暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(4)

 

一九八二年九月十六日、レバノンパレスチナ難民キャンプにキリスト教系の武装集団が侵入し、無差別の殺戮行為に手を染める。イスラエル軍の後ろ盾があったと言われているが、彼らは三昼夜にわたりキャンプの住民をひたすら残虐なやり方で殺し続けた。このとき偶然にもベイルートに滞在していたジュネは、「サブラ・シャティーラの虐殺」と呼ばれるこの事件の直後、現場のひとつ、シャティーラ・キャンプに足を踏み入れることに成功する。ジャーナリストになりすました七十二歳の作家は、炎天下、路地に転がるいくつもの死体のあいだを縫うように歩き回り、目に入る凄惨な光景を脳裏に焼き付ける。その後ただちにパリに戻った作家が、十月のまるひと月を費やして書き上げた『シャティーラの四時間』は、ルポルタージュだが、ただのルポルタージュではない。ジュネは中東を複数回訪れている。最初の訪問は一九七〇年で、その年の十月から翌年の四月まで、ヨルダンのアジュルーン地域にとどまり、フェダイーンと呼ばれるパレスチナ人の若い戦士たちとずっといっしょに過ごした。『シャティーラの四時間』は、この半年間に及ぶ滞在の、しあわせな気分に満ちた「妖精劇」の情景と、細密に描かれたシャティーラの虐殺の現場とを、鮮やかなコントラストのもとに提示する。転換は暴力的だ。十年を超える歳月を隔てた二つのパレスチナ体験、ムードのまるで異なる二つの世界を、ジュネは電撃的に往還する。けれど保坂和志がジュネのテクストから抜き出し、「こことよそ」の終わり近くに嵌めこむのは、一九八二年のシャティーラの腐敗した、膨張し、巨大な黒い、一個の膀胱と化した男の死体の描写でも、両手の指先をすっかり剪定された女の死体の描写でも、その周囲を飛びまわる無数のハエの描写でもなく、ヨルダンのキャンプで、森の軍事基地で、ジュネが接したパレスチナ人の女たち、子供たち、そしてとりわけ「フェダイーンの少年たち」の無邪気さ、明るさ、美しさをめぐる記述それのみだ。「彼らのように、この少年たちも死ぬのだろう。国を求める闘いは満たすことができる、実に豊かな、だが短い人生を」。「こことよそ」の話者は、この少年たちと、自分のかかわった映画に出てくる「暴走族の少年たち」を重ね合わせ、思考している。でも重なりはそれにとどまらない。「誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンがヨルダンのジャラシュとアジュルーン山中で過ごした六カ月が、わけても最初の数週間がどのようなものだったか語ることはないだろう。(中略)あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく彼らと上官の間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう」。『シャティーラの四時間』の冒頭に据えられ、遺作となった長編『恋する虜』にもやや異なった形で再登場するこの一節から浮き彫りになる、語ることのできない関係というモチーフが、「こことよそ」の末尾に設置された不意の素朴さにきれいに照応しているさまは、わたしたちの目にはもう、まぶしいほどだ。

わたしたちは、「こことよそ」の末尾の素朴な表明に、濃密な実在性の手ごたえを感じる。そしてその手ごたえを、ほかならぬ作者の素朴な内面からあふれ出した、言語化できない感情の重みとして受けとめる。でも、このような受けとめは、ひとつの規約に従っているという以上のものではない。ここにある素朴さは、ひとつの構造の実現と、規約的な情動喚起のため、よそから借り出され、知的に配置された、意匠としての素朴さであると言っていい。

言語の内部の歪みを言語の外部に結わえ付ける思考、たとえばそれを言葉にならない何かの表現とみなすこと、言葉にならない何かに働きかける通底器とみなすこと、言葉にならない何かを生み出す力の源泉とみなすこと、こうした内部と外部の関係をめぐる常套化した思考や、理念や、習慣の構築性について、あるいは、こうした言語の内と外を橋渡しする正誤を超えた理屈の型について、さらにはそのことにまつわる地理的な、社会的な、歴史的な、文化的な次元において確認される微妙かつ本質的な相違について、いまここで立ち入って検討することはできない。わたしたちにはその余裕がない。いまここで続けて考えてみたいのは、巧緻に実現された作品構造の、その先でわたしたちが出会うことになる、もうひとつの巧緻の相についてだ。いまここで目視された作品構造に対して、「こことよそ」の内部に加えられた、もうひとひねりの態様はどのようなものか。この作品が、その文の独創的なおかしさによって、『未明の闘争』以降の、折り目正しくない文を連ねることによって、日本語を過酷に使役する小説の象徴的事例として自らを構成するばかりでなく、おかしさの独創性の一時点におけるリミットを標定し、言語の非言語的使用に立脚した伝達機構を最高度に使いこなした事例であることを自負できるのは、主にこのもうひとひねり――作品の全体にかかる巨大なよじれ――のためだと言える。わたしたちがこの作品を向後の保坂作品に対する期待の地平を鮮明に引くものと見、その個別の達成の度合いをはかる貴重な試金石にしようと考えるのは、そのような理由による。「こことよそ」という作品を、いま見たような構造のものとして受けとめてみたとして、このような受けとめにも重大な瑕疵があると感じられるのは、たぶん気のせいではない。それはこの作品に次のような条りが含まれているからだ。

晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いていたのを思い出した、私はそのときまさに『異端者の悲しみ』を読んでいた、その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった。

注意深く読む必要のある条り。そして、注意深く読めば読むほど、どんどん分からなくなるような条りでもある。わたしたちは、保坂和志の作り出す、言葉たちの作り出す、深淵にいまから降りていく。

 

(続く)