川端康成の本当


続きです。

川端康成の「十六歳の日記」作中日記部分には発表時たんなる字句の訂正を超えた加筆訂正があったのではないか。川嶋至がそう問うたのは、すでに見たように『川端康成の世界』の中である。川嶋はそこで複数の論拠を挙げて、その証明を試みている。しかし、第二章「宿命の影」の該当箇所で川嶋の論証を読み始めた者は、すぐに落ち着かない気分に捕われるはずだ。川嶋の論証が、論証として、妥当性を欠いているように思えるからである。

たとえば、一番目に示された論拠。これは、九巻本選集の「あとがき」ならびに十六巻本全集の「あとがき」(後年「あとがきの二」となるもの)に「机代りの背継(踏台)」を用いて日記を書いたとあるのに、作中日記部分ではそれが「抽出し」付きの「テーブル」となっているという指摘である。この事実を受けて川嶋が言うには、「二度まで氏が机ではなかったとしるしている以上、それを信ずるとすれば、この日記にはすでに、原文では背継だったのを机とする虚構が働いていると見なければならない」。

けれど、川嶋がここで示すべきなのは、作品「十六歳の日記」が「実は二十七歳の日記」であったことの証拠であるはずだ。つまり、本当ならば《日記が十六歳の時の原文そのままであるということ》の虚構性を証明しなければならないところ、川嶋が行っているのは、《日記に書いてあること》の虚構性を証明しようとすることでしかないのだ。いうまでもなく、後者の虚構性は前者の虚構性を保証しない。

また、《日記が十六歳の時の原文そのままであるということ》を疑うことは、「十六歳の時の原文そのまま」という記載のある九巻本選集「あとがき」の事実性を疑うことである。ところが、川嶋がこの最初の論証で行っていることは、自分が事実性を疑っている当の九巻本選集「あとがき」の事実性を支えとして、日記部分に虚構があることを疑うことである。

これは矛盾した態度である。けれどこの矛盾においてこそ、川嶋の方法が露出しているとも言えるだろう。

矛盾において露出する川嶋の方法――それは、要素の反復と整合を事実性の指標とするというやり方である。つまり川嶋は、ある一事が事実であるか虚構であるかの判断を、テキスト間の記述の反復、記述間の整合性に基づいて行っているのだ。「背継」が事実なのは、九巻本選集「あとがき」と十六巻本全集「あとがき」で「背継」の記載が反復されていたからである。また、二番目の論証――ここでは見ないが――において、《川端が当時の生活を微塵も記憶していないということ》が事実であるとみなされるのは、作中「あとがき」と「あとがきの二」の二度にわたって、そう書いてあるからである。

この方法には、でも明らかに無理があるわけで、たとえば上記のとおり川嶋は「二度まで氏が机ではなかったとしるしている以上、それを信ずる」と書いているが、川端は「鳶の舞う西空」で「背継の上ばかりで書いたかのような『あとがき』は文飾である」と、あっさりその事実性を否定している。

もうひとつ、指摘しておきたい。

川嶋は「保身」の意味を考えるにあたり、「父母への手紙」の中の言葉を参照していた。「父母への手紙」は小説である。無論、川嶋もそのことは承知している。承知していながら、そこにある言葉を「作者自身の発言」と呼び、そこに事実が記されていると考えた。けれどその一方で川嶋は、「作者のことばだからすべてが真実だというような安易な認識は、少なくとも文学の世界では通用しない」(「川端康成の『紫式部日記』」)とも語っている。これは随筆である「鳶の舞う西空」について言われた言葉だ。つまり川嶋は、小説の言葉に事実を見、随筆の言葉に虚構の可能性を見ている。このねじれは注目に値する*1

川嶋は、テキストの性質(「あとがき」であるか「小説」であるか)に基づいて、事実と虚構の判別を行っていない。いや、この言い方は正確ではないようだ。正確には、川嶋には、テキストの外形的な性質に基づいて事実と虚構の判別を行うことができないのだ。といっても、これは川嶋本人の読解能力に問題があるからではない。川端康成が、永年そのようなものとして文章を書き継いできたからである。

五十歳を記念する祝意も含めて全集の刊行とは言っても、ひとえに新潮社の恩誘によることで、私は五十という年に深い関心も強い実感も持ってはいない。
自分の年齢というものを、人はどれほど知っていなければならないのか、どのように考えてみなければならないのか。つまり年齢の問題には心しみ凍ることなく私は今日に至ったようである。折節自分のこの年齢感の迂闊さに思いあたって、自分になにか不安と危怖とをいだくことはあっても、鳥影か雲影のように痕はとどめなかったようである。五十歳から後はどうであろうか。

引いたのは『独影自命』すなわち十六巻本全集「あとがき」の冒頭部である。これを、川端が自分の同性愛体験にフォーカスした小説作品「少年」の書き出しと比較してみよう。

私は本年五十歳に達し、これを記念する心も含めて、全集を刊行することになった。四十歳五十歳という風に、十を境として生涯を区切ることは、一種の便宜であり感傷であって、半ばは人間の緩怠の性癖に過ぎないだろうから、私は精神の真実としたくないのであるが、しかしこういう伝習の波にでも濡れなければ、生前に自分の全集を出す踏切はつきにくいように思える。

上記二つの文章を、その文体や内容だけに基づいて、常識的な意味で一方を「あとがき」、一方を「小説」と判定することは誰にとっても不可能であると思われる。おそらく書いている側に区別しようという意識がないのだ。序跋であれ、創作であれ、文章という文章で、事実と虚構が入り混じる。だから川端の書くものは全部小説であるとも言えるし、あるいは逆に「川端康成は、小説なぞ一つも書いていない」(小林秀雄川端康成」)とも言える。

川嶋の方法は、事実性の判定のため、彼のとることのできる、ぎりぎりの方法であったのだ。結局のところ、改竄の事実をめぐる直接証拠は川端が握っているのであり、かつ、その提出を強制的に求める権利を川嶋は持たない。おまけに川端は「十六歳の日記」の原稿を「破棄か焼却してしまった」と言うのであるから、この勝負、川嶋に勝ち目はない。

けれど川嶋は、『川端康成の世界』から四半世紀の時を経て、「十六歳の日記」改変問題を再び問い始めることになる。『学苑』誌上にてこの問題を追及した論文は7本を数える*2が、その掉尾を飾る論考「『十六歳の日記』原形への遡行の試み(下)」の末尾、川嶋はついにこう書き付けた。「『十六歳の日記』は、発表時においてすでに最低二段階にわたる試作を経たのちに完成をみた、まぎれもない創作であることは、これで証明することができたと思う」。

一連の論考における川嶋の論証は、川端の没後に公開された日記や手帖、創作ノート類を基礎とするもので、説得力に満ちている。川嶋は「尻尾を摑ませぬ男」(小林秀雄)の尻尾を摑んで見せたのかもしれない。そう思わせるだけの迫力が川嶋の言葉には漲っている*3

だが、その一方で、ぜんぶ読み終えて、不思議な空しさが頭をもたげてくるというのもまた事実なのである。

それはひとつには、すでに川端が「鳶の舞う西空」で、「『十六歳の日記』を十六歳の時の執筆『そのまま』と信じられても、二十六歳の発表の時の『創作』がまじっていると疑われても、私にはどちらでもいいようなことである」と述べているからかもしれない。もちろん、この問題は川端の問題ではなく、川嶋の問題なのであって、つまり川嶋にとって、「十六歳の日記」が改変されたものか否かという問題は「どちらでもいいようなこと」ではなかったわけである。だからこそ、相手の死んだあとも追及は続けられた。

だが、それにしても、身も蓋もない問いだが、こう問わずにはいられない。なぜこの人は、これほどまで「事実」というものにこだわるのか?

学問だから、文学「研究」だから、というのが答えのひとつだろう。けれど川嶋自身は、文献学的な調査、実証主義的な態度の奥に隠された真の動機について、次のように言っている。

小説が虚構を手だてとして真実に迫るものであるならば、その虚構の世界に魅せられた者が、真実を確かめたくてわずかな事実にすがろうとするのも、根は同じ欲求に発している。ただ方法が違うだけで、真実を求めていることに変わりない。
(『文学の虚実』p.329)

小説家と批評家は、「虚構」と「事実」という対蹠的なメディアを介して、「真実」の受け渡しを行っている。これがつまり、川嶋の考えなのだ。作家の事実を詮索するのは、それ自体が目的ではないということである。

ここで「事実」と区別された「真実」とは何か、それは問わない。きっとわからないからだ。いずれにせよ、川嶋の考えで、小説家と批評家で、探求の方向は正反対だが目的地は一緒である。あるいは、逆向きに進むことによって、ようやく二人は出会うことができる。

このような幸運な出会いが可能となるには、小説家においては《虚構への欲望》、批評家においては《事実への欲望》に突き動かされていることが必須の条件となるだろう。換言すれば、小説家は嘘をつきたいと思い、批評家は事実を知りたいと願う、そのような逆向きの欲望に牽引されていなければならないはずだ。両者は、こうした引っ張り合いによってのみ、均衡ある関係を維持することができる。「真実」をめぐる川嶋的コミュニケーションは、こうしたバランスのもとで、やっと成立するのである。

けれど、川嶋至川端康成の間に、このような均衡した関係が成立していると言えるだろうか。

すでに見たように、川端は「十六歳の日記」に発表当初から「あとがき」を付しているが、後年、十六巻本全集第二巻の「あとがき」(「あとがきの二」となるもの)において、この最初の「あとがき」は「小説のつもりで書いたので、少し事実とちがうところがある」と明かしている。「少し事実とちがうところ」とは、たとえば「私の伯父は最近相場の失敗から破産して、家屋敷まで失った」という部分で、事実は「家屋敷を売ったのは従兄である」。また、「少年時代の日記が父の往診のカバンにいっぱいだったというのも、少し大袈裟で」、本当は「そう多くはない」(なお、この二点の「事実」は「少年」にも記されている)。

何が言いたいか。川端の「虚構」とは、この程度のもの、まさに「少し事実とちがう」程度のものにすぎないということである。事実が「従兄」であったところ「伯父」に変える程度のもの――これが川端の「小説」なのだ。こうした事実と大差ない虚構を設定する川端――なげやりな嘘、どうでもいい嘘をつく川端――には、川嶋の考えるような、「真実」に駆動された《虚構への欲望》など全然なかった。そう思われる。

上に引用した二つの文章、すなわち十六巻本全集の「あとがき」と小説「少年」からも、その細部を突き合わせることで、こうした川端の欲望の希薄なありようが見て取れる。「あとがき」と「少年」は、いずれも文中で、「十六歳の日記」の新しい原文が二枚見つかったことに触れている。ただし、一方の「あとがき」には、

こんど全集を編輯するにつけて、これらの古い日記類などもひっぱり出していると、「十六歳の日記」が二枚見つかった。二十一枚目と二十二枚目である。

とあるけれど、他方の「少年」には、

十六歳の日記」の二十二枚目と二十三枚目とが今度見つかった。

とある。前者は「二十一枚目と二十二枚目」、後者は「二十二枚目と二十三枚目」。書かれた時期は、ほぼ同時期であると推定される(前者は昭和23年8月30日刊行の十六巻本全集第二巻に掲載、後者は『人間』昭和23年8月号に掲載)。また、「湯ヶ島での思い出」の原稿枚数の記載も「あとがき」と「少年」で同じく一枚違い(前者は「百六枚」、後者は「百七枚」)となっている。つまり、この枚数の違いは誤記ではなく、意図的なものと見ていい。さて、どちらが事実で、どちらが虚構か。どちらが嘘で、どちらが本当か。答えはこうなる。「どちらでもいいようなことである」。

「少年」は創作なのだから、「二十二枚目と二十三枚目」が虚構で、「二十一枚目と二十二枚目」が事実だと常識――川端文学にそれが通用するかわからないけれど――的には言えるかもしれない。しかし、仮に後者が事実だとして、「二十一枚目と二十二枚目」という事実は、「二十二枚目と二十三枚目」という虚構に対して、いったいなにを主張することができるだろう。この事実には、どんな意味があるのか。すなわち川端の嘘には、どんな意味があるのか。答えはこうなる。意味はない。

川端の嘘に意味はない。こうした意味の欠落が、川端の言葉から、そのぶん重さを奪う。つまり、川端の言葉は軽い。あるいは、川端の言葉には、奥行きがない。奥行とはなにか。「真実」である。つまり川端の言葉には、欲望の原因として、川嶋の想定するような「真実」などないということだ。そしてこれが、川嶋による、川端をめぐる事実の深追いに空しさを感じさせる本当の理由なのである。「真実」に無関心の川端の言葉から、その「真実」を探ろうとすること。ここに奇妙な空しさの主因がある。

欲望を欠いた川端の「虚構」は弱い。一方、川嶋は「事実」を強く欲望する。この均衡の崩れた関係において、小説家と批評家のコミュニケーションは破綻する。「虚構」という歯止めを失った「事実」が膨張する。こうして膨張した《事実への欲望》は、それに見合った重量級の「真実」を要求することになるだろう。十六歳の日記は、二十七歳の発表時、加筆訂正されていたのではないか。その事実を隠すことで、川端は、自分に関する神話的なエピソードを作り出そうとしたのではないか。そしてここにおいてこそ、川端康成という人間の「真実」がむき出しになっているのではないか。

《虚構への欲望》を欠く川端の平板な言葉は、ただひたすら、「そのまま」読まれることを欲望している。けれど川嶋は、この川端の、裏のない言葉の裏を読もうとした。川嶋は、川端の欲望について「誤判」したのだ。この「誤判」の原因は、しかし、なんだろう。おそらく川端は、この川嶋の「誤判」の原因が自分にあると考えている。

ここで再び「鳶の舞う西空」について考えてみよう。この随筆は、川嶋本人をはじめ、複数の論者によって、川嶋至への反論として書かれたものだと考えられている。たしかにこの随筆には、川嶋の主張に反論する言葉が記されている。けれど気になるのは、そのように反論する川端康成の言葉に、批評家の「思い過ごしや、思いちがい」をとがめるような強い調子がほとんど見られないことである。このことは小谷野敦も指摘していて、川端秀子(川端の妻)によれば、川端は「見たことがないほど」の「怒り」を見せたというのだが、「鳶の舞う西空」の文章そのものからは、「怒りは」「静かにしか感じ取れない」(『川端康成伝 双面の人』p.544)。

むしろ川端の言葉には、自分の「作品をよく読んでくれていての」感謝の気持があふれている。そうした感謝の気持の上に立って、批評家の「『人間的興味』の熱」を冷まそうとしている。そのように見える。

川嶋の高尚な「保身」の説、すなわち自分に対する「『人間的興味』の熱っぽいあまりの」「誤判」を確認しつつ、それを指摘しない川端は、この随筆を川嶋への反論のために書いていない。そのように見える。つまり、「鳶の舞う西空」には、これを川嶋への反論としてしか読まない論者たちが読もうとしない領域――あるいは彼らには読めない領域――が存在する。この死角になった領域の存在が、川端没後、川嶋に長い沈黙を強いた。川端康成は、死ぬ間際、川嶋至に、解きがたい、ひとつの謎をかけたのである。

(続く)


付記1小谷野敦川端康成伝 双面の人』読了。「保身」という言葉をめぐって吉行淳之介の見方のあったこともぬかりなく言及されてました。

付記2:本ブログの近現代文学関連エントリとしては、ほかにも以下があります。

一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての - 翻訳論その他
日本の文学環境で支配的なリアリズム観を分析したもの。あるいは「真のリアリズム」について。「真のリアリズム」とはなんぞや。ラカンふうに言えば、「象徴界」を切り捨て、「想像界」と「現実界」を短絡させることです。

志賀直哉の日本語廃止論をめぐって - 翻訳論その他
志賀直哉の随筆「国語問題」に対する批判と擁護の紹介。

翻訳論その他
梶井基次郎論です。

*1:このねじれを作り出すのには、いわゆる私小説の伝統(?)も加担しているはず。川嶋至はこう言っている。「『ここに書かれていることは多分事実であろう』とみなすのは、じつは日本の近代小説の伝統的かつ典型的な読み方なのである。(中略)幾多の自然主義の小説、あるいは私小説・心境小説と呼ばれる小説は、それを作者自身の私生活を映したものとして捉えるのがむしろまっとうな読み方であり、作者の側も、主人公についての小説的造型をいさぎよく放棄して、自己の私生活の実質をそのまま作品のなかに投げ込むのを常としてきた。(中略)この伝統は、単に小説作者が好んで身辺雑記あるいは身上告白的小説を書き綴ってきた結果生まれたものではなく、読者の側のこうした小説への接し方も相乗的に作用して、ますます確固たるものになっていったのである」(『文学の虚実/事実は復讐する』p.293)。日本の文学空間では、「小説は小説だから虚構」という理論的タテマエと、「多分事実」という曖昧な了解を保持するホンネの「読みのモード」(鈴木登美『語られた自己―日本近代の私小説言説』)が共存しているようだ。

*2:川嶋至が晩年『学苑』に発表した川端関係の論文としては次の10篇が確認できる。(1)「川端康成日記の改変」平成7年8・9月号、(2)「川端康成十六歳の日記研究史抄」平成7年11月号、(3)「『十六歳の日記』自作解説の変転」平成8年1月号、(4)「川端康成の『原日記』忘却説への反論」平成8年8・9月号、(5)「忘却の意味するもの――『十六歳の日記』の場合」平成8年11月号、(6)「『十六歳の日記』原形への遡行の試み(上)」平成9年1月号、(7)「『十六歳の日記』原形への遡行の試み(下)」平成9年8・9月号、(8)「立志時代の川端康成(上)――祖父の影響」平成10年1月号、(9)「立志時代の川端康成(下)――習作の軌跡」平成10年8・9月号、(10)「川端文学の写生と韻律」平成12年1月号。このうち(1)から(7)までにおいて「十六歳の日記」の改変問題が追及されている。

*3:しかし、実際のところ、どうか。川嶋の当初の主張を要約すれば、「川端は、『十六歳の日記』に対して、二十七歳発表時の時点で重大な加筆訂正を行い、それによって作品の評価を吊り上げた」ということである。けれど、川嶋の『学苑』論文の結論の言葉は、この最初の主張に対応していないのではないか。たとえば論文中、川嶋は、「大幅な加筆訂正」という表現について、仮に「ごくわずかな修正にすぎない」ものであっても、文学研究的厳密性の観点から見れば「大幅な加筆訂正」ということになると語っているが、川嶋は当初このような研究者的な観点ではなく、文芸批評的な作品評価の観点をとっていたはずだ。しかし、「しびんの底には谷川の清水の音」のような、作品評価に関わる決定的な語句が「二十七歳発表時」に加筆されたというような証拠は、論文中どこにも示されていない。