイについて、自分なりの一貫した読み方を提示することができるのではないかと考えていたのだけれど、行き詰ってしまった。で思った。ベルマンの『L'Age de la Traduction』の翻訳を待とう、それを読んでから考えなおそう(翻訳が進んでいることは、ある人から聞いて知っていた)。

出版されたのは去年の終わり頃だから、読もう読もうと思っているうち、もう半年以上が過ぎてしまったということになる。べつだん急ぐ必要はないわけだが、とりあえず拾い読みだけでもと、ぱらぱらページをめくってみれば、ベンヤミンには「翻訳への欲動」がないとか、「翻訳者の使命」は一部分だけを抜き出して引用することができないとか、「本文について何も語らない序文というパラドックス」だとか、面白そうな論点がいくつも目に飛び込んでくる。

そうした論点のひとつに、「翻訳者の使命」の最重要キーワード「die reine Sprache(純粋言語)」というドイツ語を、どのような形のフランス語に訳すべきかというのがあった(講義ノート5)。

この言葉は、最初の仏訳者であるモーリス・ド・ガンディヤックによって、当初「le language pur」という表現に置き換えられた(らしい。というのも、手元にある改訳版では、「le pur language」となっているので)。ベルマンは、この訳し方に不満を抱いている。本当ならば「la pure langue」と訳すべきだったというのだ。つまりベルマンの不満は、「言語」に相当する単語の選択と、「純粋な」に相当する形容詞の位置、この二点に関する。

まず形容詞の位置の問題から見たい。ベルマンは、次のように語っている。

「純粋言語」という表現の中で働いているものを把握するためには、結局次のように言う必要がある。ある点から見れば、この表現は冗長である――というのは、「言語」と言うとき、それは純粋性を述べているからだ。あるいは純粋言語が純粋言語であるのは、それがまず「言語」であるからにすぎない。言語とはそもそも「純粋なもの」が存在しうる媒質である。

だから「純粋」に相当する形容詞は「言語」に相当する名詞より前に置かれなければならないということなのだが、フランス語話者以外の人間がこのロジックを理解するには、補足的な説明が必要だろう。そこで今から、フランス語のお勉強。

フランス語の付加形容詞は、同じ形容詞でも、名詞の前に置かれるか、後ろに置かれるかで、意味が違ってくる場合がある。

まず日本語で考えてみよう。例えばベンヤミンは「悪しき翻訳」のメルクマールとして「非本質的な内容を厳密さを欠くままに伝達すること」(内村博信訳)を挙げている。この日本語表現中、「非本質的な内容」という表現は、二通りの意味合いにおいて解釈できる。第一に、「内容」というものには「本質的な内容」と「非本質的な内容」とが存在するが、ここではそのうちの後者について語っているのだという解釈。第二に、「内容」というものは、ある観点から見れば、そもそもが「非本質的な」ものであるという解釈である。フランス語で、第一の意味合いを形容詞、例えばinessentielで表そうとすると、このinessentielは名詞に後に置かれる。逆に第二の意味合いの場合、名詞の前に置かれる。

抽象的に言えば、形容詞が名詞に対して前置されのは、名詞と形容詞の結びつきが必然性を伴う(と話者が考えている)場合、後置されるのは、両者の結びつきが偶然的な場合である。

つまりベルマンは、ベンヤミンの思考において、「純粋言語」の「純粋」と「言語」の結びつきが、必然的なものとして生きていると考えている。あるいは、「言語」とは、その本質において、「純粋」という性質を持っているのだと。

ベンヤミンの「純粋」は、ベルマンによれば、二つの起源をもっている。一つはカント、もうひとつはヘルダーリンであるが、しかし、この二つの起源は、ある一点において結び付けることができる。カントの「純粋」とヘルダーリンの「純粋」には共通点があるのだ。カントの「純粋理性」、ヘルダーリンの「純粋な歌」は、いずれも「内容を持たない」。すなわち、両者の「純粋」は「内容を持たない(vidé)」の一点で交わるのだ。

ベンヤミンの「純粋言語」とは、「内容を持たない」言語であり、この「内容を持たない」という性質が言語の本質なのであれば、その「内容を持たない」という意味合いで使われる「純粋」という形容詞は、フランス語において、「言語」という名詞の後ろに置くことはできない。そして、「言語」とは、この意味でそもそも「純粋」なのであり、「純粋言語」という言い方は、その意味で「冗長」性を帯びている。引用した段落でベルマンがいおうとしているのは、こういうことだ。

以上のような、形容詞の位置をめぐるベルマンの考えは、正しいと思う。だから賛成なのだが、次の問題、「言語」に対応する単語の選択の問題については、反対である。私は「ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(3)――パンの件」で見た通り、「純粋言語」は「langue」ではないと考えている。

ベルマンは「『純粋言語』はすべての言語の根底にあってそれらの『論理性』logicitéを構成するロゴスではない」という。私は、「ベンヤミン『翻訳者の使命』を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態」において、ベンヤミンの初期言語論・翻訳論における言語哲学を、ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』に含まれる「論理形式」と関係づけて考えた。けれど、この場合もやはり、ロゴス=純粋言語と考えているわけではない。ベンヤミンが区別する言語の二つの本質、「精神的本質」と「言語的本質」の密着を「論理形式」の密着と考えたのだ。そして、この「論理形式=ロゴス」が、アウラとして個別のエノンセから自発的に浮上する運動を「純粋言語」への志向としてとらえた。このような個別の運動によって形成される(?)「言語」が、人間の諸言語(les langues)と同じ「la langue」という身分において実現するとベンヤミンが考えているとは思えない。

(ところで私はベンヤミンの「bedeuten」を「vouloir dire」と訳すべきだと考えたが、ベルマンは本書で「meinen」を「vouloir dire」と訳すべきだとしている。ベンヤミンは、〈言語による意味の伝達〉という事態を問い直しているのであり、それゆえ「意味する」という動詞、「言語」という名詞の翻訳の仕方がこのように問題になる。)

さて最後、ネット上で見つけた、どこか若々しい印象のエッセイをひとつ。山本浩貴+h「ベンヤミンの歴史と大江健三郎の宇宙船」

「差異の観念はベルクソンの哲学に或る光を投げかけるはずであるが、逆にベルクソンの哲学は差異の哲学に最大の寄与をもたらすはずである」。ドゥルーズが『差異について』をこう書き出しているけれど、大江健三郎ベンヤミンも、こうしたお互いに照らしあう光の関係に置くことができるかもしれない。「歴史哲学テーゼ」を読み直したくなった。