写生の第三形式――貞久秀紀『雲の行方』

言語には存在と使用の二つの面があって、その二つの面のそれぞれにさらに二つの面がある。だから言語の存在、言語の使用というだけでは足りず、言語の言語的存在、言語の言語的使用といわなければならない。言語の非言語的存在とは言語を一般的な事物と同等に扱うことによって言語の言語たるゆえんを見ないことにしたときに見えてくる言語の存在の仕方である。たとえば紙のうえのしみや人の発する音声としてのそれだ。でも言語の言語であるところのゆえんは物質と同じ時空間に物質としてそれが存在しないところにある。言語の言語的存在とはこういうことだ。

他方、言語の言語的使用は、端的には意味伝達ということになるだろう。でも言語の使用法はそれに限られない。言語には非言語的使用というものがある。それは伝達を拒絶すること――言語の言語的存在の自己主張――ではない。サルトルはこういっている。「言葉は像ではない。聴覚的、或は、視覚的現象としての言葉の機能は、如何なる点に於いても、他の物質的現象である絵画とは似ていない」。ところが高浜虚子によれば、「俳句は文章、画は色彩、その相違はあるが、その美感に訴えるものであるという点に二つはない」。

先ず等持院の寓居を想像せよ、京都近郊の田舎に在る、しかも足利歴代の将軍の位牌木像などの由緒ある古い大寺を想像せよ。その大寺の裏がかった処にあるささやかな一間を想像せよ。俗家は、皆新年の事であるから、門松を立てたり、〆飾りをしたりしている中に、お寺の元日はしんかんとして、平生静かな上にも、殊に静かな趣を想像せよ。召波一人、その静かな一間に在って、低い垣ごしに外面の麦畑を見ている趣を想像せよ。召波はこの時詩情動いて「元日や草の戸ごしの麦畑」という句を得たのである。寺の一間の元日の静かな趣きに、人は趣味を感じないだろうか。垣ごしに外面の麦畑の見えるような田舎びた光景に人は趣味を感じないだろうか。かくの如く両者を取り離して別々に考えて見ても、それぞれ面白い趣がある。更に両者を結び附けて、元日の寺の一間にいて、垣越しに外面の麦畑を見る、その時の心持を想像して、一層深い趣味を感ずるのは勿論の事であろう。
高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』、太字は引用者)

江戸時代の俳人、黒柳召波が「等持院寓居」と前置して詠んだ句「元日や草の戸ごしの麦畑」についての評釈である。虚子は右のとおり「想像せよ」と五回繰り返している。このくどいほどの命令は、想像することの必須性のみならず、虚子においても像が、やはり言語の外部と認定されていることを言外に、だがはっきりと告げている。そしてこの、純粋に意味を追う読み方に重ねられるべき想像の追加的な努力によって詠み手と読み手との間で受け渡しされるものを虚子は、言語の「意味」に対し、「趣味」と呼んでいる。

吉本隆明が像を言語そのものの属性に含めたのは、こうした像を介した伝達が、つまりは言語の非言語的使用が、短詩形文学の表現の内部にとどまらず、日本語の言語活動それ自体にとって基本的な事実であることを見抜いたからだろう。それだけではない。そういう形で日本語の実相をつかんでいた吉本は、「像」の領域を取り扱ううえで、言語学と呼ばれる抽象的な外来思想が何ひとつ役に立たないことにも気付いていた。だからこそ『言語にとって美とはなにか』において吉本は、「言語学者との別れ」を体験しなければならなかったのである。

俳句の受容において意味的意識と想像的意識の、継起的な二つの心的態度を要求する虚子は、でも、こうした趣味伝達体制を支える基盤の相当に不安定であることに自覚的である。そのことは、引用したくだりの言葉使いに明らかだ。命令から問いかけへ、問いかけから断言へ。こうした語りの態様の移り行きから読みとれるのは、趣味の伝達性への懐疑だ。だから虚子の「客観写生」だとか「花鳥諷詠」だとかの俳句理念は、こうした懐疑を思い切り振り払ったところで打ち出されているということになる。

客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを諷う事である。だから殆んど心には関係がなく、花や鳥を向こうに置いてそれを写し取るという丈の事である。
然しだんだんとそういう事を繰り返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心の動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるという様になる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、又確かに写ったり、浸して写ったり、濃淡陰影凡て自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写す事になる。
高浜虚子『俳句への道』)

虚子は花鳥と心と言語の密着について語っている。あるいは花鳥言語と心的内容との密着について。客観写生といい、花鳥諷詠というのは、言葉を用いた新たな記号体系を編成するための方法論なのである。「花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心の動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずる」。虚子の「客観写生」における「客観」とは、「自分にとっての現実」とでもいうべきものであることがわかる。

こうした虚子の主張に照らしてみれば、「趣味」が、この「自分にとっての現実」の相関物であると考えて間違いない。詠み手の私秘性の最奥に格納された、主観的な感情や感覚、印象であって、社会的な抽出を経ていないもの、経ることができないもの。「趣味」とは、これらのものを指している。そして虚子が、こうした内的体験の伝達において、言語に頼らず、言語の外部であるところの「像」に頼っていることの裏側には、言語それ自体による「趣味」の伝達の困難、いや不可能性が隠されてある。ようするに虚子のいう「趣味」は、その性格の先端で「語り得ぬもの」に触れているということだ。

見たような虚子の理念によれば、俳句とは「黙する叙情詩」なのである。けれど単に叙景による叙情ということであるならば、それはもしかすると「日本詩歌の本質」なのかもしれないのであった。大岡信の指摘である。「叙景歌の抒情性」が「最も劇的な現れ方をしている歌」として大岡が引くのは、新古今和歌集に収められた、次のよみ人しらずの歌だ。

よそにのみ見てややみなん葛城や高間の山のみねの白雲

大岡はこの歌を、その意味の表面をなぞる形で次のようにパラフレーズする。

結局は無関係なものとして仰ぎ見るだけで終わるのだろうか。葛城連峰の高間山〔金剛山〕に高くかかっている縹渺たる白雲よ。
大岡信「叙景歌の抒情性――日本詩歌の本質についての試論」、川本皓嗣編『歌と詩の系譜』所収)

情景を旨とした表現に見える。が、収録されているのは巻十一の巻頭だ。つまりこれは叙景歌ではなく、「恋歌」に分類されているのであり、そうであるならば、

あれはよその人、と見るだけで終わるのであろうか。あの方は、葛城の高間の山の峰にかかる白雲さながら、とうてい手の届くところにはいらっしゃらない、なんとも恋しいお方。
(同前)

と裏の意味が読めるだろう。大岡によれば、こうした「『叙景』と『恋』の二重映しの構造」を備えた歌は、「日本の古典和歌の中に」「大量に存在する」。その理由を大岡は、日本古代の「妻問い婚」という制度に求める。

これは、「恋」というものが「人目を忍ばねばならぬもの」、「隠すべきもの」という性格を強くもっていた社会では、ほとんど必然的に生じるはずの表現原理でした。そして日本の古代社会は、まさにそのような性格の社会でした。なぜなら、ここでは妻問い婚が婚姻の基本的様式だったからです。
夫と妻が同居せず、夜間だけ夫が妻を訪れて、夜明けとともにまた別れ別れになるというのが妻問い婚ですが、この婚姻様式の大きな特徴は、どの女とどの男が現在確実に夫婦であるのか、第三者にはしばしば判らないという点にあります。このため、求愛も結婚も、しばしば秘密裡に、いわば水面下で隠密に進行する、秘め事であらざるを得ませんでした。求愛する和歌において、主語さえも省かれ、全体がいわくありげな謎めいた語りかけになっており、一見すると四季折々の挨拶とあまり変わらないような歌に見えるような事態も、ここから生じました。
(同前)

それゆえ「恋の歌であるのに、直情的に思いを訴えることはをせず、逆に、他の事物や景物に託して、自分の抑圧している感情を秘かに洩らすという行き方が、日本の恋歌の常套になっていった」。大岡は、こうした恋歌の様式が、日本の「叙景歌の抒情性」の基盤を作り上げたと考えている。事物や景物の描写が作者内面の表現に反転する。そのようなものとして叙景歌を詠み、そのようなものとして叙景歌を読むという了解の回路が古代、日本語話者に埋め込まれた。歌だけではない。俳句も、そして散文も、同じ回路を使っているのではないか。風景を風景として、事実を事実として描く西欧式の「リアリズム」が日本の文学的土壌についに根付かなかったのは、この回路のせいであるだろう。

だがその一方で大岡は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての一群の歌人の作る歌、そして数は少ないというにせよ江戸時代の歌人の作る歌に「素直な叙景歌」を見る。

月や出づる星の光の変るかな
涼しき風の夕やみのそら
伏見天皇

そして、こうした「風景を純然たる風景としてとらえ」たような歌について次のとおり語る。

私にとって面白く思われるのは、こういう鎌倉時代後期の歌の場合、平安時代の歌とは違って、歌の内容をパラフレーズする必要がほとんどなくなっているということです。つまり、詩の言葉は一義的になり、表面の意味の背後に、別の隠された意味を探る必要がないのです。
それは、これらの歌が純粋に風景を風景としてとらえるという態度で書かれているからです。言いかえれば、近代以降の写実的叙景詩が、すでにここに予告されているわけです。
大岡信『日本の詩歌 その骨組みと素肌』)

すでに見たように、「恋歌」の理念は、表の意味と裏の意味の二重性、すなわち言葉の多義性の上に築かれている。ここにあるのは意味の次元で遂行される真っ当な言葉の使用、言語の言語的使用を枠組みとした表現様式だ。だから西欧的リアリズムの成立の困難は、あくまで困難であって、不可能事ではない。大岡の考えと鑑賞によれば、一時期ではあれ、過去にリアリズムが実現していたのである。ところが虚子の「客観写生」の理念は、喩を構成しない一義的な記述、文字を文字どおり、そのまま受け取ることしかできないような単純な写生句によって複雑な主観の伝達がはたされるというものだ。大岡が「素直な叙景歌」と呼ぶものにおいてこそ、むしろ作者の主観が「ぬっと頭を出して」くるというのである。いわゆるリアリズムが日本に確立しなかったのだとすれば、それは大岡のいう「恋歌」型の喩の回路のためではなく、客観を主観に体系的に転換する「趣味」のメカニズムが、狭義の文学表現の枠を越え、日本語を使用した言語活動の総体を貫いて作動しているからなのではないか。日本語の言語の言語的存在は、言語の非言語的使用の共同体、趣味のサークルの内部に閉じ込められているのではないか。

だとして、貞久秀紀の述べる「明示法」の難しさはどのへんにあるか。「明示法」というのは、たとえば、

九死に一生を得るほどの大病の後にはじめてそとを歩き、生きていることのよろこびに胸をいっぱいにして歩いていて、公園の花壇に赤く咲いているツツジを見る。それは以前から毎年目にしていたものでありながら、このときはそれが目に触れるや否やそれまで目にしたことのないもののように真っ赤にそこにあり、「この世ならぬものに見えた」。
(貞久秀紀『雲の行方』)

というような体験を「それ」と呼ぶとして、この「それについて書く」というのではなく、「それを書く」というような、直接的な記述のありかたをいう。「体験」と「記述」との密着が狙われている。この「体験」がすでに「詩」と呼ばれているからには、この「記述」は詩の詩となるはずであり、つまり詩人の狙いは、詩と詩の密着の実現ということになるだろう。

日常の何気ない出来事が一個の「体験」となる過程は、「枝がゆれている」という出来事についていえば、こう分析できる。枝がゆれている(明示1)。その「枝のゆれが何かそれとはべつのふしぎに静かなもの」をよびおこす(暗示)。それは何かと考える。それは眼前にある「当の枝のゆれにほかならない」(明示2)と考える。

最初の「明示」を自動化した認知、最後の「明示」を活気付けられた認知と見れば、この過程は、「日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する」ロシア・フォルマリズムの異化の過程そのものだ。「Aということがらを通してまさにAということがらが導きだされるような体験」(貞久前掲書)とはつまり、「石を石らしく」ということであるだろう。違いは、異化の目的が異化そのものであるのに対し、明示法の場合、言語の外側ですでに生じている「体験」としての異化の過程を言語に転写するというところに求められる。異化は目的ではなく、対象であり、「石を石らしく」は、「詩を詩らしく」という形に転位する。シクロフスキーによる異化の定義を確認しておきたい。

生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせねばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法であり、芸術は事物の行動を体験する仕方であって、芸術のなかにつくりだされたものが重要なのではないということになるのである
(ヴィクトル・シクロフスキー「方法としての芸術」水野忠夫訳、イタリックは原文では傍点)

でも貞久秀紀の作品では、「知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式」がとられていないように見える。むしろその詩に現れた言葉づかいは平易といってよく、流暢としかいえないように思える。

道のべにあり、ゆきすぎてなお思いかえされる二、三本の木は、
二本とも三本ともなく、二、三本として思いかえされる。
べつの日におなじ道をゆけば、二本か三本かのいずれかがあり、
いずれもこの二、三本の木であるのにほかならない。
(貞久秀紀「数のよろこび」、『明示と暗示』所収)

想起において「二、三本の木」という曖昧な形をとっていたものを目の当たりにし、それが「二本か三本かのいずれか」であることを確認しておきながら、「二、三本の木であるのにほかならない」と言い切っている。

ここに困難の在り処とその解決の方策が見て取れるようだ。日本語の圏域において、単純なものは、像を介し、複雑なものに転送される。つまり、明示から暗示への切り替わりは、同じ知識を共有し、同じ想像力を備えた共同体の成員において、ほぼ機械的に遂行される。でも、暗示から明示に向かう復路の道筋は、日本語の使用において事前に整備されていない。明示から暗示を経由して明示に戻ってくるのは畢竟難しい。どうすればいいか。この問題を解決する方策として「数のよろこび」に導入された仕組みは、最初の明示の局面にあって、像の自動的な起動を阻むことにあるといえるだろう。「二、三本の木」であるならば容易に想像できるのだ。むしろアランのいうように、想起されたパンテオンの円柱を数え、その本数をいいあてることはできない。けれど「二本か三本かのいずれか」である「二、三本の木」もまた想像できない。言葉がもつれている。やさしい言葉のもつれが、詩の言葉の表面に視線をつなぎとめる。立ち上がりそうで立ち上がらない像(明示1)と言語の言語的存在の顕示(明示2)との間で焦点が揺れ動く(暗示)。二つの明示からなる「ウサギ−アヒル図」だ。でもこれは方法の一端にすぎない。あるひとが、三本の木を前にして、

「いつもは三本ある木が、きょうは二、三本ある」
というならば、そして現に目の前にはあきらかに三本の木があり、このひとがぼんやりとしているようでもなく、機知をはたらかせてたわむれたり、婉曲表現を使ったりしているようでもないならば、わたしにはこのひとが何をいわんとしているのかわからない。にもかかわらず、わたしには奇妙におかしな感じがわいてきていて、そのかぎりではたしかに何かが伝わってきているのが感じられる。しかし、その何かが何であるのかはわからない。
(貞久秀紀『雲の行方』)

方法の要素であり難関であるものはこの先に現れる。「ウサギからアヒルへ、アヒルからウサギへ移行するときの、『何か』いわくいいがたいもの」(同前)が、その詩的言語で転写の狙われた詩的体験に伴う「奇妙におかしな感じ」と、ぴたり重なり合うような具合に言葉を按配していくこと。これが問題なのだ。「それについて書く」のではなく、「それを書く」というのであるから。

ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている――そのような文があるだろうか。ゆれている枝によってよびおこされるものが、ほかでもないそのゆれている枝であるように。
(貞久秀紀『明示と暗示』序)

言語の内と外、意味と像の双方を動員する写生の第三形式、「明示法」で最大の難関は、この二つの文のあいだに橋を架けることにある。けれど「明示法」というものは、『雲の行方』の前書にあるとおり、目的地のない道なのかもしれないのであった。それでもこれもまたひとつの理念であることにかわりはないだろう。日本語による写生をめぐる、三つの理念を素描した。



※関連するエントリ
●言語の言語的存在については
ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態 - 翻訳論その他
こねこ文、あるいはシニフィアンとシニフィエの結合不良 - 翻訳論その他
●虚子のリアリズムについては
内包と外延――写真と俳句のシステム論的素描 - 翻訳論その他
一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての - 翻訳論その他
●異化については
難解さとは別の仕方で - 翻訳論その他
死の恐怖をめぐって――中島義道、大江健三郎、森岡正博を中心に - 翻訳論その他