フランス語の「ねじれ文」

 

ぼくの希望は、社会に出て、みんなのためにつくすことのできる人になろうと思っています。

この文はおかしい。どこがおかしいのか。「ぼくの希望は」で始まった文が「なろうと思っています」で終わっている。でも、「みんなのためにつくすことのできる人になろうと思ってい」るのは「ぼくの希望」ではなく、「ぼく」その人なのではないか。つまり、この文は、ほんとうなら、「ぼくの希望は」ではなくて、「ぼくは」で始まっていなければならなかった。あるいは、どうしても「ぼくの希望は」で始めたいのであれば、終わりの部分、「なることです」にしなければならない。「なろうと思っています」ではなくて。

じつはこの文は曾孫引き。三上章の『日本語の構文』に、「悪文治療のエキスパート」であるとされる平井昌夫の書いた文章を長めに引用して批判しているところがあるのだが、批判されたその文章の中で、「主語と述語が対応していない文」の一例として平井昌夫が挙げていたのが、たぶん小学生くらいの子供が書いたものだろう、この文。こういった主述のかみ合っていない文は、国語教育、作文指導の現場などで、「ねじれ文」だとか「ねじれた文」だとか、そんなふうに呼ばれたりもするようだ*1

しかし、この手の「主語と述語が対応していない」「ねじれた文」は、子供だけではなく、大人の書くものにも現れる。そのことは、岩淵悦太郎『悪文』や木下是雄『理科系の作文技術』といった文章作法を説いた本――少し刊行年の古い本だが――を読むとわかる。新聞や雑誌、学生のレポートから抜き出された「ねじれ文」の数々。さすがに、冒頭引用した「ぼくの希望は」みたいな派手なのは少ないけれど*2

原因はどこにあるのか? これも『日本語の構文』からの孫引きだが、平井昌夫は次のように言っている。

主述の関係が明確に述べられていなければ文とは言えないことぐらい、ごく当然な常識のはずなのですが、長い文章を書いていると、途中でうっかりこうした文[=主語と述語が対応していない文(引用者註)]を書いてしまったりするものです。

(三上章『日本語の構文』)

長いとねじれやすいと。独文学の平子義雄も同じく文の長さにねじれの原因を見出している。

〈この電車の次の停車駅は、調布までとまりません〉と言っている車内アナウンスがあった。これが構文破綻であることは明白だろう(停車駅がとまったりとまらなかったりしては大変だ)。だがこんなふうに文の組み立てが途中から変なほうへ行ってしまう言い方は日頃よく耳にするところだ。日本語では文が長くなると統辞力が切れてしまうのである。

(平子義雄『翻訳の原理――異文化をどう訳すか』、強調引用者)

でも「この電車の次の停車駅は、調布までとまりません」は長い文とは言えないのではないか? つまり主述のねじれは、さほど文が長くなくても起きる。起きるときは起きる。文の長いことは原因のひとつかもしれないけれど、根本的な原因ではないと思う。とはいえ、このあたりの記述には大事なヒントが含まれているとも思うから、引用を続けたい。平子義雄は、この問題を英語との対比で考えている。

この文を英語で言おうとするとすぐに誤りに気づく。英語では言おうにも言えないのである。しかし日本語としては通用しており、構文破綻にもほとんどの人々は気づかないか、気づいてもとがめない。

(同前)

ここから平子義雄は、日本語は「語と語の関係、言語の言語的法則などの統辞論的文法」が弱く、それを「意味論的文法(言語と言語外現実との関係)」が「補強」しているのだという、かつて森有正が主張していた「現実嵌入」論に近いような主張を展開している。しかし自分の場合、このようには考えない。

ねじれ文は「英語では言おうにも言えない」。でも「日本語としては通用して」いる。少なくとも「通用」する場合がある。つまり、日本語では、言おうと思えば言える、ということだ。ただし「構文」が「破綻」している。平子義雄はそう言っている。けれど、「言える」とは、どういうことなのか、よく考えてみれば、それはつまり、「ねじれ文」は日本語の「構文」として「破綻」していない、ということになるのではないか? だからこそ「ほとんどの人々は気づかないか、気づいてもとがめない」というようなことが起きるのではないか?

自分の場合、こう考える。ねじれ文は構文(統辞論)的に破綻していない。単に主述関係(意味論)が破綻しているだけである。つまり「言える」には二つの層がある。ねじれ文は日本語の文として間違った形をとっているわけではない。だから、言える。けれど、主述関係、意味の観点から見れば問題があるので、その点、重くとらえれば、言えない。後者の「言える」は前者の「言える」より高度な次元に属するのだと思う。子供がこういったねじれた文を作ってしまうのは、基礎的な文の組み立てを超えた主述の組み立てにまで、じゅうぶんな配慮を及ぼすことがまだできていないからだろう。大人でも文が長くなると、意味次元の配慮が行き届かなくなる。即興的なスピーチなど、話し言葉の場合も同じ。

ようするに、日本語では、「主述の関係が明確に述べられていなければ文とは言えない」というわけではない。自分はそう考えている。「主述の関係が明確に述べられていなければ文とは言えない」というのは、日本語の具体的な現実から目を逸らした頭でっかちな見解、空理空論にすぎないとさえ思っている。日本語では、「主述の関係」の成立と文の成立が別立てになっている。そう考えたいのだ。

しかし、英語はそうではない。ねじれ文は「言おうにも言えない」。なぜか。主述関係が統辞論に食い込んでいるからであろう。これは英語だけではない。ドイツ語もそうだ。フランス語もうそうだ。西欧語では文の成立これすなわち主述関係の成立であり、主語と述語がかみ合っていなければ、それだけでもう非文になってしまう。だから、ねじれ文は「言おうにも言えない」。そういうことになる。

再度しかし――このように、ねじれ文が「言おうにも言えない」のだとすると、木下是雄『理科系の作文技術』に、次のような記述があるのは一体どういうわけなのか? 「〈ねじれ〉は英文その他の欧文ではことにきらわれる」。つまり、もしねじれ文が「言おうにも言えない」のであれば、「きらわれる」なんてことは起こりようがないのではないか? 「きらわれる」というからには、それが口にされる機会がある、「言おうと思えば言える」のでなければならないのではないか?

これはたまたま見つけたのだが、小学館ロベール仏和大辞典の「paroxysme」の項に、次のような用例が載っている。

En le voyant, sa fureur a atteint son paroxysme.

彼を見て、彼女は怒り心頭に発した。

用例に添えられた和訳を、説明の便のため、原文の品詞を明らかにする形に直せば、「彼を見て、彼女の怒りは頂点に達した」となる。「彼を見て」に対応する文頭の「En le voyant」はジェロンディフ(gérondif)と呼ばれる動詞の一用法で、《前置詞en+現在分詞》の構成をとって副詞的な働きをするものをフランス語文法ではこのように言う。このジェロンディフの動作主は、原則的に、主動詞の主語と同じでなければならないとされている。例えば「Il se promène en lisant.彼は本を読みながら散歩する」(目黒士門『現代フランス広文典』改訂版より)では、「本を読む」という動作がジェロンディフ「en lisant」で表されているが、この「本を読む」という動作を行っている主体は、「散歩する」主体と同一の人物、「彼」であると判定される。

ロベール仏和大辞典の用例で主語は「sa fureur彼女の怒り」である。したがって、ジェロンディフの原則を適用すると、「彼を見」たのは、この「彼女の怒り」であることになる。でも実際に「彼を見」たのは、「彼女の怒り」ではなく、「彼女」その人であるはず。ここには、エントリの冒頭で引用した「ぼくの希望は」で始まる日本語文と同じような主述のねじれがあるように感じられる。

フランス語の表現で、こうした主述のねじれの感じられるケースは、まだほかにもある。

有料テレビの加入者のことをフランス語で「abonné payant」という。後ろの単語「payant」は「payer」(支払う)という動詞から派生した形容詞(動詞的形容詞)で、「お金を払っている」という意味を持つ。前の「abonné」は「加入者」。「abonné payant」全体では「お金を払っている加入者」という意味になる。では、こうした加入者がわざわざお金を払ってまで観ている当の有料テレビのことをフランス語でなんというか。「télévision payante」という(télévisionテレビは女性名詞なので、payantも女性形のpayanteになる)。「お金を払っているテレビ」だ。もらっているはずなのに*3

朝倉季雄『フランス文法集成』にも次のような奇妙な例があった。

Arrivés à la place Clémenceau, Emilienne s’arrête net.

一般的に、主語に対して前置された過去分詞は同格的に主語に係り、その性と数が主語と一致する。でもこの例では、主語はEmilienneという女性の名前であり単数扱いなのに、文頭の過去分詞は男性複数形のarrivés(動詞「arriver到着する」の過去分詞。女性単数形はarrivée)であり一致していない。この例に添えられた訳は「いっしょにクレマンソー広場に着くと、エミリエンヌははたと立ちどまる」。つまり広場に着いたのはエミリエンヌだけでなく、もう一人いた(正確な人数は文脈をたしかめてみなければわからない)。

朝倉季雄は、こういった主語との間に「ねじれ」を感じさせる同格辞の見られる文について、「文法上は破格構文で誤文とされても、意味が明らかな限り(中略)実際には用いられている」と記している。「実際には用いられている」ということは「通用」しているということだ。「言おうと思えば言える」のである。ただし、実際それを口にすると、「きらわれる」。

『フランス文法集成』には同種の破格例として次のような文も挙げられている。

Endormie ou éveillée, dans une tenue décente ou non, on passait outre à votre existence.

眠っていようと起きていようと、きちんとした身なりをしていようと、していまいと、みんなはあなたの存在を無視していました。

文頭の「Endormie ou éveillée」(endormieは「眠っている」、ouは「または」、éveilléeは「起きている」の意)は、同格的に主語に係っているように見える。でも形容詞(ないし過去分詞)のendormie、éveilléeはどちらも女性形で、男性単数扱いの主語「onみんな」と性が一致していない。先の「Arrivés à la place……」では、同格辞の係り先が部分的にではあれ主語として表示されていた(エミリエンヌも到着arrivésしたうちの一人ではある)。けれど、こちらの文では、同格辞「Endormie ou éveillée」が係っているのは主語ではなく、所有形容詞「votreあなたの」である。この「あなた」が女性なのだ(つまり「あなたが眠っていようと起きていようと……」と言っている)。

また、次の文のように、同格辞の係り先が文中まったく表示されていないケースも見られる。

Mort ou vivant, la vie est si brève.

死んでいようと生きていようと、人生は全く短い。

(朝倉季雄『フランス文法集成』)

この文、言わんとすることがよくわからないが、文頭の同格辞「Mort ou vivant」(mortは「死んでいる」、vivantは「生きている」を意味する形容詞)は男性形をとっており、主語の「vie」(「人生」を意味する女性名詞)と性が食い違っている。この文で同格辞の潜在的な係り先は、一般的な「人」を意味する「on」である。

ところで朝倉季雄は、先にロベールから引用した「En le voyant...」のような、ジェロンディフの動作主と主動詞の主語とが一致していない文についても、以上のような同格辞を伴う破格構文と「全く同じように考えられる」としている。たしかにそうだと思うが、異なる点もある。形容詞や過去分詞の同格辞の場合、主語との性数の不一致という形で破格が露骨になるけれど、もともと主述の結びつきを形態上表示する方法(必要)がないジェロンディブの場合、おかしい、ねじれている、という印象は、もっぱら意味の次元において生じていると考えられる。性数がきちんと一致しているにもかかわらずねじれを感じさせる動詞的形容詞の場合も同じで、おかしさが立ち上がるのは、意味を考えることを通じてのみだ。

ジェロンディフの動作主と主動詞の主語とを一致させるというルールについては、田辺貞之助『フランス文法大全』に、「古典時代にはこの規則はあまり重んじられず、主節の主語とgérondifの主語と異なる場合が見受けられる。その傾向が今でも行われている」という指摘がある。じっさい、「すすぎ洗いをすると、汚れの小さな粒や洗浄物についた界面活性剤が流される」という日本語文を、あるフランス人が、「En effectuant un rinçage, les petits grains de saleté ainsi que le tensioactif qui a adhéré au tissu sont éliminés」と訳していた(「汚れの小さな粒や洗浄物についた界面活性剤」に当たる名詞句を主語とした受動態構文で、「すすぎ洗いをすると」がジェロンディフで訳されている)。この仏訳文を最初見たときは、原文の日本語に引っ張られたのかなと思ったけれど、渡邊淳也「主語不一致ジェロンディフについて」によれば、このように主節が受動態をとり、かつジェロンディフの意味上の主語が表現されないこと(そしてその表現されていない意味上の主語が主節内容を経験・認知する主体となっていること)は、規範からの逸脱を引き起こす典型的な条件のひとつなのである(同論文「(153)主語不一致ジェロンディフ成立に作用する統辞的条件」の「c. 受動態,または受動的代名動詞」および「d'. 暗黙化された経験者・認知主体」に対応)。

渡邊氏は、「この規範[=ジェロンディフの動作主と主動詞の主語とを一致させること(引用者註)]に合致していない例は少なからず存在し、ある程度の生産性がある」としたうえで、次のように述べている。

規範主義が主語不一致ジェロンディフを許容する条件は、ほとんどつねに、「曖昧性が回避されるなら」ということである。しかし一般的に、規範主義は、曖昧性さえ回避できればどんな文でも許容するかといえば、そのようなことからはほど遠いので、主語不一致ジェロンディフに関して「曖昧性回避」をもちだすのは、その場かぎりの説明にすぎない。

(渡邊淳也「主語不一致ジェロンディフについて」)

「言おうと思えば言える」どころか、口にしても「きらわれる」ことがないばかりか、口にすることがむしろ積極的に求められる場合があると言えば言いすぎだろうか?

渡邊論文では、たくさんの不一致例を収集、分類している。先に挙げたロベール仏和大辞典の用例(「sa fureur彼女の怒り」を主語にとる文)は、同論文の分類にいう「e. 所有をあらわす表現」、すなわち「被所有物の動作や状態に仮託して、所有者の反応をメトニミー的に示す表現」に該当し、かつ、被所有物が、これもやはり典型的な「感覚・感情をさす名詞」である。「主語不一致ジェロンディフ」を誘発しやすい条件が揃っていたのだ。

このあと渡邊氏は、こうした「主語不一致ジェロンディフ」に対し、中村芳久のいう「認知モード」の観点から検討を加え、とりわけ「暗黙の認知主体」を条件とする「主語不一致ジェロンディフ」と「Iモード」概念との間に関連付けを図ったうえ、最終的に「主語不一致ジェロンディフは、基本的にIモードの現象であるといえる」と述べている*4

これはすごくおもしろい話で、もうちょっと考えてみたいけれど、考えることが多すぎるし、ねじれの主題からも離れてしまうので、ここではこれ以上触れない。

けれど触れるだけは触れておきたいことは、もうひとつあって、それは言葉の「通用」の仕方にかかわる。日本語のねじれ文も、フランス語の主語不一致ジェロンディフも、そのおかしさが形式面にではなく、意味の面に存すると感じられる。意味的におかしいのに「通用」している。しかし、なぜ「通用」するのか?

主語不一致ジェロンディフの典型的な条件である「暗黙の認知主体」は、認知主体が表現されず、観察対象となる事態だけがえがき出されるという意味で、すぐれてI モード的な現象である。ジェロンディフにおかれた動詞はその認知主体による行為をあらわしていることから、心理・認知動詞との親和性が説明できる。その際、「認知主体が、ジェロンディフにおかれた行為を(多かれ少なかれ積極的に)行なったところ、支配節の内容を認知する」というように、暗黙の認知主体がジェロンディフ節、支配節を通じて一貫していることから、表層の主語という統辞的な一貫性がなくても自然さを失わず、文として成り立つことになる。また、おなじ理由から、18 世紀以降ずっと非規範的とみなされてきたにもかかわらず、生産的に用いられつづけていると考えられる。

渡邊淳也「主語不一致ジェロンディフと認知モード」、強調は引用者)

フランス語の場合、意味的におかしいことの前提として、規範(これが統辞論的なものなのかどうか、自分にはよく判断できない……)というものが存在するわけだが、そこから逸脱してなお文として「通用」するのは、意味的なおかしさが、同じ意味の次元において、よろしく解消されているせいだ。だからだ、「主語不一致ジェロンディフ」の見られる文を読んでも、あまり不自然さを感じない。けれど日本語のねじれ文は、とくに短文の場合、違和感がだいぶひどい。意味的なおかしさが意味論的に補填されておらず、そのままほったらかしなのだ。それでも日本語では「通用」している。見逃されている。または見落とされている。そのことがじつは自分には一番おもしろかったりもするのだが、これもまた別の話だ。

*1:「ねじれ文」の中でも、「ぼくの希望」のような抽象名詞を主題としながら文末に適当な名詞(「こと」等)が現れないタイプは、近頃「モナリザ文」と呼ばれているらしい。この呼称は、平成21 年度全国学力・学習状況調査【中学校】国語A 問題で取り上げられた、「モナ・リザ」について述べた文――「この絵の特徴は、どの角度から見ても女性と目が合います」――に由来する由(「プレ戦略イニシアティブ「日本語日本文化発信力強化研究拠点形成」「祈り」プロジェクト第三回ワークショップ報告書」(PDF直リンク)参照)。

*2:というか、この手の本でダメな例として挙げられている文の中には、自分のような出鱈目な文感覚を備えた人間から見ると、「えー、これもダメなの? 昔の人は厳しいなあ!」というようなものもないわけではない。

*3:こうした動詞的形容詞の使い方は、「couleur voyante人目を引く色」、「rue passante人通りの多い通り」など結構あるけれど、「que l’on ...」、「où l’on...」という形に言い換えられる場合に限られる。例えば「télévision payante」なら「télévision que l’on paye」というように。これ、形は能動なのに意味は受動と考えると中動態の問題に接続できる。また、見方によっては代換法(hypallage)の一種であるとも言えそうで、その場合、修辞論に接続できる。

*4:この仮説は渡邊淳也「主語不一致ジェロンディフと認知モード」で一部修正を受けた(文中に認知主体が表示されている「所有をあらわす表現」等のケースを純粋なIモード事例から除外している)が、要の部分は維持されている。