暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(3)

 

作品はこの段落で閉じられている。ここに出てくる「死んだ尾崎」というのは話者の「私」が「二十代の前半に関わっていた映画の仲間」の一人で、かつて「横須賀の暴走族のアタマだった」と語られる人物だ。映画の撮影があった一九八〇年、何度か「私」と道ですれ違い言葉を交わした一九八七年、そしてその「お別れの会」の開かれた近過去の三つの時間層にわたって登場する特権的な固有名詞である。二度出てくる「あの時点」は映画の撮影時、「二十代の前半」の若い頃をさしている。だから「あの時点の感触」とは、こうした若い時代、話者の手中に生きていたなまなましい「感触」のことだ。この「感触」にはひとまず「人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない」という言語が与えられている。しかしそのあと話者は言いよどむ。この言語表現に満足できないのだ。「何度書き直しても届かない」。でもそれだけではない。「今の私」と「死んだ尾崎」、「あのときの私」と「暴走族の気配を引きずっていた尾崎」、この四者が取り結ぶ「関係」、歳月の隔たりを超えて「私」と「尾崎」とが取り結ぶこの「関係」についても、話者は、ただ語りそこなうことしかできない。「書いても書いても固定する言葉がない、それは言葉の次元ではない」。

ここには不意打ちの素朴さがあるけれども、このありふれた素朴な言い回しが、ありふれた素朴な言い回しにはふつう考えられないほど高度な説得力を獲得していることに注意を向けなければならない。言い回しとしてみれば、これまでさんざん使いまわされてきた「その思いは言葉で言い表せない」の変奏でしかない末尾の文句が、およそはじめてといっていいくらい実のある余韻を響かせている。それは常套句めいたこの言い方に元手と手間がかかっているせいだ。だれもやらないような、おかしな文を丹念に積み重ねるという構成的な努力の果てに、とうとう得られた空疎であることの充実だ。

この作品を閉じる右に引いた条りを作りあげる文で実行されていることは、この条りに至るまで文の直上に重石としてあった言語の外部を、そのままの姿、かたちで文のつらなりの先、作品の向こう側、こちら側に置きなおすことである。文の連鎖が、自ら背負っていた言葉にならない作者の思いの塊りを読者の見ている目の前で、その足もとにおろした。読者はこの異様な、不恰好な塊を黙って受領するしかない。それは当惑を呼ぶ。けれど言語の外部は、このように分析不能な塊りのまま、わたしたち読者のもとに、たしかに、ごろりと届けられたのである。

この作品で、おかしな文のおかしさは、このように巧みな、だれも考えてもみなかったような伝達構造に組み込まれ、その一環をなすものとして、とても精密に機能している。こうした機能が可能であるのは、言語の内部から言語の外部へと向かう制度化された視線のすばやい動きを、露骨におかしい保坂和志の文が、その露骨さに重ねて巧みに利用しているからだ。そしてこの事実は、言語の内部が未整理であることのうちに、未整理であるほかない言語の外部の反映を見るという、歴史的に確認される視覚の一傾向を、作品の巧みな構成を実現するため、わたしたちには作者としか呼べないようなそのひとが巧みに利用しているということを意味する。この作品において何か意志のようなものが働いているとして、その意志は、ひたすらこの一点に向かっているのだと言える。文の水準で作品の言葉に歪みがあるのは、そこに作者であるそのひとの、そのひとの思いに忠実であることに向けた強い意志が、あらわれているという以上に言葉の歪みを言葉にならない、ひとの思いのしるしとみなす思考の一般的傾向を、利用し切るために言葉の歪みの実現を果たしてやろうという作者である、そのひとの高度な意志が、あらわれている。そのことを、構造の乱れた文とかたちのおかしな文の連鎖が、経時的に作り出す巧緻な構造が、その巧緻さにおいて、告げているのだ。

作品の末尾に言い回しとしてとつぜん噴きあがる素朴さについても、同じことが言えるだろう。

この素朴さは、どこから来たのか。わたしたちはその源流を作者の内面に探り当てることはできない。というのもわたしたちは、この素朴さが、ジャン・ジュネの晩年の文章からそっと持ち出されたものであることを知っているからだ。そのことを作者は、話者は、隠そうとしていない。

 

(続く)