暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(5)

 

日の光の届かない、現世から切り離された穴底の、抽象空間のような舞台のような、そこには大晦日、夜、鎌倉のバス通りを駅から実家に向かって歩く六十歳の「私」の孤立した、鮮明な像があらわれている。この「私」は死んだ尾崎のお別れ会に出て以来、谷崎の『異端者の悲しみ』を読み続けている。大学に通い始めて五年目の「私」もまた、そのころ、そうしていた。「『異端者の悲しみ』を読んでいた」。大晦日の夜の、鎌倉のバス通りを孤立した像として歩く六十歳の「私」は、この符合に重ね、大学五年の自分が元日の、やはり夜、同じバス通りを逆向きに歩いていたことを「ありありと思い出す」。「こことよそ」の読者であるわたしたちは、これとほとんど同じ内容をあらわす無意志的想起の記述を、この箇所に至るまでにすでに二度、読んでいる。先におそるおそる披瀝した考えによれば、この作品でこのような反復には、話者の記憶のネジを巻きなおし、作者の思いに圧潰されそうな文のつらなりを前へ、前へと押し出していく推進の力を備給する、大切な役割が与えられているのであった。しかし三度目にあたる右の条りには、先立つ二度の記述には見られない、ある新しいエレメントが付けくわえられている。段落の終盤、「思い出した」、「読んでいた」と続くタ形終止の連鎖を超えて末尾にあらわれる、「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」という言表がそれである。この言表がその場に作り出す作品構造の破れ目に、わたしたちの目は吸い寄せられる。この言表は分かりにくい。この分かりにくさは、作中他の箇所において文のおかしさとして現出するそれとはまったくちがう種類のものであり異質だ。この異質さにおいてこの言表は、作品を構成する他の一切の部位から自己を分離し、突き放し、遠ざけているようだ。そこに破れ目が生じている。作品構造に破れ目を作り出すこの言表の呈する、その異質さについて考えなければならない。それはどのようなものか。それはひとことで言える。分かりにくいことの分かりにくさ。

というのも作中ここ以外の箇所に見られる文の分かりにくさは、分かりにくいとはいうけれど、ほんとうは分かりやすいものだった。そのことには二重の意味がふくまれている。第一にそれは、分かりにくいことが判明であるという意味において分かりやすいものだった。なんだか分かりにくい、どこかおかしいというのではなく、あからさまにおかしい、だれの目から見てもおかしい、そういうものだった。そして第二にそれらの文は、一定の手間ひまをかけることによって、その分かりにくさを相当程度、縮減できるという意味においても、やはり分かりやすいものだった。本質的に分かりにくいものではないということである。そこに書かれてあることを精密にたどり、精密に理解することはできないけれども、言語それ自体から目を逸らし、ぼんやり空を見上げているうち、綿雲状のセマンティクスが脳内にふわりと降りてくる、文の字義的な意味を確定することはできないけれども、状況や場面や知識や文脈、つまり文の外部を参酌し、推論を働かせることによって、意味の近似的な解を手にすることはできる、そういうものだった。たとえば冒頭に引用した「こことよそ」の一節は、次のように書き換えることで、たぶん近似的な解とすることができる。

蛯ガ沢は申し訳程度とはいえ昼はホテルのベッドメイキングとか清掃とかメンテナンス全般を請け負う会社の蛯ガ沢はたしかもう社長だったか、それともまだ専務だったか、はっきりしたことは分からないが、とにかく昼はその仕事に出る

削除した語句は見え消しにした。補った語句は太字であらわしている。元の文では「昼は」の出てくる位置が滅法おかしい。この書き換えが最良でないとしても、それはこの、おかしさの核心にあるものが伝われば十分だという判断だ。たぶん作者の偽装された無垢の意識の内部では、引用した箇所の言葉がひと塊りになって、無時間的な思いの一単位を形成している。それが日本語の文の自然な統辞構造を踏まえ、表出の自然な時間軸にあわせて整序されるよりも先に表出されている。この不自然さに作為的な努力の痕跡を見てとることが可能だ。わたしたちにはふつうこのようなことができない。このように思いの自然に無理して忠実であることが文の自然を捻じ曲げていると考えたとしても、もちろん、すでにいっておいたとおり、この無理を聞き入れようという強い意志が、作者の意識の部分か、作者の無意識の部分か、どこかにあるのだ。元の文では、こうした思いつきの「昼は」の位置が日本語の自然な文構造に抵触し、加えて「蛯ガ沢は」の重複が文に余計なねじれを作り出し、「昼は」の係り先を行方不明にしている。それを直した。それを直したと考えることがわたしたちには許されると思う。だから逆にいえば、分かりにくい分かりにくさとは、このような修正や書き換えが本質的に許されないものから滲み出す文の特質である。

つまり「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」という言表は、このような書き換えを許さない。この言表に備わる厳格な曖昧さが、それを許さないのだ。この曖昧さは、状況や場面や知識や文脈、つまり文の外部を動員することで、分かりやすく分かりにくい文のようには、晴らすことができない類のものである。厳格な曖昧さの厳格とは、そのような意味を持つものであり、そしてそのような意味を持つかぎりにおいて、この曖昧さは正統性を欠いている。文の正統的な曖昧さは、意味の解釈に対し、二つであれ、三つであれ、もっとであれ、複数の可能性を等分に用意する。それは、そのような形での意味の分析可能性を決して手放そうとしないから、解釈者は、いずれかひとつの解釈を選び切ることができない。正統的な曖昧さである多義性は、このような性状を持っている。でもいま注目している「こことよそ」の言表は、このような形で、分析可能なひとつならずの意味をその内部に併存させたものではない。つまり、ひとつの意味を選び切れない、というのではない。ひとつの意味も取り出すことができない。わたしたちには、異端的な、厳格な曖昧さを抱えたこの言表――「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」――に含まれる「私」が、「大学五年」の「私」なのか、「六十歳」の「私」なのか、どうしても確定することができないのである。

 

(続く)