「移人称小説」と「いぬのせなか座」

「移人称小説」というレッテルがピンと来なくて。命名したのは渡部直己だが、次のように書いている。

ここにひとつ、昨今の小説風土の一部にかかってなかなか興味深い(中略)現象がある。/一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たちによる作品の数々が、その中枢をひとしく特異な焦点移動に委ねるという事態がそれである。
渡部直己「移人称小説論」『小説技術論』、強調は原文では傍点、以下同様)

「語りの焦点が、一人称三人称とのあいだを移動し往復する点」が「特異」なのだというが、「焦点」という概念と「人称」という概念がごちゃまぜになっていて、ちゃんと理解しようとすればするほど、言葉の不透明さが増すようだ。

渡部の論では、「移人称小説」がさらに細かく「越境系」と「狭窄系」に分けられる。たとえば岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収められた2つの作品のうち、「わたしの場所の複数」が「越境系」で、「三月の5日間」が「狭窄系」に該当するというけれど、一人称の語りが知識に係る固有の制約を超脱したり、逆に必要以上の制約をみずから負ったりする前者「越境系」は、渡部本人も指摘しているとおり一面ではジェラール・ジュネットのいう「焦点化の変調」が起きているということにすぎないし、神の視点から特定の人物にフォーカスする後者「狭窄系」は、語りのエコノミー(配分)が狂っているだけだ(「だけだ」というのもおかしいが)。「越境系」の作品は最初から最後までずっと一人称小説のまま、「狭窄系」も同じく三人称小説のまま。人称は変化していない。だから「移人称」という命名はそぐわない気がする。

もちろん渡部は「人称が移動する」とは書いていない。「焦点が移動する」というのである。しかし、「狭窄系」に関していえば、三人称小説で焦点がいろいろ移動するのはよくある話だし、作中人物がもとの語り手の地位を収奪しているわけでもない。ことさら「特異な焦点移動」ではないだろう(「狭窄系」で問題となるのは、焦点の合った作中人物の一人称の語りの部分で「焦点化の変調」が起きる場合だ)。

さらに渡部は追い打ちをかけるように横光利一の「四人称」なんて持ち出すから、混乱に拍車がかかる。「純粋小説論」の「人称」は、「一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなおかつ作者としての眼さえ持った上に」云々というのだから、「Personとしての在り方」という程度の意味だろう。小説家という「一人の人間」が、「多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実」を活写するには、この四つの人称を操作する術を編み出さなければどうしようもないという提言だ。少なくとも文法的な意味での「人称」や物語論的な意味での「人称」と関係ない。これは明らかで、第一人称、第二人称、第三人称に加えての「第四人称」という意味でないのだから、「『一+三=四』人称」という変わった足し算を使って、無理やり一般的な「人称」の話につなげなくてもいい。仮に『紋章』という横光の小説を一人称小説と三人称小説の「複合」とみることができたとしても、この複合性は、人称に冠された序数の足し算の答えと無関係ということだ。

渡部の「移人称小説論」より2年ほど早く、栗原裕一郎がブログで「人称をどうにかしようという」作品が最近増えてきたという話をしている(2012年後半の純文学系小説〜「一人称と三人称」問題について)。この「人称をどうにかしよう」という言い回しは、シャープではないけれど、それゆえ逆に、かちっとした「移人称」にない喚起力があった。栗原自身は「人称をどうにかしようという」作品に対して否定的だと思うけれど、良き理解者が正しい理解者であるとは限らない。逆もまた然り。岡田利規の「わたしの場所の複数」「三月の5日間」、柴崎友香の「春の庭」「わたしがいなかった街で」といった高度な作品(だと私は思う)について考えるには、栗原裕一郎の言葉に立ち返り、その言葉の暈の部分に目を凝らさなければならないのではないか。

というようなことを思っていたところ、去年通販で買った『いぬのせなか座』という同人誌(?)で次のような発言を読み、そのことによって自分の考えが活気づけられるのを感じた。

最近よく、日本の小説に対して(なかば悪口のように)言われている、人称越境の問題は、やはりあまり問題設定がよくなくて、人称とか、本当ならそんな外のことなんて言ってられないわけです。毎秒毎秒、人称なんてびゅんびゅん変わるし、重なるし、もしくはゼロになるのだから。一文中でさえ、人称のようなものは止まったりなんかしていない。ぼくらが「一人称から三人称へのふしぎな移行」みたいなものを感じたりするとき、注目すべきは、時間の空間化と、その空間同士の分解・統合、さらにはそれらを成り立たせている生命そのものの変態のようすです。
(山本浩貴+hの発言「座談会1 2015/05/17→2015/05/31」『いぬのせなか座』第1号)

つまり、問題は人称なんかではないと。そんなものは疑似的な問題にすぎないと。ここにある「人称のようなもの」というぼかした言い方に、私は、「人称をどうにかしよう」という言葉と同じ程度で、考えることを促されるのを感じる。「一文中でさえ、人称のようなものは止まったりなんかしていない」というのはたぶん、吉本隆明が大塚金之助の短歌「国境追われしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな」に触れて指摘したのと同じことを指している。

ちょっとかんがえるとある歴史上の事実を客観風にのべただけのような一首が、高速度写真的に分解して、表出としてみるとき、作者がいったんマルクスになりすまして国境を追われたかとおもうと、マルクスになりすました感慨にふけり、また、作者の位置にかえってその死の意味に感情をこめているといったような、かなり複雑な主客の転換をやってのけていることがわかる。
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)

先に引用した発言の主である山本浩貴+hは、『いぬのせなか座』所収の大江論に付された註において、吉本の「自己表出」概念を認知哲学の知見からとらえなおしつつ、こうした「人称のようなもの」の盛んな転換に、言語の線条性、線形性の制約を脱するためのひとつの契機、「並列分散処理的思考」が転写されていることのひとつの痕跡を探り当てようとしてる。

昨今の日本語圏の小説作品に多く指摘されている過剰な人称の移動は、こうして、一人称や三人称などといったざっくりとした用語から摘みとられ、小説における並列分散処理的思考の活性化に寄与する要素のあらわれとして、計上されることになる。
(山本浩貴+h「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」『いぬのせなか座』)

輻輳し、矛盾する文章や視点のそれぞれに1個の宇宙を割り当てるかのような多宇宙の構想、そしてそれに「収束の力」を与える「私が私であること」等々、アイディアが豊富なこの大江論は、当の大江自身や保坂和志によるそれと並び、実作者の側からの小説観の表明として読みどころが多く、私はまだ消化しきれていない。それでもがんばって批判すれば、「並列分散処理」の所以たる「一挙」性は、やはり文章においては無理なのではないかという気持ちはある。「一挙」を構成するかのような、たとえば語より下位の形態素どうしが形成する、最小レベルの統語においてさえ、空間化できない微小な時間が流れているという――それ自体としては平凡な――見方……。

それはさておき、もう一つ、『いぬのせなか座』の座談会から興味深い個所を引く。いわゆる「新しいリアリズム」について触れたくだりだが、山本浩貴+hは、小説家の保坂和志が凡百の批評家なんかよりも「圧倒的に『使える』小説観を提供している」ことを認めつつ、次のような発言をしている。

小説家の方々のいくらかは、「私は私の見たまま感じたままを書いたらこうなるのだ」と言います。はい、そうですね。「きっと彼らは、本当にこう見えているのだ。小手先などではなく、身体のレベルなのだ」と、批評家のような方々が言う。はい、そうですね。でも、それだけで世界が埋めつくされちゃったら、ちょっとどうしようもない。見たまま書きます、そうですね、ってところでとまってたら、書き直しができないわけです。

「書き直し」ということが重視されている。右引用部以下の部分で表明されている考えは、ミメーシスかポイエーシスかといった旧来の芸術観の枠組みではうまくとらえきれない。

たとえば渡部直己は、「移人称小説論」の註で、佐々木敦が最近の小説の「新しさ」を語る際に「再現論」を持ち出すのは、むしろ議論を「後退」させているのではないかと指摘している。「後退」というのはつまり、佐々木が、「移人称小説」の動機づけとして、「産出性(こう書くゆえに、世界はこう生まれる)」よりも「再現論(世界がこう見えるから、こう書く)」を重視する立場をとっているからである。

渡部の指摘は、ヌーヴォー・ロマンの全盛期、アラン・ロブ=グリエが表明していた考え方に同調するものだ。ロブ=グリエは基本的に「作家はだれでも、自分はレアリストだと考えている」(『新しい小説のために』)と考えている。個々の作家がそれぞれ個性的な書き方をとるのは、彼が「現実」の新しい相を発見したからである。「世界がこう見えるから、こう書く」ということだ。しかしロブ=グリエは、こうしたリアリズム的な側面よりも「もっと重大なことがある」と話を続ける。

小説は、全然道具などといったものではないのである。小説は、あらかじめ限定されたなんらかの仕事のために考え出されたものではない。小説それ自身より以前に、小説の外側にすでに存在していたものを、開陳し、表出するのが役目ではない。小説は表現するのではなく、探究する。そしてなにを探究するかといえば、自分自身なのである。
アラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために』)

このように小説の道具性を否定した後、ロブ=グリエがいうには、「小説とはまさしく、その各自に固有の現実を創造するものなのだ」。この主張を渡部の言葉に翻訳すればこうなるだろう。「こう書くゆえに、世界はこう生まれる」。

ロブ=グリエの主張は、ロマン派の思考をきれいになぞっている。この主張によれば「ヌーヴォー・ロマン」とは結局、文字どおり「新しいロマン」派の運動だったということになる。そしてそれは同時に、リアリズムの意味づけを更新する「新しいレアリスム」(ロブ=グリエ)でもあった。いずれにせよ、この「新しさ」は、理念として、さほど新しくない。というか古い。古くからあるミメーシス/ポイエーシスの対立軸が揺らいでいないからだ。佐々木敦渡部直己の意見の相違も同じ。佐々木敦のように再現論をとろうが、渡部直己のように産出論につこうが、問題設定そのものの客観的な古さは「ちょっとどうしようもない」。

もっとも、渡部直己に限っていえば、事態の「新しさ」を徒に顕揚するのではなく、むしろ進んで「古さ」を引き受けようとしているようではある。「移人称」の「ブーム」を「描写性一般の減衰」に関係づけるということは、物語の編成をミメーシスとディエゲーシスの拮抗において見るということなのだから。

渡部は、保坂和志の「もともとそれらはすべて作者一人の頭の中で想像されたことだ」という言葉などを引きながら、「移人称」の「当たりまへ」さについて語っている。ここは重要なところだと思う。この「当たりまへ」という言葉は勝本清一郎川端康成「『純粋小説論』の反響」でもこの人の議論がやや詳しく取り上げられている)のものだが、渡部によれば、

「純粋小説」だの「四人称」だのと大仰に構えず、「当たりまへにロマンと称すればいい」だけの話ではないかと断ずる勝本清一郎は、その根拠として、「従来の三人称小説」といえども、背後にはつねに「一人称」すなわち「かくされた作者の観点」が存在する点を繰り返し強調しながら、横光理論の示す不毛な「神秘化」を難じていた。

ジュネットプルーストの「冗説法」について述べる箇所で「全知の小説家」(「全知の語り手」ではなく)という言葉を出しているが、結局「移人称」的な「特異」性は、小説にあっては、むしろ「当たりまへ」の出来事に属するのであり、小説とはもともとこういう性向を持つものなのだ。「小説家」は「全知」なのであるから、これに近いようなことは、やろうと思えばいくらでもできるし、実際やってしまう。村上龍みたいに無意識でやっているように見える場合もあるし、夏目漱石のように問題を自覚している場合もある。ほかにも探せばいくらでも出てくるだろう。

つまり「小説の自由」なんて「当たりまへ」の話なのだ。これ見よがしに見せつけられても心が冷えるばかりだ。

ところが、このように「当たりまへ」の話でも、見方次第で新鮮な様相を帯びることがある。『いぬのせなか座』の座談会で山本浩貴+hの次の発言を読んだときそう思った。

文章ごとに生成される非比喩的情報を、因果律のみのレベルから、因果律+表現主体+環境、のレベルにまでおし広げることによって、「世界がそう見えるからこう書いている」という考え方をひっくり返して、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」ということ、小説をつくるという時には小説をつくる側こそが作られているということ、小説をつくる主体+環境が言語とは別に小説の材料になっているっていうことを、考える。

「ひっくり返して」というけれど、この理念は、再現論を産出論にひっくり返すといった単純な転覆になっていない。「世界の制作」ではなく「魂の制作」。「わたしを表象する」ではなく「わたしを制作する」。そしてこの制作された「わたし」が、「書き直し」というrépétition(反復/練習)を通じて、多宇宙に遍在する「わたし」たちを呼び出し、孕み込み、矛盾してなお「わたし」であり続けるように、「わたしがわたしであること」を鍛え上げるというイメージだろうか?

引用部の終わりのへん、『いぬのせなか座』巻頭言にある「小説は言語芸術ではない」という宣言の解説になっている。「文学は言語でつくった芸術だ」という吉本隆明の理論的前提を否定していることになるが、しかし、この否定のモメントは、吉本の「自己表出」概念、そしてその吉本に霊感を与えた三浦つとむの言語論にすでに胚胎していたのだ。したがってこれは『言語にとって美とはなにか』の単純な否定ではない。この否定ならざる否定――脱構築――から導出されたと思われる「小説は、なぜ、言葉のみを不可欠な素材としているふうに装っているのか」(「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」、強調は原文では傍点)という問いの立て方のユニークさは疑いようがない。

『いぬのせなか座』では、掲載された個々の文章のモチーフやテーマが相互に響きあい、テクストの物理的な配置まで巻き込みながら、緊密な全体を形作っている。「移人称小説」ということでは、なまけ「ロケットのはなし」という掌編にもまた、私は、「移人称小説」と(誤って)呼ばれる現代日本小説のいくつかに感じられるのと似たような技巧性、ないしその手触りを感じた。焦点の変調も侵犯も起きていないようなのだが。

「ロケットのはなし」で、構成要素である各文の表象する時間や声の所在は、ほんとうに動転に動転を重ねる。ところが字面はまったく整然としているのだ。この対照が面白い。たとえばこれを英語だとかフランス語だとかに翻訳する場合こうはいかない。動詞の時制を現在完了、過去、大過去のいずれかに決めなければならないし、話法の使い分けもいる。どうしても、ごちゃごちゃしてしまうだろう。

最後の場面だ。文字たちが作り出す水平運動(類似する言葉)と垂直運動(前後する時間)との引き合いによる緊張が一気に解放される。作品は静かに幕を下ろすが、爽快な余韻だけは長く残る。渡部直己は、保坂和志『未明の闘争』で、「負荷」とその「解除」が効果的に機能していると指摘していた。作品の規模が違うとはいえ、この評言は、「ロケットのはなし」にもそっくりそのまま当てはまる。繊細なつくりの佳品といえる。