いぬのせなか座の山本浩貴氏の9月3日のツイートを読んで

https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168920007088201728

https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168929362797826050

まず思ったのは、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」というのは産出性/再現論の対立とは独立の問題だから、再現論をとる佐々木敦氏に同様の発想があっても不思議ではない、ということ。ただ、佐々木氏が再現論をとっているという、わたしが以前のエントリに書いた話は、いちおうは渡部直己『小説技術論』所収の対談「脱構築VS複雑系」での佐々木氏の発言を踏まえた上でのものだったとしても、見立てそのものは渡部氏の受け売りである。山本氏が佐々木氏のどのあたりに自身と同じ問題意識を見出したのかは分からないけれど、とりあえずは佐々木敦『新しい小説のために』を読んでみないことには始まらないな、という気持ちになった。わたしは魂の創発、魂の制作の条件を構成する言語的事実――ベンヤミンの言語論にいう「言語における伝達」――をめぐる思考についてはだいぶ関心が強い。もしそうしたものが佐々木氏においても現れているのなら、その現われがどのようであるのか、ぜひともたしかめておきたいと思ったのである。

で、じっさい読んだのだが、佐々木氏のこの分厚い本から産出性/再現論の対立の「その先」を取り出すのは、わたしには難易度が高すぎるみたいだ。「私」や「人称」概念をめぐる混乱が放置されているのは、たぶん敢えてそうしているのだろうからいいとして、「現実世界」においては「ひとりの私」が「複数の私」を生きているのが「あたりまえ」なのに、どうして小説ではそれが「あたりまえ」ではないのかと述べ、「移人称小説」の語りに「世界」と「私」の「実相」を見てとる佐々木氏が、「複数の『私』ではないものを含ませて書くことによって、はじめて立ち上がる『私』というものがある」というとき、このようにして立ち上げられた「私」が身にまとっているとされる新しさは、古くから「あたりまえ」のものとしてあったはずなのに小説においては慣例上これまで表象されてこなかった本来的な「私」が、近頃ようやく、「新しい小説」の語りを通じて表象されるようになってきたという意味での新しさだ。つまり佐々木氏のいう「新しい私」とは、小説にとっての「新しい私」であるにすぎない。「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」論にあるような、制作することによって制作されるというフィードバックの契機、「制作者の発達」の契機が開かれていない。

『新しい小説のために』は、わたしには、書名そのままにロブグリエ的な、一周回ったリアリズム論が展開されているようにしか見えなかった。佐々木氏は、「再現」するといっても実質的には「産出」しているのだ、だから産出性/再現論の対立は「偽の問題」なのだといいつつ、「『私が見た』ものを『私が書く』」という構図だけは、なぜか棄てようとしない……。それでも、執拗に生き延びるリアリズムの生存戦略のようなものが、2017年刊行の書籍において、こうして確認できたのは収穫である。読んでおいてよかった。

わたしが2016年1月6日の記事で、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」論は「再現論を産出論にひっくり返すといった単純な転覆になっていない」と書いたのは、産出性/再現論の対立と、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」論は、問題として、属している系列が別だと考えているからだ。つまり前者、産出性/再現論の対立は《表現する・される》系の問題であり、後者、魂の創発、魂の制作につながる話は《表現されてしまう》系の問題であると考えている。この二つの問題系は、吉本隆明の用語を使えば、「指示表出」系、「自己表出」系と言い換えることができるだろう。あるいは文法的な比喩によって、能動・受動態系、中動態系と言い換えてもいいかもしれない。いぬのせなか座1号の対談では、山本(山本浩貴+h)氏が、これをベンヤミン風に、「言葉による表現」、「言葉における表現」と呼び分けている。

「言葉における表現」系の問題については、日本では鈴木朖から時枝誠記三浦つとむ吉本隆明へと至る論者の系譜を描くことができるけれど、こうした「主体的なものの直接的表現」(時枝誠記)に向けた注意は、論点継承の各時点において、個性的な屈折と飛躍をマークしている。この表現領域にあっても、もちろん、認知言語学等による学問的な取り扱いがある。でも、個性の最先端の部分は、ときどき、学としての学が踏み込みにくいと思われる箇所まで深く入り込んでいるようだ。吉本隆明が「言語学者たちとの別れ」を余儀なくされた、「その先」に広がる暗い場所だ。

山本氏においては、「言葉における表現」系の思考を踏み台に跳躍したその言葉が、認知言語学的な表現主体の取り込みによって到達可能な地点をはるかに越えて、これ以上いったら危ないんじゃないかという地点にまで届いている。この危ない地点――言語を媒体とした「魂」の「転生」――に至る理路は、いぬのせなか座1号「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」で緻密に辿ることができる。だからだれでもたしかめることができる。