吉本隆明のフォルマリズムと自由

 

フォルマリズム的な「日常言語」と「詩的言語」の二項対立はきれいな二項対立になっていない。この二元論を通じて定義される「詩的言語」は端的な「詩的言語」ではなく、「詩的な日常言語」であるにすぎないのである。この事実はあまり意識されない。だからフォルマリストたちは「日常言語」の枠組み、つまり伝達の構図を、無反省にそのまま「詩的言語」の理論に流し込んでしまう。文学は語りえぬものについて語るのだという標語は、文学について根源的に考えようとして、うっかり「言語」を起点にしてしまうとき、思考が陥りがちな穴のうちで一番大きなものかもしれない。「ことばでいいあらわせないから、いわないですませる。これは日常生活者の論理である。ことばでいいあらわせないから、いわなければならない。これが文学者の論理である」と語ったのは『作家は行動する』の江藤淳だが、この理論的著作の冒頭に「文学作品はことばで書かれる」という断定が読まれるのは象徴的だ。江藤淳には自分が前提とする「ことば」に対する疑いがない。フォルマリズム的な思考の典型だと言える。このような思考態様はいまも消えたわけではない。

文学表現をめぐる既存の理論は大きく二つに分けることができる。ひとつはミメーシス論――「芸術は自然を模倣する」――に立脚した理論であり、もうひとつは文学の本質はポイエーシスの過程に宿るとする理論である。作品に現実の模写を見て取る前者の再現論的な見方に対し、芸術の自己目的性、「表出のための表出」性を押し出す後者の産出論は、これがノヴァーリスの言葉であることからも明らかなように、初期ロマン主義的色彩を強く帯びる。たとえば「作品とは何かを表現したものではない、表現そのものなのだ」という主張、「完成された作品よりも作品の制作過程のほうが大事だ」という主張、「作者には作品を支配することができない」という主張は、文学をめぐる近年の理論的言説においても容易に確認できるが、これらはどれもイエナ派の文学理論にあったものである。文学をめぐる思考は、いまなおロマン主義の設定したポイエーシスの問題系、「表出のための表出」という自己目的性の概念の周囲を旋回しているように思われる。しかし、ことはそう単純ではないのだ。

フォルマリズムの論客の一人、ロマン・ヤコブソンは、「言語学詩学」において、メッセージの内容やその発信者・受信者ではなく、「メッセージそのものへの焦点合わせ」のうちに「言語の詩的機能」の働く場所を見出している。つまり「詩的言語」の自己目的性に着目しているわけであり、ロマン主義的だといっていいが、しかしヤコブソンは、「詩的言語」が「言語」であることは否定しなかった。つまりその目的性は否定しなかったということだ。ヤコブソンが詩学的分析において言語の形式に注目するのは、よく指摘されるように、その形式が意味作用を発揮する限りにおいてなのである。そのことはヤコブソンとレヴィ=ストロースによるボードレールソネット「猫たち」の分析を読めば明らかである。もちろんヤコブソンにおいて詩的言語の意味作用は、日常言語とすっかり同じ仕方で機能するものとはされていない。「多義性は自己に焦点を置くメッセージのすべてに内在する排除不可能な特質である。約言すれば、詩の必然的付随特徴である」。あるいは、「間説的機能に対する詩的機能の優越は、間説性を消去するのではなく、曖昧にする。二義的メッセージは、分裂した発信者、分裂した受信者、そしてさらに分裂した関説行為のうちに対応して現われ、これは種々の民族のお伽噺で前置きとして強調されるとおりで、たとえばマジョルカ島の物語の語り手がふつう使う前置きのごときである:“Aixo era y no eraそうだったし、そうでもなかった。”」ヤコブソンの思考は、こうした多義性・曖昧性・分裂性への注目を介してロマン主義の思考に再接続される。ロマン主義もまた、詩の言葉が曖昧であること、多義的であること、矛盾を厭わないことのうちに、その特性の中心を見出している。詩は、こうした過剰に豊かな意味作用を通じて、言葉では語りえないものを表出する。これがロマンチストの主張の顕著なひとつであった。

賢明にもヤコブソンは、こうした言葉では語りえないもの――「いわく言いがたい何か(le je-ne-sais-quoi)」――を詩的言語の「形式的意味」(「文法の詩と詩の文法」)の分析から除外するが、それでもこの「何か」こそが詩の本質性をかたちづくっているという見方は排棄していない。ロマン主義の言説は、言語に背馳するという、ヤコブソンも暗に認めるこの本質性から、批評の不可能性という考え方を引き出す。ノヴァーリスはこう言っている。「ポエジーの批評などというものはナンセンスである」。ただしベンヤミンによれば、この言葉は批評の存在意義を否定するものではない。むしろロマン主義者において批評は、芸術が芸術であることを根拠付ける重要な観念として立ち現れている。「ある作品が批評可能であれば、その作品は芸術作品なのであって、批評可能でなければ、芸術作品ではありえない」(『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』)。アテネーウムの一断章で「決して完全には理解されることのない古典的にして端的に永遠なるものだけ」が「批評の素材となる」と語るとき、シュレーゲルは「出来の悪いものは批評不可能である」(同)と言っているのだ。ベンヤミンはそう見る。もっとも、ここで言われる「批評」は、単なる作品の解釈や評価を指していない。ロマン主義者にとって、「〈批判的[批評的]〉という名辞[術語]は、客観的に生産的であること、深い[思弁的]思慮に基づいて創造的であることを意味し」(同)ていた。換言すれば、ロマン主義は詩の批評に対し、それ自体が詩であることを求めていた。「ポエジーはただポエジーによってのみ批評されうる」(フリードリヒ・シュレーゲル「リュツェーウム断章」117))。作品を評価すること、批評することに一体どんな意味があるのか、とか、「批評だって芸術なのだ」(小林秀雄)とかの、批評をめぐって今でもよく唱えられる題目は、ロマン主義にその源流を持っている。

ヴィクトル・シクフロスキーは「《主題》をはなれた文学」で文学作品を「純粋な形式」と呼び、「文学作品の魂とは、作品の構成、作品の形式以外のなにものでもない」と主張している。けれども「方法としての芸術」を読むと、ヤコブソンの場合と同じく、この「純粋な形式」が、さほど純粋でなかったことが分かる。「石を石らしく」見せるため、それを「奇異なものとして表現」するのだというシクロフスキーの異化理論で、本当に狙われているのは、「奇異な」「表現」それ自体ではなく、そうした表現の対象となる「石」なのだ。またシクロフスキーは、「詩的言語とは、難解で、了解を拒絶し、理解するに時間のかかる言葉である」(「方法としての芸術」)とも言うが、こちらの発言から分かるのは、「理解」されるものとしての言語の像、伝達の像をシクロフスキーが手放していないという事実である。ヤコブソンの用語で言い換えれば、フォルマリストたちのいう「詩的機能」とは、遠回りした「関説機能」であるにすぎない。

結局かれらフォルマリストたちが意味や事物を捨象した純粋な形式に注目するのは、純粋に形式そのものに関心があるためではなく、いったん形式に焦点を合わせることによって、さらに多くの意味と、さらに明瞭な事物の輪郭を、その視野に収めるためなのである。つまりロマン主義的な詩的言語の自立性を唱えるロシア・フォルマリズムは、そのように唱えながらも、ミメーシスの過程と伝達の構図をさりげなく再導入しているのであり、その意味で模倣理論の再興という側面を持つ。繰り返しになるが、フォルマリズムとは、遠回りを通じて強化された模倣理論の謂いである。

冒頭見た江藤淳のフォルマリズムは、この迂遠な模倣理論に、再度ロマン主義的な色づけを施している。その彩色はひとつにはもちろん「ことばでいいあらわせない」もの、すなわちヤコブソンがあらかじめ「詩学の諸問題」の対象から除外しておいた「le je-ne-sais-quoi」に関わる。『作家は行動する』の江藤淳は、ロマン主義の文学理論で産出の対象とされた「語りえぬもの」の特性を、フォルマリズムの異化理論において再現対象に位置づけられた「事物」に移転する。と同時に、フォルマリストの思考において作品の外部として捨象されていた生身の作家を、ロマン主義的に――ただし造物主としてではなく、読者に向けて世界の実相を開示する真実の証言者として――回復させる。日本の文学環境に広くいきわたる「詩的な日常言語」の伝達構図(ベンヤミンに言わせれば「ブルジョワ的言語観」)は、このようにして完成を見たのである。

吉本隆明は『作家は行動する』に対し、当時の書評で少し厳しく当たっている。それでも『言語にとって美とはなにか』の序によれば、そこに表明された文体論には、ひそかに画期性を認めていた。そればかりか、日本語の文学作品を材料に自前の表現理論を構築するための土台として、江藤淳と同じように「文学は言語でつくった芸術だ」という立場を採用している。壮年期にあった吉本隆明は、文学作品に現実社会の反映だとか主題の積極性だとかを求める党派的社会主義リアリズム論に不満を募らせていた。「芸術文学の本質」は「社会からも芸術家個人の主体からも切りはなされた想像世界であるという性格」(「社会主義リアリズム論批判」)にこそあるはずだ。文学作品の価値を決めるのは、なにが書かれているかではない、どのように書かれているかだ。このような理論的立場を鮮明に打ち出す『言語にとって美とはなにか』は、だから言語から始まるフォルマリズムの基本姿勢をそのまま継承しているように見える。しかし、この見方は皮相である。吉本隆明は「人間の意識の表出」という高度に抽象的な次元を設定し、この「表出」(Ausdrückung)を「自己表出」と「指示表出」の二つに分け、その上で両者にそれぞれ別個の属性――前者には「価値」、後者には「意味」――を割り当てている。つまり形式を形式そのものとして、じかに取り扱おうとしている。形式を意味や事物にひもづける生半可なフォルマリストたちと吉本隆明との違いは、この点に明らかだ。詩的機能(自己表出)を強化された間説機能(指示表出)に還元する思考に到る道筋を完全にふさいでしまった吉本隆明は、ひとりフォルマリズムを貫徹している。でもそれだけではない。

ロマン主義文学は、あらゆる種類の文学的個体の特性描写をおこなうことがその唯一の重要な任務であると考えたくなるほどに、描写された対象の中に自己を没入することもある。だかそれにもかかわらず、このようにして作家の精神を完璧に表現することのできるほどに完成した形式はまだ存在していない。そのため幾人かの芸術家たちは、単に一篇の長篇小説を著そうとしてたまたま自分自身を表現するという結果を得たにすぎないのである。

フリードリヒ・シュレーゲルアテネーウム断章」116)

『言語にとって美とはなにか』中、次の一節を読むと分かるのは、シュレーゲルが右にいうような「たまたま自分自身を表現するという結果」が起こりえるという考え方――ロマン主義に残る模倣理論の残滓――を、吉本隆明がいさぎよく捨てようとしているという事実である。ロマン主義純化という方向性をここから取り出すことができるだろう。

言語が情緒を表現しているようにみえるばあい、その理由を、こころの態度のなかの情緒におわせるのは誤解だとおもえる。おなじように言語の指示性におわせることもできない。ただ言語の自己表出性におわせられるだけだ。自己表出性といえば、ひとつの架橋(Brücke)だから、言語とこころの態度の両端にまたがり、そのどちらにも足をかけているようにみえる。でもひとたび表現芸術である作品をかんがえるばあいは、こころの態度と表出された言語とのあいだのかけ橋とかんがえるより、表現された言語の持つ構造とみたほうがいいのだ。

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)

意識(「こころ」)と言語の間にはつながり(「架橋」)があるが、そのつながりは表現の関係をとるものではない。端的には自己表出は自己表現ではない。作者の意識(「こころ」)は、意味作用や指示作用(「言語の指示性」)から切断された純粋な形式(「言語の自己表出性」)として、その構造として、言語作品に丸ごと移転され、落とし込まれている。言語作品が「情緒を表現しているようにみえる」のも、この構造の効果なのであって、作品に先立つ「情緒」をその文字面に読み込むべきではない。

こうした吉本隆明の考え方は、マルクス主義リアリズム論のみならず、小林秀雄流の象徴主義リアリズム論からの脱却にも道を開いている。「様々なる意匠」にはこういう主張がある。「人は芸術というものを対象化して眺める時、或る表象の喚起する或る感動として考えるか、或る感動を喚起する或る表象として考えるか二途しかない」。これは一見すると、ポイエーシス的な芸術理論とミメーシス的な芸術理論を対立させているかのようであるが、小林秀雄がそれしかないと考えるこの「二途」において、芸術が「表象」であることは、まったく疑問視されていない。だから吉本隆明が、「文学のような『情緒を写し出す』とみられやすい言語表現では、その原因を『思惟の情緒的内容』とむすびつけるのが、いちばんわかりやすい。そして一般に言語学者はあまり単純なところで文学を論じるために、文学の表現を誤解しているとおもえる」と言うとき、そこで批判されているのは、シャルル・バイイに代表させられた言語学者だけではないのだ。象徴主義について「彼らは、ただ、己れの心境を出来るだけ直接に、忠実に、写し出そうと努めたに過ぎぬのだ。(中略)彼らの問題は正しく最も精妙なる『写実主義(レアリスム)』の問題ではないか」(「様々なる意匠」)と言い、また、ボードレールの『悪の華』について「言葉はひたすら普通の言葉では現し難いものを現さんとしている」(「表現について」)と指摘する小林秀雄の表象=再現論には、歪んだロマン主義の成分がはっきりと滲み出しており、その意味で小林秀雄象徴主義リアリズム論は、江藤淳が後年展開するロマン主義リアリズム論の先駆になっている。おそらく吉本隆明の場合、文学表現の理論を自作する試みの中で、いちから言語の像を鍛えなおすという苦しい過程をくぐっているため、日本の近代文学批評の発端にあった出来合いの言語の像からすっかり自由でいられたということが大きい。そのため「真のリアリズム」(江藤淳)といった発想から自由でいられたのである。

 

※関連するエントリ:

波動言語論、あるいは煙幕としての言語について - 翻訳論その他

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について - 翻訳論その他

一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての - 翻訳論その他