「フランス語のウナギ文」再び


高田大介さんのブログ記事「うなぎ文の一般言語学」に触発された。以前書いた「フランス語のウナギ文」の続きを書くことにする。まずは念のためウナギ文の実例を挙げておこう。死後の世界で交わされたやりとりとして読んでもらいたい。

A:それで皆さんは何に食い殺されたんですか?
B:私はトラです。
C:俺ライオン。
D:僕はウナギだ。

太字で強調したのがウナギ文。これについて高田さんは次のように書いておられる。

管見では「うなぎ文」は世界共通、ほとんど普遍的な言語現象ではないだろうか。ただそこには文法学者や教師が「ぱっと認めたくないイロジックな感じ」がある、そこがしばしば用例を否定される原因になっているのである。

高田氏の記事では、日本語はもとより英語、ドイツ語、中国語、トルコ語その他の例が豊富に挙げられているけれど、私の場合もっぱらフランス語にそれを探った。

ウナギ文はその名前のもとになった「僕はうなぎだ(ボクハウナギダ)」という文型が代表とされている。とはいえ厳格に「AはBだ」という骨格をなぞっていなければならないかというとそんなことはなくて、上に挙げた例のように「は」はなくてもいいし、「だ」で文が終わってなくてもいいし、あと「Aは」の代わりに「Aが」でもいいだろう。

料理を運んできた店員:「えーと……」
客:「僕がうなぎで、彼女があなご」

ここでウナギ文をざっくり定義すれば、ウナギ文とは、

「名詞と名詞を結び付けるコピュラ文のようでありながら、一般的なコピュラ文として解釈すると意味的におかしくなる文であって、実際には別の意味あいで使われている文」

のことである。私はそう考えた。で、「フランス語のウナギ文」でその候補として挙げたのが、ネット上で見つけた「Je suis café」という文である。

「Je」は「私」にあたる代名詞、「suis」は英語のbe動詞に相当する繋合動詞、「café」は「コーヒー」を意味する名詞。「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」という質問に対する回答中に出てきた表現なのだが、属詞の位置にある「café」に限定詞が付いてない。だから名詞ではなく形容詞として使われているようにも見え、そのことが不満だった。つまり、「僕はコーヒーだ」ではなく、「僕コーヒー党なんだよねー」という意味あいを持つのではないかと疑われた(この点、高田氏の記事で参照されている奥津敬一郎氏の講演で挙げられた英語のケース「I am the spaghetti」や「I am a cheese hamburger」とは異なる)。そしてもし形容詞であれば、前記のウナギ文定義から外れることになる。「僕」(という人間)=「コーヒー」(という飲み物)であればおかしいが、「僕」=「コーヒー好き」ではおかしくもなんともない。訳そうと思えば「僕はコーヒーだ」と訳せるけれど、「僕はコーヒーだ」にあるような多義性は、「Je suis café」にはなくなってしまう。

「フランス語のウナギ文」を書いてから10年が過ぎた今では、これが確信に変わっている。「Je suis café」はウナギ文ではない。ネットで検索すると「Je suis très café」という形がたくさん見つかる。「très」(英語の「very」に相当する副詞)は形容詞の程度を強めるものだ。やはり名詞が形容詞化しているとみるべきであろう。

なお、この文型、すなわち「無冠詞属詞構文」については、藤田知子さんという方が「Vous êtes théâtre ou cinéma ? 構文に関する覚書」(2012)という論文を書いていた。

今回ほかにも関連する論文をいくつか読んでみたのだけれど、そのうちのひとつ、高本條治「『ウナギ文』の語用論的分析」(1)(2)(1995)が自分には裨益するところ大であった。この論文は、ウナギ文の成り立ちを解明するには文を単体で取り上げてその統語構造を分析するだけではダメで、語用論的な視点を積極的に取り込んで前者の分析を補完する必要があるとし、このような立場から、先行諸説に見られる「過剰な文法化」を批判している。たとえば「は」や「だ」の文法機能や統語的変形等に基づく説明は、言語運用レベルの問題まで文法レベルで無理に解こうとしているのではないかと。うん。本論考の主張の肝は、次の箇所にあると思われた。

「AはBだ」形式の発話で、AとBとが同一関係や包摂関係にあるというデフォルト解釈がキャンセルされるとき、この発話が有効な文脈効果をもつためには、AとBとの間に二項関係Rについて、一歩先に進めた文脈推論が必要であり、その推論成果は、二項述語Pによって明示することができる。
(高本條治「『ウナギ文』の語用論的分析」(2))

成程。でもひとつ気になった。こういうふうに「一歩先に進めた文脈推論」が可能であるのは、いったいぜんたい、なんでか。

いくらデフォルト解釈ではおかしくなるからといって、文の構造上、そうしたおかしい解釈しか採用できないのであれば、それを採用するしかないだろう。「AはBだ」形式で、デフォルトの論理形式をキャンセルできるのは、そのようなキャンセルを許す、この形式の文に特有の内部構造があるからではないか。「AはBだ」において「AとBとが同一関係や包摂関係にある」と読む読み方からしてすでに、この内部構造に対して、一定の推論――コピュラ文であるという判断――が行われたことの結果なのではないか。

というようなことを思った。

「AはBだ」形式の文について「コピュラ文」であるという判断が事後的に働くということは、この文がデフォルトでコピュラ文であるわけではないということであり、「Aは」と「Bだ」はつながっていない、切れている、ということになる。じつは私はそう考えている。だから実際は、

「デフォルト解釈」とは、「AはBだ」形式の文を、文脈がないという文脈のもとコピュラ文として読む解釈

なのであり、

「一歩先に進めた」解釈とは、「AはBだ」形式の文を、一定の文脈のもと二項述語文として読む解釈

なのではないか。2つの解釈は、内部構造に対する二様の解釈として、フラットな立場に置かれているということだ。

「は」で切れるという考えは、金谷武洋さんが『日本語に主語はいらない』で述べられたのと同じである。「は」は主語ではなく主題を表すものであり、「AはBだ」の「Aは」は、「Bだ」と文法的関係を結んでいないという主張。

「ぼくは、うなぎだ」を例にとれば、「ぼくは」で文が切れている。主題「ぼくは」がまず聞き手の注目を集めておき、基本文である名詞文「うなぎだ」を添えたものに過ぎない。(中略)仏文で言えばMoi, c'est l'anguille.であってJe suis l'anguille.ではない。
(金谷武洋『日本語に主語はいらない』p.132)

この「Moi, c'est l'anguille.」型の構文については、朝倉季雄『フランス文法集成』(p.512)にも次のような記述がある。

茶店で友人同士がそれぞれに飲み物を注文する場合、「私は…だ」はわれわれが日常よく用いる表現である(奥津敬一郎著『「ボクハウナギダ」の文法』、くろしお出版、1978)。Alain ROCHER氏は井村順一氏との対談で、たまたまこの問題に触れ、会話的なフランス語にもtopique(話題)という考え方があって、「私はコーヒーです」は同種の構文を用いてMoi, c'est un café.と言えるし、「象は鼻が長い」もL'éléphant, son nez est long.と言える、と指摘しておられる(『基礎フランス語』、三修社、1981、5月、p.8)。

「c'est」に含まれる指示代名詞「ce」については、フランス語の文法で、人称代名詞ilとの使い分けがよく問題となるけれど、東郷雄二さんのお考えは明快である。「CEは本来は名詞の照応形式ではない」。

たとえば「Le temps, c'est de l'argent」(時は金なり)という文で、「c'est」の「ce」は、直前の「Le temps」に照応しているように見える。でもじつはそうではなくて、「Le temps」と「de l'argent」とは統語的に切断されている。直接関係しているように見えるのは、両者が統語上「近接」しているからにすぎない。

ILは本来名詞の照応形式であり、「言語的コントロール」を受ける。すなわち、先行文脈でも話者の意識のなかでもよいが、言語化された名詞句をさし、またそれしかさすことができない。一方、CEは「語用論的コントロール」を受ける。すなわちCEの指示内容は、ILとは異なり、先行文脈に現れているかどうかといった言語的規定を受けるものではなく、語用論的に推論されるのである。
(「指示と照応 - 照応的代名詞 ILと CE の用法を中心に」大橋保夫他『フランス語とはどういう言語か』p.88、強調引用者)

どうやら、この構文をもって、「フランス語のウナギ文」としていいようだ。「名詞, c'est 名詞」という構文は、一見コピュラ文に見えるけれど、コピュラ文として解釈すると意味的におかしくなることが多々ある。

朝倉『フランス文法集成』で挙げられていた例をひとつだけ。

Vous avez déjà essayé de contacter les Arabes ?
― Non, moi, c'est plutôt les Allemands ou les Américains...
もうアラブ人と接触しようとしたのですか。――いいえ、私は、それよりはむしろドイツ人かアメリカ人です。

「私は(……)ドイツ人かアメリカ人です」とフランス人が言っているのである。おまけに「ドイツ人」、「アメリカ人」に対応する原文の名詞は複数形だ(ただ、これは日本語訳がややぎこちない。「名詞, c'est 名詞」は「フランス語のウナギ文」であるが、必ずしもそのまま日本語のウナギ文の形に翻訳できるわけではないということだろう)。

でも、こうなると気になってくるのが、英語の「I am a cheese hamburger」と同形のウナギ文、つまり「名詞+繋合動詞+名詞」という構文でありながら一般的なコピュラ文のようには解釈できないというパターンがフランス語でも見られるかということである。いや、ほとんど見ない気がする(もちろん、ふだん私の触れるフランス語に偏りがある可能性は否定できない)。

それに対して、英語でこの型のウナギ文の見られることは、奥津敬一郎氏の言うとおり「もう間違いない」。たとえばジル・フォコニエ『メンタル・スペース』(pp.183-184)では7つの例文が挙げられている。2つだけ引用すると、

We are the first house on the right.
私達は右手の最初の家です。

I'm the ham sandwich; the quiche is my friend.
私はハムサンドで、キシュは私の友人だ。

フォコニエ教授は、こうした文型では「be」動詞が「換喩的連関を表す文法的手段」となっていると書いている。このあたりの言い回しは微妙なところがあるけれど、be動詞の文法機能によって換喩が生じているというのではなく、主語名詞が換喩表現として使われていることが、be動詞の文法機能(連結機能)によって露わになっているという意味なのだと思う。be動詞であるからには「換喩的連関」が作動していると見るしかない、というような(「換喩的連関のbe」に関する西山佑司氏の批判と、それに対する三藤博氏の回答を参照)。でも違うかな。ちょっと自信がない。

ウナギ文をメトニミーの一種と見る解釈は日本でもあるようで、高本論文でも触れられている(山梨正明『比喩と理解』等)。

たとえば先に挙げた例文「僕がウナギで彼女がアナゴ」では主題の「は」が使われておらず、したがって「僕が」と「ウナギ」、「彼女が」と「アナゴ」はそれぞれ文法関係にあり、統語的に連結されている。けれど「僕」と「ウナギ」とでは属する範疇が異なるわけだから、字義通りの意味は採用しにくい。そこで、「これは換喩なのだ」という判断が生じる。高本氏の言うような「文脈に応じた推論」が働き、「意味的な敷衍拡張」(「『ウナギ文』の語用論的分析」(2))が行われるということだ。

つまり、うなぎ文には、「は」の働きによって統語関係が緩んでいるため2つの名詞を語用論的な推論によって結び付けることを要するタイプのウナギ文(「は」型ウナギ文)と、お互い異なる範疇に属する2つの名詞が格助詞「が」によって剛結されていることに由来する意味論的な齟齬を解消するため換喩解釈が起動するタイプのウナギ文(「が」型ウナギ文)の2種類が存在すると考えられる。

「俺ライオン」等、名詞を2つ並べただけのウナギ文は、前者「は」型ウナギ文の亜種であると言えるだろう。

で、フランス語の「名詞, c'est 名詞」構文も、同じく統語関係が緩いタイプ。

英語に見られる「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文は、後者、換喩が働くタイプなのではないか。

繰り返すが、換喩型のウナギ文はフランス語ではあまり見られない*1。なぜだろう。「朕は国家なり」という言葉を手掛かりに考えてみる。

フォコニエ『メンタル・スペース』では、この表現に対応する英文「I am the state.」がウナギ文(とは、もちろん呼ばれていないが)の一例として挙げられている。けれど、これはルイ14世の言葉であると言われており、もともとはフランス語の言い回しであったはず。では、フランス語で「朕は国家なり」はどういうか。「Je suis l'État.」ではないのだ。「L'État, c'est moi.」という。

同じ「朕は国家なり」でも、英語は「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文で、フランス語は「名詞, c'est 名詞」型のウナギ文だ(←ウナギ文だ)。

たぶん英語とフランス語では、表現の仕方に対する好みが違うのだろう。ウナギ文は表現を圧縮することができるから、決めゼリフ、標語、キャッチフレーズでよく使われる。あるいは事務的な、そっけないやりとりの場面とか。こうした簡潔な表現を行う場合、英語では「名詞+be動詞+名詞」型のウナギ文が好まれ、フランス語では「名詞, c'est 名詞」型のウナギ文が好まれる。そういうことだと思う。

以上が10年前の自分の疑問に対する、今の自分の回答である。また10年したら、もう一度考えてみるつもり。おわり。以下は補記。

***

坂原茂「役割、ガ・ハ、ウナギ文」は、メンタルスペース理論の観点からコピュラ文を精緻に分析した論文だが、この中で坂原氏は、ウナギ文を「本来ならあるべき役割が省略*2され、変域の要素と値が直接『AはBだ』の形で結ばれた同定文である」(『認知科学の発展』第3巻p.49)とし、次のような生成過程を示している。

私が注文したのは、うなぎだ。→[変域の遊離]
私は、注文したのは、うなぎだ。→[役割の省略]
私は、うなぎだ。
(※変域=「私」、役割=「注文したの」、値=「うなぎ」)

一般に同定文としての「AはBだ」は、主語と属詞を交換したうえで「は」を「が」に変換し、「BがAだ」とすることができる。記述文の場合、これができない。「うなぎ文」は同定文であり、記述文ではないが、省略があるため、本来であればこの倒置規則をそのまま適用することができないはずである。しかし、「私はうなぎだ」を倒置した「うなぎが私だ」も、「私が注文したのは、うなぎだ」を倒置した「うなぎが、私の注文したものだ」と同じ意味で解釈することができる。なぜか。それは、「うなぎが私だ」において、「私」→「私の注文したもの」という換喩が働くからであると坂原氏は説明する。

また、「注文する」のような動詞が「役割」を担っている場合、値と変域は入れ替えることができるため、逆関数のウナギ文を生成することができる。「私はうなぎだ」の逆関数は「うなぎは私だ」である。

そして、この逆関数のウナギ文「うなぎは私だ」を「が」を使って書きかえると、「私がうなぎだ」という文が得られる。この文は、まさに「が」型ウナギ文として本文で挙げたもの(「僕がうなぎで、彼女があなご」)であるが、この「私がうなぎだ」も、「うなぎが私だ」と同様、メトニミー解釈により、ウナギ文として成立するということになるだろう。

坂原氏の説明は、「は」と「が」の統語機能の違いに着目したものではないが、「うなぎが私だ」という型のウナギ文において換喩が作用しているという指摘において、本文に示した考えと一致しているといっていいと思われる。

なお、「朕は国家なり」の仏語原文「L'État, c'est moi.」から英語「I am the state.」への翻訳は、「国家は朕なり」から「朕が国家なり」への倒置的変換とパラレルにとらえることができる。また、日本語訳の「朕は国家なり」は仏語原文の逆関数にあたる。三者三様であるが、ここでその理由について検討する余裕(気力)は、もはやない。




A la recherche de la phrase unagi

En linguistique japonaise, on parle beaucoup de phrases dites d'unagi. Une phrase-unagi est une phrase ambiguë avec deux nominaux. Apparemment c'est une phrase à copule, mais en réalité c'est pas ça, on l'interprète autrement. Ce type de phrase se rencontre très souvent en japonais. L'exemple type est la phrase à construction A wa B da (wa et da sont des particules) comme « Boku wa Unagi da » (Boku correspond à « moi » en français, Unagi, anguille), d'où sa dénomination. Pris hors contexte, cet énoncé peut se traduire par : « Je suis une anguille. », mais le plus souvent en pratique il veut dire : « Moi, je prends l'anguille. », « Pour moi, ce sera de l'anguille. », etc.

En anglais, on peut citer les phrases suivantes: « I'm the ham sandwich; the quiche is my friend. » et « We are the first house on the right. » (source: Gilles Fauconnier, Mental Spaces, 1994). Dans ces phrases, le pronom personnel sujet ou bien l'attribut fonctionne métonymiquement. L'ambiguïté se produit donc entre interprétation littérale et interprétation figurative. Par contre en français, les phrases à copule dont l'ambiguïté ou l'illogicité est créée par ce genre de rhétorique m'apparaissent assez rares, non ? En contrepartie, on emploie souvent la structure A, c'est B. On dit : la France c'est le Vin. Oui d'accord, mais la France n'est pas un vin, elle est un État. D'ailleurs, la formule louis-quatorzienne « L'État, c'est moi. » est traduite en anglais ainsi: I am the state. Comment ça?

*1:「フランス語のウナギ文」で引用したが、ウンベルト・エコ/シリ・ネルガルド「翻訳研究への記号論的アプローチ」(モナ・ベーカー編『Encyclopedia of Translation Studies』に寄稿された論考)に、「je suis le rognon」という例がある(『エコの翻訳論』p.14)

*2:「省略」とは、本来あるべきものが何らかの理由によって省かれることをいうのだとすると、「省略」には2つの種類が考えられる。形式的に必要なものが省かれている「形式的省略」と、内容的に必要なものが省かれている「内容的省略」である。英語で主語が「省略」されるような場合と違い、ウナギ文の典型「AはBだ」は、日本語文として、形式的な次元の欠落感を惹起しない。しかし、内容的な欠落感ならばある。すなわちウナギ文には内容的な省略のあることが認められる。