「雑誌『新しい天使』の予告」(1)

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い、かつ非常に示唆に富んだ予告文を残している。

ちと思うところあって、昨晩この「雑誌『新しい天使』の予告」を読みなおした。冒頭部、次のようなことが書いてある。

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まず、この雑誌がどういう形をとるか、それをお伝えしましょう。内容については、あえて触れないことにします。形式についてきちんと説明すれば、内容についての信頼が得られるはず――そう考えました。そもそも雑誌というものは、その本質からいって、綱領とそぐわないところがある。もちろん綱領が不要だといっているわけではありません。ただ、綱領を用意すれば、それだけで生産性が得られるというような幻想には与したくない。それに綱領というものは、緊密に結ばれた人々が一定の目的に向けて活動を展開する、というような場合に有効なのであって、雑誌にはあまり有効ではないのです。なぜなら、雑誌とは、生きた精神の発露であり、予測不可能で無意識的で、そのぶん、豊かな未来と発展性を蔵しているからです。つまり、方針を立てたところで、それにはさほど意味がない。もし雑誌が、自ら綱領的なものについて反省しようというのなら、それは、思想や意見に関するものではなく、根拠や法則に関するものでなければならないでしょう。人間だって同じです。人間は、心の一番深い場所で自分が何を考えているのかを意識することはできない。けれど、何かに向かって突き動かされている自分の行く先、つまりその使命について意識することはできるのです。

雑誌の使命とは何でしょう。雑誌の真の使命、それは、自らの時代の精神を証言することです。といっても、この時代精神を明晰性のうちに捉えること、あるいは統一性のうちに捉えることは重要ではありません。雑誌にとって重要なのは、時代精神のアクチュアリティを捉えることです。だから、たとえ疑わしいもの、問題をはらんだものであっても、雑誌は、それを救出しなければならない。雑誌は、こうした救出を可能とするだけの生命をその内に形づくらなければなければならないのです。さもなくばそれは、新聞みたいに煮え切らない、つまらないものになってしまう。歴史性への自覚を伴ったアクチュアリティがなければ、その雑誌に存在意義はありません。ロマン派の雑誌『アテネーウム』が範となるのは、この雑誌が、こうした歴史性への自覚を比類ないほど高々と掲げていたからです。こういってもいいでしょう。同誌は、「真のアクチュアリティ」を測る尺度が読者大衆のもとにはないことを示す好例であると。雑誌というものは、この『アテネーウム』と同じく、容赦のない思考と何事にも動じない発言をモットーに、必要ならば読者大衆を完全に度外視さえして、見かけだけの虚しい新しさの陰で、「真のアクチュアリティ」として形をなすものに就かなければならない。見かけの新しさなんてものは、新聞にまかせておけばいいのです。

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以上、最初の二つの段落を敷衍した。いきなり、「真のアクチュアリティ」という重要な概念が顔を出している。「真のアクチュアリティ」は、「見かけの新しさ」とは別物である。「見かけの新しさ」とは、野村修『ベンヤミンの生涯』で指摘される通り、カール・クラウス論で「ジャーナリズムのアクチュアリティ」と呼ばれているものと同じだろう。カール・クラウスは、「ジャーナリズムのアクチュアリティが厚かましくも事物への支配権をふるっている専横さの、その言語的表現としての常套句に対する戦いに、すべてのエネルギーを傾注する」(「カール・クラウス内村博信訳)。「ジャーナリズムのアクチュアリティ」において抹消されているもの、それは、事物の存在への驚きであり、そうした驚きに打ちのめされる「この私」の存在の不可思議である。クラウスほど「自己自身とその存在に強い関心を示した者が、他にいるだろうか」、そしてクラウスほど「事物の剥き出し(ブロース)の存在に、その根源に、注意深い関心を示した者が他にいるだろうか」

状況追随的な「ジャーナリズムのアクチュアリティ」は、それがどれだけ新しさを僭称しようと、その定義上、真の新しさを欠いている。なぜならそれは、本質的に後追いだからだ。真のアクチュアリティは、この奇妙な世界に生きるこの私への視線を追うことにしか宿らない。

「読者大衆を度外視する」という言葉も、この地点から考えなければならないだろう。これは単に読者を無視するということではない。マスとしての読み手、パブリックとしての読み手に関心を抱かないということだ。逆に言えば、ベンヤミン的な雑誌は、個人としての読者、「この私」としての読者を重視する。

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これから数回にわたって、「雑誌『新しい天使』の予告」を読んでいきます。新しいことを始めようとすると、誰でも気負い立つ。この気負いの感情を、気負い立つベンヤミンの文章を読むことで解消する。それが目的です。