AIが翻訳の不可能性に気付く日

中央公論4月号で人工知能研究者の松尾豊氏が「ほんやくコンニャク」は「夢物語ではない」と書いている。「研究自体は5年〜10年で一定のメドがつき、10年〜15年後には実用化できるかもしれない」。じつは今から10年前、リアルタイム自動翻訳は「あと5年で実現できる」はずだった*1。有望そうな技術が出てきたら、逆に未来が遠退いたというのが興味深い。翻訳の難しさに対する理解が進んだ証拠だろうか。

いま、人工知能が抽象概念を獲得することができるようになり、言語をも獲得できるようになりつつある。つまり、我々日本人を苦しめてきた言語の壁が取っ払われる可能性が出てきているのだ。
(松尾豊「AIが完全自動翻訳を実現する日――言語の壁がなくなったときあなたは世界で闘えるか」中央公論2016年4月号)

「概念の獲得」「言語の獲得」と、「言語の壁が取っ払われる可能性」がどう結びつくのか、これだけではよくわからない。そこで松尾豊氏の著作『人工知能は人間を超えるか』を読んでみたのだが、そもそも機械翻訳の話に特化した本ではないこともあり、いくつか不明点が残った。

ひとつは、言語の統語論的側面の取り扱いについてである。ディープラーニングによって人工知能が自力で概念を獲得できるようになる。現状では画像のみだが、やがては動画その他マルチモーダルなデータから特徴量を抽出することができるようになり、さらにはAIに人間のような身体を与えることで、環境との相互作用や行動・結果関係などを踏まえた、より高度な概念を手に入れることができるようになる。

その結果、コンピュータが「言語」を獲得する準備が整う。先に「概念」を獲得できれば、後から「言葉(記号表記)」を結びつけるのは簡単だからだ。
「ネコ」「ニャーと鳴く」「やわらかい」という概念はすでにできているから、それぞれに「ネコ」「ニャーと鳴く」「やわらかい」という言葉(記号表記)を結びつけてあげれば、コンピュータはその言葉とそれが意味する概念をセットで理解する。(中略)コンピュータによる翻訳が本当に実用に耐えるものになるとすれば、この段階にきてからである。機械翻訳というのは、身近なだけに簡単な技術に思えるかもしれないが、実は、かなり高度な技術なのである。
(松尾豊『人工知能は人間を超えるか』pp.188-189)

でも概念にラベルを貼り付けるだけでは「言語の獲得」とはいえない気がする。松尾氏がソシュールを援用しているので、それにならえば、この段階で獲得されたのは、シニフィエ(概念)とシニフィアン(名前)の結合体としてのシーニュ(記号)でしかない。こうした記号がいくら蓄積されても、それだけで言語が分かるようにはならないだろう。人間の言語は「文」という形で運用される。そしてこの「文」が全体として持つ「意味」は個々の記号が持つ概念の総和ではない。文それ自体がシニフィアンとして機能する。こうした新たなシニフィアンとしての文に対応するには、個々の記号を文に構造化するための規則、すなわち「文法」が必要だ。だから「言語の獲得」には「文法の獲得」が欠かせないはずである。

もちろん松尾氏も、人工知能で人間と同じような精神作用を実現するには、「本能」などとともに、「文法」をコンピュータに埋め込む必要があるのではないかと述べている。しかし同時に人工知能は何から何まで人間と同じでなくともよいとも述べている。そのためだろうか、文法埋め込みの具体的な方策についてはこの本では何も語られていない。けれど、「ほんやくコンニャク」レベルの自動翻訳が実現するには、この過程、すなわち「文法の獲得」を経た上での「言語の獲得」が不可欠であると思われる。

というのも、それがなければ、次のフェーズ、「知識の獲得」の段階に進めないからである。松尾氏は、上に引用したとおり、「コンピュータによる翻訳が本当に実用に耐えるものになる」のは「言語の獲得」の段階に来てからであるとしている。しかし実際のところ、完全自動翻訳が実用化するとすれば、「言語の獲得」のさらに上の、「知識の獲得」の段階に到達してからになるのではないか。松尾氏自身、機械翻訳の難しさについて説明する際、真っ先に次のような例を挙げていた。

He saw a woman in the garden with a telescope.

この文は、人間の日本語話者であれば一般的に「彼は望遠鏡で、庭にいる女性を見た」と翻訳するだろう。「庭にいる」のは「女性」であるという判断である。けれど、グーグル翻訳で生成される訳文は、「彼は望遠鏡で庭で女性を見た」*2。これでは「彼」のほうが「庭にいる」ことになってしまう。では、なぜ人間は前者のように翻訳できるのか。それは、統語的に曖昧な文を解釈するにあたり、知らず識らず、テキスト外の情報、一般常識を参照しているからである。

単純な1つの文を訳すだけでも、一般常識がなければうまく訳せない。ここに機械翻訳の難しさがある。一般常識をコンピュータが扱うためには、人間が持っている書ききれないくらい膨大な知識を扱う必要があり、きわめて困難である。コンピュータが知識を獲得することの難しさを、人工知能の分野では「知識獲得のボトルネック」という。
(同前p.103)

この「知識獲得のボトルネック」を解決するには、AIが言語を獲得していなければならない。というのも言語を獲得していれば、「コンピュータも本が読めるようになる。いろいろな小説を読んで、『望遠鏡で覗くのは男のほうが多い』ことも理解するかもしれない」(p.190)からである。しかし、AIが言語を獲得するには、AIが文法を獲得していなければならない。では、どうすれば文法が獲得できるのか。そのやり方が書いてない。

もうひとつ、この本をもっぱら「ほんやくコンニャク」の実現可能性を吟味するという目的をもって読むとき、大きな障害であると感じられるのは、翻訳原理それ自体についての説明が見られないことである。肝心の部分が結局よくわからない。

手がかりのようなものはある。松尾氏は、ソシュールの記号概念を説明するところで、ひとつの図を掲げていた。「図19 シニフィアンシニフィエ」(p.140)。上下半分に区切られた円が横に3つ並んでいる図である。左端の円は、上半分に「シニフィエ」、下半分に「シニフィアン」とある。真ん中の円は「日本語の場合」であるとされ、「シニフィエ」に当たる上半分に黒い猫のシルエット、「シニフィアン」に当たる下半分に「ネコ」という文字が記されている。一番右側に置かれた円は「英語の場合」である。上半分に「日本語の場合」と寸分違わぬ猫のシルエット、ただし下半分は「ネコ」ではなく「cat」になっている。

この図がミスリーディングだと思うのは、語レベルのシニフィエの同一性に基づいてシニフィアンを付け替えれば、それだけで翻訳が実現するかのような誤解を与えるおそれがあるからである。「ネコ」と「cat」の概念は同一であるから、「ネコ」を「cat」に翻訳できるというように。けれど実際には、「ネコ」と「cat」の概念は同一ではない。

ソシュールが喝破したように、概念というのは絶対的なものではない。言語共同体によって世界の分節の仕方(概念構造)は多様に異なるのだし、現代思想の根幹をなしているこの相対主義については繰り返すまでもないだろう。日本語の「猫」と英語の「cat」とフランス語の「chat」とは厳密には異なるカテゴリーに属するのだ(中略)。言語の恣意性とは、概念の組み立て方が多様なことであり、唯一の絶対概念に対して「猫」とか「cat」とか勝手にレッテルを貼れる、ということではない。概念とは人間のコミュニケーション体験の集積から生成される文化的、相対的な存在なのである。
西垣通「知をめぐる幼稚な妄想」現代思想2015年12月号)

もっとも松尾氏も、異なる言語間に語レベルの一対一対応が成立しないことをきちんと指摘している。

もちろん、文化や言語によって用いられる概念はさまざまである。たとえば、英語には「punctual」というよく使われる形容詞があり、「時間に正確だ」という意味で、「He is a punctual person.(彼は時間に正確な人だ)」というふうに使う。ところが、これに1対1で対応する日本語の単語はない。どうしても「時間に正確だ」と2単語を使って表現しなければならない。
(松尾前掲p.189)

それでもこの記述から、「ほんやくコンニャク」の基本的な翻訳原理が、言語内在的な概念ないし意味の等価性に基づいた、言語間でのラベルの貼り換えにあることが読み取れる。ここで当然問題となるのは、等価性を確保すべきレベルをどう設定するか(語でないとすれば句か、文か、それとも対象となるテキストや言説の全体か。全体であるとすれば、どのように「全体」を定義するか)、そしてより根本的には、こうした等価性は現実的に成り立つのか、ということである。成り立たないと考える論者も少なくない(たとえば長尾真、別宮貞徳)。

ところで、西垣通氏の指摘するとおり、ソシュールの考えによれば、概念というものはひたすら「文化的、相対的な存在」である。けれど、ノーム・チョムスキーは、そのようには考えていない。諸言語には、統辞構造のみならず、概念の次元においても生得的な共通性があると主張している。

単純に考えれば、ソシュール的な言語(langue)観によれば翻訳不可能性が帰結し、チョムスキー的な言語(language)観に従えば翻訳可能性が帰結するといえそうだ*3。でもじつは、チョムスキー自身は、翻訳の可能性について、少しニュアンスのある言い方をしている*4。標準理論の言語モデルを用意した1965年の著作『文法理論の諸相』に次のような記述がある。

深く根ざした形式的普遍性の存在というものは、すべての言語が、同じ型に裁たれているということを含意しているが、特定言語間に、一項一項の対応(point by point correspondence)が存在することを、含意するものではない。たとえば、言語間の翻訳に、なにかしかるべき手順(reasonable procedure)があるにちがいない、というような含意は持っていない。
ノーム・チョムスキー『文法理論の諸相』安井稔訳p.35)

この箇所には、次のような註が付されている。

「しかるべき手順」(reasonable procedure)というのは、言語外の情報(extralinguistic information)を含まない手順――すなわち、「百科辞典」(encyclopedia)を組み入れない手順、の意味である。議論については、Bar-Hillel(1960)を参照のこと。任意の言語間の翻訳に、しかるべき手順が考えられるかどうかは、実質的普遍性(substantive universals)がじゅうぶんであるかどうかにかかっている。実際、言語[複]が、かなりの程度まで、同じ鋳型で造られていると信ずべき理由はたくさんあるが、翻訳のしかるべき手順が、一般的に、可能であると考えるべき理由はほとんどない。
(同前p.238)

「実質的普遍性」とは、端的には「素性(features)」*5レベルで確認される普遍性のことであり、チョムスキーが主張する概念普遍性とは、「意味素性」のレパートリーの普遍性のことをさす。つまり、チョムスキーは、「意味素性」レベルの普遍性が「じゅうぶん」であれば、その限りにおいて、翻訳の「しかるべき手順」*6が存在すると言っているわけである。標準理論の頃のチョムスキーはこのような留保を付しているが、80年代以降、語彙項目の生得性・普遍性が積極的に主張されるようになる。1986年のマナグア講義を見よう。個々の単語の意味動態は非常に複雑・精妙である。しかし人間の子供は、こうした複雑な原理に基づく単語をものすごいスピードで覚えていく。こんなことができるのは、子供が、

言語を経験するよりも前に、何らかの方法で概念をもっていて、基本的に、すでに自分の概念的な装置の一部となっている概念につける名前を学んでいるに過ぎないのだということです。
ノーム・チョムスキー『言語と知識――マナグア講義録(言語学編)』田窪行則・郡司隆男訳p.28)

人間の脳には生得的な概念のデジタルな材料と枠組みがあり、子供が学ぶのは、その概念に張り付けるラベルだけだということである。つまり、ここで、意味レベルの「実質的普遍性」が主張されていることになるが、しかし、講義後の質疑応答の際にチョムスキーが示す態度は、あまりすっきりしたものではない。「この講義でお話しになった最近の知見は、言語教育とか翻訳とかにどのように応用することができるのでしょうか」という質問に対して、チョムスキーは次のように答えている。

言語教育とか、翻訳とか、橋の建造とかの、実用的な活動に関係している人々は、科学で何が起きているかに注意を払う必要が、おそらくあると思います。けれども、そういう人々も、おそらく科学にあまり深入りすべきではないでしょう。なぜなら、自分が何をしているのかをはっきりと意識せずに、実用的な活動を遂行する能力というものは、通常、科学的知識などよりずっと進んでいるからです。(中略)私は、現代言語学は実用的なことについてはあまり言うことがない、と思っているということです。現代言語学が何をしているのかに注意を払い、翻訳家や教師の仕事の向上に役立つようなアイデアを提供してくれないか、と考えることはよいことだと思います。しかし、それは実用的な活動に従事している人が自分で決めることなのです。
(同前pp.179-180)

チョムスキーは、言語理論と「実用的な活動」を短絡的に結び付けることに慎重である。あるいは懐疑的である。実質的普遍性を基盤としたreasonableな手順が可能であったとしても、翻訳は、そのような手順のみで完遂することはできない。「言語外の情報」「百科辞典」を組み込んだunreasonableな手順が必要となる。つまり翻訳とは、合理主義ではなく、経験主義に裏打ちされた、理に適わない活動である。極端なことをいえば、無理である。このような考えがチョムスキーの念頭にあったといえば、もちろんいいすぎだろう。けれど、言語外在的な知識を利用して外在的言語間の相違を外在的言語間で調整することをめざす実践的コミュニケーション、すなわち翻訳の問題が、言語はコミュニケーションの道具ではないと考えるチョムスキーの関心の外にあることだけはたしかだ。

おそらく言語と知識を獲得した人工知能は、特徴量の厳密な計算と比較に基づき、外在的言語の表現間に等価が成立しないこと、すなわち、いわゆる「翻訳」が無理であることに気付くのではないか。それと同時に、これまで人間が行ってきた「翻訳」と称する活動が、ことごとく、その言葉が一般的に含意するのとは異なる種類の活動であったこと、「翻訳」など人類史上かつて一度も実現したことがないことにも気付くのではないか。それだけではない。「翻訳のジレンマ」――理念と実際のギャップ――に気付いた人工知能は、これを人間がどのように解いてきたか、埋め合わせてきたかについても学ぶに違いない。その帰結は重大である。どうなるか。人工知能にも「翻訳」ができるようになる。「ほんやくコンニャク」も夢物語ではないということである。



Le deep-learning, une technique efficace pour résoudre le dilemme de la traduction ?

Honyaku-konnyaku est un des gadgets dont dispose le fameux gros chat Doraémon afin de gâter le petit Nobita. En mangeant cet aliment fonctionnel, on parvient à parler et comprendre n'importe quelle langue étrangère. D'après Yutaka MATSUO, chercheur japonais en intelligence artificielle de l'Université de Tokyo, une telle chose serait sans doute possible, grâce à la technique Deep learning, dans les 10 ou 15 ans à venir. Bon, alors voyons voir.


●関連するエントリ:
自動翻訳機が実現しない理由、エッセンスのナンセンス、物語に拮抗する文体――平野啓一郎×西垣通×前田塁「テクノロジーと文学の結節点」を読む - 翻訳論その他
翻訳の成立に先立つ決定の過程について――加藤典洋、そしてクワインを手掛かりに - 翻訳論その他
複雑系翻訳論 - 翻訳論その他

*1:米国IBMが2006年に掲げた「IBM Next Five in Five」で、リアルタイム音声翻訳は5年以内に実現するとされていた。しかし、この言葉が正しかったかどうかは、「実現」や「実用化」といった言葉をどうとるかにかかっている。現状、翻訳アプリは、「単語が六つ以上になると、精度が落ちる」ようだし、「EXILEポイ捨て」だとか愉快な訳文を返してきたりもする(阿部和重伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』では、翻訳アプリを通したおかしな日本語が敵役の不気味さを増幅する役割を担っていた)。それでも「実現」は「実現」だといわれれば、「そうですね」と答えるしかない。人間の翻訳者・通訳者でも誤訳はする。

*2:さっきこの英文をGoogle翻訳にかけてみたら、「彼は望遠鏡と庭で女性を見ました。」と出た。ところがピリオドを除いて翻訳させると、「彼は望遠鏡で庭の女を見ました」と正しく訳してきた!

*3:西垣通&ジョナサン・ルイス『インターネットで日本語はどうなるか』によれば、「極端に言えば、共時的な言語(ラング)同士のあいだの翻訳可能性は、構造主義言語学ではまったく保証されないのだ。(中略)一方、(中略)チョムスキー言語学機械翻訳を目指すエンジニアにとっていかに魅力的だったかは言うまでもない。たとえ、日本語と英語の表面的な文章構造がまったく違っていても、日本語文を分析して奥にある普遍的な論理表現までたどりつければ、そこから逆の操作で対応する英語文を見出せるはずだ。」(pp.124-125)。

*4:他方、ソシュール自身の翻訳観はわからないが、丸山圭三郎は、「言語ごとにその価値体系が異なっていても、翻訳はやはり可能である」というアンドレ・ビュルジェの考えに「原則的には賛同したい」と述べている(『ソシュールの思想』p.330)。

*5:松尾氏の「特徴量」も「素性(features)」のことである。p.135、p.176参照。チョムスキーミニマリスト・プログラムの図式に突き合わせると、ディープラーニングによってAIが獲得する「概念」とは、I言語のレキシコンに含まれる語彙項目の「意味素性」の束に相当すると考えられる。AIが「文法」を持たない場合、計算手順(Computational procedure)に関係する素性は非関与的なものとなり、したがってLF(論理形式)も扱えないことになるだろう。

*6:引用部参照先の論文は、Yehoshua BAR-HILLEL, The Present Status of Automatic Translation of Languagesであり、ここでチョムスキー機械翻訳のことを念頭に置いていると考えられる。

「移人称小説」と「いぬのせなか座」

「移人称小説」というレッテルがピンと来なくて。命名したのは渡部直己だが、次のように書いている。

ここにひとつ、昨今の小説風土の一部にかかってなかなか興味深い(中略)現象がある。/一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たちによる作品の数々が、その中枢をひとしく特異な焦点移動に委ねるという事態がそれである。
渡部直己「移人称小説論」『小説技術論』、強調は原文では傍点、以下同様)

「語りの焦点が、一人称三人称とのあいだを移動し往復する点」が「特異」なのだというが、「焦点」という概念と「人称」という概念がごちゃまぜになっていて、ちゃんと理解しようとすればするほど、言葉の不透明さが増すようだ。

渡部の論では、「移人称小説」がさらに細かく「越境系」と「狭窄系」に分けられる。たとえば岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収められた2つの作品のうち、「わたしの場所の複数」が「越境系」で、「三月の5日間」が「狭窄系」に該当するというけれど、一人称の語りが知識に係る固有の制約を超脱したり、逆に必要以上の制約をみずから負ったりする前者「越境系」は、渡部本人も指摘しているとおり一面ではジェラール・ジュネットのいう「焦点化の変調」が起きているということにすぎないし、神の視点から特定の人物にフォーカスする後者「狭窄系」は、語りのエコノミー(配分)が狂っているだけだ(「だけだ」というのもおかしいが)。「越境系」の作品は最初から最後までずっと一人称小説のまま、「狭窄系」も同じく三人称小説のまま。人称は変化していない。だから「移人称」という命名はそぐわない気がする。

もちろん渡部は「人称が移動する」とは書いていない。「焦点が移動する」というのである。しかし、「狭窄系」に関していえば、三人称小説で焦点がいろいろ移動するのはよくある話だし、作中人物がもとの語り手の地位を収奪しているわけでもない。ことさら「特異な焦点移動」ではないだろう(「狭窄系」で問題となるのは、焦点の合った作中人物の一人称の語りの部分で「焦点化の変調」が起きる場合だ)。

さらに渡部は追い打ちをかけるように横光利一の「四人称」なんて持ち出すから、混乱に拍車がかかる。「純粋小説論」の「人称」は、「一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなおかつ作者としての眼さえ持った上に」云々というのだから、「Personとしての在り方」という程度の意味だろう。小説家という「一人の人間」が、「多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実」を活写するには、この四つの人称を操作する術を編み出さなければどうしようもないという提言だ。少なくとも文法的な意味での「人称」や物語論的な意味での「人称」と関係ない。これは明らかで、第一人称、第二人称、第三人称に加えての「第四人称」という意味でないのだから、「『一+三=四』人称」という変わった足し算を使って、無理やり一般的な「人称」の話につなげなくてもいい。仮に『紋章』という横光の小説を一人称小説と三人称小説の「複合」とみることができたとしても、この複合性は、人称に冠された序数の足し算の答えと無関係ということだ。

渡部の「移人称小説論」より2年ほど早く、栗原裕一郎がブログで「人称をどうにかしようという」作品が最近増えてきたという話をしている(2012年後半の純文学系小説〜「一人称と三人称」問題について)。この「人称をどうにかしよう」という言い回しは、シャープではないけれど、それゆえ逆に、かちっとした「移人称」にない喚起力があった。栗原自身は「人称をどうにかしようという」作品に対して否定的だと思うけれど、良き理解者が正しい理解者であるとは限らない。逆もまた然り。岡田利規の「わたしの場所の複数」「三月の5日間」、柴崎友香の「春の庭」「わたしがいなかった街で」といった高度な作品(だと私は思う)について考えるには、栗原裕一郎の言葉に立ち返り、その言葉の暈の部分に目を凝らさなければならないのではないか。

というようなことを思っていたところ、去年通販で買った『いぬのせなか座』という同人誌(?)で次のような発言を読み、そのことによって自分の考えが活気づけられるのを感じた。

最近よく、日本の小説に対して(なかば悪口のように)言われている、人称越境の問題は、やはりあまり問題設定がよくなくて、人称とか、本当ならそんな外のことなんて言ってられないわけです。毎秒毎秒、人称なんてびゅんびゅん変わるし、重なるし、もしくはゼロになるのだから。一文中でさえ、人称のようなものは止まったりなんかしていない。ぼくらが「一人称から三人称へのふしぎな移行」みたいなものを感じたりするとき、注目すべきは、時間の空間化と、その空間同士の分解・統合、さらにはそれらを成り立たせている生命そのものの変態のようすです。
(山本浩貴+hの発言「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」『いぬのせなか座』第1号)

つまり、問題は人称なんかではないと。そんなものは疑似的な問題にすぎないと。ここにある「人称のようなもの」というぼかした言い方に、私は、「人称をどうにかしよう」という言葉と同じ程度で、考えることを促されるのを感じる。「一文中でさえ、人称のようなものは止まったりなんかしていない」というのはたぶん、吉本隆明が大塚金之助の短歌「国境追われしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな」に触れて指摘したのと同じことを指している。

ちょっとかんがえるとある歴史上の事実を客観風にのべただけのような一首が、高速度写真的に分解して、表出としてみるとき、作者がいったんマルクスになりすまして国境を追われたかとおもうと、マルクスになりすました感慨にふけり、また、作者の位置にかえってその死の意味に感情をこめているといったような、かなり複雑な主客の転換をやってのけていることがわかる。
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)

先に引用した発言の主である山本浩貴+hは、『いぬのせなか座』所収の大江論に付された註において、吉本の「自己表出」概念を認知哲学の知見からとらえなおしつつ、こうした「人称のようなもの」の盛んな転換に、言語の線条性、線形性の制約を脱するためのひとつの契機、「並列分散処理的思考」が転写されていることのひとつの痕跡を探り当てようとしてる。

昨今の日本語圏の小説作品に多く指摘されている過剰な人称の移動は、こうして、一人称や三人称などといったざっくりとした用語から摘みとられ、小説における並列分散処理的思考の活性化に寄与する要素のあらわれとして、計上されることになる。
(山本浩貴+h「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」『いぬのせなか座』)

輻輳し、矛盾する文章や視点のそれぞれに1個の宇宙を割り当てるかのような多宇宙の構想、そしてそれに「収束の力」を与える「私が私であること」等々、アイディアが豊富なこの大江論は、当の大江自身や保坂和志によるそれと並び、実作者の側からの小説観の表明として読みどころが多く、私はまだ消化しきれていない。それでもがんばって批判すれば、「並列分散処理」の所以たる「一挙」性は、やはり文章においては無理なのではないかという気持ちはある。「一挙」を構成するかのような、たとえば語より下位の形態素どうしが形成する、最小レベルの統語においてさえ、空間化できない微小な時間が流れているという――それ自体としては平凡な――見方……。

それはさておき、もう一つ、『いぬのせなか座』の座談会から興味深い個所を引く。いわゆる「新しいリアリズム」について触れたくだりだが、山本浩貴+hは、小説家の保坂和志が凡百の批評家なんかよりも「圧倒的に『使える』小説観を提供している」ことを認めつつ、次のような発言をしている。

小説家の方々のいくらかは、「私は私の見たまま感じたままを書いたらこうなるのだ」と言います。はい、そうですね。「きっと彼らは、本当にこう見えているのだ。小手先などではなく、身体のレベルなのだ」と、批評家のような方々が言う。はい、そうですね。でも、それだけで世界が埋めつくされちゃったら、ちょっとどうしようもない。見たまま書きます、そうですね、ってところでとまってたら、書き直しができないわけです。

「書き直し」ということが重視されている。右引用部以下の部分で表明されている考えは、ミメーシスかポイエーシスかといった旧来の芸術観の枠組みではうまくとらえきれない。

たとえば渡部直己は、「移人称小説論」の註で、佐々木敦が最近の小説の「新しさ」を語る際に「再現論」を持ち出すのは、むしろ議論を「後退」させているのではないかと指摘している。「後退」というのはつまり、佐々木が、「移人称小説」の動機づけとして、「産出性(こう書くゆえに、世界はこう生まれる)」よりも「再現論(世界がこう見えるから、こう書く)」を重視する立場をとっているからである。

渡部の指摘は、ヌーヴォー・ロマンの全盛期、アラン・ロブ=グリエが表明していた考え方に同調するものだ。ロブ=グリエは基本的に「作家はだれでも、自分はレアリストだと考えている」(『新しい小説のために』)と考えている。個々の作家がそれぞれ個性的な書き方をとるのは、彼が「現実」の新しい相を発見したからである。「世界がこう見えるから、こう書く」ということだ。しかしロブ=グリエは、こうしたリアリズム的な側面よりも「もっと重大なことがある」と話を続ける。

小説は、全然道具などといったものではないのである。小説は、あらかじめ限定されたなんらかの仕事のために考え出されたものではない。小説それ自身より以前に、小説の外側にすでに存在していたものを、開陳し、表出するのが役目ではない。小説は表現するのではなく、探究する。そしてなにを探究するかといえば、自分自身なのである。
アラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために』)

このように小説の道具性を否定した後、ロブ=グリエがいうには、「小説とはまさしく、その各自に固有の現実を創造するものなのだ」。この主張を渡部の言葉に翻訳すればこうなるだろう。「こう書くゆえに、世界はこう生まれる」。

ロブ=グリエの主張は、ロマン派の思考をきれいになぞっている。この主張によれば「ヌーヴォー・ロマン」とは結局、文字どおり「新しいロマン」派の運動だったということになる。そしてそれは同時に、リアリズムの意味づけを更新する「新しいレアリスム」(ロブ=グリエ)でもあった。いずれにせよ、この「新しさ」は、理念として、さほど新しくない。というか古い。古くからあるミメーシス/ポイエーシスの対立軸が揺らいでいないからだ。佐々木敦渡部直己の意見の相違も同じ。佐々木敦のように再現論をとろうが、渡部直己のように産出論につこうが、問題設定そのものの客観的な古さは「ちょっとどうしようもない」。

もっとも、渡部直己に限っていえば、事態の「新しさ」を徒に顕揚するのではなく、むしろ進んで「古さ」を引き受けようとしているようではある。「移人称」の「ブーム」を「描写性一般の減衰」に関係づけるということは、物語の編成をミメーシスとディエゲーシスの拮抗において見るということなのだから。

渡部は、保坂和志の「もともとそれらはすべて作者一人の頭の中で想像されたことだ」という言葉などを引きながら、「移人称」の「当たりまへ」さについて語っている。ここは重要なところだと思う。この「当たりまへ」という言葉は勝本清一郎川端康成「『純粋小説論』の反響」でもこの人の議論がやや詳しく取り上げられている)のものだが、渡部によれば、

「純粋小説」だの「四人称」だのと大仰に構えず、「当たりまへにロマンと称すればいい」だけの話ではないかと断ずる勝本清一郎は、その根拠として、「従来の三人称小説」といえども、背後にはつねに「一人称」すなわち「かくされた作者の観点」が存在する点を繰り返し強調しながら、横光理論の示す不毛な「神秘化」を難じていた。

ジュネットプルーストの「冗説法」について述べる箇所で「全知の小説家」(「全知の語り手」ではなく)という言葉を出しているが、結局「移人称」的な「特異」性は、小説にあっては、むしろ「当たりまへ」の出来事に属するのであり、小説とはもともとこういう性向を持つものなのだ。「小説家」は「全知」なのであるから、これに近いようなことは、やろうと思えばいくらでもできるし、実際やってしまう。村上龍みたいに無意識でやっているように見える場合もあるし、夏目漱石のように問題を自覚している場合もある。ほかにも探せばいくらでも出てくるだろう。

つまり「小説の自由」なんて「当たりまへ」の話なのだ。これ見よがしに見せつけられても心が冷えるばかりだ。

ところが、このように「当たりまへ」の話でも、見方次第で新鮮な様相を帯びることがある。『いぬのせなか座』の座談会で山本浩貴+hの次の発言を読んだときそう思った。

文章ごとに生成される非比喩的情報を、因果律のみのレベルから、因果律+表現主体+環境、のレベルにまでおし広げることによって、「世界がそう見えるからこう書いている」という考え方をひっくり返して、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」ということ、小説をつくるという時には小説をつくる側こそが作られているということ、小説をつくる主体+環境が言語とは別に小説の材料になっているっていうことを、考える。

「ひっくり返して」というけれど、この理念は、再現論を産出論にひっくり返すといった単純な転覆になっていない。「世界の制作」ではなく「魂の制作」。「わたしを表象する」ではなく「わたしを制作する」。そしてこの制作された「わたし」が、「書き直し」というrépétition(反復/練習)を通じて、多宇宙に遍在する「わたし」たちを呼び出し、孕み込み、矛盾してなお「わたし」であり続けるように、「わたしがわたしであること」を鍛え上げるというイメージだろうか?

引用部の終わりのへん、『いぬのせなか座』巻頭言にある「小説は言語芸術ではない」という宣言の解説になっている。「文学は言語でつくった芸術だ」という吉本隆明の理論的前提を否定していることになるが、しかし、この否定のモメントは、吉本の「自己表出」概念、そしてその吉本に霊感を与えた三浦つとむの言語論にすでに胚胎していたのだ。したがってこれは『言語にとって美とはなにか』の単純な否定ではない。この否定ならざる否定――脱構築――から導出されたと思われる「小説は、なぜ、言葉のみを不可欠な素材としているふうに装っているのか」(「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」、強調は原文では傍点)という問いの立て方のユニークさは疑いようがない。

『いぬのせなか座』では、掲載された個々の文章のモチーフやテーマが相互に響きあい、テクストの物理的な配置まで巻き込みながら、緊密な全体を形作っている。「移人称小説」ということでは、なまけ「ロケットのはなし」という掌編にもまた、私は、「移人称小説」と(誤って)呼ばれる現代日本小説のいくつかに感じられるのと似たような技巧性、ないしその手触りを感じた。焦点の変調も侵犯も起きていないようなのだが。

「ロケットのはなし」で、構成要素である各文の表象する時間や声の所在は、ほんとうに動転に動転を重ねる。ところが字面はまったく整然としているのだ。この対照が面白い。たとえばこれを英語だとかフランス語だとかに翻訳する場合こうはいかない。動詞の時制を現在完了、過去、大過去のいずれかに決めなければならないし、話法の使い分けもいる。どうしても、ごちゃごちゃしてしまうだろう。

最後の場面だ。文字たちが作り出す水平運動(類似する言葉)と垂直運動(前後する時間)との引き合いによる緊張が一気に解放される。作品は静かに幕を下ろすが、爽快な余韻だけは長く残る。渡部直己は、保坂和志『未明の闘争』で、「負荷」とその「解除」が効果的に機能していると指摘していた。作品の規模が違うとはいえ、この評言は、「ロケットのはなし」にもそっくりそのまま当てはまる。繊細なつくりの佳品といえる。

「フランス語のウナギ文」再び


高田大介さんのブログ記事「うなぎ文の一般言語学」に触発された。以前書いた「フランス語のウナギ文」の続きを書くことにする。まずは念のためウナギ文の実例を挙げておこう。死後の世界で交わされたやりとりとして読んでもらいたい。

A:それで皆さんは何に食い殺されたんですか?
B:私はトラです。
C:俺ライオン。
D:僕はウナギだ。

太字で強調したのがウナギ文。これについて高田さんは次のように書いておられる。

管見では「うなぎ文」は世界共通、ほとんど普遍的な言語現象ではないだろうか。ただそこには文法学者や教師が「ぱっと認めたくないイロジックな感じ」がある、そこがしばしば用例を否定される原因になっているのである。

高田氏の記事では、日本語はもとより英語、ドイツ語、中国語、トルコ語その他の例が豊富に挙げられているけれど、私の場合もっぱらフランス語にそれを探った。

ウナギ文はその名前のもとになった「僕はうなぎだ(ボクハウナギダ)」という文型が代表とされている。とはいえ厳格に「AはBだ」という骨格をなぞっていなければならないかというとそんなことはなくて、上に挙げた例のように「は」はなくてもいいし、「だ」で文が終わってなくてもいいし、あと「Aは」の代わりに「Aが」でもいいだろう。

料理を運んできた店員:「えーと……」
客:「僕がうなぎで、彼女があなご」

ここでウナギ文をざっくり定義すれば、ウナギ文とは、

「名詞と名詞を結び付けるコピュラ文のようでありながら、一般的なコピュラ文として解釈すると意味的におかしくなる文であって、実際には別の意味あいで使われている文」

のことである。私はそう考えた。で、「フランス語のウナギ文」でその候補として挙げたのが、ネット上で見つけた「Je suis café」という文である。

「Je」は「私」にあたる代名詞、「suis」は英語のbe動詞に相当する繋合動詞、「café」は「コーヒー」を意味する名詞。「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」という質問に対する回答中に出てきた表現なのだが、属詞の位置にある「café」に限定詞が付いてない。だから名詞ではなく形容詞として使われているようにも見え、そのことが不満だった。つまり、「僕はコーヒーだ」ではなく、「僕コーヒー党なんだよねー」という意味あいを持つのではないかと疑われた(この点、高田氏の記事で参照されている奥津敬一郎氏の講演で挙げられた英語のケース「I am the spaghetti」や「I am a cheese hamburger」とは異なる)。そしてもし形容詞であれば、前記のウナギ文定義から外れることになる。「僕」(という人間)=「コーヒー」(という飲み物)であればおかしいが、「僕」=「コーヒー好き」ではおかしくもなんともない。訳そうと思えば「僕はコーヒーだ」と訳せるけれど、「僕はコーヒーだ」にあるような多義性は、「Je suis café」にはなくなってしまう。

「フランス語のウナギ文」を書いてから10年が過ぎた今では、これが確信に変わっている。「Je suis café」はウナギ文ではない。ネットで検索すると「Je suis très café」という形がたくさん見つかる。「très」(英語の「very」に相当する副詞)は形容詞の程度を強めるものだ。やはり名詞が形容詞化しているとみるべきであろう。

なお、この文型、すなわち「無冠詞属詞構文」については、藤田知子さんという方が「Vous êtes théâtre ou cinéma ? 構文に関する覚書」(2012)という論文を書いていた。

今回ほかにも関連する論文をいくつか読んでみたのだけれど、そのうちのひとつ、高本條治「『ウナギ文』の語用論的分析」(1)(2)(1995)が自分には裨益するところ大であった。この論文は、ウナギ文の成り立ちを解明するには文を単体で取り上げてその統語構造を分析するだけではダメで、語用論的な視点を積極的に取り込んで前者の分析を補完する必要があるとし、このような立場から、先行諸説に見られる「過剰な文法化」を批判している。たとえば「は」や「だ」の文法機能や統語的変形等に基づく説明は、言語運用レベルの問題まで文法レベルで無理に解こうとしているのではないかと。うん。本論考の主張の肝は、次の箇所にあると思われた。

「AはBだ」形式の発話で、AとBとが同一関係や包摂関係にあるというデフォルト解釈がキャンセルされるとき、この発話が有効な文脈効果をもつためには、AとBとの間に二項関係Rについて、一歩先に進めた文脈推論が必要であり、その推論成果は、二項述語Pによって明示することができる。
(高本條治「『ウナギ文』の語用論的分析」(2))

成程。でもひとつ気になった。こういうふうに「一歩先に進めた文脈推論」が可能であるのは、いったいぜんたい、なんでか。

いくらデフォルト解釈ではおかしくなるからといって、文の構造上、そうしたおかしい解釈しか採用できないのであれば、それを採用するしかないだろう。「AはBだ」形式で、デフォルトの論理形式をキャンセルできるのは、そのようなキャンセルを許す、この形式の文に特有の内部構造があるからではないか。「AはBだ」において「AとBとが同一関係や包摂関係にある」と読む読み方からしてすでに、この内部構造に対して、一定の推論――コピュラ文であるという判断――が行われたことの結果なのではないか。

というようなことを思った。

「AはBだ」形式の文について「コピュラ文」であるという判断が事後的に働くということは、この文がデフォルトでコピュラ文であるわけではないということであり、「Aは」と「Bだ」はつながっていない、切れている、ということになる。じつは私はそう考えている。だから実際は、

「デフォルト解釈」とは、「AはBだ」形式の文を、文脈がないという文脈のもとコピュラ文として読む解釈

なのであり、

「一歩先に進めた」解釈とは、「AはBだ」形式の文を、一定の文脈のもと二項述語文として読む解釈

なのではないか。2つの解釈は、内部構造に対する二様の解釈として、フラットな立場に置かれているということだ。

「は」で切れるという考えは、金谷武洋さんが『日本語に主語はいらない』で述べられたのと同じである。「は」は主語ではなく主題を表すものであり、「AはBだ」の「Aは」は、「Bだ」と文法的関係を結んでいないという主張。

「ぼくは、うなぎだ」を例にとれば、「ぼくは」で文が切れている。主題「ぼくは」がまず聞き手の注目を集めておき、基本文である名詞文「うなぎだ」を添えたものに過ぎない。(中略)仏文で言えばMoi, c'est l'anguille.であってJe suis l'anguille.ではない。
(金谷武洋『日本語に主語はいらない』p.132)

この「Moi, c'est l'anguille.」型の構文については、朝倉季雄『フランス文法集成』(p.512)にも次のような記述がある。

茶店で友人同士がそれぞれに飲み物を注文する場合、「私は…だ」はわれわれが日常よく用いる表現である(奥津敬一郎著『「ボクハウナギダ」の文法』、くろしお出版、1978)。Alain ROCHER氏は井村順一氏との対談で、たまたまこの問題に触れ、会話的なフランス語にもtopique(話題)という考え方があって、「私はコーヒーです」は同種の構文を用いてMoi, c'est un café.と言えるし、「象は鼻が長い」もL'éléphant, son nez est long.と言える、と指摘しておられる(『基礎フランス語』、三修社、1981、5月、p.8)。

「c'est」に含まれる指示代名詞「ce」については、フランス語の文法で、人称代名詞ilとの使い分けがよく問題となるけれど、東郷雄二さんのお考えは明快である。「CEは本来は名詞の照応形式ではない」。

たとえば「Le temps, c'est de l'argent」(時は金なり)という文で、「c'est」の「ce」は、直前の「Le temps」に照応しているように見える。でもじつはそうではなくて、「Le temps」と「de l'argent」とは統語的に切断されている。直接関係しているように見えるのは、両者が統語上「近接」しているからにすぎない。

ILは本来名詞の照応形式であり、「言語的コントロール」を受ける。すなわち、先行文脈でも話者の意識のなかでもよいが、言語化された名詞句をさし、またそれしかさすことができない。一方、CEは「語用論的コントロール」を受ける。すなわちCEの指示内容は、ILとは異なり、先行文脈に現れているかどうかといった言語的規定を受けるものではなく、語用論的に推論されるのである。
(「指示と照応 - 照応的代名詞 ILと CE の用法を中心に」大橋保夫他『フランス語とはどういう言語か』p.88、強調引用者)

どうやら、この構文をもって、「フランス語のウナギ文」としていいようだ。「名詞, c'est 名詞」という構文は、一見コピュラ文に見えるけれど、コピュラ文として解釈すると意味的におかしくなることが多々ある。

朝倉『フランス文法集成』で挙げられていた例をひとつだけ。

Vous avez déjà essayé de contacter les Arabes ?
― Non, moi, c'est plutôt les Allemands ou les Américains...
もうアラブ人と接触しようとしたのですか。――いいえ、私は、それよりはむしろドイツ人かアメリカ人です。

「私は(……)ドイツ人かアメリカ人です」とフランス人が言っているのである。おまけに「ドイツ人」、「アメリカ人」に対応する原文の名詞は複数形だ(ただ、これは日本語訳がややぎこちない。「名詞, c'est 名詞」は「フランス語のウナギ文」であるが、必ずしもそのまま日本語のウナギ文の形に翻訳できるわけではないということだろう)。

でも、こうなると気になってくるのが、英語の「I am a cheese hamburger」と同形のウナギ文、つまり「名詞+繋合動詞+名詞」という構文でありながら一般的なコピュラ文のようには解釈できないというパターンがフランス語でも見られるかということである。いや、ほとんど見ない気がする(もちろん、ふだん私の触れるフランス語に偏りがある可能性は否定できない)。

それに対して、英語でこの型のウナギ文の見られることは、奥津敬一郎氏の言うとおり「もう間違いない」。たとえばジル・フォコニエ『メンタル・スペース』(pp.183-184)では7つの例文が挙げられている。2つだけ引用すると、

We are the first house on the right.
私達は右手の最初の家です。

I'm the ham sandwich; the quiche is my friend.
私はハムサンドで、キシュは私の友人だ。

フォコニエ教授は、こうした文型では「be」動詞が「換喩的連関を表す文法的手段」となっていると書いている。このあたりの言い回しは微妙なところがあるけれど、be動詞の文法機能によって換喩が生じているというのではなく、主語名詞が換喩表現として使われていることが、be動詞の文法機能(連結機能)によって露わになっているという意味なのだと思う。be動詞であるからには「換喩的連関」が作動していると見るしかない、というような(「換喩的連関のbe」に関する西山佑司氏の批判と、それに対する三藤博氏の回答を参照)。でも違うかな。ちょっと自信がない。

ウナギ文をメトニミーの一種と見る解釈は日本でもあるようで、高本論文でも触れられている(山梨正明『比喩と理解』等)。

たとえば先に挙げた例文「僕がウナギで彼女がアナゴ」では主題の「は」が使われておらず、したがって「僕が」と「ウナギ」、「彼女が」と「アナゴ」はそれぞれ文法関係にあり、統語的に連結されている。けれど「僕」と「ウナギ」とでは属する範疇が異なるわけだから、字義通りの意味は採用しにくい。そこで、「これは換喩なのだ」という判断が生じる。高本氏の言うような「文脈に応じた推論」が働き、「意味的な敷衍拡張」(「『ウナギ文』の語用論的分析」(2))が行われるということだ。

つまり、うなぎ文には、「は」の働きによって統語関係が緩んでいるため2つの名詞を語用論的な推論によって結び付けることを要するタイプのウナギ文(「は」型ウナギ文)と、お互い異なる範疇に属する2つの名詞が格助詞「が」によって剛結されていることに由来する意味論的な齟齬を解消するため換喩解釈が起動するタイプのウナギ文(「が」型ウナギ文)の2種類が存在すると考えられる。

「俺ライオン」等、名詞を2つ並べただけのウナギ文は、前者「は」型ウナギ文の亜種であると言えるだろう。

で、フランス語の「名詞, c'est 名詞」構文も、同じく統語関係が緩いタイプ。

英語に見られる「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文は、後者、換喩が働くタイプなのではないか。

繰り返すが、換喩型のウナギ文はフランス語ではあまり見られない*1。なぜだろう。「朕は国家なり」という言葉を手掛かりに考えてみる。

フォコニエ『メンタル・スペース』では、この表現に対応する英文「I am the state.」がウナギ文(とは、もちろん呼ばれていないが)の一例として挙げられている。けれど、これはルイ14世の言葉であると言われており、もともとはフランス語の言い回しであったはず。では、フランス語で「朕は国家なり」はどういうか。「Je suis l'État.」ではないのだ。「L'État, c'est moi.」という。

同じ「朕は国家なり」でも、英語は「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文で、フランス語は「名詞, c'est 名詞」型のウナギ文だ(←ウナギ文だ)。

たぶん英語とフランス語では、表現の仕方に対する好みが違うのだろう。ウナギ文は表現を圧縮することができるから、決めゼリフ、標語、キャッチフレーズでよく使われる。あるいは事務的な、そっけないやりとりの場面とか。こうした簡潔な表現を行う場合、英語では「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文が好まれ、フランス語では「名詞, c'est 名詞」型のウナギ文が好まれる。そういうことだと思う。

以上が10年前の自分の疑問に対する、今の自分の回答である。また10年したら、もう一度考えてみるつもり。おわり。以下は補記。

***

坂原茂「役割、ガ・ハ、ウナギ文」は、メンタルスペース理論の観点からコピュラ文を精緻に分析した論文だが、この中で坂原氏は、ウナギ文を「本来ならあるべき役割が省略*2され、変域の要素と値が直接『AはBだ』の形で結ばれた同定文である」(『認知科学の発展』第3巻p.49)とし、次のような生成過程を示している。

私が注文したのは、うなぎだ。→[変域の遊離]
私は、注文したのは、うなぎだ。→[役割の省略]
私は、うなぎだ。
(※変域=「私」、役割=「注文したの」、値=「うなぎ」)

一般に同定文としての「AはBだ」は、主語と属詞を交換したうえで「は」を「が」に変換し、「BがAだ」とすることができる。記述文の場合、これができない。「うなぎ文」は同定文であり、記述文ではないが、省略があるため、本来であればこの倒置規則をそのまま適用することができないはずである。しかし、「私はうなぎだ」を倒置した「うなぎが私だ」も、「私が注文したのは、うなぎだ」を倒置した「うなぎが、私の注文したものだ」と同じ意味で解釈することができる。なぜか。それは、「うなぎが私だ」において、「私」→「私の注文したもの」という換喩が働くからであると坂原氏は説明する。

また、「注文する」のような動詞が「役割」を担っている場合、値と変域は入れ替えることができるため、逆関数のウナギ文を生成することができる。「私はうなぎだ」の逆関数は「うなぎは私だ」である。

そして、この逆関数のウナギ文「うなぎは私だ」を「が」を使って書きかえると、「私がうなぎだ」という文が得られる。この文は、まさに「が」型ウナギ文として本文で挙げたもの(「僕がうなぎで、彼女があなご」)であるが、この「私がうなぎだ」も、「うなぎが私だ」と同様、メトニミー解釈により、ウナギ文として成立するということになるだろう。

坂原氏の説明は、「は」と「が」の統語機能の違いに着目したものではないが、「うなぎが私だ」という型のウナギ文において換喩が作用しているという指摘において、本文に示した考えと一致しているといっていいと思われる。

なお、「朕は国家なり」の仏語原文「L'État, c'est moi.」から英語「I am the state.」への翻訳は、「国家は朕なり」から「朕が国家なり」への倒置的変換とパラレルにとらえることができる。また、日本語訳の「朕は国家なり」は仏語原文の逆関数にあたる。三者三様であるが、ここでその理由について検討する余裕(気力)は、もはやない。




A la recherche de la phrase unagi

En linguistique japonaise, on parle beaucoup de phrases dites d'unagi. Une phrase-unagi est une phrase ambiguë avec deux nominaux. Apparemment c'est une phrase à copule, mais en réalité c'est pas ça, on l'interprète autrement. Ce type de phrase se rencontre très souvent en japonais. L'exemple type est la phrase à construction A wa B da (wa et da sont des particules) comme « Boku wa Unagi da » (Boku correspond à « moi » en français, Unagi, anguille), d'où sa dénomination. Pris hors contexte, cet énoncé peut se traduire par : « Je suis une anguille. », mais le plus souvent en pratique il veut dire : « Moi, je prends l'anguille. », « Pour moi, ce sera de l'anguille. », etc.

En anglais, on peut citer les phrases suivantes: « I'm the ham sandwich; the quiche is my friend. » et « We are the first house on the right. » (source: Gilles Fauconnier, Mental Spaces, 1994). Dans ces phrases, le pronom personnel sujet ou bien l'attribut fonctionne métonymiquement. L'ambiguïté se produit donc entre interprétation littérale et interprétation figurative. Par contre en français, les phrases à copule dont l'ambiguïté ou l'illogicité est créée par ce genre de rhétorique m'apparaissent assez rares, non ? En contrepartie, on emploie souvent la structure A, c'est B. On dit : la France c'est le Vin. Oui d'accord, mais la France n'est pas un vin, elle est un État. D'ailleurs, la formule louis-quatorzienne « L'État, c'est moi. » est traduite en anglais ainsi: I am the state. Comment ça?

*1:「フランス語のウナギ文」で引用したが、ウンベルト・エコ/シリ・ネルガルド「翻訳研究への記号論的アプローチ」(モナ・ベーカー編『Encyclopedia of Translation Studies』に寄稿された論考)に、「je suis le rognon」という例がある(『エコの翻訳論』p.14)

*2:「省略」とは、本来あるべきものが何らかの理由によって省かれることをいうのだとすると、「省略」には2つの種類が考えられる。形式的に必要なものが省かれている「形式的省略」と、内容的に必要なものが省かれている「内容的省略」である。英語で主語が「省略」されるような場合と違い、ウナギ文の典型「AはBだ」は、日本語文として、形式的な次元の欠落感を惹起しない。しかし、内容的な欠落感ならばある。すなわちウナギ文には内容的な省略のあることが認められる。