暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論

 

保坂和志の短編小説「こことよそ」は楕円形だ。独創的におかしな文が出てくる。保坂和志の作品に露骨におかしな文があらわれ始めたのが『未明の闘争』からだということをわたしたちは知っている。しかし、この長編に出てくる文のおかしさは、まだおとなしいものだった。「私は細身のその魔法ビンを持つと重みがある」、「このあいだ会った設計士は、廃屋に取り壊す前に入ったら猫の骨がいっぱいあった」、「ヒロシ君が言いたかったのは、晩秋に木の枝に卵を産みつけるカマキリは、これから積もる雪の量を予想して木の枝の位置を決めるのでなく、卵を産みつけるときカマキリはこれから積もる雪の中にすでにいる」、こういう感じのものが多かった。どれも係助詞の「は」のところで文がよじれている。こういう具合によじれてしまい、出だしと終わりのつじつまの合わなくなった文は平生よく目にするし、耳にもする。子供の作文にあらわれることも少なくないようだ。文法的に間違っているわけではない。むしろ論理関係、主述関係とは別の原理で文を成立させる日本語の自然律がここに鋭い形で露出しているのだと言える。つまり『未明の闘争』に散りばめられた数十を数えるこの種のよじれた文は、日本語の言語の内的自然が自らを抑えきれず、論理的な型枠を突き破るように噴出してしまった容態の、よくある逸脱と同型なのである。だからそれはおかしいはおかしいが、おかしさとしてありふれている。けれど「こことよそ」に装填された文のおかしさは、こういうものではない。

蛯ガ沢は申し訳程度とはいえ昼はホテルのベッドメイキングとか清掃とかメンテナンス全般を請け負う会社の蛯ガ沢はたしかもう社長だったかまだ専務だったかその仕事に出る

とっちらかっている。でたらめみたいだ。これは何を意味するのだろうか。こんなふうに考えることができるかもしれない。「こことよそ」の文に物凄くこじれているところ、とっちらかったところがあるのは、その文が文字どおりの意味で作者の思いつきで書かれていることを意味する。思いつきというのは自己の思いにつくこと、自己の思いに忠実であることを意味する。常軌を踏み外したようなこじれを見せる「こことよそ」の文には、作者の内面に湧きだした錯綜した思いが、そのまま忠実に反映されているのだ、こじれた作者の思いが、そのまま文のこじれとなってあらわれているのだ。

このような見方は、見やすいが、このように見たとき、とりわけこの作品については、何か大事なものを見落としているような気になるのを、わたしたちは抑えることができない。

このような見方は、まず文の自然と切り離された、思いの自然とでもいうべきものを設定する。そしてそのうえで、両者のあいだにひとつの対立関係を設定する。この対立関係は、文の自然を優先すれば思いは上手くすくえない、逆に思いの自然を優先すれば文がこじれるという形をとるものだ。こじれた保坂和志の文で、優先されているのは言うまでもなく後者、作者の思いである。そういう想定が、このような見方の内側で立ち上がっている。ほかにもある。ここには一個、作者の強い意志が働いていることが想定されるが、ここでその一個は、文の自然を捻じ曲げてでも思いの自然に忠実であろう、忠実でありたいという、作者であるひとの固い気持ちであると解釈されることになる。

けれど、そんなにも作者の思いという錯綜したものに忠実でありたいのならば、そして実際そうであるのならば、この作品全体の構えだって、もっと乱雑であっていいはずなのだ。いや、この作品全体の構えだって、乱雑は乱雑であるのだが、その乱雑であることに、なんだか揺るぎない感じ、どうにも動かせない感じが漂っているのである。それは一体なぜなのか。この問いは、文のこじれの背後に、ある一個の強い意志が働いているのはたしかだとして、その強い意志の背後に、それを強く意志することをゆるすか、うながすかしている、自己の思いに忠実であることに向けた意志とは別の何かが、もっと強く働いているのではないかという予感を引き出してくる。

 

(続く)