盗まれた身体――奥村悦三『古代日本語をよむ』

堀江敏幸「土左日記」現代語訳の面白み。「貫之の緒言」と「貫之の結言」、そして括弧を使って本文に組み込まれた沢山の自注。「十六歳の日記」みたいだ。でも実際の「土左日記」には緒言も結言も注記もない。だから「原文にない」、「創作だ」といいたくなるかもしれないけれど、原文にないといえば、そもそも訳文にある言葉はどれひとつ原文にない。そうでないと翻訳は成り立たない。つまり「原文にない」は翻訳が翻訳であるための必須条件だ。もちろん、原文にない言葉を緒言や結言や注記という形によって本文と別のものとして差しだすことは、訳文において、そこにない原文の範囲を限定し、翻訳と創作、翻訳と解釈の区別を律儀に保とうとする潔癖な所作に見えかねない。だからそれは、純粋な翻訳があり得ると考える習慣、実利的な思考の強化に貢献することにもなる。川端康成は晩年、「十六歳の日記」にあとがきを二つ重ねたり、注を加えたりしたことを悔いている。しかしながら、堀江訳「土左日記」では、翻訳とそれ以外とを区別することなどできないのではないか、外部と内部は分かちがたくからみあっているのではないかという疑いが、括弧の外側においてすでに疑われているようなのだ。

(原文)をとこもすなる 日記といふものを をむなも してみむとて するなり
(訳文)おとこがかんじをもちいてしるすのをつねとする日記というものを、わたしはいま、あえておんなのもじで、つまりかながきでしるしてみたい(それは必ずしも、女になりすますことを意味しない。すでにこの書が私という男の手になるものであり、土左日記という標題を持つ創作であることは、劈頭に、ほかならぬ漢字で記されているのだ。これは土左日記であって、とさのにきではない)。

緒言、結言、注記を含めた訳文の全体で原文の完全な翻訳をなす(完全な、というのは純粋な、という意味ではないし、完璧な、という意味でもない)。三点は、本文の本文性、翻訳の純粋性を際立たせるという動機――「括弧内は訳者が補った説明である」といった類の、学術書等の翻訳の凡例に見られる弁明により露骨化するそれ――とは違った動機に促されたものらしい。訳者あとがきを読むと、「奇妙な視点の揺らぎ」と書いてある。

久しぶりに読み返した「土左日記」の言葉には、やはり大小の複雑な揺れがあった。しかし揺れの合間に、ひとつの声が流れていた。どの場面のどの位置に立っても、背後から、いまなぜこのような散文を書かざるをえないのかを自問する貫之の声が聞こえてきた。仮名文字表記による散文に漢籍をふくむ他者の言葉を呼び込み、もうひとりの大きな他者としての自作和歌をも組み込みながら、彼はつねに冷静な眼で、「いま書かれつつある言葉」からいっときも眼を離さないメタフィクションを創造しようとしていた。書かれたものを読み返すまなざしが、「書かれつつある」現在を二重化する。表向き簡素な文章のなかで、貫之は二十世紀後半以後の文学の先鋭的な意匠と少しも異なるところがない、果敢な実験を試みていたのである。
堀江敏幸「いま書かれつつある言葉」、池澤夏樹『日本文学全集03』p.499)

メタフィクション」――けれど「奇妙な視点の揺らぎ」という点に立脚すれば、「移人称小説」と呼ばれていてもよかったはずである。語り手である女の「わたし」は、全知の作者、男の「私」の知識をもって、「わたし」には知り得ないようなことを平気で語る。だれのものとも知れない視点が全部「私」のものであるとされた中に紛れ込む。草創期の仮名散文における「先鋭的な意匠」と見てもいいけれど、小説を書くことに付きまとう「当たりまへ」が原初にちかいところで当然に発現しただけと見ることもできる。区別できない。区別しようとするのが間違いであるのかもしれない――。

であるとして、話はとぶようだが、堀江訳「貫之による緒言」に次のようなところがある。

かつて真名序と響きあう仮名文字の序を綴っていたときにも感じた和文と漢文とのずれ、もしくは漢文の和文への浸食に対する抵抗のむずかしさを、私は土佐からの船の上で、いまさらながら認めざるをえなかった。
(前掲書p.351)

この「漢文の和文への浸食」については、ずっとまえ、山城むつみ氏のエッセ、「翻訳の力――貫之、プーシキン、二葉亭に連動しているもの」(三田文学1996年夏季号)が奥村悦三「書くものと書かれるものと――日本語散文の表現に向かって」をとりあげているのを読んだ。それによれば、「奥村氏は、(中略)翻訳語の混入をめぐる考証も着実に押さえつつ、そこから『個別の翻訳語の存在の数限りない指摘以上に、土左全体が翻訳文体になっていることを認めることができる、とは言えないのであろうか』とさらに踏み込んだ問いを投げかけている」。

実際、土佐日記は初っ端「をとこもすなる」の「も」ひとつとっても一筋縄ではいかないわけで、ぜんぶが翻訳なのだといわれると、そうか、翻訳か、とも思う。難しい思想書の翻訳でテニヲハがおかしくなっているのは見たことがある。けれど、ずっとまえのそのときは、「翻訳文体」の射程を勝手に短く見積もっていた。だから、挙げられた奥村氏の論考は読んでいない。けれど、この春刊行された『古代日本語をよむ』は読んだのである。そして、「漢文の和文への浸食」のモダリテをめぐり、あるひとつの貴重な示唆を頂戴した。

正倉院に残された上代文書群に、僅少の正訓を交えながらも基本的には真仮名を使って書かれた手紙(ないし解文)と見られるものが二点含まれていて、甲種・乙種と呼び分けられている。いずれも読む人が読めば読めないところはないようだ。けれど全体として言わんとしているところがよくわからない。そういう代物が二つ残っている。

考えられることのひとつは、こういうことだ。「文意が分かりにくいのは、多分に私的な内容のものであって、当事者同士が了解すればそれで済むといった性質をもつからであろう」(山口佳紀『古代日本文体史論考』)。あるいはまた、甲乙両種の仮名文が「《万葉集》のなかの題詞や序や左注などの漢文にくらべると、いまだ、散文とよぶには、あまりにも遠いように感じられる」(亀井孝ほか編『日本語の歴史2 文字とのめぐりあい』)、そういう未熟さを抱えていたためである。

対して奥村氏は、こう考える。「この書状は純粋の真仮名文ではなかった、それは言わば翻訳文であった、とも主張しうるのではないであろうか」。つまり、「日本語として読もうとしたから理解できなかったのであり、解釈するためには、それが、正倉院文書中に多数見出される漢文(あるいは、変体漢文)の文書と『重ね合せ』られるべきもの(中略)であると考えられなければならないだろう」。

「翻訳文」といっても、必ずしも、起草に先立って一定の漢文が現実に書かれており、それを仮名文に翻訳した――奥村氏はその可能性も捨てていないけれど――というのではなく、心内の文案に照らして、つまり漢文的な発想に寄りかかって文章が綴られたということである。その効果としては、漢文的な書式がとられる、漢文的な文型がとられる、漢文的な語法がとられるといったこと、そしてまた、築島裕平安時代の漢文訓読語につきての研究』にいわれるような「漢文訓読語」が混入するといったことが真っ先に考えられるだろう。

けれど、奥村氏の挙げる中には、こうした形式面・語彙面の浸食とは様相を違えたものがいくつか(いくつも)ある。

例えば乙種に見られる「宇気」は、小松茂美『かな―その成立と変遷』に掲げられた釈文で「受ける」と解されている。けれどそう解すると文意がよく理解できない。いや、そう解するからこそ理解できないのであって、じつはこの「宇気」は、「日本語の『受く(受ける)』と解されるべきでなく、漢語『請』の翻訳語と考えられるべきであろうと思われる」。

請という字が、「受」の意味を持っている――だから、ウクという《訓》を付されることにもなる――ばかりでなく、「請求する」ことをも意味するために、前者にのみ対応させうるウクが――本来、日本語としては考えられなかった――後者の用法をも併せもつようになった、とは想定できないであろうか。
(奥村悦三『古代日本語をよむ』p.35)

こういった意味の領域の浸食は、先に挙げた形式面での浸食とインパクトのありようが違う。後者の浸食は、一見してその度合いが明らかであるけれど、前者の場合、見ただけではわからない。いわゆる「訓読語」の混入にしても、特異な言葉の使用ではあるにせよ、やはり基調は和語であり、また字音語であり、おおむね字義どおり理解できる。ところが、奥村氏のいう「翻訳語」の場合、記された言葉は和語そのものであるのに、和語としてそのまま読むことはできないのである。和語の浸食は、外側ではなく、内側から、かつ内側だけに及んでいるということだ。

似たようなことを考えたことがある。

意味を媒介に、漢字を使って日本語を書く。そのため、まっさきに思い浮かぶやり方は、手持ちの日本語の言葉と意味の似た漢字を選び、それを当の日本語の言葉の表記としてしまうという形だろう。(中略)日本語の「イケ」という言葉と意味の重なりを持つ「池」という漢字を、その原義を犠牲に、日本語の「イケ」を表記する文字として選択するということだ。この場合、日本語側の意味は、いずれ両言語間の交渉によるノイズが入るのは必定だとしても、当初に限れば無傷であり得る。
けれど、こういう形とは別の形、つまり日本語の「イケ」という言葉を「池」と表記したのではなく、逆に中国語の「池」を、中国語の「池」の持つ意味を丸ごと保持したまま、日本語で「イケ」と呼ぶことにした、ということも、理論上、考えられないわけではない。この場合、日本語の言葉は、日本語の音を備えてはいるけれど、その内実においてむしろ中国語となる。つまり、この仮定に従えば、日本語は、自ら中国語となることで、その書くことを手に入れたということになる。
(「志賀直哉『国語問題』再考」、トラデュイール第2号)

これを書いたときは、後者の可能性をとるうえで、クワインの「根底的翻訳」や「指示の不可測性」といった概念を参照しつつ、訓の成立に対する渡来人の関与のことを重視していた。半島からの渡来人が当地で和語を学び、その渡来人の習得した和語を通じて漢語を学ぶ。こういう二重に不透明なプロセスがあったことにこだわっていたのだ。でも一面的だった。よく考えれば、漢語による和語の乗っ取りは、外来の、異なる言語を使うひとたちの介在がなくても、平安中期以降の漢文訓読の場で確認されるとおり、生まれつき和語を使って話すひとびとの側で、自発的にも内在的にも起こりえることだろう。へんなところに引っかかっていた。自分でも「日本語は、自ら中国語となる」と書いているのに。

要は翻訳の問題なのだ。日本語がその書くことを手に入れるため、翻訳という意味論的なプロセス、不透明かつ不安定でしかあり得ないプロセスを経ていることが、いろいろのおおもとにある。相違していることが形に反映していない二つの語、翻訳語と自国語の混在する状況が組織的に生まれたのである。現今「役不足」等の言い回しに見られる誤用と正用の混在や、「善意・悪意」等の法律用語と日常語との乖離にも似たようなことが、もっと広くあまねく起きたと考えれば、文字獲得のため当初払った代償の大きさがわかる。言語体系が二重化したのである。しかもその二重性は不可視だ。

古代には、書かれたものは、ほとんど常に、漢語(字音語)のみならず、また、日本語としては理解できない翻訳語をも使うことで綴られたものであること、また、後者については、古代人が日常使っていた言語に基づいては、意味を解しえないものだと考えるべきことは、おそらく、間違いない、と言えるのであろう。してみれば、古代日本語をよむには、そこに、それらが数多く含まれている(かもしれない)ことを常に念頭に置いておかなければならないであろう。
(奥村前掲書p.168)

ここにはいくつもの留保がある。結局のところ、断言できることは何もないといっていい。けれど、まさにこの点がおおごとなのだ。何も断言できない、区別できないということ。意味作用が宙吊りのまま遂行される言語活動が、和漢二つの言語体系のあいだに、見えない差分を生み出した。そしてこの差分が、いずれの言語とも異なる、顕在化しない、しえない、第三の言語を養ってきた。そしてこの潜在的な第三の言語が、どこにもない場所で想像上の成長を続け、いまここにある日本語とのあいだに、実体のない、差異のための差異を、絶えず新たに生み出し続けている(かもしれない)のである。